「二人だけで話しましょう」
 療師のその言葉に、夜着にガウンを羽織って枕を背に当てて寄りかかった紫銀は頷いた。昼頃には食事も終えて、湯を使った後も一応は安静にという侍医たちの声に従って寝台で本を読んでいた。
「陛下や、侍従には、伝えられましたか?」
「陛下にはお伝えしました。その上で協議して、申し訳有りませんが、まだ貴女には部分的にしか伝えられません。それ以上はまだ私にも意味がわかっていませんから、混乱させてしまうだけにしかならないと判断してのことです。わかってくれますか」
「……大丈夫です。レゼリス、すみません、白湯だけお願いします」
「お持ち致します」
「フィエリアル様にも紅茶を。……お食事は?」
「こちらのことはお気になさらず。閣下も、自然な眠りはとられましたか」
「はい、昼までぐっすり。寝すぎで少し頭が痛いくらいで、特に変なところもありませんよ」
「おかしいですねえ。割と大暴れしてたんですが」
「です?」
「ええ。少しこちらに」
 左手が伸ばされるのには大人しく頭をそこへと寄せる。右手側、寝台の横の椅子から伸びてきた手がこめかみに触れるのには目を閉じた。
 涼しい風が流れるように、ぬるい不快でない水が脳裏を浚って潤して漱いでいくような感覚。そのあとに清廉な水の流れが走り去って、それから手が離されれば頭痛の波は引いていた。ほう、と息をつく。
「ありがとうございます」
「いえ、和らげるしかできないとはやはり歯痒いですね。開発もしてはいるものの原因が多すぎて全てを覆うのにも無理が生じてしまって」
「……フィエル様、本当にいろんな医術魔法を作ってるんですね……」
「作りかけ、がほとんどですよ。挑戦はしないとね」
 言い合う間に、寝台の横にカートが寄せられる。フィエリアルのすぐ横の小さなテーブルにも紅茶と茶器のセットが置かれて、それで侍従たちは深く腰を折ってから退出していく。それを見届けてから、フェルは虚空に声を向けた。
「シュオリス」
《御前に》
「総て下がりなさい。療師、結界をお願いできますか」
「畏まりました。紫旗方、宜しいでしょうか。姿も曖昧に見せる結界をと、こちらはそれを望みますが」
《大公閣下の意のままにせよとの今上陛下の御言葉がございます。結界には背を向けて控えます、有事の際には立ち入りますが、それ以外には触れぬように致します》
「有難う」
 言い終えてから目配せして、それで療師の掌に小さな陣が浮かび上がる。そのまま小さな詠唱につれて二人だけを覆うように半球の結界が築かれた。結界は水銀を流し込んだかのように歪んで外の景色は見えない。
「声も遮断しました、……お辛い事でしょうことをこれから告げます、良いですか」 「知りたいと言ったのは、私ですから」
 二人きりでとこの療師が言った時にはもう分かっていた事だから、淀みなく返す。フィエリアルは一度謝罪するかのように目を伏せて、それからまっすぐにこちらを向いた。
「まず一つ目に。貴女の記憶は、記憶として保存、蓄積されていません」
「……夢の守は、居ませんでしたか」
「いいえ、居りました。ですが夢の守は、貴女には夢の守の役目そのものが必要ないと言っていた。言葉のまま伝えます、『フェルリナードの記憶は無い。蓄積する器が奪われて、溢れたものは行くべき場所へと行ったから。『ラフィエツィア』の記憶は無い。あの人に狩られて『彼』の格ごと奪われてしまったから。残っているのはあの子が身体に刻み込んだ魔法だけ』、と」
「……器が無い……」
「脳に一時的に保管は出来ても、魂に刻ませることがない。だから一度忘れてしまえば、もう思い出せない。……そのように、私は解釈しました」
「ラフィエツィアとは?」
「夢の守が名告った名です。ラフィエツィア=ラヴィニア=シャナクァーア。『原風景』にも同じラフィエツィアという名を持つ子供が居ました、双子の紫銀の、その妹……姉、と、双子達は言っていましたが、双子の後に生まれた方の子が、その名を」
「……先に、伝えることがあれば、それを。後で聞かせてください」
 わけがわからない。現実味も無かった。だからそう言えるのにも支障は無かった。療師は頷いて、続ける。
「あと二点ほどあります。二点目、これは貴女の出自に関わるものだと判断しました」
「何か判りましたか」
「はい。『人格の核』で教えられました、貴女は有翼の種族の生まれです」
 言われて、彼の言っている意味に理解が追いついて、そうしてから眼を見開いた。――有翼の種族は限られる。現存して四種族。
「なら、」
「まだあります、急かずに聞いてください。人格の核は確かに有翼でした。姿形も貴女だった。ですが、核は眠っています」
