学院学生に死者は無し。その報告を受けて、フェルは安堵の息を漏らした。
「良かった……」
「本当にようございました。蒼樹はフェル様がいらした為に不安はございませんでしたが、紫樹白樹ともに特別の支援を受けての成功とのことです。次には士官学校の学生が各地に向かいますが、彼らは既に対『異種』戦闘には慣れておりましょうから」
「ええ、そちらに不安はありません。ですが学生の中にも重傷者は居るはずですから、その経過は報告を」
「はい」
「……士官学校を動かすとこちらが言った途端、魔法院も自分から動きましたね」 「院は貴族様方の後援をしていらっしゃる方が多く、その逆もありますから。自明ですね」
 レゼリスが言いながら最後のリボンを形良く引き締めて、そうして立ち上がる。侍女の一人が細い小さな冠を持ち上げ、紗の被せられた上からそっとそれを据えた。二重の冠、王女のそれは紗の下にあって、これは紗が風に拐われてしまわないように押さえるもの。未成年、未婚の女性の中でも紗で顔を隠すのは、王家や神殿の人間だけ。
「終えました。……やはり顔色は良くありませんね」
 侍女のそれにはつい苦笑が浮かぶ。それを見てだろう、お仕着せの両手が持ち上がって、紗を潜って頬を覆うように温かい手が当てられて、それでフェルは目を伏せた。
「ちゃんと休んできたんですよ」
「解っています。それでも、無理はしないでください。……こっちは体調万全にしてるのに、不調のふりするの大変なんだから、お願いよ?」
「はい」
 距離を至近にまで詰めて、小声で言われるそれには素直に返事する。うん、と返した侍女、影の彼女は、ゆっくりと頬を撫でてからその手を離した。そして静かな声で口を開く。
「陛下には既に先触れを向かわせております。蒼樹長官様、クウェリス・カルツ=エルシャリス様のご両名はアイラーン公爵の邸宅に向かわれました、数日逗留なさると聞き及んでおります為、お部屋の準備は整えてございます」
「有難う。レゼリス、午後陽が落ちる前にメフェメアを向かわせて、ご意向を伺って」
「はい」
 白い細身のドレスは、銀と薄紫で繊細に刺繍の施されたもの。紗を重ねてやはり刺繍で飾られた外套が肩に賭けられて、頭上から髪の先までを覆う紗飾りと、編み込みと宝石で飾られても垂れる銀の髪が外套の上に流され整えられる。それを感じながら窓の外を見れば、空から降るものの形は雪のそれとも雨の透明さとも違った。
「……王都はもうみぞれですね……」
「西方は、やはり例年通り中旬ごろまでは雪が続くかと。南は既に雨に変わっておりますと、白樹の神殿からは報告がございました。南は大河のため橋以外に不安はありませんが、北と西では雪解けに向けて堤防の修繕は始まっております」
 それには頷きを返すだけ。この国は南の湿地、西の山脈、東の高原からの川が北の海岸線に向かって流れて集まり海岸線に巨大な河口を成している。氾濫を防ぐための堤防は毎年手を加え、それでも溢れることがあるほど、水脈に恵まれているとも言えるのだが。治水は政、王の責務。神殿は進言できても左右はできない。する必要もないとは思っているがと、侍従長の彼が促すまま衝立の影から出て扉を潜る。寝室を抜けた先の私室には、その扉の前に既に一人の騎士が立っていた。すぐに膝をついて頭を垂れた彼が口を開く。
「今上陛下より迎えの御方が。既にお待ち頂いております」
「すぐに参ります。レゼリス、……シュオリナ、貴女も」
 すぐに背後に藍色の制服が現れる。無言のままのそれを引き連れて、扉をくぐって廊下を進む。内門の前まで進んで、そこに立っていた人を見て思わず足が止まった。濃い紅の髪、初老の騎士。
「……陛下より大公がお目見えにと聞き、出迎えにと。健勝であられるか、閣下」
「……オルヴィエス様……」
「うん。……そんな声をしてくれるな、まだ早いだろう?」
 言われて、喉を絞める。アイラーンの当主は、それでも動かないのを見てか、苦笑を浮かべた。
「……侍従殿、少しよろしいかな」
 レゼリスはただ目礼して数歩退がる。十数歩の距離を詰めて手を伸ばした彼は、俯いた紫銀の頬に片手を伸ばした。紗を潜り撫でるようにして、目元を拭う。それを左右に二度繰り返して、そうして柔く笑んだ。
「そうしてくれるだけで十分だよ、フェルリナード。あの二人は従騎士に相応しい行いをした、前途ある幼い命を救ってくれた。それを認めてやってくれないかな、それだけでいい。君には、いつかまた針を持たせてしまうことにはなるかもしれないが」
