高い空の上で鷹が鳴いている。
 否、泣いているのか。高きを目指し、昇り過ぎたために降りる事すらままならない、哀れな鳥。いつかその翼が折れたとして、救い出せる者がいるのだろうか。
「……さながら、紫銀だな」
 冷たい色の髪が風に吹き散らされる。華奢な手を掲げ、太陽の眩しすぎる光を遮る。
「崇高になり過ぎた存在、神の眷属即ち紫銀、か……真実の友すら存在しないだろうに、尚この世界に留まろうとするのだから質が悪い。世界が救ってくれるわけでもないのに、愚かな事だ」
 まるで自分の事のように、男は嫌悪も露にそう言い切る。太陽の陽を遮るその掌を、握り締めた。
「全く、眩しい……いっそ総てが闇に呑まれて終えば済む事を……」
 言う、その姿は黒衣に包まれている。



 翌日、何故かフェルはヴァルディアの執務室に居座っていた。巨大な本を膝に抱えて、その内容について長官と言葉を交わしていく。
「……そうすると、時空に歪みが出来る。その歪みと、また別の歪みをもつ空間とを繋げ合わせる事で時空間の移動が可能になる、という結論に至るわけだが」
 ヴァルディアが書類に署名をしながら言う。それはいわゆる時空の転移、時間軸を移動する魔法の理論だ。但し、まだ未完、だが。
「でもそれって、かなりの実力持つ魔法使いが最低でも三十人必要ってことになりますよね……しかもこの構築式、無理あり過ぎませんか? 初期グラスィアの値が三億って、規格外にも程がありますよ?」
「確かにな。だからこの魔法は常人たちには発動不可能と言われている。大体、他人に理解させようという意志の感じられないそれを読んだ所で出来るわけがないからな。私も試した事はあるが、未完の状態でやってもたかが知れている」
「まあそうでしょうね……じゃあ、こっちの禁忌魔法はどうでした?」
「どれの事だ?」
「炎の上位精霊召喚を伴う煉獄の生成魔法です。さっきのと同じ人の考えた奴ですけど」
「ああ、それか……正直、人間の使う魔法ではないと思うぞ。お前ならかろうじて一発出来るか出来ないか……どちらにせよ使ったら最後使い物にはならなくなるだろうな。初期グラスィアが八千、スフィラが八十五、最終的な威力が数値上では千五百の七十五乗倍だ。使いたいのなら頭老院に許可を貰ってからにしろ」
「分かりました」
 一区切りがついて、フェルは再び本に没頭していく。ヴァルディアはその様子を見て息をついた。
 フェルは天才に類する魔法使いだろう、紛れもなく。紫銀がどうのではない、たとえフェルが紫銀でなかったとしても、その力と知識で名を馳せる事は容易だったはずだ。ヴァルディアから見ればまだまだ甘い部分もあるが、時間をかければ、それこそ常人の域など軽く超えてしまうに違いない。
 魔法だけは訓練でどうにかなるものではないのだ。生まれ持った能力を磨く努力は必要だが、天賦のそれを超える事はできない。たとえ頂点を目指したとしても、人間が人間であるが故の壁に到達するよりも早く、自分が自分であるが故に壁に行く手を遮られる方が早い。それがその個人の限界だ。
 今はまだ、限界を感じてはいない。その『限界』も、一体どこになるのかも分からない程の潜在能力を持つ紫銀。
「……それで、何でお前はここにいるんだ?」
 気が付いた時には既に勝手に本棚から魔法関連の物を取り出して読んでいたからと、別に邪魔でもなかったので放置していたのだが、いつの間にか会話に取り込まれていたのでとりあえず聞いてみるヴァルディアだった。それに対して、フェルは悪びれもせずに口を開く。
「フィレンスから、暇なら長官が逃げないように見張っておけって言われたので。書庫塔の魔法関連の本はほとんど読んじゃいましたし、長官が良さげな本持ってると嬉しいなと思って来たら案の定で、居座らせてもらってます」