「……眠って……」
「夢の守が言っていました、『核が起きてしまうのは避けたい』と。それに、核の翼はかなり特徴的でした、現存する種族のどれとも当てはまらない」
「どんな」
 クッションに預けていた背はとっくに離れていた。身を乗り出すようにした肩を押さえられる、それでやっと気付いて身を引く。自然と視線が落ちる中に声が。
「……白い羽毛に、風切羽だけが、……黒い、そんな翼を持つ種族はありません」
 何も言えなかった。わけがわからない。自分の生まれがどうでも良かった、なんでも良かった。有翼であることも、それが単に核の望んだ姿を見せていただけだとしても。
 なのに、胸の奥が苦しい。焦燥に似た何かがゆっくりと立ち上がっていく。
「核は眠っていましたが、その場にもう一人、紫銀の男が居ました。彼から伝えられたものがあります、これが二点目です。貴女は有翼だった、貴女はそうである事を誇りにしていたと」
「……なら、なんで、」
「恐らく記憶のことと関係しているのでしょう、貴女は紫旗に発見された時食事のそれも、睡眠を取ることも知らなかった。有翼の中でも切り落としたもの、自分がそうであると失念した場合に翼は消えます、今そうでないことは不思議ではありません」
「……でも、記憶が……」
「私が潜れたのは夢の守まででした。追い出されたに等しい、ですがあの言いようでは、今貴女の魂は欠けている事になる。夢の守は『奪われた』と言っていました。人間の魂を如何出来るのは、魔法では不可能です。ですが唯一それが可能な種族がある、天使族です」
「……知らない、天使族なんて会ったこと無い……」
 譫言のようだった、自分の耳にそう聞こえてもどうにもできなかった。伸びてきた手が頭を撫で、肩を撫でてくれる。見えていなかった視線が、掛布を強く握りしめた両手に気付いて、それで無理に力を抜く。頭を撫でる手は止まっていなかった。
「恐らくそれも『狩られた』のでしょう、貴女を責めているのではありません」
「なんで、」
「わかりません、ですが、……三つ目をお伝えします。夢の守が、貴女にと」
 療師の言葉がそこで途切れる。心構えなんて生半可なものでは通用しなかった。覚悟をするにも時間が足りなかった。だから俯いたまま、今度は意識して掛布を握る。療師の手は、それに気付いてか、離れていった。
「……これも、言葉のまま伝えます。『ツェツァルフィスィアはずっと、貴女が気付くのを待っている』と」
 息が止まった。眼をこれまでに無いほど見開いた。脳裏に、溜息する声が聞こえた。
 ――Rys, Res diyttf axi.



 結界の割れる音に続いて倒れ込む音が響いて思わず振り返った。見えたのは銀、その下敷きになった紫。
「違う、私は違う!!」
 叫んだ声は紫銀のものだった。我に返るまでの数瞬、その間の叫びだった。絨毯を蹴って駆け出す、隠形を解いて細い腕を掴んで引き剥がそうとして、少しも動かないのに瞠目した。伸びた白い両腕の先、両手が黄紫の首を掴んで。
「フェル、止めろ!」
「私は違う、私は『彼』じゃない、私は『ツェツァルフィスィア』ではない!!」
 言葉の半ばで強引に引いた片手が漸く握り絞めた首から浮き上がる。馬乗りになった身体に腕を回して引き剥がそうとする、それに抵抗はしないのにもう片方の手はまだ療師の首に爪を立てていた。
「何してる、止めろフェル!!」
「違う、私じゃない!! ツェツァルフィスィアは私じゃ――」
 常にはあり得ない程の怒号、叫びが、爪が療師の首から離れた瞬間に途切れる。一気に引き剥がして持ち上げた身体は抵抗せずに、腕で胴を捉えたまま声を荒げた。
「何してるんだよフェル!!」
 びくりと全身が揺れる、だが無言が返されて困惑が浮かぶ。追及は後ととにかく療師は無事かと眼を向けて、上体を起こしたその黄色が銀を見上げて瞠目しているのが見えた。
「――余計な事をする」
 引き剥がすために掴んだままの右腕が動いた、そう気付いた時には、言う声が聞こえていた。『紫銀』の声、だが淡々として抑揚の無い、静かで、冷たい。
「二度と『私の名』を聴かせるな。これを生かしたいのなら。『私』を呼び起こす毎にこれの時は削れる」
「なに、を、」
「まだ季節は来ない。故にこれの目覚めはまだ遠い。『フェルリナード』を消したいのであれば好きにしろ、それを望まぬなら、二度と『私の名』を聴かせるな」
 朗々と、だが淡々としたままに言い切った、そのあとに一秒も置かずに腕の中の痩身が崩れて慌てて両腕で抱き留めて絨毯に突いた膝に抱える。支えた肩を持ち上げて顔を上向かせれば瞳は閉じていた。
