座卓の中でも庇から陽が差し込む日向に鋼がくるりと体躯を丸めて伏せて、そこに俯せるように幼子が緩やかな寝息を立てていた。ふふと蒼氷が笑う。
「日を浴びるは鳥の常故、やはりそうなるものだのう。既に翼の扱いも一等とか」
「ああ、ここに落ち着くまで精霊たちと遊んでいた。能く飛ぶ、まるで泳ぐようにな」
――子の背にある翼。鳥などよりと遥かに大きく風を掴むもの。ヒセルスに答えた漆黒は、カップを手にしながら微笑みを浮かべてそれを見やった。
「……良く眠っている。まるで赤子だな」
「さても『赤子』であった時に疎かった故、取り戻そうとしているのだろうの。随分と懐かれた様子と、レギュレが申しておりましたぞ」
「何故だかな。黒が佳いらしい、理由はわからんが」
「黒は究極に安定、中庸であり天秤の軸となるもの。その魂にも惹かれましょうな。……ああ、起こしてしまったか」
もぞり、と藍色を纏った姿が蠢くのが見えて、ヒセルスはふふと笑う。その声に改めて眼を向ければ、片翼が鋼の鼻面を叩いているのにも気を向けず、その鋼の体躯の上で思い切り全身を伸ばしている様子だった。風切羽が射し込む陽気を弾いて様々な色に煌めいて見えるのには苦笑した。
「全く、……天にも稀少の色だと言うに、あの一族には敵わん」
「苦言を呈すにも一億、二億年程は遅うなりますな。ほうれ、フェル、目が覚めたならこちらに来や」
わかりやすく向けられた声。音もなく欠伸をしていたらしい藍色に覆われた頭がそちらを見て、立ち上がろうとするのと翼が持ち上がるのとが同時。羽撃く音も静かにふわりと浮いた全身の衣は紗を靡かせながらも細身に作られて、それらを覆う藍色のローブは重厚なドレープに背の編み上げも美しく整えられている。そのまま風の音を纏って椅子に直接降り座ったその口元に、蒼氷は卓の上の杯の一つを差し出してやる。
「飲みや。喉が渇いたろう、気も空いたなら饅頭もあるぞ」
言えば拙い手付きで杯を受け取り、舐めるように少しずつ飲み始める。甘露だ、早朝の花弁に紡がれた露を集めたもの。この天界では、魂抜けてこうして神と対面した者のみに与えられる『食物』のひとつ。至極ゆっくりと杯を傾け終えた幼子は、次にと目の前に示された白い饅頭にはすぐに噛み付く。蒼氷はほらほらと言いつつそれを両手に持たせてやりながら笑った。
「まるで餌付けしているようだの、フェル。美味いか?」
がっついているわけではない、それでも所作は少し乱雑に見える。柔らかい生地に覆われていた柔らかいふわふわとした餡が溢れて指についてしまうのも、舌先で掬いあげて口に入れてしまう。饅頭は早々に一つを食べ終えて、フードの下の紫がこちらに向けられるのには、漆黒は少し笑って頷いてやった。
「好きなだけ食べろ、それで良い」
言えばすぐに手が皿に伸びて、積まれていたうちの一つを持ち上げる。今度は噛み付く前に立ち上がって、鋼のすぐそばに座り込み、不器用に半分に割っていた。顔を上げた鋼に半分を差し出して、鋼がそれを一口でさらってしまってからもう片方に口をつける。
これで少しは肉体も保たれるだろう、そう思う。魂抜けは下界での一ヶ月、こちらでの半月が限度だ、それ以上はいくら魂が健勝であっても肉体が保持されずに息絶えてしまう。神は本来食事を必要とはしないから、そういった事にはむしろ過敏になるきらいもある。一日水しか口にしなかったのも、明けてみればどうやら「空腹」か否かがわからないらしいとなって、ならば隙あらば、とあちこちで様々なものが用意されている。
『紫銀』は天界の至る所を縦横無尽に駆け、寝む時だけこの座卓に戻ってくる。寝台にと思っても、どうやらこの床に鋼を枕にして、が一番落ち着くらしい。レギュレとウィナだけは眠っているところを抱き上げて寝台に運べるが、あとの十一人は眠っているところに手を出そうとすると娘より先に鋼が牙を剥く。鋼を懐柔出来ているのは、月神と太陽神だけだ。それでも鋼に触れるのは拒否されないというだけで、娘に触れようものなら流血沙汰待った無しである。
