女性の声がしていた。怒鳴るような声、でもそれはこちらに向けられたものではないとは理解していて、それでも怖かったから抱えてくれる大きな腕の中に完全に覆われながら両手を耳を強く押し付けていた。それでも掌を突き抜けて声がする。
 ――我らは陛下にのみ従うべくして集った直衛師団にございます、殿下お二人の命令とはいえ従う義務はございません!
 あの時はわからなかった。キレナシシャスが言う『共通語』の存在すらその時は知らなかったから。自分の口にする言語のその名も知らなかった。
 強い人だったんだと、思う。抱えてくれる藍色も温かかった。大丈夫だからと言ってくれる声もあった。
 あの茶色の髪は随分な猫っ毛で、彼女はそれが嫌だったらしい。いつもきっちりと編み込んで、垂れる部分は組紐を編み込みながら三つ編みに纏めてしまっていた。初めて髪を編んでくれたのは彼女だった、長すぎる銀の髪が邪魔で何度もなんども追い払っているうちに、一番好きな色な細長い布を持って来てくれた。
 ――大人にならないうちは、本当は纏めてしまうのも憚れるのだけれど。
 それでも櫛で丁寧に梳いてくれて、きれいでやわらかな三つ編みに纏めてくれた。『あたたかさ』が安堵なのだと知ったのはもっと後のことだとしても、教えてくれたのはきっと彼女だった。
 優しい人だった。子供に甘く、弱い人だった。私の嫌がることをしなかった。したとしても理由を教えてくれた。教えてくれなかったのは死んでしまった時だけだった。
 ――ねえ、フェル、鈴蘭が好きなら――



 眼を開けた。意識が浮き上がって、温かさに気付くより早くに自然とそうしていた。
「……おはよ?」
 すぐ近くから声がする。眼を覚まして一番に見えるのはぼんやりとした胸元に抱え込んだ両腕と、夜のうちに乱れた夜着の膝。そしてもう一人の手。顔を持ち上げて視線をあげれば、黄色がこちらをじっと見つめているのが見えた。
「……レナ……」
「うん。昨日の夜にね、レスティエル様が紫旗に頼んでくださって、そっと運んでくれたの。覚えてる? 会議の後に、図書館に行って」
「……図書館」
「……なにか、嫌なこと、あった? 眼真っ赤で、レゼリスが驚いてたくらいだったから。今日も眼冷やさないとね」
 言いながら彼女の手が持ち上がって、ゆっくり頬を撫でられる。暖かい親指の腹が目元をなぞるのには素直に眼を閉じた。
 何度もなんども撫でられる。まるで促すかのようなそれも暖かくて、すぐにそれが離れてしまうのが嫌で無言でいれば、気付いたのか苦笑の声。
「なあに、フェル、甘えてるの?」
「うん」
「あら素直。……ね、なにかあった? レゼリスは考え込んでたけど、紫旗も何も言わないし」
「……泣いて来たの」
 口にしてから、ああ、と思った。全部、崩れてしまった。言葉で作った一線が消えてしまった。それでもここにはレナしかいないから良い。様子を伺えば、黄色はほんのすこし驚いたような眼をしていて、すぐに解ってくれたのだとわかる表情に変わっていた。いつもより気の抜けた、優しい顔。
「見ればわかるわよ。でもそれだけじゃないでしょ? 『隠し事は無し』の約束、覚えてる?」
「覚えてる、だいじょうぶ。……大丈夫、でも、今度ちょっと出掛けるから、一緒に来て」
「もちろんよ。どこに行く?」
「『斎場』に。思い出した、……覚えてたけど考えたくなかった、私、私の護衛だった人たちが死んだ時泣いてないの。居なくなって寂しかったけど、死んで悲しいって思ってなかった。悲しいことだって知らなかった、あの時」
「それで、教えてもらって泣いて来たのね」
「うん、……レスティエル様、優しいひとだった」
「懐いた?」
「かも。……初対面みたいなのだったのに、コドのひとって、全部わかっちゃうみたい」
「フィエル様もそうだものね。そういう人に弱いわよね、フェルは。フィエル様もだし、コド以外にはクライディオル様もだし、ディストとかスフェとか師父先生とか」
「……それ、一貫性とか共通点、ある?」
