長官は一瞬、馬鹿か、と言いかけたようだったが、言っても無駄だと判断したのだろう、ただ息を吐くだけだった。
「コウ、気苦労をかけるな……」
『気にしない。発散にもなる、から、ちょうどだ』
「……そうか」
「まあ軽く運動くらいはしておきたかったし」
「……軽く、運動……?」
 雪の上で、陽は既に落ちていた。時計を取り出せば、短針を引き連れて長針は八へと迫っている。時刻を確かめながらの背後から聞こえたセオラスの疑問には誰も何も応えない。クロウィルでさえフィレンスと掌を打ち合わせる始末である。クウェリスが杖を雪に立てて支えにしながら、口元に手をあてがってくすくすと笑った。
「相変わらずね、セオラス」
「お前に言われたかねーよエルシャリス……」
「そろそろ名前で呼ばれたいわね。勘当されてからもう百年経っているのに」
「逆に百年経ってもその偏屈治らねえのか」
「生来だもの。性格が治らないのは貴方が言えたことかしら?」
「うっせ。作ってんだよ」
「なら尚更ね。作り物を壊せないのも生来も同じことよ」
「……お前ら顔合わせんなよ喧嘩すんのわかりきってんだから」
 エーフェが割って入れば、クウェリスがふふと笑いながら、それでもそれ以上は何も言わない。セオラスは視線をどこか別の方向へと投げていた。溜息に変えて、エーフェはそのまま長官へと声を向ける。
「様子は?」
「密度はかなり減っているな。やはり共食いが起こったか」
「起こしてる、の方だけどな、正確には。それよりお前は出て良いのか、街の方の結界もそのまま残して置いてるんだろ」
「十分戦える。お前はクラリスとで良いのか」
 視線が向けられる。白黒は、それぞれで最終確認をしているらしい、こちらの会話を聞いている人間はいないと見て答えた。
「相方が張り切ってるみたいでな、どうも。エクサとディエリスに相談して決めた、五層入るわ。二人は四層でフェルとフィレンスとの四人体制、一、二層の支援と結界外警戒は減るけど問題ないよな?」
「配置は問題ない。二層までは使い魔を総動員している、残りでなんとかなるだろう」
「……大丈夫かお前、ここで霊化症起こすなよ? 俺処置できねえしクウェリスができんのも進行止めるだけだからどっちみち失血で死ぬかんな?」
「散々言われてる。わかってる、二十四時間なら枯渇もしない、一気に使う羽目にもならなそうだしな」
「そうか?」
「準備はして来てる。気にするな」
「……図書館長の命令って」
「言うなよ」
「分かってんなら言わねえけど」
「知りたくないから言うな」
 エーフェは溜息を吐き出すしかない。どうもこの長官は図書館長だけには逃げの姿勢を見せ続けている。躊躇いが大きいのだろうとはわかる、義理とはいえ父として後ろ盾する人に小言を言われるような状態は作りたくないだろう。あの館長も手を出すべき一線は認識している、その中で命令として言い渡されたことがあると聞けば聞きたくないと拒否を示すのも当然だろう。絶対に逆らえない内容なのだから。
 似合わず律儀なんだよなあ、とは思いつつ白黒の方を見やる。その先、森とは距離を置くように学生たちが班ごとに固まっている。拠点は監視哨のすぐ横、中に拠点を作らないのは出入りが激しくなることを想定してのことだ。陽が落ちれば極寒、だがそんなことを言っている場合でもない。白黒達は慣れているだろうが。思いながら白い息を一度吐き出して、それからヴァルディアは鋼を向いた。
「フェル」
「ふぁい……」
 鋼の間から銀が流れ落ちている。どうやらこの竜の羽毛は相当深いらしい。暗い中でも鋼の羽毛の一部分が揺れるのが見えても、髪以外にどの部分も見えはしない。聞こえてくる声もくぐもっていたが、それ以上に眠そうだった。
「そろそろ起きろ。そんなに面白い自我なのか」
「人が多いから……はしゃいでて……」
「クウェリスが拠点に結界を張り直す。球状結界だ、監視哨の方は労って休ませてやれ」
「あい……」
 答える声からややあって、鋼の背から硝子の破片のような魔力の片鱗が立ち上って消えていく。更に少しして、フードを被ったままの頭がむくりと起き上がった。
「……明るい子でした……また来てね、って、伝言です」
「……難しいな」
「難しいことは伝えました。……すっきりした……おはようございます」
「寝過ぎだ。準備しろ」
「はい」
 鋼から滑り降りた黒服は、フードから溢れた銀がなければ景色に紛れて判別がつかない。軽い明かりは灯してあるがと思いながら相方の方へと鋼を伴って駆けていくのを見送って、それから時計の針の向きを確認してクウェリスを見やった。
