眼を開いて、見えた銀の表情に変わりがないのを確認しても、それだけでは足りなかった。手を伸ばしてその口元にかざす。呼吸していることを確認してから首に手を当てて鼓動を確認する。向こう岸から苦笑が聞こえた。
「大丈夫だって言ってるだろ」
「……うるさいわよ。あんただってべったりなくせに」
「してろって言われたしな、方々から」
 言うクロウィルの手が銀色を撫でる。動かないままではと彼が言うのには頷いて、上体を持ち上げてその身体を横倒しに姿勢を変えさせるのに手を貸した。その拍子に、左の耳に揺れる青い雫が目に入る。見上げた方、クロウィルの右耳にも同じ雫。気付いたのか、翠がこちらを向く。
「なんだ?」
「……やっぱ納得いかないわ」
「何にだよ」
「あんたがフェルの兄さんなの」
「おまえそれ俺が紫旗の時でも言うよな……何だったらいいんだよ?」
「普通に友人とか」
「相当下がったな……兄とか護衛とかから……」
 ふん、とそっぽを向いて、そのままフェルの横に潜り込み直す。嘆息したいのは我慢した。
 ――惚れ込むような相手が居ないなんて嘘だ。思っても何も言えない。言ったところで何にもならないだろうし、自分がそれを言えた立場でもない。
 相手が居ないと言ってしまえる気はわかる。ずっとこんなのがいつも横に居たのでは、惚れ込む以前の問題だ。なんだかんだあの女隊長も相当以上に格好良いのは事実であるし、それと並んで遜色ないという時点でお察しなのだから。
 そんなのと一緒に過ごしていたのであれば、自覚なんて全く無くても不思議ではない。例え片耳のピアスがこの兄役の男からお守りにと貰ったもので、腕に抱かせて大人しくしているのもこの男に限ったことで、たまに着ける腕輪や指輪が悉くコウハの銀細工なのも、すべて無自覚でそうしているのは見ていればわかる。はたから見れば怪しいと思われるようなこともこの男は玉命という盾によってそのような噂が立つはずもない。尚女隊長の方は出自が出自過ぎて紫銀に意見するのも「年長者としての義務」としてお咎めなしのようだ。大体同じような扱いである。
 だから、「兄役」なんて半端なのは別の奴に押し付けてしまえばいいのにと、そう思うのは押し殺す。大体の原因は本人の自覚の無さと立場だろう。そう容易に変えられるものでもない。
「……あんたはどーなのよ?」
「何が?」
「フェルのこと。どう思ってんのよ」
「普通に、可愛いし、からかうと面白いし、好きだけど」
「それってそういう意味での『好き』なの?」
「何だったら良いんだよお前視点……」
「とりあえず答えなさいよ、それで決めるから」
「基準無いのかよ。……まあ、抱えておきたいくらい? 猫だよな、本人は猫嫌いだけど。犬じゃないし」
 微妙過ぎて殴るに殴れなかった。はぁ、と今度は隠さず溜息する。
「いっそ監禁しておきたいくらいとか言ってくれたら思いっきり殴れんのに……」
「……なあそれはじめっから殴る口実探しだろ……」
「当然。それ以外になにかある?」
「釘刺しとか?」
「あんたに釘刺しても糠じゃないの。煽っても暖簾だし。糠に暖簾ってあんたほんとにコウハなのって感じよ、どこにあるのよ鉱石成分。本当に土の種族?」
「本当に俺殴れんならどんな理由でも良いんだなお前……」
 牽制の意味はある。牽制する意味はないとも思っている。この男も結局突き詰めれば一線は設けているのだ、たまに口説いている風を見せたとしてもからかいの域を出ることはない。相手が、フェルがどんな反応をするかまでを考えた上でやっているのだから役者だ。
「……あんたまた貴族の令嬢フったって噂よ」
「丁重にお断りしたな、最近。三人くらい。わざわざ出向かされた」
「奥様方にも人気じゃない? フェルが気にしてたわよ」
「、え、」
「苦労してそうだ、って」
 ですよね、とは溜息と同時。やっぱりその気は少しでもあるんじゃない、と、毛布に潜り直しながら思う。
 深夜だ。フィエリアルは調査記録の検討をと言って、結果はまだ教えられていない。その後に侍医たちが来て、細かな毒抜きの施術をして行ったから、昏睡も想定より早く回復するらしい。