「優しいけど構い下手。慰めるより諭す方。吐き出せばちゃんと受け止めてくれる。教師気質よね、スフェ除いて」
「……そうなると、ヴァルディア様は?」
「あの人は別格!!」
 がば、と掛布を跳ねて起き上がる。暗い天蓋の中で銀色がぼさぼさに絡まり合ってしまっている、それを見上げながら笑ってしまった。なによ、とレナがシーツに両腕を突いて顔を覗き込んでくる。
「別格っていうのはあたし視点だけど、だからってやっぱりフェルずるいわよ、それに意地悪だわ! 最近帰ってくるってなったらいっつもヴァルディア様と一緒だし、なのに神殿に来てとか顔見せるだけでもとか言ってくれないし!!」
「言ってるの。拒否されてるの」
 それは本当のことだ。転移陣を超えてこちらに辿り着いて、別れる前には必ず、時間があれば来て欲しい、レナが喜ぶから、と言っている。言うたびに「時間があればな」と取り付く島もない答えが毎回帰って来て、そして本当に時間がある場合にしか来ない。思いながら丸めていた体を少しずつ伸ばして、腕を突いて起き上がる。視線が高くなると少し頭が痛い。
「でも、なんでレナあの人に惚れてるの? あんまり表立って優しくないし、普段は厳しいし、レナには冷たいのに」
「ぇ、ぐ、ぅ、も、黙秘権を主張するわ」
「『隠し事は無し』の約束」
「ぅえっ……そっ、その……」
「その?」
「…………か、かっこいい、じゃない……」
 一瞬疑問符が浮かんで、理解した途端にぶは、と口から大きく空気の塊が飛び出していく。この人に限って一目惚れなんてないと思っていたのにと慌てて手で押さえて笑い声を押さえつけている間にさらに言い募るような声が、しかし段々と小さくなっていく。
「それにこう、気の置けない人にはなんの構えもしないで寄っていくところとか猫っぽいし、時々素の表情で笑ってたりしてるのみかけ……なんでそんな笑うの!?」
「ごめ、でもそれ、たぶん、協会でのあのひと見たら、きっと変わるって思って」
「見れないから悔しいんじゃない!! ねえフェル、ほんとに一日だけ交換しない? 一日でいいから!」
「だからそれやったら際限なくなっちゃうって、前にも言ったのに」
「諦め悪いのあたしは! フェルに似て! むううう……なんだか釈然としないわ……!」
「そう?」
 笑ってしまうのがなかなか抜けない。押さえて抑えて、それでやっと表情だけにとどまる程度には落ち着いた頃に、そうだ、と黄色がまっすぐに紫を見据えた。
「フェル、クロウィルのこと好き?」
「うん、好き」
「……スフェ」
「じゃれあってくれる人って貴重だから」
「ジルファ」
「楽しい人」
「…………ユゼとか」
「うん、大好き」
「んんん若干程度上がったけど違う……! そうじゃない……!」
「なんの程度なの?」
「こう、この、あたしがあの人に対して思ってるようなのがないかって聞いてるの! そういう意味の『好き』!」
 フェルは、それにきょとんとした表情を浮かべる。こと、と首が傾ぐのを見て、レナは心中にああと呟いた。
「惚れ込むような相手いないから……なんとも……?」
 若干空気が揺れて何かが動く音がしたが気の所為だ。不審に思ったのか天蓋の中で身を寄せてくるフェルを両腕で迎え入れて、じゃあ、と額を突き合わせる。
「あたしは?」
「……ふふ、それ、訊くの?」
「……ふふ。なら、訊かないことにするわ」
 はかったように、実際はかっていたのだろう、扉が軽く叩かれる音。レナが慌てて枕元、天蓋を支える支柱に掛けてあったガウンを取ってフェルに被せかけて、フェルがおとなしくそれに袖を通すのを見ながら自分も袖を通して元通りに向き合って座った。絨毯に押し殺されても聞こえる靴音、閉じられたままの天蓋の真横に来て止まる。
「閣下、レナ、幕を開いても宜しいですか」
 言う侍従長の声も少し笑っている。小さく笑い合いながらはいと返せば、途端に明るい光が差し込んでくる。枕元の窓に面した一枚を持ち上げたレゼリスは、鏡合わせのようなその二人を見て、苦笑した。
「少しばかり、寝坊ですよ」



