外の空気を吸おうと思って、五人の見張りをロイに任せて外に出る。藍色の空を見上げて、手を組んで伸びをした。不意に視界に入ったのは空に浮かぶ大きな船。
 今日はごくごく細い、上弦の三日月。――月は悪しきものの象徴。月の光を浴びるとどうなると言うわけでもないのに、この世界の人々は月を見上げようとはしない。夜道を照らすその光は、決して感謝されるものではないからだ。
 その月光に浮かび上がる白い姿。彼女は樹にもたれかかったまま、呆れの混じった苦笑を浮かべた。
「フェル、やり過ぎ」
 言われて、フェルは少しだけ眉根を寄せた。さすがに無理難題を突き付け過ぎだと言いたいのだろうが、それに対して彼女は肩をすくめて言い返した。
「だって仕方ないじゃないですか、頭来たんですもん。むしろあれだけで済んだ事を褒めてほしいくらいです、本人達の為にもなりますし。……まああれだけ大量の単語を一夜で覚えられたらそれこそ天賦の才ですけどね、単なる暗記じゃ覚えられませんし」
「別に援護しなくていいよ、事実は事実だし」
 フィレンスは苦笑したまま言う。フェルはその彼女を見て、呆れと共に呟いた。
「頑固……」
「知ってるでしょ?」
「そりゃ知ってますけど。……大体、その事実だって『真実』じゃないくせに……」
 フィレンスは何も言わず、視線を外して空を見上げた。明らかに言葉に詰まった彼女に歩み寄りながら、フェルは自棄気味に笑って口を開いた。
「私はあなたに何があったか知りませんけどね、あなたが馬鹿みたいに思慮深いって事は知ってます。それ以上に慎重である事も。それなのにさっきみたいな適当な態度で通してるってことは絶対何か隠してるってことですよね。所属者にではなく、私に」
「……適当じゃないよ」
「適当でした。だったら何でわざわざ反感買うような発言するんですか。あなたが明言しない限り私は納得しませんからね」
「……フェルのが頑固じゃないのさ……」
「それこそ知ってるはずでしょう」
 フィレンスは白い手袋で覆われた手で金の髪を乱暴にかきあげる。フェルは更に目を細め、腕を組んだ。
「しかも男口調で……」
「仕方ないでしょ……もともと男に囲まれて育って、騎士として振る舞ってると自然そうなるんだから」
「じゃあ『騎士として振る舞っていないフィレンス』さん、これからどうする気なんです? まさかずっと協会所属の人達と不仲でいる気ですか?」
 前にクロウィルから聞いた。フィレンスは女騎士である事、そしてそれ以上に禁忌破りである事から周囲から避けられ孤立していると。そしてフィレンス本人に、それをどうにかしようという意志が感じられない事も。
 フィレンスは更に言葉に詰まった様子で、頭を押さえたまま俯いた。墓穴掘った、という暗い呟きは無視して、フェルは何も言わずに彼女の返答を待つ。
 しばらく風の音だけが響くのを聞きながら、フィレンスはゆっくりと選んだ言葉を口にした。
「……どうにかしたいとは思ってるよ。でもどうにかなる事でもない」
「……罪悪感ですか、禁忌破りの」
「まさか」
 フェルが問えば即答が帰ってくる。段々と苛つきを隠せなくなってきたフェルは頭を抱えて唇を真横に引き絞る。だが沈黙の間に抑えきれなかったのか、とうとう刺々しく声を荒げた。
「あーもう! 強情ですね全く! そんなに認めたくありませんか!」
「認めたくないよ、自分がこんなに不器用だとは知らなかったし」
「認めて下さい。その方がすっきりしますから、お互いに」
 フィレンスは目を合わせようとしない。再び沈黙が流れて、フェルは無理矢理フィレンスの視線の先に立って目を合わせた。
「フィレンス」
「……分かったよ」
 フィレンスが不貞腐れたように言う。そして開き直った調子で言葉を連ねた。
「どうすれば良いのか全く分かりません。こんな状況初めてだから」
