ちょうど頭の位置にある枝を潜りながら、クライアは舌打ちする。
「これ、撤退も簡単じゃなさそうだな」
「だ、よね……早めに見切りつけちゃった方が良いかも、追いかけられてとかあるかもしれないし」
「負傷の場合は基本自己宣告な、嘘ついたら後でシメるって条件付きで」
「……タヴィアそういうところ吹っ切れてるよね」
「ってかタヴィアのが一番危ないんだから無理しないでね? 傷塞がってもまだ万全じゃないんだから」
「分かってるよ」
 二層に足を踏み入れて、少し経った。三層を区切る結界を右手に見ながら、北の方角を目指す。最初は他の班と共に、彼らが配置に着くごとに分散して、今はもう他の班はこの場には居ない。九班は北西担当、自分たちは十班は真北。
 あちこちから音が聞こえる、と、サシェルは周囲に目を向けながら思う。雪を踏む音、枝葉から雪の落ちる音、幹や枝の軋む音。ここまでに出会した『異種』はその場所に配置された班が引きつけて引き離してくれた。無事だろうかと思うのと、前方に何かが見えたのかクライアが足を止めるのとが同時で思わず身構えて、腰を落とした視線に見えたのは蒼いローブだった。
「、先生」
「お疲れ様です、皆さん」
 蒼のローブに腕章、学院の魔導師過程の教授であるロカスィナは、帽子から垂れる紐飾りを揺らしながら、手に持つ杖を雪に突いた。
「十班ですね」
「はい。騎士課程クライア=オルトール、サシェル=フィトラエス、タヴィア=ラヴィアクード、魔導師課程ヤルジェウル=フィグル、ハシェラエット=トリ=カラッド、以上五名です」
「予定通りですね。では十班にはこの真北の範囲を任せます。撤退は早めに。一層は四班が広範囲を担当していますから、二層での遭遇が少ない場合は援助に向かっても構いませんが、無理はしないこと。中位『異種』と遭遇した場合は逃げなさい、誰もそれを責めはしません」
「はい」
「班長はハシェラエットですね。以後十班の指揮を任せます。配置完了の合図を打ち上げます、以後教授は手助けも救助もしません。何かあれば磁石の針が示す方向に。『異種』を忌避する道、あるいは魔導師や騎士が近い場合はそれを指し示します」
「はい」
 既に一度は説明されていることでも、繰り返しの確認は有難いと素直に思う。何か忘れてはいないかと、その不安は常にある。
 では、とロカスィナが杖を握る。小さな構築陣が浮かび上がって、そして強い光が上空に向かって打ち上げられていく。見上げても枝葉に遮られて光の先を確かめる術はない。
「くれぐれも無茶はしない。良いですね」
 はい、と応える声は重なる。あちこちから音がする。蒼いローブのその人はすぐに踵を返して、結界の外へと向かっていく。その姿も枝葉に隠れてすぐに見えなくなってしまう。去っていく音、変わらず聞こえるあちこちでのざわめき。人のものなのか、それとも。
「……配置を守ること前提ね。一定距離から離れないように、少しずつ巡回していくように」
 杖を現出させたハシェラエットが言うのには一様に彼女を見やる。彼女の命色は白金――最も狙われやすい貴色。頷いた剣士三人が柄を握って引き抜く。タヴィア、この中では最年長の彼が、なら、と、東の方角に目を向けた。
「接敵の場合はそれを最優先、その場から動かず撃破後に移動。撤退指示はシェラエに任せる形でいいか」
「まっかせて! 色々細工してきたからいつもより元気だし!」
「って言ってる間に接敵してんだよなぁ」
 ヤルジェウルが左手で頭を掻く。クライアがヤルジェウルの視線の先に身体を向けて、視界を遮る枝を片手で持ち上げて遠い目をして見せた。
「ロカスィナ教授が居たって時点でお察しだよな」
「だよねぇ……悪意覚えるもんこんなの……」
「いやでもロカスィナ教授なら「置き土産です」とかって普通に言いそう」
「あー、らしいよな、言いそうだ」
 氷が砕ける音に似た、極小の雪が固着し形を成していく音。
「原種? まさかいきなり進化種とか言わないよな」
「原種だろ、『結花』の特徴とほぼ一致してる。雪の中から現れて……」
 唐突に空中に何かが駆ける音が響く。雪の中から放たれた氷の矢が枝を掠めて降り積もった雪が落ちる。炎の膜が瞬時にそれを蒸気に変えて、ヤルジェウルは腕輪を押さえながら次の句を継いだ。
「人間や獲物を雪の中に引きずり込んで体温を奪い、凍らせてから氣を吸う。積極的に攻撃してこないのが救いだな」
「数多すぎんだけどな冬だとな」