 討議の間での会話は密談の扱いとなったらしい。あの部屋と図書館から三日が経った。神殿大公が大公の名代に任じたのは祭祀長エルディアードと、渡司の最高位であるラフィル=エヴァスの二名。まずは神官の多数を伴って東に向かい、臨時に作られた仮町に留め置かれた民たちを労わり慰撫し、神官は緋樹の街を覆う魔力汚染の浄化にあたる。その後祭祀長は取って返して西へ向かい、西の隣国エラドヴァイエンに、ラフィルは東の隣国オルセンドへ。託した親書はまず神殿大公である『紫銀』の言葉、併せて国王から国王へ向けての言葉と援助の申し入れをするもの。同時にグラヴィエントの組織が各国にその噂を広め、ディアネル商会はこの機を商機と見て動く。
 そう描いた筋書きは、この三日間でほとんど想定通りの道を進んだ。エラドヴァイエンは紫銀の名代を拒絶せず、キレナシシャスからの援助は固辞した。オルセンドは名代を広く迎え入れ、援助の申し入れには返して支援団をキレナシシャスにという打診がなされた。フェルはその報告に、安堵したように大きく息をつく。
「良かった……エラドヴァイエンが支援を受け入れていたらディアネル商会に恨まれるところでした……」
「まあ用意はしてたみたいだけどな、母さん」
 藍色の制服ではない彼の声に眼を向ければ、見慣れない衣装。クロウィル、ディアネル商会の次期惣領。『グランツァ・フィーヴァ』と呼び名されることは知っていたが。
「……コウハの種族衣装って、そんなに綺麗なんですね……」
「馬子にも衣装。着てるっていうか着せられてるっていうか……」
 詰襟とも違う高襟の長衣に、織りも細かく、刺繍もまた見事に縫い取られた上着を二枚重ねて、ゆったりとしたズボンに、袖の上腕には銀細工の環とそれにからげられた紗が垂れている。紗は片方はそのまま袖とともに垂れ、長い方は腰の短帯に留められ更に長く揺れている。袖に手が見えないのは、裾と同じように長く仕立てられているからだろう。腕組みした今は手首にやはり銀細工の腕輪が見えるが、着ている本人は辟易とした様子を隠さなかった。外套はクロークのように大きく揺れるもの、コウハの村はキレナシシャスの南、雪に疎い温暖な土地にあるから片方の肩でも覆えば十分なんだと彼は言うが。
「ディアネル商会全部を動かすのに『グランツァ・フィメル』だけじゃ中々めんどくさ……大変だからお前も手伝えっつって拉致られたに等しいんだよ、今。その上紫旗との繋ぎ役だし陛下ともグラヴィエントともあるしでほんとめんどくさい……」
「色々透けてますよ?」
「商会ってか、母さん関係はな……極力避けたくて……」
 苦い顔をしながら視線を逸らせていくのには疑問符を浮かべた。彼の隣、レゼリスが小さく笑う。
「お母上は大変にお気の強いお方と聞いておりますが」
「気が強いっていうか……性根からして商人なだけっていうか……って、そうだ、伝言」
「伝言? ディアネル商会からですか?」
「現惣領の『グランツァ・フィメル』、俺の母さんからだけどな。『二日後に葡萄を持って参ります』ってさ、明後日くらいに乗り込んでくる気らしいから気をつけろな?」
「……葡萄って今は季節じゃないはずじゃ……」
 眼を瞬きながらのフェルが椅子からレゼリスを見上げれば、苦笑した彼が少々失礼を、と一言置いて部屋の四隅を覆う本棚の一つに向かう。その中から、本ではない、木の箱を取り出して来た彼は、箱を開けたその中から羊皮紙を取り出した。
「フェル様は、まだ地形や地図には本格的には触れられておりませんからね」
「……ごめんなさい……」
「あんまり大公の仕事にも関係ないし、知らないでも問題ないと思うけどな。大体知ってればいいのってこの大陸と、あとはエルドグランドとその周辺国くらいで」
「それでも、朧げでも覚えていらっしゃった方が良いのはそうでしょう。こちらが、現在の世界地図となっております」
 羊皮紙は思った以上に大きく広げられた。四つは羊皮紙を繋げているのだろうか、平板を保たれていても幾つかの書類が積まれている上に、それを覆い隠しても余りある大きさ。地図がこの部屋にあったのか、という驚きを隠してそれを見下ろせば、それを逆方向から覗き込んだクロウィルがその地図の一点を指し示す。地図の中央よりも左に逸れて、上方、北へと逸れた場所。大きな大陸。