「……さて、そろそろ仕事に戻るか」
「もう? 一時間とも休まれてはおらぬに、何か急務でも?」
「そろそろあちこちで季節が動く、今年は天文が難解でな、常の年とは様子が違う。差配してくれと要請があった」
「ふうむ……下界の今年は雪が遅うありましたな、その分いっときの量が多かったようにも思える。春が遅うく?」
「いや、少し早い」
言いながら立ち上がる。椅子を引いて戻してから、廊の方に目をやった。
「誰か寄越しておく。夜には収集を掛ける、その子の目付けには精霊を」
「あいわかり申した。妾もここにて待ちましょう」
言ったヒセルスがさて、と誰を呼ぼうかと視線を浮かせる前に、鋼のすぐそばの床に直接腰を下ろしていた翼の方が先に動いていた。椅子から立ち上がって背を見せたそこに、顔を向け、床に手をついて翼が上がる。
ほとんど音も立たないのに気付いたらしい漆黒が振り返るのと、その子が黒いローブのすぐ後ろに裸足を着いてローブの袖を握ったのは同時だった。どうした、と声を上げかけた漆黒が気付いて眉根を寄せる。すぐに手を伸ばして低い位置の頭を撫でる。
「……どうした、手伝ってくれるのか?」
応えはないが、撫でる手には甘えるように頭を押し付けてくる。ヒセルスを見ればやはり眉根を寄せた口元を袖で覆っていて、目が合えば苦い表情だった。
「……下界に帰すも苦労するやも分かりませぬ。やはり緑紅を喚ばうは如何に?」
「あれは既に限界だ、これ以上繋がりが強くなってしまえば時を待たずにこちらに来てしまう。それに今あれに知られるわけには、だろう、智の者」
「……虹の一派の管轄故に、妾には何とも。任せられるお心算は?」
「虹は非情に過ぎる。『子』同士気は合うやもしれんが、虹に染まれば尚の事下界に帰るにはならんだろう。……呼び集めておいてくれるかヒセルス。この子は私が見ているから」
「……わかり申した」
「ああ。おいで」
言って漆黒がローブの袖の中から子供の手を取り出し、握って引く。引かれるまま足を踏み出した背から翼が消え失せる。必要がないと判断したのだろう、歩くには邪魔にしかならないから。小さい子供には不釣り合いなほど大きな翼だ。見れば鋼も姿を消していた。影に入ったか、となれば鋼は既に気付いているのか。思いながら座卓から離れて北へと廊下を進んで行く。広い廊下だ、石を削って彫り込んだ模様を左右に見ながら、そこだけ一本道の廊下を進む。左右には幾つかの扉がレリーフの合間に埋まっている。ただ素直に付いてくる手を引きながら、歩調を合わせながら進んで行く合間にその手が揺れて、フードに隠された頭が視線の先に出てくる。手が離れて何かと思っているうちに、藍色のローブを翻して駆け寄って行ったのは廊下の終わりぎわ、一つの扉の目の前。両手を突いて見上げる、扉には開くも閉じるも、その手がかりになりそうなものはない。
「どうした?」
呼びかければフードの下からの視線がこちらを向く、だがすぐに扉へと向け直されて、その様子は何か焦燥しているようにも見えた。だからそこに足を向けて、同じように扉に手を触れた。
「……ここは今は空室だ。誰もいない」
「……とうさん、どこ?」
「お前が帰れば共にある。あの方は、もうこちらには戻れぬ身だ」
「帰る……」
「ああ。……おいで。お前が好きな歌を聴かせてやろう」
言いながら、柔い手を扉から引き剥がす。握って引けば抵抗はしなかった。そのまま廊下を進んでいく。突き当たりの扉はそれだけが木製で、背の高いそれを押せば両開きのそれは素直に口を開いて、中に見えたのは天井まで壁を覆い尽くす本棚と、それを背にした質素な机、その向かいに置かれた椅子が二つに、その片方には濃い灰色の後ろ姿。