 クライアが左手に短刀を取り出しながら応える。ハシェラエットは杖先を雪面へと向けた。
「『結花』なら前の訓練で戦ったし、さっくり行きましょ」



 青い炎と共にの乗れ、という鋼の声に躊躇わなかったのはフェルとフィレンスくらいで、あとの全員は疑問符を浮かべている間に長い尻尾に巻かれて無理やり背中に引き上げられていた。めいめいの声がする中で、巨躯へと変じたコウは一度黄金を見る。
『届けておく』
「……ああ、その手があったか。頼んだ」
 長官が言うと同時に、フェルは尻尾に巻かれて背に押し上げられた方へと声を上げていた。
「落ちないように掴んでてくださいねー!」
「もしかして飛ぶ!?」
『少し違う。跳ぶ』
 エレッセアの期待するような声、返す鋼が首を森へと向けて、そして一度深い色をしたその全身が沈んだかと思った瞬間に、急激な圧が全身に掛かった。
 人間が握った程度で抜けたりなどしない羽毛のような毛並みを掴んで姿勢を低くしていたのは経験者の二人だけと、その様子を見て即座に倣った騎士たちだけで、風圧に煽られた魔導師が遅れて羽毛を掴んだ時には鋼の体躯は既に宙にあった。樹冠の結界を突き抜けて飛び出し、光を纏う二層を軽々飛び越えた鋼は樹冠にかぶった雪を一度の羽搏きで文字通り吹き飛ばし、巨大な体躯に似合わず樹々の隙間を縫って静かに着地する。
『四層に降りた、から、三層と五層は、少し移動を、頼む』
 鋼、竜の声。はふ、と息をつきつつも慣れた様子の砂色の後ろ頭に向けて、紅桃は一気に早鐘に変わった心臓を宥めつつ声を遣る。
「……なあフェル、お前竜をなんだと思ってるの?」
「友達ですけど」
 エーフェの声にはフェルは即座に言って返す。鋼にうつ伏したゼルフィアの花が紅に色を変えて満開になっているのは、これは警戒色なんだよなあ、と、最初に気づいたのは眼をきらきらと輝かせながら羽毛から顔を出したエレッセアだった。手を伸ばして肩を揺すってみる。
「ゼルフィアこういうの苦手だっけ、いきなりでびっくり系」
「……お前は、豪胆で、いいな……」
「え、うん、すごい楽しい」
『……乗せておいて、なんだが、降りてくれないか、な』
 人間の足で移動すれば早足に直進しても十分は掛かるような距離を一跳びした鋼が言って、鋼の中から白黒の合わせて十人が滑り降りる。全員を下ろしてから鋼は青い炎を纏って、収斂した青火はフードを被ったままの紅銀の肩に飛び乗った。フェルがそれを受け止めてから見てみれば、膝に手を突いて深く深呼吸を繰り返している黒服が三人、驚いた、という表情の騎士が三人。該当しないエレッセアがふおおと声をあげながらコウくんすごいと鋼の方に駆け寄って、両手で小さくなったコウをわしゃわしゃとかき混ぜている。その間にセオラスがエーフェに据わった眼を向けていた。
「なあ、お前の育てる弟子総じて色強すぎんだけど」
「黄金に紫銀で強くねえわけねぇだろ……俺でも『妖精』に騎獣させたことねぇけど……」
「効率的であることは認める……」
 ゼルフィアが低く呟く。気付いたらしいエレッセアがゼッフィー意外と繊細だもんね、と呟くのには、フェルは疑問符を浮かべていた。フィレンスがクロークの据わりを直しながらゼルフィアの肩を叩いて、じゃあ、と声を上げる。
「三層組は南に、五層組は北にで。コウ、五層どれくらいのがいそう?」
『……『銀狐』、と、いうのか? 結界は、気にせず、悠々としてる銀、が、ひとつ。小さいが強いのが、……五つか、七つ。それくらいしか感じ取れない、が』
「十分だ、ありがとな。クラリス、レッセとゼルフィアも、とりあえず早めに五層内の状況把握しとこうぜ」
「そうね、分散かどうかは早く決めたいし。フェル、査定の細目は大丈夫?」
「大丈夫です、使い魔の使用は減点にならないので!」
 クラリスに向けられた声にはすぐに返せば、笑みとともにじゃあ、と手を振って白い制服は白を振り落とした濃緑の枝葉に紛れてすぐに見えなくなってしまう。クロウィルとセオラスも、じゃあ、と声にしてからこちを向いた。口を開いたのはセオラス。
「三層は分散して二層との完全分離目指す。ただ使い魔使っても全方位は覆えない、四層まで学生が入り込む可能性はあるから注意しておいてくれ」
「わかりました。四層は蒼樹では慣れた範囲の『異種』だろうという調査隊の予測なので、可能な限り早期に殲滅状態にしてそっちに合流しますね」