「この大陸の、極北のど真ん中がキレナシシャス」
 大陸自体は大きな三角に見える。北に大きな海を抱えて、東側が抉れているような、そんないびつな形だが。素手の指先はそのまま東に逸れて、上下の端が絞られたような地図の端を示す。最も東の端。浮かんでいるのは島々。
「ここが、キレナシシャスではあんまり知られてないアヤカシコネ。金平糖の産地の極東の国……っていうか、集団っていうか」
「……国じゃないんです?」
 脳裏に浮かぶのは、先の任務中に出会った学生の彼女。セッカ、と呼ばれることを好んでいたらしい、彼女。レゼリスが説明を継いで口を開いた。
「王政の国家……皇帝がいることは判明していますが、どの国の人間もその『皇帝』という存在に出会ったことはありません。正体不明の国家、という呼び名が最も妥当でしょう。私たちの居る、キレナシシャスの大陸はグラツァマンド大陸。西にユーゼリア小大陸があり、さらに南方にアヴァンス小大陸。大陸は大きくこの三つに分かれます。他は列島や島国がありますが、ほとんどが海になりますね」
「グラツァマンドの北方海岸線の五国のうち、左から二番目あるのがキレナシシャス」
 示して行く指先を追いかける。国境線は茶の破線。キレナシシャスは南に角の立つ五角形に似ている。その下の空白部に目がいって、手を伸ばしてそこに触れた。他の幾つもの国境線に囲まれた、そこだけ羊皮紙のままの色の空白の場所。破線はキレナシシャスの南方からは西に逸れて山脈に当たって、そのまま南下。その次は大河に阻まれて東南に線は続いて、東に大きく曲線を描き、東の隣国オルセンドの国境線に無理矢理直線に割り込んで輪が繋がる。
「……未踏破地帯、こんなに大きいんですね……」
「大陸のおよそ三分の二が未踏破地帯です。土地が豊かなことは確認されていますが、いかんせん『異種』が多過ぎて人の住める土地ではない……同時に熱帯森林ですから、ここにしか生息していない動植物もいるだろうと予測されていて、生物学の界隈の方々はやきもきされていらっしゃるそうですね」
「熱帯森林……」
「はい。ちょうど東西を山脈に囲まれていますし、赤道がここにあたりますから」
 言いながら侍従の手が地図の上下の中央、それだけ太い一本線を指し示す。未踏破地帯の南端を削ぎ落とすように走り抜けた線。少しして身体が横に傾ぐのを見てクロウィルが小さく笑いながら両手で球形を作った。
「世界は丸く作られてる、ってのは常識だな」
「ん、はい。だからこの地図も、上に抜けて行くと上から出てきて、横に出て行くと反対側の端から出て来る……んですよね……?」
「そう。で、天文学によればこの世界は自転してるらしい」
「じてん」
「くるくる回ってるんだな。一日一周。しかも若干軸が斜めになってるらしい」
「……知らない……」
「天文学も随分と廃れましたから、過去の記録を見るばかりで新しい発見はここ数百年でも一度もなかったかと。ですが星魔法を使う方々が、小さくとも現在までずっと知識を守られていらっしゃいますよ。赤道というのは、この地図のちょうど真中を走る、たしか理論上の線のことだったかと」
「そう、地図の上だけの線だな。で、太陽を中心にしてこの世界がぐるっと大きく円を描いて周回してて、その一周が一年。地球自体の回転一周が一日。太陽の周りをこの世界が一周回るまでに自転が三六五回あるから、一年が三六五日、っていうはそういうことだな。でもちょうどぴったりではないから閏年で調節するんだと。で、地球の回転の一周っていうのは太陽の周りを回る間変わらないけど、回転の軸は少しずつずれてるな。夏の陽が長くて冬の陽が短いのはそのせい」
 紫は地図を睨みつけるような姿勢を崩さないまま、だが難しい顔をしているのは変わらない。クロウィルは手で作った形を崩して腕組みに戻して、それでも表情は笑っている。