「……アテルナ?」
思わず足を止めて呼びかける。手を繋いだ子が背中へと隠れるようにするのには好きにさせているうちに、ゆっくりと振り返った彼女がふんわりと笑みを浮かべた。
「……久しぶり、シャル」
「どうした、珍しいな」
「クシェスに頼まれてね、これを持ってきたの」
これ、と言いながら膝の上の何かを撫でる。なんだろうかとそちらに向かおうとして、途端にローブを引く感触に踏みとどまった。振り返れば、子は灰色を見つめながら身構えて、藍色の袖がローブの背を掴みながらも距離を取ろうと身を引いている。どうした、と声をかけるよりも早く灰色の声。
「大丈夫よ」
ふんわりと笑んだ声音で、ゆったりと歌うように言う。
「大丈夫よ、『歴史』が貴女を排斥する事はない。『時』が貴女を狂わせた、その償いに」
「アテルナ」
「事実、真実よ、シャル。『わたし』をこの子は憎んでいる、それも事実。『歴史』はただ記録するしかない、それでもこの子を追い詰める証左を作ってしまった。……この子だけじゃない、魂抜け出来なかった、神上がり出来なかった多くの紫銀たちを、『時』は排斥してきた。それを排して『歴史』には成り得ない」
「ならば尚更だ。何の為に来た『虹の神』。虹は地上には触れない盟約だ、それを破るのか」
「その子は『地』の者かしら?」
――拳を握る。袖の中でそうして、背に縋る子は片腕で庇うようにすれば、灰色は更に眼を細めて笑う。
「迎えるのであれば虹の子よ、シャル。虹であれば『柱』の必要性もない」
「来るも来ないも本人の決める事、何に所属するかも含めてだ。性急に過ぎるな虹の」
「彼の方が関わっているのなら尚のこと。企む者も静観する者も、貴女のように手を出したくとも出せない者も居ることは記録しているわ、だからよ、シャル。今はただその子にこれを届けたいの」
これ、と言いながら膝の上のものを持ち上げる。象嵌の施された木箱。鍵のようなものを横の穴に差し込んで、かちかちと音を立てながら螺子を巻いていく。それを机の上に置いて、灰色はゆっくりと巻き終えたそれから鍵を抜いて振り返った。ゆっくりと、灰色に別の色が混じる。
「――緑紅が眼を覚ました。楽譜を思い出して探しに行く」
「…………」
「青翠が楔となる。……螺子式響音機は漆黒の手に渡る。以後は、記述のまま」
灰色の髪は真紅と白が斑になって揺れ、流れるに従って緑や青が混じる。視線はとうに外れていて、灰色だった『虹』はそのまま扉へと向かう。子は漆黒を盾にするようにじりじりと位置を変えて、扉が閉じられる頃には藍色が腕の中にあって、抱きついてくるようなそれを片腕で抱いて撫でる。
「……安心しろ、あれはお前を害すことは無いさ。そうするしかなかったんだ。あれが『歴史』を作るでもない、因果はもっと深い。恨んでやるな」
背を叩いてやって、机の方へと押しやるように誘う。子は閉じた扉を見て安堵したのか、そのまま素直に着いて来てくれる。響音機と言っていたかと、その箱に手を触れて、どうやら蝶番に留められた蓋らしいと手で探った最後に持ち上げるように開いた瞬間、硬質な音が響いた。
硬い高い音が何度も続く。何かの曲か、思っているうちにしがみ付いてきていた腕から力が抜けてその箱に両手を添えて絡繰仕掛けを覆う硝子板を覗き込む。
「――水底の唄」
呟いた声は嗄れた老人の声だった。箱を抱えて床に座り込んだ子を措いて目をやれば、椅子の一つがいつのまにか距離を置いていて、そこには杖を肩に抱えた姿があった。漆黒が眉根を寄せる。
「……お前か。『歴史』を連れ出したのは」
「『漆黒』の曖昧な記憶に頼るよりもよほど容易い」