 声にすぐには答えることができず、それでもぎこちなく頷くのには紗の上からその頭を撫でてやって、それから彼は視線を上げた。藍色にも、同じように手を伸ばす。金の頭に手を乗せた。
「馬鹿娘が」
「……ごめんなさい」
「お前は紫旗の騎士だろう、その役を達する事を躊躇うな。家には私も妻もフェリスティエも居る、緋樹にはリアファイドがついている。お前が守るべきものを優先しなさいと言っただろう」
「……うん」
「うん。……フェルリナード、老骨の身で僭越ながらも欠けた役は私が補おう、娘を逃がしてやっても構わないかね」
「……二席が居ます、紫旗は本来姿を見せない者です。消えても、私には分かりようもありません」
「すまないね、……行きなさい」
 背後にあった気配が消える。見えない手が肩を撫でる感触、慣れた手つきで誰かはすぐわかる。そしてその手で軽く背を叩かれて、それで顔を上げた。
「陛下は、討議の間に?」
 問いかければ老騎士が姿勢を正す。すぐに、それでも柔らかい声で答えがあった。
「各位を呼び集め、協議していらっしゃる。大公も疾く御渡りを。私は先に外門に控えますが、討議には入れませぬ。道中で恐縮ながら現状のご説明を致します」
「ええ、頼みます。レゼリス、渡りの先導を」
「は」
 紅は目礼を残して先に背を見せる。門のすぐ横、地下に潜る階段を降りていくのを見送って、それから左に神殿騎士が立ってクロークに隠された手が差し出される。そこに片手を軽く置いて、紫銀は紗の下で扉の開く音を聞きながら眼を伏せた。



「進行度は?」
「抑えられています。緋樹長官が協会魔導師を指揮し結界で拡大を防いでくださっていますが、もうこの長時間です。魔導師たちも限界でしょうから図書館に所属する魔導師と工学師を割けるだけ割いて向かわせています、特に工学師は魔力汚染には確実な処置が可能ですから」
「有難い」
 会話は素早く進んでいる。やりとりされた書類、署名のされる音についで書記官たちがそれを各所に運んでいく慌ただしい音。楕円の卓を囲んでのそれに、王は小さく頷いた。
「図書館の新種魔法の査定は一時的に凍結します。レスティエル、宜しくて」
「はい。幸いこのところ学会に大きな動きもありませんしその予兆もございませんから、現状判断できる期間として半年は止めても問題ありません。何事かが起こってもその間は確実に押さえつけられます」
「ええ、頼みます。私は魔導師とは言い難いから、魔導師相手に私からでは言葉にもならないでしょうから。院、浄化にかかる人員と期間の概算は、数値としては判明したかしら」
「工学師は自衛のできるためともかく、魔導師は防御機構を全身に纏ってやっと近付けるかというところ、老いた熟練たちには身体の負担が大きすぎるために、わたくしも含め人員として数えるには無理がありまする。かといって魔力回路を封じた騎士にできることもない、結界で封じている今は自然解消の速度も落ちております、結界に覆ったままでは三年は掛かりましょう。やはり神殿大公の協力が必要です、神官であれば法力によって『隣人』と語らえる、魔力の影響も最大限抑えられましょうから」
 魔力汚染。あまりに濃度の濃い魔力は魔力を持つ生物には毒となり、時に触れるものを全て氣として分解、消滅させてしまう。今はまだ街の形は残っている。汚染源は『異種』の波によって破壊された構成魔法で、暴走や『異種』化こそしなかったものの内包されていた魔力が術者たちの死によって制御を失い溢れ出した。その汚染の範囲拡大を結界で抑えこんでいるのが現状。魔法院、その長のキレークトは息を吐き出した。
「……即時の手段では、濃度を緩和するには結界の範囲を広くするしか現状手はありません」
「オルセンドの国境に近づきすぎるのは危険でしょう、かと言って拡張する方向を間違えれば王都や紫樹、白樹に近付きすぎる。結界で覆っていたとしても余波は伝わります、魔力に反応して『異種』の活性や増殖すら考えられる。今は三協会が大規模任務を終えたばかりで万全とは言い難い、その上協会の一つが機能不全に陥っている状態です。危険に過ぎます」
「理解した上のこと。幸いオルセンドは我が国にも好意的でありましょう、表面上だけとしても」
「オルセンドには使節を出します」
 書記官が抜けて行って扉から入れ違いに入ってきた声が言って、それにはその場に集まっていた全員が顔を向けた。キレークトが小さく笑う。