 夢は見ているのだろうか。なんとなく思う。向かい合わせになった頬に触れれば暖かい。良しと思って、布団からはみ出た手を握ってやる。その仕草を見てか、また向こう側から声がした。
「寝てて良いぞ。今日色々あって疲れてんだろ」
「気疲れてるのはそうだけど、あんた野放しにするのは嫌だわね」
「だからどうしてそうなるんだって……紫旗もいるし、制服じゃない以上俺だって監視される側だぞ?」
「あら。ご愁傷様」
「……お前は良いよな、いっつもべったりでさ……」
「べったり具合はドングリよ私たち、残念ながらね」
「そうか?」
「そうよ」
 ユゼも陛下もそう言っている。フィレンスよりもよほど程度がひどい、と。実際の時間がどうのではなく。思って溜息した。フェルは、起きそうにない。
「……寝るわね」
「わかった。見ておく、おやすみ」
 手が伸びてくる。妹にするように頭を撫でられて少しむっとする。だから余計にフェルに寄り添う距離を近くしてから眼を閉じた。
 魔力回路の移植は既に解かれている。だから手を握っている必要はない。それでも一人寝をさせれば必ず冷え切って風邪を引きかねないほどだから、離宮では常にこうだ。神殿や協会ではわからない。あるいは最近はあの鋼色がいるから大丈夫なのかもしれない。



 影の彼女が意識を失って眠りについたと見て、やっと息を吐き出した。寝台に腰掛けたまま、天蓋を軽く持ち上げた。
「もう大丈夫だ」
「……レナも無理するからね」
 椅子に姿を見せた藍色、ラシエナが息をついた。立ち上がって覗き込んで、頷いてから身を引いた。
「まったく二人して……レナも影じゃないとこうだから。……見といて。寝てても良いけど」
「良いのかよ」
「母君から許可出てるからねぇ」
 苦笑して言えば肩を竦めて返される。陛下がわざわざ許すと他者に伝えるのは珍しいと眼を瞬いているうちに、色違いは今度はこちらを向いた。
「朝からずっとで疲れてんのはそっちもでしょ」
「まあ、そこそこ」
「じゃあおやすみ。十一隊動かしとくから」
「はいはい」
 調子はすっかり戻ったようだったから、抵抗はしない。そのまま部屋を出ていくのを見送って、それから天蓋を押さえていた手を下ろした。見下ろせば麻布で覆いがつけられて間接照明として吊るされたぼんやりとした淡すぎるほど薄い明かりの下、暗い中で眠る二人の顔が見える。こうして意識がないときに並んでも面立ちは似ている、それでも比べてみればフェルの方が多少長じていて、レナの方が輪郭が丸い。細かな違いがあって、仕草の違いがある。なのに他の人間で判別が付くのがレゼリスと母しかいないのには逆に首をひねるのだが。そういえば母が、二人の好物はとそれとなく聞いて来たから、フェルは梨と金平糖、レナは桃と返しておいたのだが、あの反応だと調達は難しいだろうか。金平糖は東方のものだし、桃はやはりあと二ヶ月ほどは難しい。仕方ないかと思いながら、手を伸ばす。幼い方の頭を撫でてやれば、わかりやすく肩を寄せて嬉しそうにする仕草が見える。それから横になった頭を撫でた。今はこちらに背を見せているそれ。
 なんとなく、そろそろかもしれない、と思ってそのままゆっくりと頭を撫で続ける。柱時計の秒針の音は天蓋の中にはなかなか明確には伝わって来ない。銀が二つ転がった枕の横に腰を下ろしたまま、天蓋を支える柱の一つに背を預ける。そのままでも手は十分に届く。手は銀を梳くように撫でるように動かしながら眼を閉じる。深く息を、呼吸を繰り返しながら秒針の数を数える。一七三を数えた頃に、衣擦れの音が聞こえて眼を開ける。天蓋の外。足音がゆっくり近付いて来るのには先んじて天蓋を持ち上げれば、見えたのは黒いローブの黄紫だった。
「……フィエル様」
「すみません、こんな時間に。お二人は?」
「寝んでいます。何か、急な事でも起こりましたか」
「いいえ、経過観察です。失礼しても?」
 言われたそれにはすぐに絨毯に足を下ろして、持ち上げていた天蓋を柱へと寄せて押さえる。療師がそこに上体をかがめて、片手を取って脈を測り、口元に手を寄せて呼吸を確認してからはい、と言って手を引いた。