瞬間に数々の表紙が宙を舞った。青火が燃え上がって藍色のしゃがみこんだ姿を覆う。灰色――時空神の首と全身は、空間を割いた鋼の切っ先に纏わり付かれていた。黒の手によって刃が顕現するなり切り刻まれた本の欠片が音を立てながら落ちて行く。
「いい加減死ぬか、灰の」
「変わらず短慮よな、漆黒の。我を失して何になる」
「貴様の気紛れに付き合うのももう飽きた。父の代から、父祖の代からお前に振り回されて、そればかりだ」
「その因を作り出したのもまた漆黒の父祖。歪みは既に前代……いや、前代だったはずの『創世』から明らかだった」
「手をこまねいていたのはお前だろう」
「左様。我ら『時』の限界をも超えた歪み。だが一任せよと言うたのは『虹』だ、打開を目論むのは何も我ら色に囚われた者だけでもないのは周知であろうに」
「幾ら待ったと思っている。お前の、『時』や『虹』の戯言にも満たない言葉を信じて何代数えた」
「…………」
「『紫銀』の七十四人が無為に死んだ」
「……左様」
「『創世』の代に数えて五代のうちに、だ」
「左様。……我らとて殺す為に紫銀を降しているでもない」
「それは『柱』の管理を怠ったという懺悔か」
「……否。我らの手には、既に負えない。『柱』も『鍵』も、人の理に落ちてしまった。こうして魂上げても『鍵』の片鱗もその漆黒には宿っていない」
鈍い鉄の音が何重にも響く。擦れ合った切っ先は何も貫かずに互いを削り合っただけで、灰色の気配は背後。
「事実故。片翼を探れば、あるいは」
「人の子を天の理に巻き込むつもりはない」
「その子が天の子であることを否定せよと?」
「ああ」
「主が言うのか、それを」
「ああ」
「……理解しかねるぞ漆黒の。主のその彩色は天の為に在ろう」
「ああ。故にこの彩色を只人たる『紫銀』に与えてやる気も無い」
「その片翼は、」
老人の手にした杖が音を立てて皹割れる。ばら、と木片の落ちる音が連続して、合間に高い音の連なりが微かに聞こえる。羽毛に殺された音、合間に嗚咽。灰色の手の中に木片が巻き戻っていく。杖の形に戻ったそれを握り締めた時空神の眉根がきつく寄せられた。
「……認めんか」
「認めているさ、十分以上にな。この娘は『紫銀』だ、それ以外に何がある」
「良い加減に、」
「良い加減にすんのはそっちだ爺さん」
新しい声が割り込む。白いローブを揺らしながら、軽く手が振られるのと同時に宙を噛んだままの券が炎に巻かれて姿を消す。
「たっく子供居るところでやる問答じゃねえよ。クシェス、退がれ」
「……龍王」
灰色の視線がそこでようやく漆黒から外される。漆黒が同じように向けた視線の先に立っていたのは癖の強い真紅の髪を一つに束ねた一人で。彼はそのまま足を進めながらもう一度口を開いた。
「退がれ。……エシャル、お前も離れろ」
「……ジュセ」
「退がれよ。属性天地云々で争うんなら俺の管轄だ、お前たちじゃ堂々巡りにもなんねえだろ」
「ジュセ、お前」
「どうする云々の前に子供泣かしてる輩に任せる奴があるかって言ってんだ。コウ、悪いな、フェル大丈夫か?」
言いながら二人の間に割って入る。最中に一瞥を向けた灰色はすぐに目を伏せて姿を掻き消して、口を開こうとした漆黒には真紅がただ手を向けるだけで制止する。それでも姿を消さないのを見て、溜息とともに鋼へと向ける足を止める。
「離れろエシャル。地の子、『紫銀』だと認めたんならお前が直接触れる存在じゃない」
「……だが、」
「少なくとも子供泣かす奴は論外だ。何の為の魂抜けだと思ってる」
言えば息を詰める音、次いで気配が消えるのがわかって、ジュセはもう一度長く深く溜息を吐き出した。未だに青火をちらつかせている鋼に手を伸ばす。