「侮られてるんだったら見返せば良いじゃないですか」
「そういう問題なのかな……」
「きっと簡単な事で解決すると思いますよ? 大体、私が正式に所属に……黒服になればきっとフィレンスと二人で行動するようになるんでしょうし、そうすると嫌が応にも色々な事に巻き込まれるんでしょうし。というか巻き込みますよ」
「うっわ……」
 フェルが言った途端、フィレンスは途轍もなく苦い表情を浮かべた。それを見たフェルがむっとしたように口を開く。
「……何ですかその反応……」
「いや……うん、笑って流せる心の余裕が持てない」
 更にフェルが眉根を寄せるのと同時に、フィレンスは溜め息をつく。そしてまっすぐ、フェルを見た。
「なんとか、する。最近ここもきな臭いしね」
 言葉の最中、色違いの眼は協会の主棟を見上げる。溜め息をついたのは、今度はフェルだった。
「……またですか?」
「またです。協会の中に不穏な奴らが数人。護衛つけといたけど気を付けてね」
 手袋に覆われた手が銀の頭を撫でる。フェルは肩を落とした。
「そういうのを事前に防ぐために紫旗師団っているんじゃないんですか……?」
「そのはずなんだけどねー。ごめんね、第二部隊って人数少なくって、そのうえ協会と掛け持ちしてる奴多いから。私も含めてだけどね」
 フィレンスが申し訳なさそうに笑う。フェルも仕方がないと息をついた。
 紫旗師団、あるいは護衛師団。国王軍の中でも特別な位置付けにあり、その名の通り国王や国外からの賓客の警護、護衛を任務とする特別騎士・魔導師団だ。フィレンスは弱冠十九でその護衛師団の第二部隊を率いる隊長である。そしてその第二部隊の役目は、この国において国王と並んで尊いとされる『紫銀』の、その護衛。今は、それも隠しているが。
 蒼樹に知られた紫銀の護衛の隊長は、彼女でなくクロウィルだ。蒼樹の所属者は、誰が言うでもなくそう信じている。クロウィルだけはこの蒼樹に入ったその当時から、紫旗の人員である事が知られていたから。
「でも協会入ってまで護衛いるのかな?」
 言いながら紫銀の護衛隊長は笑う。フェルは手を組んで、視線をあらぬ方へと投げた。
「どうでしょうねー……団長曰く、陛下が心配して下さっているみたいなので。迷惑はかけたくありませんし、護衛師団が動いていた方が国民にも安心でしょう?」
「まあ、そうだけどね」
 キレナシシャスが大国になり得た理由。その一つは豊かな国土と豊富な知識。そして次に重要視されるのが『紫銀』の存在だ。
 神に連なる者を擁した国、国王。その風評は一国の安定を左右するのに充分すぎる力を持ち、キレナシシャスの場合には良い方向へと働いた。
 銀の髪と紫の瞳をもつ人間。神の愛し子と呼ばれる由縁は、太古に遺された創世記に記された文言によるものだ。しかし紫銀が何故神の愛し子と呼ばれるに至ったのか、その力がどのようなものなのか……言ってしまえば、他の人間とどのように違うのかすら分かっていない。それでも紫銀に対する無条件の崇拝は、神に対する絶対の信頼に似通ったものがある。
 たとえ隔たれていようと、信仰と名付ける事すら間に合わないほど、この世界に生きる人々は神々に絶対の信頼と忠誠を誓い、生きてきた。
「元々キレナシシャスは私以前に多くの紫銀を擁してきましたし……私の記憶があるときから、既に安泰って言われてましたけどね」
「そういえばそうだったね。確か……十一年前の冬か、フェルが見つかったの」
 フェルは答えず、ただ眼を落として掌でこめかみを押さえる。計ったように唐突に風が吹き抜け、銀の髪が月光を弾いて冷たく煌めいた。
 十一年前。厳冬の最中に、国境付近の森の中を彷徨っている少女が護衛師団――紫旗師団により保護された。雪の中に埋もれそうな白銀と、対照的な紫。史上で初めて、孤児の『紫銀』が発見された瞬間だった。
