あまり口数の多い方ではないように見えた、だが部屋を出てしばらく廊下を歩いて、彼はこちらの歩調を気にしてかゆっくりと足を進めながら口を開いた。
「エィフィエとは会われましたか」
「……はい、図書館に所属する工学師と。様々に教えて頂きました」
「任務中、触媒を渡したのも、エィフィエですね」
 声に詰まって、言ってしまって良いのか悩む無言が答えになってしまっていた。少し振り返るようにした紫が、なんとなく笑んでいるのが判った。
「このあたりに人が居ることはありません、構いませんよ」
「……はい……もらいました……というかゆすったというかねだったというか……」
「やはり。査定結果は先に拝見しました、兄やヴァルディアからは聞いていましたが、触媒があったとしても中々の精度です。査定官が驚いておりましたよ、この若年においての完成度ではないと。今は審議中ですが、数値は気になさるのであればお見せしましょう」
「、有難うございます、レスティエル様」
 彼の言う言葉を聞いて、一気に安堵が浮いた。『紫銀』が魔導師だと知っている、認識している。そして最上位の魔導師として、新しい魔導師を見ての言葉だとはそれだけで解った。そして先導する背が少しばかり揺れる。
「そう気は張られずに。周りからはレスティと呼ばれておりますから、そのように」
「……レスティ様……?」
「はい。本来は閣下に敬称を頂くほどの者ではありませんが」
「なんとなく、気になりますので……年功序列、ということでお願いします」
「了解致しました、では有り難くお受けします」
 声音は、やはりフィエリアルほどではないがやわらかく変わっていた。ほっとした心地が更に浮かびながらローブ姿の背を追っていく、その合間に後ろから耳打ちがあった。
「閣下、侍従は下がります、御前失礼を」
「わかりました、任せます」
「は」
 先に問題ない、と言っていた、恐らく神殿騎士の配置だろう。耳を向ければ足音が増えている、侍従が侍従長の判断を求める何かが起こったのだろうと思ってすぐに返した。耳元にはすぐに二席が、と聞き慣れた囁く声があって小さく頷く。気付かなかったのか、気にしていないのか、その先少し廊下を進んで、不意にその視線が逸れたのを見て彼の視線の先を見れば、石畳の伸びた先に大きな棟が見えた。
「こちらが分館になります。本館は王都の東方、私の仕事場と司書の多く、魔導師たちの新種魔法の査定と認定は本館で行います。こちらには王家と、登城される方々が求めた魔法を主に納める場所になっています」
「全然知りませんでした……神殿とも、そんなに離れていない位置なのですね」
 神殿を囲うように広がる師父の庭園を越えて少し先、と言ったところだろうか。庭園を抜けるのもまるで迷路のようだから、慣れない人は迷うかもしれない。なんとなく王宮の作りを頭に浮かべている間に先導してくれる彼は立ち止まっていて、どうしたのだろうかと見上げて、そして視線の先を目で追いかける。みぞれの降る中に、石畳は濡れている。屋根のない道。
「……朝は降っていませんでしたからねえ……失念していました」
「あまり、お気になさらずに。少し濡れるくらいなら」
「気にします。閣下が倒られるのは数日後の予定ですから、今ここで風邪を召されては兄が張り切りすぎて困ります」
「ああ……確かにフィエル様なら……」
 やりかねない。キレーネイが言っていたことは本当だ、あの人は毒を薬にすることにも、薬を毒にすることにも長けすぎている。そういえば、と同じ色をしたレスティエルを見上げた。
「王立図書館は、主に新種魔法の監査と既存魔法の管理が役割と聞いているのですが、レスティエル様は、やはり医術に?」
「いいえ、私は攻撃魔法専門です。同じ魔法を選んだところまでは良かったのですがね、あちらがさっさと森を抜けて医者をしていると聞いて殴りに来てからずっとです、もう一〇〇年は数えました」
 え、と声を漏らした。小さく笑みを見せた彼は、さて、と呟いて自分が羽織っていた外套から袖を抜く。魔導師らしい大きなそれを失礼、という声とともに頭から被せられて、疑問符を浮かべているうちに背の高い彼がかぶさってくるように動いたと見た次の瞬間に身体が持ち上がる唐突な感覚に息を詰めた。慌てて手を伸ばして触れた布地を掴む、少し遅れて背に支えるように触れられる感触。