「後遺症は目覚めてからしかわかりませんが、今はよく眠っているようです。潜った影響もあまり無いようですね」
「やっぱり何かあるんですか、魂に潜った後って」
「記憶を掘り返す事になりますから、押し込めていた精神的な負担を『無意識』が知覚して悪夢を見ることがあります。その程度ですが、無い方が良いには変わりませんからね。……貴方も寝んだ方が良いですよ」
「俺は、あんまり仕事してなかったですし。フィエル様の方が大変じゃありませんか、一回死んだって聞きましたけど」
「大雑把な伝達ですねぇ。心拍停止が即死亡って判定じゃありませんよ」
 手が伸びて来て左耳の端が軽く引っ張られる。すみません、と苦笑して言えばよろしい、とすぐに解放されて、何かあればすぐに伝えてくださいと言い残して療師は立ち去っていく。自分も押さえていた手を離して元の位置に戻った。さすがに三人分の体重を支えるとなればこの寝台も軽く軋みもする、その木の音を聞きながら同じように柱に背を預けて銀に手を当てる。撫でながら眼を閉じる。喉の奥で押し殺したような声が聞こえるのに視線を向ければ、片方の手を握った幼い方が身体を俯せて唸るような声を漏らしていた。こいつも心配性だから、と一度触れていた方から手を離してそちらの銀を撫でる。こめかみから後ろ首へと梳くように撫でれば眉根の凝りがゆっくりと消えて、元の穏やかな寝息に戻る。それからしばらく頭の上に掌を置いて、少ししてからゆっくりと離す。枕の上に突いていた右腕から重さを戻すときに木の軋む音がして、それにつられてもう片方の銀が動くのが見えた。
 上向く、その眉根が緩く寄せられているのが見えて額に掛かった銀糸を除ける。柱から背を離して、顔を覗き込む。影に握られていない左手が泳ぐのには左の手でそれを握ってやれば、少しの間を置いて瞼が震えて紫が垣間見えた。
「まだ大丈夫だ、寝てて良い」
 紫が彷徨う前に視線を合わせて言う。瞬きをゆっくりと、何回も繰り返して見上げた紫が、ゆっくりと凪いで落ち着いてくるまでそうして待って、それから頬に手を当てる。唇が動こうとするのを見て先に問いかけた。
「喉乾いたろ。飲めるか?」
 声では答えずに、頬に当てた手に伝わってくる程度の頷きで応えられる。天蓋の中から手を伸ばして、小さなテーブルの上に据えられた小さい水差しを持ち上げる。吸い口のついたそれを視界に入れてやれば、銀は更に傾いて横を向く。その口元に吸い口を寄せてやれば唇が動いて、その中にゆっくり湯冷ましを流し込む。少量を何回にも分けて。紫が閉じられるまで続けて、それで水差しを置いてから頬を撫ぜ、銀を梳き、寝息へと呼吸が落ち着いていくのを待つ。
 待ってから、もう大丈夫だと判断してから長い銀のうねりを一つにまとめて、肩から持ち上げて枕から落ちてしまった頭をもう一度そこへと据え直す。影の方に眼を向けても意識を取り戻した様子はない。もう一度眠りに落ちたその紫もまた開く様子がないことを確認して、もう一度柱へと背を預けた。
 秒針は気付けば五〇〇を超えていた。一度天蓋を持ち上げて柱時計を見る。深夜三時を回っている、まだ陽が上がるまでには暇が掛かる。侍従たちが動き始めるのにもまだ時間がある。寝んでおくかと、眼を閉じる。それでも完全に意識を無くしてしまうことは結局できずに、秒針は一〇〇〇を超えたのを境にその数をゼロに戻して、一から数え始めていた。



「検討する、とは、良い逃げ道ですね」
 寝室の扉を少しだけ開いて様子を伺って戻って来た療師に向かって言えば、彼は苦笑した。
「さすがにこれは勝手にはできません。今のうちから貴方の恨みを買うわけにもいきませんからね」
「私が何と?」
「紅比翼は既に噂になっていますよ、神殿には伝わっていないかもわかりませんが。内々に陛下が発せられる大赦について、相談は受けていましたから」
「ではそれを知った上で」
「ええ。ですから、貴方にはまだ見せられませんよ、『侍従長』殿」
 言ってからフィエリアルが眼を向ければ、彼は綺麗に笑みを浮かべていた。さてどういった方向への笑みだろうかと思っている間に、本人が口を開く。