「クウェリス、五分前だ」
「了解したわ。指定位置はあるかしら」
「少し離れた方がいいが」
「なら、そうね、中央地点は遠目に取るわ。すぐに作ってしまって大丈夫?」
「ああ、頼む」
 言えば杖を支えにしながら、しっかりとした足取りで雪の上を歩いていく。このあたりには雪の上に床を作っている、足を取られることはない。学生もアミュレットは持っているから、あまり意味もないかもしれないが。森の方へと視線を移してしばらく見据えても気配の一つも動かない。察されているのはわかる、『異種』も無知ではない。高位になればなるほど狡猾に変貌していく。進化種であれば尚の事。復帰したばかりのエクサと、しばらく別行動をしていたディエリスの二人組に全てを任せるつもりはなかったが、クラリスとエーフェが入るのであればこちらから手を出す事にもならないかと考えている間に急に雪の白が強くなる。振り返れば巨大な構築陣が展開されていた。
 エルシャリスの扱う魔法は特殊だ。まるで宙に絵を描くかのようだと多くの人は表する。分からなくもない、と、数列と文字式に古代語を含めて広がる巨樹の形をした構築陣を見上げた。枝葉は広がると同時に大きくしなり、雪の中へと潜り込んでいくように伸びていく。金色の光がそうしてゆっくりと薄れて消えた時には、空中には枝が絡み合ったような環がいくつも浮かんでいた。球状結界、この中に『異種』は入れない。
 学生達がざわめいている。詰めれば二〇〇人は入れるだろうか、それほど大きな結界を一人で築き上げ維持するなど学生にとっては想像もつかないことだろう。時属性の種族であるエルシャリスには易い事だろうが。
「長官、あと二分です」
「ああ」
 結界の中からクラリスが上げた声にはすぐに応える。金環の結界の中に足を踏み入れれば白黒達がすぐに距離を詰めて集まってくる、それを一旦手で制してから副学長の方へと足を向けた。
「オルエ」
「時間だな。学院が先行する」
「ああ。教授陣、手順通りに。先に入ってくれ、三層の中位たちを刺激しておいてほしい、それだけでいい」
 了解、と返した騎士魔導師達が十人。動き始めた彼らを目で追うことはせず、そのまま臙脂の集団に目を移した。
「通告通りだ。一から四班は一層、五から十班は二層に存在する『異種』の討伐訓練を行う。指定された境界外での戦闘行動は禁止されている、三層より先に足を踏み入れることも不可。これに反した場合命の保証はしない、それは訓練参加者全員の誓約書にも書いてあったことだ、忘れるな。目的は『異種』を殲滅することではない、それは協会が持つ。『異種』を面前にして戦い、生きて帰還することが目的だ、良いな」
 はい、と応える声は一斉に響いた。では、と森を示す。
「訓練終了時刻は明日夜二十時。負傷時、疲労の場合はこの結界内を拠点としてここで処置、休息を取る。以上だ、行け」
 雪に沈まないようにと細工はしていても踏む音は変わらない。臙脂の集団が五人の班に別れて森に入っていく、それを見送りながら、息をついた。



 学院を先に行かせるんですね、と呟いた。相方は腕を組む。
「黒を先行させたら黒の移動経路に集まっちゃうからね、濃淡をできるだけ作りたくないとは聞いたけど」
「ああ……あー、でも、そうすると色で集まっちゃいそうですね……」
「学生の中に金、橙、藍がいる。一応気には掛けておいてくれると有難い」
 オルエの声がして振り返れば、長官とクウェリスも同じように距離を詰めてくる。そのクウェリスの指先に示されて森を見れば、昼にはほとんど見えなかった薄い膜が白く重なり合っているのが見えた。今は二重、目を凝らせばその中にさらに三つの薄い膜が見える。
「結界はその中にいる人間に応じて感光するわ、余裕があったら見てあげて頂戴な。もしかすると途中から一、二層は無人になるかもしれないし」
「一日中かけて、だからな。学生は全員途中で脱落する想定だ。殲滅が達成された場合その層の結界は即座に解く。指標にしてくれ」
 副学長の声に、了解、とは声が重なる。確かに学生が二十四時間の継戦に耐えられるとは思えない。十二時間以上掛ける任務は協会でも中々の難度に指定されている、主には魔導師にとっての難度だが。いくら訓練した魔導師でもなんの用意もなく二十四時間戦い続けられるわけでもない。今回は想定として二十四時間だが、最大では三十時間だ。尚更だろう。