「おう、なんかあったら精霊越しにでも教えてくれ、『精霊眼』は開いておく」
「はい。気を付けて」
「そっちもな。エクサ、無理すんなよ」
「分かってる」
 そうして三層を担当する二人が踵を返したところで、注意を受けたエクサが腕組みにしてフェルを見やった。
「南北と東西、どっちが良い?」
「南北で南で。北はまだ原種の方が多いはずですから、南はこちらで受け持ちます。結界を?」
「いや、そこまではしなくて良いだろうな。設置型だ、競合が起こると事だからな。それより魔力温存しろよ。じゃあディエリス、北行くぞ」
「はいはい、っと。西側回り込んで行く、先に東側見といてくれ、そっちは」
「了解。何かあったら何かしらで伝えて」
「おう」
 赤い尾が一度大きく揺れて、それで二人が樹々の奥へと消えて行く。それを見送ってから、フェルは一度フードを軽く外してフィレンスを見上げた。
「……ちゃんと赤いです?」
「ん、大丈夫に見えるけど。難儀だねそれ、自分だと鏡見ても変化してるかどうかわからないって」
「そうなんですよねぇ……」
 他者から見える色を変える魔法だ、自分自身は騙せない。その点は点眼薬の方が良かったのかもしれないがあれは効果が強すぎて常用するには支障が出る。だから事毎に誰かに確認を取っては安堵しているのだが。胸を撫で下ろしてフードを被りなおしたところにクロークの衣摺れの音が聞こえた。
「南半分、ね。東側から、と」
『位置関係は、把握してる。案内する、が、上を行った方が早い、かもしれない。ここにも低位がいる』
 手は出してこなさそうだが、とはコウは続けて、だが蒼の眼は周囲の雪を睨んでいた。抑止力かと思いながら頷いて、フィレンスがフェルを見やればすぐに杖が現れた。
「『風来、風斬る冬の鎌鼬の子“サヴ・ティラエ”』」
 ざり、と音を立てて杖の石突が雪の表面を削る。一瞬だけの構築陣、石突によって舞い上がった雪の細かな粒が即座に冷風となって二人を覆うのを見て、フェルは促されるままフィレンスに抱え上げられた。
「足場は作りますから、まずは道中無視して東端に行きましょう」
「了解」
 言ったフィレンスが雪を蹴る、軽く跳んで枝の一つを足場に高く跳ぶ、風が身体を押し上げて高く樹木を下に見ながらゆっくりと落ちる。その先に黄色い光の円盤が現れ、そこを足場にさらに跳ぶ。
「距離どんなだっけ」
「四層は半径四〇〇メートルです。五層が二〇〇なので面積的には相当ですけど、南側半分だけですし、集まってくるとは思うので移動はそんなに気にしなくてもいかもしれませんね」
「だねえ。五層組が殲滅するより先になんとかしておきたいけど」
「エーフェさんとクラリスさんですしねぇ……」
 相当早い段階で五層の結界は解除されるかもしれない。高位『異種』の巣窟になっているとしても、数は少ない上に工学師と十四階梯が動いているのだから、エレッセアとゼルフィアが補助に入っているのであれば連戦でも保ってしまうだろう。
 それよりも空気中の氣の枯渇が酷い。『異種』がこうして結界に閉じ込められてから時間が経ち過ぎている。『異種』の飽和、氣の枯渇。精霊はほぼいない、この環境で魔導師は十八時間耐えられるかどうか。六時間無理をしてでも大丈夫なようにと準備だけはしているが、これで準備不足なら仕方がない範疇だろう。最終的にはどうにかなるようにと工学師と長官が用意をしているのだから。
 鋼がこの辺りだ、と声を上げる。左手に杖を現出させて胸元から一つの石を取り出した。フィレンスの肩に掴まる、そのまま押し出すようにして自身は上へ、白服は下へと向かうと同時に声を上げた。
「『豪炎の其の十二、相対許さぬ禊の”エヴェレス・トニア”!』」
 景気良く石の弾ける音、瞬時に広がった構築陣は自身の頭上に展開されて、そこから白の着地地点を中心にして広範囲に焼夷弾のような炎の雨が振る。同時に風の膜が空中に溶けていき、自由落下に任せる前に身体を支える羽毛の感触があった。
 獣姿の背に掴まったまま、ゆっくりと地上へ降りる。ほう、と息をついた頃には白の剣が異形から引き抜かれるところだった。
「『刹河』、寒冷地適応型。やっぱり進化種多そうだね」
「面倒ですねえ……ややもしたら雷しか利かないのとかありそうでとても嫌です」
「なんなら温存してくれてもいいよ、火は得意だし」
「あなたのは得意というかなんというか……」