「ではやはり何かあったのですね」
「魂に潜るわけですから、当然『何かしら』はありますよ。私自身は貴方の記憶の方が興味深く思えますが、さすがに貴方を診断する口実は見つかりませんねえ」
「そうですか? 残念ですね、何人かには知って居て頂きたいのですが」
「それは御自分でどうぞ。閣下にも」
「元々、そのつもりです。……何も性急にとは思ってはおりませんのに、知る人には悉く牽制される。蒼樹長官と緋樹長官のお二人にも似たようなことを言われました。そんなに信用なりませんか、私は」
「嫌な可能性を消したいだけですよ。どうやら多くの人にとってのフェルは保護対象ですから」
「私にとってもそうですが?」
「画策には警戒を抱くものですよ、どんな人間であれ。賢君であることを願います」 「おかしなことです。『私』にそれは許されておりませんよ」
「だからこそ今のうちに言っているんですよ、皆が皆してね。……陛下のご意向には背かれぬよう、侍従長殿」
 言って、療師は横目だけを向けてそのまま退出してしまう。溜息して、だか後ろ暗いものはかけらも浮かばない。当然こういう反応になるだろう、そう思っていた、その通りだっただけだ。
 寝室の方の扉を見やる。何の物音もしない。時計を見れば早朝五時。そろそろ他の侍従たちも起きて仕事始めになるかと思って、足を向けた。音が立たないように扉を開いて伺えば、天蓋に動きはない。静かに歩を進めて持ち上げて窺ったそこに翠が浮き上がっていて、思わず表情を消してしまった。
「……事実か」
「ええ、残念ながら」
「いつからだ」
「紫銀降臨が公布されてから。その当時から構想はありましたが、策に成ったのは私が侍従入りしてからですね」
 青翠はこちらを見てはいない。なのに視線を外してその手の先を見やることには己から制止が入って成せなかった。――この『男』を敵に回したくはないのだがと、心中に落とす。今はその寸前かと勘定する。宥めるという手は、この男に限って通用はしない。
「今上陛下も同じように考えていらっしゃった。どうやら王族は考えが似るようで、故に最大目標は達されない。陛下の御子が無い限り私に手番は回らない」
「殺すか」
「いいえ。想定外が多すぎた、離宮で共に自由を許され暮らすのも悪くはない、そうであれば望まぬ役目も傷も負わせることはない。なにより、不自由を強いればこの矮小な良心でさえ痛むようになった」
「……そうか」
 それでようやく翠が浮いた。こちらを見上げる、敵意を一切『示さない』視線。
「信用するぞ」
「そうしてもらわなければ。今はあくまで騎士として誓いを立てた身、虚言はない」 「……わかった」
 言った彼が柱から背を離す。立ち上がって背を見せるのに邪魔だろう天蓋を持ち上げて見送れば、彼は二歩の距離で肩越しに振り返った。
「今度時間作れ。お前の話も聞きたい」
「ええ、わかりました」
 歳で言えばこの護衛、ディアネルの次期惣領は自分の幾つも下になる。それくらいは簡単にひっくり返してくる相手だとも認識している。そのまま扉に向かった彼は、把手に手を掛けたところで一度立ち止まって、もう一度振り返った。視線は天蓋に向いて。
「『もう良いぞ』」
 そう言い置いてから扉を抜けていく。何かと眉根を寄せたところに絹の擦れ合う音がして、慌てて眼を落とせば乱れた銀の中から紫が上向いていた。え、と声を落とすと同時にその唇が震えた。
「……レゼリス……」
「、は、御前に」
「……時間、は……?」
「一夜を越え、早朝の五時を回りました。医術師の皆様が手を尽くして下さったために短時間で済んだのかと。ですがまだお寝みください」
「……レナを、先に、……おどろかせた、から、」
 言う言葉の最後まで言い切らずに、紫は瞼に沈んでいく。そのまま規則正しい呼吸を繰り返すだけに戻るのには安堵と、同時に不審を憶えて眼は扉に向いた。
 姿はもう無い。気配すら。




__________




back   main  next


Copyright (C) 雪見奏 All Rights Reserved.