「少しばかりは濡れてしまいますが、そこには目を瞑って頂きたい」
「え、えっ!?」
「そのご衣装では少しばかり、とは済みません。扉まではご辛抱を」
「えっいやその!」
 腕に膝から抱え上げられて背を支えられた格好で、掴んだのはローブの肩だった。なんだか毎度こんな感じなきがする、と似た記憶が去来するまま固まっている間に彼はみぞれの中に足を踏み出している。ばたばたと外套を叩く音はやはり半端に凍った雨の音で、思い至ってわたわたと手を伸ばそうとすれば苦笑の音が聞こえた。
「こちらのことは気になされず、濡れるのも慣れておりますし、短い距離ですから」
 紫の彼のほうが濡れてしまうのでは、と手を伸ばした手に彼はやはり小さく笑ったようで、そうしている間に幾つかしかない階段を上がった庇の下の降ろされる。被せかけられた外套を丁寧に剥ぎ取られ、重さでか少しずれてしまった紗を整えてくれる。流れるような所作でそこまでをされてしまって、なんとなく居心地が悪くなってドレスのあちこちをばたばたと整えながら俯く。上から、小さく笑う声。なんとなく顔があげられないまま声が出ないままでいれば、その視界に左手が差し出されるのが見えた。
「驚かせてしまいましたね、すみません。なんとなく、閣下のような年の頃の方を見ると、どうしても」
「……その、いえ……こちらこそすみません……」
 恥ずかしい。ほとんど初対面に等しいのにこの扱いはなんだろう、そうは見えないのに彼も子供の扱い方に手慣れている気がする。差し出された手には少し迷って、慎重に右手を重ねれば、何の気負いもなく握ってくれた。そのまま手を引かれて、扉を引き開いて中へと足を踏み入れる。
 扉を潜ったすぐは天井の低い、短い廊下かなにかのようなその先に、円形に六角を描くようにして立ち並ぶ書架、そして塔の中央に何かが垂れ下がっているのがわかる。なんだろうかと思いながら手を引かれるままに足を進めて、それで見上げて見えたものに、思わずわあ、と声が漏れていた。
 十二色の球と薄い平板の環、簡素なそれを組み合わせ大小形を変え、葡萄のように房をなして垂れ落ちている。背伸びすれば指の先が触れるだろうか、一番上は高すぎて隠れてしまっていて見えない。更に近付けば、球も環も細かなタイルを組み合わせたものだった。合間に金銀の玉が埋め込まれているのがわかる。
「天球儀、と申します。古いものとは随分形は変わりますが、便宜上そのように」
 先導してくれる彼が言って、目を向ければ中央の床を指差して示す。そのまま彼の言葉が続いていく。
「あの星の印の真上に立ってこれらを見上げると、その季節の星模様を一望することができます。王立図書館はこの国の暦を作る役目もありますから、日毎月毎年毎に少しずつ向きや、場所を変えて、飾っています」
「飾り……ですか?」
「ええ。物好きのする女性が過去に図書館に在籍しておりまして、常夜灯の代わりにもなっておりますよ。今はこれを作った彼女の弟弟子とその弟子が、出来る限り毎日面倒をみています。ご覧になりますか」
「……良い、ですか?」
「ええ」
 言葉と同時に彼の右手が伸びてくるのにはなんだろうかと一瞬身体を引きかけて、押し留めるうちに顔にかかったままの紗を持ち上げてくれる。紫旗が何も言わないのは珍しいと思いながらそれを受け入れ、境界のなくなった視線で彼を見上げれば、濃い紫の髪は落ち着いた彩度で、黄の瞳はくすんで緑の虹彩が浮かんでいた。長命種の筆頭、コド属の種族はそうなのだとは知っていたが、見るのは初めてだった。そのまま我知らずに見つめていれば、不意にその虹彩がやんわりと細められる。
「閣下のような歳若い女性にそうも眼を捉えられると、こちらが照れてしまいますね」
「……えっ、あ、ご、ごめんなさい……!」
「いいえ、そう仰る必要はございませんよ。閣下の紫も堪能させて頂けましたから」
 急に顔に朱が上るのを片手で隠そうとすれば、小さく笑いながらの手がさあ、と広い空間の中心に送り出してくれる。ありがたくそれに逃げることにして、明瞭に明るくなった視界で床の星印を目指して、その上で足を止める。顎を上げて見上げれば、途端に球と環に見えていたそれが一枚の絵に見えて瞠目する。鮮やかな十二色、属性の象徴色であるそれらの球が織り重なって、片やが隠せば片やが覗き、複雑な幾何学模様にも見える。球の色は様々なのに埋め込まれた金銀の玉は確かに星に見えて、それが不思議で少しずつ立ち位置を変えながら矯めつ眇めつしている中に、靴音が二つ。