 意識して一度瞬きして見れば、この冬の屋外、しかも夜である上ここまで氣が薄い空間だというのに、彼女の周囲には火と光の精霊が幾つも見える。眼が合えば嬉しそうに、まるで頑張ると言わんばかりの笑顔や仕草。先日光王が来ていたと後で聞いたが、もしかすると一言二言くらいはあの神からあったのかもしれない。龍神たちは己の守護する人間に対しては甘いと言うだけには留まらないから。
 濁したフェルの言葉にはフィレンスは疑念を見せたが、すぐに剣を軽く握り直して雪の薄くなった周囲を見やる。氷のみを攻撃する魔法、樹に影響があったようには見られない。鋼の背から降りたフェルがすぐに近くの樹々の一本に駆け寄って幹に手を添える。
 ――呼びかけてみても、応えはない。この森自体の精霊が冬眠を乱された様子も無いと感じて安堵する。眠っている精霊には人間も『異種』も手は出せない、攻撃をしたとしてもすり抜けてしまう。故に魔導師が物理的に樹を燃やしてしまったところで問題ない、が、長官の言っていた燃やしていい、の意味だろう。森自体を全て焼き尽くしていれば精霊は居場所を失って彷徨うことにはなるのだが。
「……案外静かだね」
「ですね。ただ、様子見されてる感じはします」
「先手必勝」
「必勝、が確実ならいいんですけどねー。とりあえず見やすくしておきますね」
 言って手を伸ばす。察して屈んでくれたフィレンスの紅い眼に軽く掌を被せて、小さく呟くように詠じる。精霊眼を与える魔法、これもフィレンス自身は使えないが、他人に掛けられるのであれば十分以上の効果がある。
「……この前ディナにもやってもらったけど」
「あ、話だけは聞きました」
 陣が浮かび上がる。雪の地面から氷の槍が無数に突き出でて体躯を打ち上げられた『壕出』、巨躯の猿のような姿をしたそれが、槍から更に突き出た細い矢と槍に貫かれていく。その向こう側ではコウが『書切』、本の形をした氷を前肢の爪で引き裂いていた。
「塗り薬は結構効果強いんです。こっちの魔法は比べると弱いので、眩しくて見えないってことはないと思いますよ」
「話せる?」
「話したいと相手が思えば。魔導師もいつも話せるわけじゃありませんから」
「なるほど……」
 陣が不自然な所もなく紅に吸い付いたのを感じて、よし、と呟いてから手を離す。構築陣は他に三種を広げていて、白服の背後から迫るもの、自分の背後に詰め寄る気配、それらの様子を伺うものの三つに向けて放つ。フィレンスが確認するように周囲を見渡した時には、青い炎を纏った鋼がフェルの肩に飛び乗っていた。
「……なんか色々いる?」
「あなたの周りにいるのはあなたについて来た精霊たちですから。『異種』の気配は多少感じやすくなっていると思います、あまり離れないようにしておきましょうか」
「了解。はぐれたらめんどくさそうだもんね」
 目線よりも下にある枝葉に、樹冠の頂点は身の丈の二倍はある。視界が悪いのは想定通り、いっそ上の方が良いというのは魔導師だからこその考えだろうが、この騎士ならついてこれるともわかっている。いきなりそうなることはないだろうが。
「直前にならないと種別がわからないのは面倒ですねぇ……」
 雪があるだけまだ良い。『異種』も物質だ、雪に触れる音も葉を揺らす音も消せはしない。足元に剣を突き刺したフィレンスが、貫いた『書切」ごと剣を引き抜きながらそういえばと声を零した。
「査定の減点項目って、魔導師の場合どんな感じ?」
「魔法精度の低下、魔力不足が起こるかどうか、必要な魔石や触媒を適切に使っているか、とかですね。負傷は減点にはならないみたいです」
「そうなんだ? 騎士の場合の査定って黒服に負傷があるかどうかとかだから、結構違うんだね」
「役割全然違いますしね。軍だとそこまで考えないでやってそうですけど」
「……フェルって結構紅軍嫌いだよね」
「色々ありましたねえ」
 言いながらも陣が広がる。詠唱もなく天から氷の槍が降る、雪面を耕すようなそれに刺激されたのかあちこちで『異種』が現れる。高位は居ないと見て、フィレンスが剣を軽く振るって握り直した。
「ひとまず中位は任せて。温存してもらった方が楽だから」
「はーい。何してれば良いです?」
「応援とか」
「……がーんばれー」
 逆に気が抜ける、と零しながらも、雪を舞い上げ雪面を蹴って肉薄する『異種』の脇腹を切り捨てた。




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