「簡単に言えば季節を作ってるのは太陽とこの世界との距離関係とこの世界の軸の傾きだ、ってことなんだけどな。世界は常に一定の季節を持ってるわけじゃない、常夏とか言われて年中暑いところもあるけど、それでも気温は変わる。四季、春夏秋冬はまさしく太陽の恩恵で、大まかに言えば、今キレナシシャスが冬ってことは、赤道を越えてほとんど反対側にあるアヤカシコネは夏だ、ってことだな」
「……今三月なのに?」
「三月だけど夏。使ってる暦が多分違うはずだけど、キレナシシャスの暦だと、アヤカシコネが確か一月からが夏だな、だからキレナシシャスとは季節が二つくらいずれてる。で、今が夏の国があるってことは、今が秋の国もあるってことだな、地形依存の気候にもよるけど」
「ですから、今が秋の国から葡萄を運んでいらっしゃる、ということでしょうね」
「……それって、ものすごい長旅じゃ……?」
「母さん自身が取りに行ってるってより、現地の人間に伝えて船団に載せるって意味だろうから、葡萄は長旅だな。母さん自体はもう王都にいるし」
「そうなんです?」
「じゃないと伝言なんてできないだろ?」
 見上げていた紫が落ちて、そっか、と納得したような声が落ちる。ところどころ抜けているように見えるのは変わらない、と侍従長と二人揃って苦笑したところで、手を伸ばしてその地図を丁寧に畳んでいく。貴重品なのはそうだ。ここまで正確な地図は万金に値する。畳んだそれを侍従長に渡して、彼が本棚に戻して行くのを少しばかり見送ってから、クロウィルはフェルに目を戻した。王家の離宮、神殿とは別の、本来はこちらが神殿大公の居住、だから紗は無い。編み込み編み上げられた三つ編みの渦を飾るように王女の冠が乗せられているだけ。すぐに気付いたフェルが見上げて来るのには、ただ手を伸ばした。頭に手を当てる。撫でるように。
「眼まだ赤いな。ちゃんと冷やしたか?」
「……冷やした後にまたちょっとあったので」
「珍しい。レナとは?」
「話しましたよ、ちゃんと。だから大丈夫です」
「なら良かった」
 言って、ぽん、と一度叩いてから手を離す。紫は少し不満げな顔を見せた。
「子供扱い……」
「子供だろ。それに俺は今紫旗じゃないから、どっちかってと玉命拝領者としてやんなきゃいけないことの方が大事だしな」
「……あれってもうほとんど時効じゃないです?」
「玉命に時効はございませんよ」
 苦笑しながら、侍従長が戻って来る。彼の眼は隣の一人を見やる。
「今上陛下に撤回されるまで、お二人の兄妹関係は正式なものでなくとも公式に保証されております。クロウィルさんが騎士称号を名乗る間は一時的に無効化されますが、たとえば協会での休暇中などは有効でございますよ」
「要は制服じゃない時は、って感じだな。だからこうして平然と紫銀の眼の前で立って普通に話せてるわけだし、ディアネルの人間だから陛下に立礼でも許されるわけでもあるし」
 紫旗の制服であれば何も問題なくこうして屋敷の中に入ることは許されるが、隠形を解くには紫銀か王の許しがなくてはならない。今はコウハの衣裳、正装であっても紫旗や協会の制服でないことには変わらないから、本来であれば侍従や侍女、神官、護衛でない人間がこの場にこうして居ること自体がおかしいはずでも、彼だけは違う。
「義兄妹、って訳でもないから、ちょっと微妙なところはあるんだけどな、本当は」
「先王陛下、ですよね、その命令をクロウィルに、って」
「だな」
「……いつ頃の話です……?」
「俺が八の時。お前が見つかってから何日か目だな、一ヶ月は経ってなかった」
「六二七〇年の十二月四日ですね。フェル様の発見が十一月三十一日ですから、五日目です」
 レゼリスが言うのには二人揃って目を瞬いた。クロウィルが腰に手を当ててその青金を見やる。
「……よく覚えてるな……」
「当時は大騒ぎになりましたから、よく覚えておりますよ」
「騒ぎ?」
「いや、それは覚えてなくていい」
 フェルが疑問符を浮かべるのには即座に言って返す。今度は隣のレゼリスが口元を軽く握った拳で隠しながら小さく笑う。