「教授陣が二層に入って『異種』を活性させている。途中学生に出会すかもしれないが問題がなさそうであればそのまま素通りしていい。担当区域だけに集中しろ。もし学生が三層以内に入って来た場合は即座に追い返せ、命の保証が出来ないため立ち入りを禁じる、とは誓約させたが守るとも限らない」
「誓約って言っても紙に名前書くだけですもんね」
「って言って禁忌魔法を他人に教えてた人もいるしねぇ」
「時間があったら遊びたいじゃないですか?」
「遊びなのそれ」
「……まさか本当に禁忌魔法の構築を全部教えられると思ってなかったぞ……」
 しかも宝珠まで取り出して構築を見せるから全てその場で宝珠に覚えさせろとは。ゼルフィアが額を押さえるようにしながら言うのには誰も何も言わない。結局好奇心が優って知ってしまった当の本人は、若干、花が萎れているように見える。ヴァルディアも何も言わなかった、代わりに視線を受けた紅が即座に森を気にするように顔を向けて逃れる。そうしながら、ふむ、とフェルは胸元で指を組んだ。
「……静かですね」
「封具設置型の結界だ、内部の状態が判らないのが難点だな。血には反応するようにしてある、人の血が流れすぎた場合は私がそこにいく」
「長官が? 単独で?」
「クウェリスが支援する形になる」
 黄金が向いた先で銀灰はにこりと笑む。そうしながらの声。
「でもヴァルディアは大体を一人で済ませてしまうから、あまりやることもないのだけれどね。学生に負傷者がいればそちらを優先するつもりだし」
 フェルがフィレンスを見上げれば据わった視線が返って来た。それには触れるな、という意味だと受け取って長官に眼を戻す。ええと、と前置いて言葉を続けた。
「必要事項はすべて伝達済みです。その上で確認したいんですけど、もし白黒の中で一時撤退が出た場合はその階層は放置でいいです?」
「良い。フィオナとシェリンが遊撃だ、状況を見て手の足りていない場所を補う。三層から五層まで半径一〇〇〇メートルだ、二人なら捌き切れると認識している」
「任せてください」
「今回は支援役だからね、しっかり支えさせてもらうよ」
「ええ。あ、でも、もし範囲内に『赤い糸』が張ってあったらその糸は絶対に切らないでくださいね。『異種』に切らせるのは良いのですが、人が引っかかってしまうと、結構、高い確率でクウェリスさんの出番になってしまうので」
 それぞれの組が相方と顔を見合わせる。そのまま数秒。最初にフィオナを向いて手を挙げたのはエレッセアだった。
「それ仕掛ける場所ってどんなですか!」
「至る所のあちこちに。一、二層には仕掛けませんけれど」
「マジかー……マジなのかー……」
「ええ、マジなので、気を付けてください」
 フィオナはにこにことしているが、この人は毎年の階梯試験でどういう戦い方をしているのだろうか。確か長剣と短剣、多少の体術以外の行動は相当な減点なのに、それともこういうことをするのは白の時だけなのか。フェルが思っている間に、エレッセアは手袋の手を広げてまず人差し指を折って確認の声を上げていた。
「ええと、三層がクロさんとセオラスで、」
「だからその呼び方やめろって」
「ちょっと待って俺は呼び捨てなの!?」
 一方向から二つの声が同時に飛ぶ。本当は仲が良いのでは、と思っている間に黄色の瞳がこちらを向いた。
「四層がフェルさんとフィレンスさんと、エクサさんとディエリスさんがこっちに移ったんだっけ」
「です。中位と高位の微妙な境目あたりが集まりそうなところですよね四層」
「復帰には良いだろ、ってあそこの工学師が言うのでな」
 エクサの手がエーフェに向く。黒いクロークを右肩と左脇で留めた、その下には大きめの腰袋。それでも魔導師に比べれば相当な軽装で彼は肩をすくめた。
「そっちのが良いだろ、図書館員なんて新種っぽい『異種』捕まえて来ては生かさず殺さずで戦っては回復してを繰り返しての情報集めが主な仕事なんだし、工学師でも俺は元々戦闘向きだし。ンヶ月も前線離れてたんなら五層はやめとけ、『銀狐』と『金狐』の組み合わせなんかザラな可能性もあるんだ」
 赤い耳がぴくりと跳ねるように動いた。尾が揺れるのが見えて、フェルがなんとなくそれを見ているうちにその赤い騎士の声。
「いや、……ってか、図書館ってそんなエグいことしてんのか?」
「大体は研究所からの依頼でな。研究所にいる方の工学師はほんっとの座学しかやらないような奴ばっかだから、戦闘魔法に触れる機会が多い図書館にそういう案件がひっきりなしに飛んでくるんだわ。手加減すんの面倒だから正直黒に戻れんのは嬉しい」