「レティシャの作ったものです」
 眼を戻せば、レスティエルは笑んでいる、ように見えた。
「二十一年前、彼女が紫旗に引き抜かれて名目上は魔法院に移籍する前には、彼女はこの分館の司書長でした。本館を嫌ってずっとこの分館に居た、優秀な魔法工学師でした。なにより自然を魔法に組み込むこと、精霊に無理を強いずただ神に祈るだけでなく共に在ることに長けた魔導師でした」
「……知っています」
「はい」
 ただの肯定の言葉、それを聞きながらもう一度それを見上げた。細い鉄の柱で半球を描く天井から吊るされている。天井は紺色のタイルで埋め尽くされていて、その合間合間に鉄のそれを嵌め込む穴が見えた。調整のためにだろうか、三階に相当するだろう高さの回廊、四方向から曲線を描いて階段が伸びていて、鉄の柱を取り囲むように丸い通路まで渡されているのがわかった。紺の天井に浮いて見えないように、伸びる階段の裏にも通路の裏にもタイルを敷き詰めて。
「……レティシャ・エフィ=レナリア。……私の護衛だった人」
 こんな大きなものまで手掛けていたのかと、初めて知った。いつも毛糸を素早く、見事に編み上げて、肩掛けやマフラーにと身体に沿わせるように纏わせてくれた金の眼の。
 手を伸ばせば届く位置にまで低く垂れたそれに手を伸ばす。指先に、薄い手袋越しにでもわかる。宿った魔力は微弱でも、確かにそれだった。今でも薄い記憶の中の彼女の暖かさ。
「責めるつもりでお連れしたのではありません。きっと誰も伝えていないだろうからと、勝手に。……思い出したくはありませんでしたか?」
「……私は、魔導師としてのレティシャも、魔法工学師としてのレティシャも、知らないままでしたから」
「そうでしたか。……では、もう一つもご存知ありませんね」
「きっと。……教えて頂けますか?」
「今この天球儀の世話をしている人物。エィフィエ、エィフィエ・ラツィ=テルフェンシェ。彼がレティシャの弟弟子にあたります」
 見上げたまま、手を離した。息をつく。意識して吐き出す。何回もそれを繰り返す。靴音がすぐに近付いてきて、上向けたままの顔に紗をそっと戻してくれる。それでやっと俯くことができて、右手が握られる。無言のままゆっくりと手を引かれて、大人しくそれについていく。少ししてから彼の声が再び聞こえた。
「エィフィエは、ラツィの称号……工学師と名乗ることのできる最低位の称号に甘んじて、その実はやはり優れた工学師です。姉弟子のように素直ではないけれど、馬鹿でも愚かでもない、感情を優先するより魔法学を優先させる人物です。図書館には、先の件でヴァルディアから要請がありました。図書館の余剰戦力を二人ほど貸して欲しいと。それに名乗り出たのがエィフィエです、元は蒼樹協会の所属者だったからと、最初はそれこそ、彼の言った理由はそれだけでした」
 上へと向かう階段に差し掛かる。裾を踏んでしまわないように持ち上げようとした先に両手が伸びてきて、器用に腕に座らせられるように抱え上げられるのには今度は抵抗できなかった。靴先を覆って余りある裾だ、素直にありがたいと思うことにしようと言い聞かせているうちにも声が続いていく。
「エィフィエが閣下の……貴女のことを知って、それで行ったのだと知ったのは、私が許可を出して、彼が発った後でした。七年前、エィフィエは既にこの分館で新種魔法監査の分室を預かる身だった。レティシャは紫旗にありながら、よくこの分館に顔を見せて様々に指導していたようでした。だからもしやと思っても、当時の彼は淡々としていた。それが一気に噴き出たとしたらと、不安に思っていたのです、それでお呼びしました」
 背に掌が当てられる。ゆっくり、あやすように。
「それでも、エィフィエは貴女を糾弾しなかった。それが判っただけでも私は嬉しく思います。ああやって自由気儘な工学師ですが、それでも私の部下であり支えになってくれる人物です、曲がってしまわなくてよかった。貴女が曲げられることがなくて良かった。貴女が曲げてしまわなければならないようなことに、そうならなくて良かった。……紫旗方」
《何か》
 応えるのは二席、クロウィルの声。硬くはない、むしろ普段通りのそれだった。そうしてくれているのだろう。向ける館長の声も普段通りのそれなのだろう、恐らくは。