――刹那に、青火を浮かばせていた羽毛の塊の中から牙を剥いた顎が肉薄するのが見えた。思わず身体を庇うように持ち上げた左腕に牙の突き立つ感触、灼熱と痛み。白いローブの腕に赤が滲むのにはただ歯を食いしばって耐えて、尚も牙を剥いて鼻に筋を立てて低く怒號寸前の息を漏らしている獣姿のそれには、小さく息を吐いて口を開いた。
「……よくやったな、よく守ってくれた。過保護が行きすぎてすまない、あいつらもフェルを守りたいのはそうなんだ」
許さない、とでも言いたいのか、牙を緩める気配もないどころかさらに締め付けるように力が込められるのが判る。これは神でなかったら既に食われてるな、とは痛みに引き攣る顔の中で笑した。
「……悪いな、あいつらの価値観、人間とズレてるんだ。お前の護るっていうのは、フェルに怖い思いさせないように、クロウィルとかラシエナかと一緒に怪我しないように、だろ?」
言えば顎の力が緩む。言葉は通じているかと安堵して、右手を伸ばして鋼の頭を撫でた。
「ありがとな。『紫銀』には必要な役なんだ、そういうの。神の護るって、魂さえ無事なら何でも良いの言い換えだからさ。人間の普通の幸せとか安心とか、理解できないんだ、そう生きてないから。……フェル、触らせてもらって良いか。俺こいつの先輩なんだ、紫銀の。だから頼む。こいつ帰らせてやんないと、ずっと辛いまんまだろ。俺の記憶見ても良い、血から解るか、それで見てくれ」
嵌まれたままの腕が、ゆっくりと解放される。何重にも絡めて重ねられていた翼がゆっくりと解かれていく。低く唸る声はそのまま、だが立ち上がった鋼は崩れ落ちた藍色を光に晒してくれて、硬い床に倒れ臥すようにして両手を耳に押し当てたまま押さえ込むように嗚咽を漏らしていた肩に右手を当てた。握るでもない、ただ触れるだけ。左腕には虚空から取り出した白い布を固く巻き付けて、血の赤が見えないようにしてから、鋼の支えを失ってなのか床に髪を散らして引き攣れたかのように身体を小さく丸めているそれに、手を肩に触れたままで左手でゆっくりとフードの上から頭を撫でる。
「よーしフェル、よく頑張った。怖かったな、もう大丈夫だぞ」
抱きかかえていたものが転がり落ちたのか、裏返しになって音の絶えた箱はすぐに元通りに子供のすぐ近くに据えて蓋を開く。螺子式の響音機、オルゴール。
「お前の『父さん』の歌だ、分かるな? 『水底の唄』だ、お前の三代前の紫銀も父さんのこの唄で眠った」
歌詞ももう伝わっていない古い唄。子守唄。ゆったりとした音の遷移は時折途切れて始めに戻る。両耳に押し付けられた手をゆっくりと引き剥がしてオルゴールをその耳元に寄せてやれば、僅かに間を置いて藍色に覆われた身体から力が抜けて行く。僅かに上向いた頭、唇が戦慄いた。
「――と、さん、居な、と、眠れ、」
「ああ、だから戻れ。『お前の父さんはあの時からずっと歌ってる』」
あの時。手を引けば簡単に傾いだ耳元に囁いた時から。だからと、声を途切らせることなく降らせ続ける。
「ゆっくりでいい、深く、眠っていい。父さんの声の方に行って良い。今はそれで良い」
「父さん……」
呟いた頭を撫で、背を撫でる。暫くして暗い色をした瞳が閉じられて、いつの間にか威嚇の呻き声を抑えて消し去って居た鋼が一度右手を甘噛みしてから子供の影に隠れてしまう。
「……頑張ったな、フェル。一人でよく頑張った。よく耐えた。……お節介かもしれないけど、俺の紫銀だった頃の記憶、渡しておく。これなら、同じ『紫銀』だ、きっと春までなら保つ」
耳を抑えていた手に小さな魔石を握らせる。離さないように握り込ませて、それからずっと、頭を撫で続けて。
不意に子供が息を零すまでに、随分とかかった。
「コウ、」
譫言のような呼び掛け。フードから垣間見得た表情は穏やかで、僅かに微笑んでいるようだった。
「――く、ろ」
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