「そんななんだ?」
「じゃなけりゃ元々黒なんてやってないし、戻りもしねえだろ?」
「……そっか。そだよね。……で、五層が、私とゼッフィーと、エーフェさんとクラリスさん。フィオナさんとシェリンさんが遊撃で、一時的な欠員は長官さんとクウェリスさんで補助。フィオナさんが楽しいので赤い糸には注意すること」
「そうなるな」
 フィオナはふふふと口元を押さえて上品に笑うだけ。この人がよくわからない、それは思うだけだが。
「結局呼び捨てなのは俺だけなのね……」
「八割は意図的だろ、気にするな。こっちだってゼッフィー呼ばわりだ」
 横から聞こえるのはセオラスとゼルフィアの小声の会話。エレッセアも分かりやすい性格をしている、と暇を持て余した思考がずれていくのはそのままに、光が強くなったような気がして森を見れば、外側の二つの膜がぼんやりと発していた光が強くなっていく。内側の三つは変わらない。
「……そろそろだな。学生は全員範囲に入ったか、何事もなく配置を守ってくれれば良いが」
「合図は?」
「二層の北に居る教授が学生の到達を確認し次第照明弾を打ち上げる。そこからがお前たちの仕事だ。エレッセア、五層の『異種』殲滅が自力では不可能、或いは終了したと判断し次第二層に行け、エーフェが大型殲滅術式を作ってきている、精霊も巻き込むから最終手段だが、やむを得なければそれで片が付く」
「了解っす! ゼッフィーも連れてっていいですか!」
「燃料切れを起こしていないのであればな」
 言う長官に向いた目線を、エレッセアとの会話を聞きながら照明弾、と鸚鵡返しに呟いて森に向け直す。
 ――嫌な予感がする。なんとなくそう思う。情報が揃っていないわけではない、揃った情報の中身が不明であっても不明であることがわかっていたなら対処のしようはある。
 だから、それ以外。想定外の出来事。紫旗はここには居ない、相方ともうひとりの騎士は今は白い制服。自分の身を守る以外にもやらなければならないことも多い。何より多人数での動き方がわからない。分散して動くのか、それとも四人で付かず離れずを保つのか。考えているうちに、頬に柔らかいものが触れて、振り返れば鋼に蒼。
 ――不安、だろうか?
 ――……少し、ですけどね。初めてなことが多いですから。
 ――俺も、できることはする。手伝う。から、あまり気負わずに、いつものように、やろう。
 ――ええ、有難う。
 不安にさせてしまっただろうか、と、大きな姿の顎を撫でてやりながら思う。自分の力に自信は無い、あるのは、今の自分はここまでだという力の天井。それが不足か否かはやって見ないことにははじまらない。
 やってみなさい、と紫樹の長官は言った。蒼樹の長官は査定だと、この場でお前を試すと言って憚らなかった。ならば応えなくてどうすると、冷たい空気を深く深く、肺の奥底にまで落とし込む。深呼吸を一度終えた時に、肩に手が乗る。見上げれば色違い。
「緊張してる」
「……しますよ、そりゃ」
「大丈夫、いつものが時間長いだけだからね。『いつも通り』やろう、それで査定落ちたら、そもそもそんな魔導師を黒服と認めた長官の任命責任なんだから」
「堂々と責任転嫁するな禁忌破り」
「禁忌破ってる以上何破っても軽い軽い」
 聞こえていたのだろう長官からの声には、彼女はにやと笑ってさえして見せた。この状況を楽しんでいるらしいと見て、思わず苦笑する。
「最終的には神様楯にして逃げられますもんねあなたは」
「それはフェルもでしょ。まさか今回も召喚するとか言わないでね?」
「しないですよ、用意してないですし、相方を微妙な心地にさせて喜べる性格でもないですし。それにコウがいますから」
『頼り、に、してくれて良いぞ。竜なりの、自負くらいは、ある』
「期待してる。正直コウの力がどれくらいかって、個人的にも興味あるしね」
 フィレンスが手を伸ばしてわしゃわしゃと音を立てて竜の頬のあたりを撫でるのには蒼が目を付して嬉しそうにくぅんと鳴く。まるで犬か猫か、そんなような反応だと思って見ていた、その視界の端に強い光を認めて顔を上げる。方向は北、森の方角、遠い位置。視線は上に、暗い空に明るく一直線に伸びる光。
 長官の声が告げる。
「合図だ。死ぬなよ」




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