「お教えなさっても良いのでは?」
「なんか色々ありそうだから断固拒否する」
「お母上がいらっしゃるのであれば、時間の問題かとも思いますが」
 途端に口をつぐんだクロウィルの視線がゆっくりと斜め下に落ちていって、最終的には片手が顔を覆ってしまう。低く呻く声も聞こえて何事かとフェルがレゼリスを見上げれば、今度こそ明確に控えめに笑う声を零していた彼は、失礼、とは言いながらも表情は崩さないまま。
「そろそろご夕食の時間です、今日はフェル様とレナ、クロウィルさんとの三人で召し上がられませ」
「良いのか?」
「フェル様の兄上ですから」
「……なんか企んでないかレゼリス」
「ええ、少し。ですがすぐに何かがというわけではありませんし、支部に戻られるのも面倒でしょう? すでに準備も終えておりますよ」
「ちなみに何が起こるって?」
「『グランツァ・フィーヴァ』とフェル様の仲が良好だということを知らしめることで、ちょっとした狩りができますから。少しばかり利用させて頂きたく」
「それ俺とか商会に影響ないよな?」
「ええ。勿論フェル様にも影響はありません」
「なら良い。使ってくれ、明日陛下に謁見して来るから」
「有難うございます」
 とんとん拍子に進んで行く会話に疑問符を浮かべながらもフェルは口を挟まなかった。準備を整えて参ります、と侍従長が言って下がるのは見送って、それからそうだ、と思って立ち上がる。クロウィルの眼がこちらを向いたのを見て、ええと、と言葉を探す。
「……ちょっと前、図書館に行って、ってありましたよね」
「ああ。……図書館長って、フィエル様の弟さんだろ? 何かあったか?」
「ちょっと、色々、甘えてきて。それで少し、思い出したというか、覚えてたことを忘れてたのに気付いて」
 クロウィルはただ疑問符を浮かべるだけで、先を促してくれる。だからフェルもそのまま何も言わずに彼のそばに寄って行って、手を伸ばす。クロークの中に腕を入れて、そのまま半ば外套に埋まるようにして抱きついた。
 一瞬彼が驚いたように身体を揺らして、止まる、すぐに手が頭に乗せられた。
「……どうした?」
「……もう『小さいの』じゃないかな、って」
 抱きついたのは胸下で、背の側に回り込まないと全身が隠れるようなことはない。彼の左肩から垂れる外套、分厚い革と布とを合わせたそれがようやく半身に満たない程度を覆う。上からは苦笑が降ってきた。
「なんだ、甘えてるのか?」
「……レスティ様に、子供になれって言われたので、それで、ちょっと。レナとクロに甘えてみようかなって」
「……呼び方だけはやめねえ?」
 言いながら声音は笑っている。左腕が動いて外套を広げて全身に被せてくれる。視界が暗くなって安堵する。さらに腕に力を込めた。
「好きだよな、そこ」
「うん」
「準備まだ少しかかるだろうから、好きにして良いぞ」
「……うん」
「『斎場』行ったって聞いた。誰に会って来たんだ?」
「……誰にも。……クロ、ひとつお願いしても良いですか?」
「なんだ?」
「私の本、持って来てほしくて。……ちゃんと思い出さないとって思ったから。私、レティシャのこともエディルドのこともカルドのことも、クォルク団長のことも、好きだったのに、ちゃんと覚えてないから。ちゃんと思い出せなかった」
「クウェリスに頼んだ本だな」
「うん」
「ちゃんと、読んだら休めよ。夢でも良いけど、嫌なのも全部戻って来ることになる。クウェリスが言ってた通りに使え、それ守ってくれるんなら持って来る」
「うん」
「ラシエナにもちゃんと伝えておけよ。あいつが一番気にしてる」
「……そう、かな」
「あいつ、お前が覚えてないことをお前の前で話すの避けてるからな。お前も嫌だろ、そんなの」
「……うん」
 頭を叩くように撫でられて、それから肩に腕を回して軽く抱いてくれる。それでやっと息がつけて、腕に込めた力を抜いた。




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