「お待ちしておりましたぞ、閣下」
「神官を間諜に使うわけにもいきませんから、今かとそちらからのお声を待っていました。陛下、アイラーン公爵から概要は聞きしました、神殿からは法力を持つ神官を緋樹へ向かわせます、私自身も『隣人』に交渉しましょう。またオルセンド、エラドヴァイエンには『紫銀』が出向きます」
「……そこまでする必要があるかしら?」
 ぱらぱらと軽い音を立てて女王の手にした扇が開かれ、閉じる。その仕草を無意識にだろう、繰り返しながらのそれにはすぐに返した。
「オルセンドはともかくエラドヴァイエンには近年軍備増強が見られます。スフェリウス」
 呼べば藍色の制服が現れる。楕円のテーブルの上に、現れた彼は手にしていた紙の束を投げた。
「グラヴィエント総長の異様に当たる勘とこの情報を合わせて、グラヴィエント次期総長として警告する。『紫銀』が神殿の名を以って牽制しない限り奴ら国境越えてくるぞ」
 束を拾い上げたのは黄紫。何十枚ものそれに素早く眼を通して、彼はそのまま王の目の前にそれを差し出した。
「武装魔法、兵器の裏取引の証書と記録です。スフェリウス殿、エラドヴァイエンの内情をご説明願えますか」
 向けられた顔は、フェルのよく知る一人と瓜二つ。この人が図書館長かと見て取りながら藍色の視線に頷けば彼はもう一枚、今度はローブの中から地図を取り出した。それを広げてテーブルに敷き並べる。記されている範囲はキレナシシャスと東西の隣国、三つの国。国境線は黒く、山脈や地形は茶のインクで描き示されている。さらにその上に赤で塗りつぶされた範囲が見える。大公が宰相に促されて国王の次の席に向かう間にスフェリウスの声が聞こえていた。
「グラヴィエントとディアネル商会、双方の情報を集めた結果がこうだ。エラドヴァイエンは国土の半分が壊滅してる。緋樹に『異種』の波があった前後、おそらく数日前だろうな、エラドヴァイエンの国土半分を別の波が通過、そのまま西に向かって霧の国に雪崩れこんだらしい。赤い範囲はキレナシシャス、オルセンド、エラドヴァイエンのそれぞれ『異種』被害によって致命的な損害を受けた範囲だ。オルセンドは緋樹のあの波の余波が国境を掠めただけでほぼ被害なし、国境付近の『異種』は波に加わって海に消えたからってオルセンドの方は気にしないでいい、ディアネルによればあっちでこっち向けに救援支援団が組まれている気配がある、ってとこだな」
「事実であればオルセンドには感謝しなければなりませんね。……エラドヴァイエンに今攻め込まれればキレナシシャスに逃げ場はありません」
 宰相が口元に手を当て、眉根を寄せている。東には緋樹の街、周囲に接近できない。南は未踏破地帯が広がり、北は海。西から攻めてくるのであれば、山脈で完全に防ぐか、あるいは西を見捨てて王都にまで戦線を下げ、押し返すか。大まかにはその二択、宰相の呟きにもスフェリウスは頷き返す。
「もともと永世中立国だ、他国の支援はない。エルドグランドは兄弟国だが海渡ってまで軍を送っちゃくれないだろう」
「だから紫銀を差し出すと?」
「いや、楯にする」
 女王の眼はスフェリウスからフェルに向けられた。神殿大公はそれに顔を向ける。紗の下から女王を見上げる。
「それが最も手早く、且つエラドヴァイエンに対しての最大の脅しにもなるかと。『紫銀』が使節を各国に遣らせます。宥めきれなければ私自身が向かいましょう。名目は慰問と神官による土地の浄化協力の申し出として。エラドヴァイエンは支援を断っても使節を拒否することはありませんでしょう、たとえ反魔法国家であろうと紫銀の使節を拒否すれば他国からの信用に傷がつく。国土の半分が壊滅した状態では避けたい効果のはず、そしてキレナシシャスが永世中立である限りこれは完全な『善意』によるものです」
「この国な内にも当然神殿からの支援があると見て宜しくて、大公」
「それを前提としてです、陛下。『紫銀』は民の被った苦難を憂いている、そしてそれはキレナシシャスの内に留まるものではない。これを行為として示します、幸い私が大公の位を戴いてから初の波です、好機でしょう」
「承服しかねる」
 即座に声を上げたのは図書館長だった。見やれば表情は硬い。
「それをしてしまえば以後神殿は他国のそれを被ることになる。王立図書館や魔法院への影響はともかく神殿は破綻します。今の神殿は、閣下の仰られたことの全てを抱えられるほどの組織とは判断できません。神殿は神に特化しすぎている」