 あやふやで、点のようにしか残っていない記憶。逆にはっきりし過ぎているほどはっきりと覚えているのは名前だけ。実の親を探す事もないまま、『紫銀』はキレナシシャスに擁される事になった。
「……一番最初の記憶が共通語の勉強中ってどうですか」
 その紫銀は、視線を泳がせながら呟く。フィレンスは腰に手を当て、軽く頭を傾けて言った。
「いや、最初フェルが何言ってるのか分からなくってさ。団長に聞いたら『古代語だ』って普通に返されて、魔法使いのみんな呆然としてたよ?」
「……あははー」
 フェルは棒読みの笑いを返すだけにとどめる。眼は完全に泳いでいた。
 魔法使いの生涯の目標となるのは、古代語の完全な理解と把握だ。古代語にはその文字の一つ、発音の一つに力が込められている。完全に扱えればそれこそ最強の称号を得るに足るだろう。だがフェルは、逆にそれしか話す事ができなかった。魔法が使えたわけでもない、ただそれを自分の言葉として扱っていただけ。
「不可抗力というか、勝手に出来てたんだから出来るというか……たぶん、生まれた瞬間から一番近くにあったのが古代語だったんでしょうね。だから、一応古代語で育ったってことにしてますけど」
 何も覚えていないのだ。キレナシシャスに来て少し経った頃からの記憶からしか、フェルは持っていない。それ以前は、今は完全に思い出せもしない。物事の判別が出来たことは覚えている、だがそれを教えてくれた人も、場所も、欠片も思い出せないまま。そもそも何故記憶の一切が無い子供が、古代語などという難解を極めるものを言語として扱えたのか。それすらも分からない。
 しかし『紫銀』が孤児だと知っている人がまず少なく、記憶がないという事を知っているのが更に少ない現状、それを他人に言うのは憚れた。当時の護衛師団の団長の計らいだったとも聞いているし、その真意は分からないがそうした方が良いのだろうと考えての事だ。
 嘘をつくのも役目か、と思う。息をついて空を見上げれば、毎夜ごとに姿を変える月が、薄い雲に覆われていた。細い、糸のような銀。
「……明日は新月だね。それから次第に満ちていって、満月か」
「綺麗だと思うんですけどね、月。別に何があるわけでもないのに……邪の象徴、だなんて、誰が言ったのやら」
「最近そういう主張も強くなってきてるよね。大昔は月光を浴びただけで捕縛されるような国もあったみたいだけど、最近は特に規制も何もないし」
 魔法についての研究が進んだから、というのもあるだろう。魔法の力はまだ分かっていない事の方が多い。今は魔法力学者の立てた仮説に頼り、なんとかやりくりしているだけに過ぎない。
 言ったフィレンスが不意に視線を巡らせ、そのまま樹の幹から背を離す。同時に白い姿が空気に解けるように消えて、間を置かずに書庫塔の扉が開く。ロイが顔を覗かせた。
「フェル、どうしたんだ?」
 戻ってこないのを不思議に思ったのだろう。言って周囲を見渡すロイに、フェルは苦笑を見せた。
「いえ、少し考え事を。どうですか、皆さん」
「すげえ唸ってる。魔法使いがあんなに悩んでるの見るの初めてだよ」
「そうでしょうねぇ……」
 その扉に足を向ける。横目で背後に視線を巡らせれば暖かい風が頬を掠め、仄かに笑みを浮かべてロイに向き直った。
「魔法使いって完璧主義なんですよね。だから先に進まないんです、騎士が古代語覚えようとした方がきっと早いですよ」
「そうか? 俺記憶力全然ないからな……」
「慣れちゃえば一緒ですよ」
 言いながら扉をくぐり、中へと入る。背後の慣れた気配も消え去った。