「おい、フェル、フェル!!」
「療師、ご無事ですか」
「っ、私は後回しで構いません、今は閣下を先に」
 寝台に、と言うそれには困惑したままでも身体は動いていた。寝台の上に痩躯を据える、すぐに療師がその目元に手をかざして何かの陣を描き、同時に口元に掌を翳す。首と手首に触れる両手、療師の顔には焦燥が浮かんでいた。
「紫旗方、魔導師の方はエヴェレの香をすぐに用意してください! 侍従方は離れて、騎士は全員離れて下さい!!」
 言う療師の手に胸を押されて、押される前に瞠目していた。投げ出された四肢、その先から徐々にまるで凍っているかのように白く変じて生気が抜けていく、眼に見て判ってしまって思わず一歩下がった。
「フェル、」
「クロウィル、今は離れて下さい。騎士には毒になる香を焚きます、貴方の命に関わる」
「何が」
「とにかく離れて下さい。ラシエナ、貴女もです。騎士称号を持つ人間はこの部屋から出なさい!」
 後ろから肩を引かれて、振り返ればレゼリスの硬い表情が見えた。それに半ば引きずられるように扉を潜る。閉じられてしまったその扉の中からは、まだ指示する声が微かに聞こえていた。
「……魔力の乖離です」
 言った声の方を見れば、立っていたのは祭祀長だった。侍女の三人に下がるように手を向けて、一歩も動かないレナに嘆息してから視線がこちらに向き直る。
「体内の魔力が何らかのきっかけで反発しあい、身体の破壊を伴いながら体内から抜け出ていきます。抗氣対立型乖離症、直ちに処置を施さねば死に至る急性の病です。そしてほぼ確実に、同時に魂抜けを起こす、初動を間違えれば自然治癒は望めない」
「何でそんな、」
「わかりません。療師には処置を終えた後聴取を行います。侍従長、第二部隊長、この事を陛下に報告を。内々になさい、大事には出来ません」
「……了解しました」
「何か出来ることは」
「騎士には手は出せません」
 食い下がるようなラシエナのそれには即座に返される。祭祀長の表情にも、焦りのようなものが見えた。
「体内の氣が体内で消し合い、それが肉を傷付け極度に氣そのものも減少する。氣同士の対立を停止し強制的に活性させ全ての魔力を再構築する、危険な施術が必要です。魔法回路を封じている騎士は余波で回路が開いて禁忌に触れかねない。護衛である紫旗はともかく、侍従たちは最低限を残して他は全員屋敷から離しなさい。余波がどこまで影響するかもわからないのです、結界は張っていらっしゃるがその範囲も広範になり得る。少しでも触れれば死に繋がる。それは閣下の望まれるところではない」
 一度目を伏せた色違いが、レゼリスを見やってその腕を掴む。半ば無理矢理隠形に巻き込むようにして二人の姿が消えて、それを見送っても所在無い紫旗と侍従の数人が残る。それを見やった祭祀長が一度手を叩いて、視線が集まったそこで口を開いた。
「紫旗は屋敷の周囲に配置を変えて下さい。侍従への指示は侍従長不在の間は一時的に私が持ちます、まずは療師の指示に従って施術の手助けになるように。清潔な布、湯と湯冷ましの用意をこの部屋に、特に湯は欠かさずに用意できるように常に備えをなさい、魂抜けが起こったなら実体の体温調節が利かない。絶対に寝室には立ち入らないよう。侍従の数名、今から書き付ける品の確保に魔法院に向かって下さい。命令書は私の名で出します、祭祀の第二位の命令ですから魔法院も動くでしょう、キレークト様に直接取り次ぎなさい」
「、……畏まりました」
「紫旗も、宜しいですね」
「……ああ、解った。神官たちは?」
「害が想定されるため神殿に戻します。私はここに残ります、療師との連絡役はこちらで設けましょう、元魔導師です、氣への対抗も取れますから。方々の連絡役と手に紫旗の魔導師を一人お借りしたい」
「了解した、手配する」
「有難うございます」
 祭祀長が言うのを聞きながら振り返って、同時に隠形に移れば途端に部下たちの困惑と不安の表情と鉢合わせた。鞘の鳴る硬い音。
「屋敷の表裏を固めろ。周辺には十と十一を置く。イース、スフェとジルファは戻り次第療師の方に向かわせる。十五式配置、隊長が戻るまでは何があっても崩すな、戻るまでは指揮は副隊長が務める。伝達に十一を使う、階層は五に落とせ」
「了解」
 魔導師たちは即座に動いていた、この場には居ない。残った騎士たちが応えて散っていくのを見送ってから、もう一度扉に目を向けた。
 声がしている。名を呼ぶ声が、くぐもって。魂抜けは誰にでも起こり得る。――戻って来れるかどうかは、判らない。




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