「ええ。ですから、もう一つの提案と組み合わせて、です」
 素直に疑問符を浮かべたのはキレークトだけで、怪訝な表情を浮かべたのはレスティエル、表情を動かさなかったのが国王で、あからさまに眉根を寄せたのは宰相。既に知っているスフェリウスは、小さく笑った。フェルは、紗に隠されない唇を、笑みの形に変える。
「この方法を侍従と協議すると同時に、まだ耐性のない毒を探させておりまして、実はそれで少々お待たせ致しました」
「…………閣下」
 思いっきり溜息を吐き出した宰相が呼びかけて、女王は目を伏せて小さく笑みを浮かべていた。そういうことか、という図書館長の苦い声には尚も笑みを浮かべたままでフェルは続ける。
「責務を抱えすぎた神殿大公が倒れた。諸国の王侯がどう思うかはそれぞれですが、少なくとも『人民』はある程度想定通りに動かせるはずです。と、いうよりも、私が実際に倒れた時の諸国の動きを見るにそれが妥当だと判断致しました、今後天災なりが起こったとしても他国は二度目神殿を頼ろうとは思いませんでしょう。頼った結果『紫銀』が死んだでは大事です。ですからグラヴィエントの次期総長をこの場に加えました」
 顔を向けてスフェリウスを示す。向けられた藍色、彼は肩をすくめてみせる。
「幸い神殿は、現状では神殿大公の号令でいろんな慈善事業にほぼ無償で手を貸してることになってる。実際に他国に神官が出向いて枯れた土地の修復をしてたり、あとは医療関係と孤児院関連だな」
「そのことで、この場の皆さんには一芝居を打って頂きたく参りましたのが本題です。幸い『紫銀』は二人居りますから、関わる案件はある程度こちらに投げていただいても問題ありません。ですが本当に倒れるとそれもそれで問題になりますので、魔法院、王立図書館、宰相閣下の功績のいくつかを神殿が盗む形にはなるかとは思います、それは申し訳なく思いますが」
 言い切る。だが撤回はしない。女王が顔を上げるのが見えた。
「私にとっては楽な提案ね。王の許可が下りない限り神殿は動けない。王が神殿の行動を許し、その結果、大公が広範を覆って倒れるまで執務に邁進、徳と貸しを撒いて以後二度と『紫銀』本人が他国に気を向けなくても良い状況を作れる。エラドヴァイエンには特別に何か送らないとだわね、隣国の状態を知って王が全部神殿任せで動かないわけにはいかないもの」
「ちなみにディアネル商会はエラドヴァイエン向けの品目少しずつ掠めて蓄えてるらしいぜ。そこの『グランツァ・フィーヴァ』が内容知ってんじゃね?」
《……紫旗の職務中であるため控えたい》
 答えた声は固かった。クロウィルのそれに、女王は迷わずに言った。
「この場では任を解きなさい、王が許します。商会の者として、教えて頂戴」
 スィナルが言えば、即座に藍色の一人が隠形を解いて姿を現す。彼は黙礼を上座に向けた。黙礼だけで済むのは、ディアネル商会が王家に『協力』する立場だから。
「感謝する。主には土地の枯渇による食糧難を想定しての食料、塩、保存料として香辛料。次に対『異種』専用装備、簡易設置型結界の手配と、作製に職人を回してる。『異種』の波を受けた土地の復興に必要な資材、商会の息のかかった職人の手配は済んでいる。神殿大公の使節と共にそれらの提供を打診し、了承を得られた段階で商会からエラドヴァイエンに向けての商団を出立させる手筈だ。『キレナシシャスとして』はそれで十分であろうという『グランツァ・フィメル』の判断にディアネルは従う。俺らは国に属してるわけじゃないが、ディアネルの拠点はキレナシシャスで間違いない。資材も職人もキレナシシャスの出だからな、暫くは反抗的なことはしないだろうって判断だ」
 相変わらず、と思う。紫旗に協会、そうでありながら商人であることも捨ててはいない。一番最初に息を長く吐き出したレスティエルがそのまま口を開いた。
「……でしょうね。……誠に遺憾ですが、紫樹長官には私から声をかけておきます。療師が動いた方がいいでしょう、あの兄なら喜び勇んで大事にするでしょうし」
「彼の方なら死なないながらも危篤にはなるような毒も用意できましょうなあ」
「実際に倒れるのはちょっと嫌なので、口裏合わせはお願い致します。どのような倒れ方でも、過労故のことだとグラヴィエントが話を流してくれるそうですから」