「ええと……こっちがこうで、グラスィアは、七千? うっわ結構消費するなー、七つ並列発動するの無理かも……。で、スフィラが八倍乗になってるからこっちの定理の定数は二、と。変数の領域が五から二十三。円循環の形にして定理の方程式と定義と色々をかけ合わせて整頓して並べ立てて、七つを結合させて同時発動連鎖効果に設定して動作確認はしなくて良いからこのままで、はい完成」
 少女の声が夜闇に響く。そこらへんから拾ってきたのだろう太い木の棒で地面に何か数式を書きつつ、空中に浮かんだ構築式に書き込みをしていく。書き込まれたそれは地面に吸い込まれるように、土の上に燐光の紋様を描き出す。呆れたような声が続いた。
「世の魔法使いは大変だねー、これイチから全部やってるなんて信じらんない。しかも計算とか全部暗算だし。私暗算できないんだよなー。とまあそれは措いてといて、こっちの七つのは出来たからそれを囲む大形成場を、……うわー古代語だよ。しかもヴィラツィエルのオルファエル律……クセル呼べば良かったか。本職だしね、あの人。……あ、でも忘れてるって可能性もあるもんなー……あいつの記憶って信用ならないし。なんたってシルヴィ命だもんなー、全部が全部それに変換されててルーナもびっくりな思考回路になっちゃってるし。あーあーどんどん名が廃れていくよ。影響出るのは後輩なのに、とことん利己主義っていうか自己中心的っていうか。えーと、ジェリアが五十八? そんなことないない、四十八に修正しーのついでにノーラの破壊の定理を突っ込みーの、と。はーやれやれ。なんで本職じゃない私がこれをやんなきゃいけないんだか。私の仕事は書き物なのに。クセルの奴、後で殴ろうか……よし決めた。絶対殴る。殴るまでいかなくとも平手喰らわす」
 独り言にしては堂々と、心のままにつらつらと喋り、口を動かし続ける。話題の当人がもしここにいたのなら逆に殴られていたのではなかろうか。誰もいない夜空の下、独り言でここまで言えるのはむしろ天性かもしれない。
「カミサマには怒られるし、クセルには使い走りに使われるしユーディスは意地悪いしジルガランは空気だしリィシャはやたらめったら赤いしギキは声甲高いしリフェスは天然で計算だし。やっぱりこれ拾ってから私の人生狂ったなー」
 これ、と言いながらずっと腕に抱えていた巨大な本をちらりと見やる。人生が狂ったなどと少女が言う言葉ではないが、彼女は自分の言葉に辟易したように大きく溜め息をつき、しかし作業を中断しようとはしなかった。
「ああそうだ、早いうち、フェルに挨拶にいかないと。でも協会に入ったばっかりだし、ヴァルディアも敵に回すには早いかな……うん、やっぱり他の人に行ってもらった方が良いかな。……ああ、でも、もしかして協会のが先に動く、のかな?」
 言って、本を開く。凄まじい勢いでページをめくり、その途中で手が止まった。隙間なく書き連ねられた文字列を追う短い沈黙の後、うん、と少女は頷き、作業を再開する。
「やっぱり協会が先かー……てなると、見逃したら最後私の出番ってもっとずっと後? クセルが動き始めてからじゃないと動けないし、クセル以外とはまだ接触しない予定……エシャルはまた別か。ユーディスに絡まれたら厄介だろうしね。出番……何年後だよ全く。あーお腹空いたし苛ついてきた。やっぱり殴りに行こうかな」
 予想以上に重い音を立てて本を閉じる。地面に這う構築陣を消し去り、少女は思いっきり伸びをした。空を仰いだ、その拍子に、深く被っていたフードがぱさりと落ちる。
 漆黒の髪が揺れ、漆黒の瞳が空を見上げる。ほんの少しの間見蕩れるように瞳が細められ、そして少女は変わらない口調で言った。
「……ん、決めた。クセル殴って自分のとこ戻って、好機を待つ。もとより長期戦は承知の上だしね」
 言ったその姿は、何の脈絡もなく唐突に消え去った。




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