「この分館に入り口は一つしかありません、窓も隙間も全て結界で封じております。危険は無いでしょう、禁書の保管庫でもありますから。少しお預かりしても宜しいでしょうか」
《……意図を伺いたい》
「年寄りには感傷のひとつやふたつ、あって当然のことです。それも、一人で抱えられないものがあることくらいは知っていますから」
 音のないまま、だが空気がわかりやすく揺れていく。離れていく。背に当てられていた手が、頭に触れる。撫でるように動く。
「……意識しないようにしていらっしゃる。神殿では一人にはなれないでしょう、部屋をお貸しします。踏み留まることが正着ではない場合もある、侍従方が変と思って来るか、日が暮れるまでか、気が済むまでか、そこまでは保証致します」
「……甘いんですね」
 なんとなく、勝手に声になった。これは甘やかされているのではない、逃げろと言われているだけだ。そんなにだろうか。そんなに変になってしまっているのだろうか。思ううちに、頭を撫でていた掌が小さなやわい音を立てて当てられた。
「貴女が厳しすぎるのです」
 落ちたのは掌が頭を叩いた所為だ。思っても一つが落ちてしまえば二つ目も落ちていく。
「レティシャは律儀でした。エィフィエに教えにきた時には必ず私に顔を見せにきて、少し話をして帰っていく、そんなことを繰り返していました。ずっと。だから話だけは聞いています、だから解ります。貴女は忘れられない人だ。忘れることを恐れる人だ。忘れてしまったことに罪悪を覚える人だ。だからこそ、感傷には浸るべきです」
「七年も前のことです」
「だからですよ。七年も前のことを、貴女はまだ引き摺っている。レティシャは紫銀を守って死んだ、それは事実です。ですがそれを『フェルリナードがレティシャを殺した』と読み替えるのは馬鹿げた話でしょう」
「……どうして、レスティ様が言うんですか」
「これを紫旗が言ったところで、貴女は信じないでしょう。信じられないでしょう、彼らはそう言うしかない、それも事実です。最後の一線を越えた当時の副長……ユゼは貴女を殺しかけた、二度目はもうありえない。だが貴女は弾劾されたがっているように見える。少なくとも泣く資格などないと思っているのはわかります。だからです」
「そんなの、」
「思っていないのであれば、もっと泣き喚いたとして、他人から詰られ苦しんだとして、それでも受け容れられたはずです。貴女は怒りを向けられることに期待して、向けられたことに安堵してしまう。……コドだからでしょうね、色々な人間を見てきました。だから判るんです、この人はいつかこうなる、と」
 いつのまにか階段は終えていて、扉の一つが開く音。小さな部屋のようだった、降ろされたのは寝台の上だった。司書が使う仮眠のための部屋だろうか。俯いたままでいれば頭に手の乗る感触。撫でるとも違う。同じ仕草、同じ手付きを、この人の兄は教え諭す時に使う。
「……貴女は魔導師には向いていない」
 だから言われたそれにも、目を閉じた。
「純粋な魔導師になろうと思うなら、貴女はもっと人間に対して淡泊であるべきだった。クウェリスやエィフィエや、今上陛下やヴァルディア、魔法院の人間たちのように、『第一』に自分の魔法を据えるべきだった。できなかった理由は知っています、できない理由も解っています。だから、せめて少しの時間でも普通の人間の、子供になりなさい。ここには誰も入れないから」
「……無理ですよ、そんなの、したら」
「立ち直れなくなる、ですか」
 言葉にしたくなかったから濁そうとしたそれを言い当てられて、更に俯いた。追いかけてくるように頬に両手が当てられる。ただ暖かいと、そう思う。
「立ち直らなくていい。諦めて良い。貴女は子供になったことすらないのです、無理矢理大人たちに掴まれて立たされ続けていただけ。人形のように。……コドは樹です、これから降りかかるものは追い払えます。ですが今まで貴女に降り積もった灰を払うことは貴女にしかできない。灰は時、水と同じく流れるもの。堰き止めてはなにもかもがままならない。流してしまいなさい、それは忘れることとは違うのだから」




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