 苦笑しながら言えばスフェリウスがにやと笑い、キレークトがさてさてと囃す。部屋に入ってきた書記官が宰相に書類の束を渡して、それを確認した彼が数枚を国王に、数枚をその右手側の大公の前に差し出した。
「一先ず緋樹の案件に必要な命令書になります、ご署名ください。今後の策に必要な書類はすぐに用意させます、グラヴィエント、ディアネル双方を交えた協議も。スフェリウス殿、クロウィル殿は以後どのように?」
「こっちは総長があちこち飛び回ってっから連れ戻してくるわ、明日中には。協議には総長をだな、俺が代わりにあちこち見てくっから一時的に紫旗を離れたい。この身分だとちっと面倒だし首飾りは外しときたい」
「ディアネルは『グランツァ・フィメル』がエルドグランドからこちらに向かってる、明日の早朝には紫樹に着く。紫樹から王都への転移陣の使用許可があれば明日即座に協議に移れるから自分は紫旗に。陛下」
「許します。クライ、陣の手配を。スフェリウス、グラヴィエントに地下の治安は任せます、恐慌からの暴動だけは絶対に抑えて頂戴」
「はいよ」
「クロウィル・ラウラス、貴方は役に戻りなさい。何かにつけて『グランツァ・フィーヴァ』として呼び出すことになるかもしれないけれど、その判断はディアネルであれば必要なものでしょうからそれには素直に応じてくれると有難いわね。大公、宜しくて?」
「ええ、こちらからもそのように願います、ラウラス」
「御意に。では役に戻らせて頂く」
 言った彼の姿が見えなくなってから宰相に万年筆を差し出されて、書類の数を数えれば五枚。中身は確認しない。する必要がないだろうとそのまま署名を書き連ねて、差し戻せば書記官がすぐに回収していく方々に持って行くのだろう、早足に部屋から出て行く。女王がさて、と声を上げて立ち上がる。
「神殿大公の署名があるのなら、即時のものは私とクライディオルで動かせるわ。キレークトもレスティエルも、重要事は今のうちに解消しておいて頂戴。大公からの活動要請は貴族院と臣民院の審議を通さなければいけないから、最低でも三日は何も言わずに待っていて。四日目になったら勝手に動いて良いわ」
「問題になりませんか?」
「『紫銀』が怒ったとなれば貴族院も掌を返すでしょう? 臣民院は審議拒否にはならないはずよ、むしろ神殿に動いて欲しいと思っている張本人たちなのだから」
「わかりました、なら、四日目に怒りますね。ちょっと強引に『相談』に行きますので宜しくお願いします」
「お茶とお菓子は用意しておくわ。では皆有難う、戻ってくれて構わないわ。クライディオル、行きましょう」
「は。……グラヴィエントとディアネル商会にも、それぞれ宜しくお伝えください」
「おうよ」
《了解した》
 二人の返答を聞いて、王と宰相が扉の先に消える。さてさてと立ち上がったキレークトが紗の方を向いて笑んだ。
「査定の件、伺っておりますよ、フェル様。満点とはいかないようで」
「揶揄わないでください、老師。……良い方に働いたから、って、加点になりません?」
「そもそも禁忌魔法保持許可を持っていらっしゃる時点で減点ですから、閣下の場合は不服を仰っても承けられません」
 魔法院長老師の正面、王立図書館の館長が言いながら立ち上がる。座ったままのフェルが彼を見上げれば、紫樹長官とよく似た顔なのに冷徹さを感じさせる人だと、昔に思ったことを再び思う。その間に視線が向けられて、そしてフェルが首を傾ぐよりも彼の声の方が早かった。
「公、少しお時間を頂けますか」
「……なんでしょう?」
「公をお招きしたことが無いと先程気付きましたから。王宮の中に分館がございます、幸いこの季節の分館は閑散期で御姿を目にする者も少ないかと。そちらへ御渡りいただければ」
 疑念が浮かぶ。少し視線を後ろへと向ける仕草を作れば、侍従長は問題ありませんとすぐに返してくれる。なら断る理由も無いかと頷いて、図書館長を見上げる。これから暫く、大公は動けない。動いてはいけない場面だから。
「ご案内頂けますか、分館があるとは知っていても、どう行ったものか知らずのままですから」
「喜んで」
 そこでようやく彼の表情が和らぐ。冷たさが失せて、それでも柔和とは言い切れないような表情。硬さや無理も感じないその表情を不思議に思いながら侍従に促されて立ち上がれば、こちらへ、と先導して手で扉を示してくれた。




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