 フェルがそう言うのを聞いて、ヴァルディアは自身の執務室を見渡す。確かに魔法関連の本ばかりが大量に置いてあるが、そのうちの数冊はごく短時間で読破されていた。すぐにここにも読む物がなくなるだろうなと思ううち、そのフェルが視線を上げ、長官を見た。
「あ、それでなんですけど。黒服の認定っていつになりますか?」
「今日中にやる羽目になるだろうな……」
 呆れたように言ったのは、フェルが訓練の程度から逸脱しているからだ。周囲の人間の知識や能力を吸収し、自分のものとして変換する速度には目を見張るものがある。昨日の拝樹試験でその様子は目の前で見て分かっていた、だから訓練に行かない事にもヴァルディアは何も言わない。ここは実力主義、訓練においてもその範疇から脱した者が先を行く。
「何かあったりするんですか、特別な事」
「特に変わった事は何もしない。翌日からはフィレンスと二人で仕事に入る、それだけだ」
「そうですか……分かりました。仕事って主に『異種』の討伐ですよね」
「主と言うより、全てと言った方が良いな。例外は少ない」
 ヴァルディアはそう言いつつ、視界の端を横切る何かに気付いて視線を上げた。燐光の尾を引くそれは空中を舞い、気付いたフェルが同じようにそれを見上げる。そして口を開いた。
「フィオーネ、また抜け出して……今度はどこの本から文字盗んで来たんですか?」
 フェルが手を伸ばすと、その指先に燐光がすり寄ってくる。次の瞬間その光は小さく弾け、同時に現れたのは、昆虫の様な煌めく羽を背に負うごくごく小さな少女の姿。精霊の一種、文字の精霊は、フェルの掌に小さく座り、両腕に抱えたそれをフェルに見せる。古代語の一文字だ。
「……だから文字盗んで来ちゃ駄目ですって……何回目ですか、フィオーネ」
「……使い魔か?」
 ヴァルディアが机に頬杖をついて問う。フェルはその精霊の腕に抱えた小さな文字を指先でつまみ上げて、天井で煌めく灯りにかざしながら答えた。
「使い魔の契約はしてないんですけど、好意でついてくれてるんです。文字の精霊の一人ですね、五人姉妹で、この子……フィオーネは三番目」
 名を呼ばれたのが嬉しいのか、精霊はフェルの周りをくるくると円を描いて飛び、そしてその肩に腰掛けて楽しげな様子でフェルの手にする本を覗き込んだ。フェルはそれをつつき、言う。
「もう盗んで来ちゃ駄目ですよ、後で私の字あげますから」
「文字の精霊は、本に宿って風化を抑えると聞いていたのだけれど」
 唐突に新しい声が聞こえて、フェルは視線を上げる。執務室に入って来たのはヴァルディアの秘書、兼暴走抑制係のクラリスだった。
 彼女はフェルの肩に乗っている精霊を覗き込み、ついでフェルに視線を向けた。
「懐かれているのね、フェル」
「何でか知らないんですけど、異様に好かれてるんですよねー。書庫塔に文字の精霊はいっぱいいたんですけど、その中でも、力の強い方なんでしょうね、媒体の本から離れていられるっていう事は。それでも文字盗んでくるのは何とかして欲しい……」
 後で戻すんだったら盗って来なければ良いのに、と呟くフェルに、クラリスはくすりと笑ってみせる。ヴァルディアは呆れたような顔をしていた。
 紫銀の特性だろう、彼等は精霊に好かれやすい。精霊は神の眷属、だからこそ紫銀は特別視される――『神の愛し子』と。
「……そういえばお前、前に王宮に行った時に聞いたが、禁忌魔法の中でも召喚魔法は全て許可を得ているらしいな」
「……あははー」
「笑ってどうする」
「もう笑うしかないと言うか。頭老院説得するのかなり大変だったんですよ、闇王の召喚魔法とか、特に」
「…………」
 ヴァルディアとクラリスは無言で視線を交わす。ついでクラリスは眼鏡を押し上げ、ヴァルディアは溜め息を吐き出した。
 闇王、つまりは十二の氣の一つである闇の氣を統べる神、龍神ジュパリネフェーサ。
 魔法はこの世界に満ちる十二の氣を用いて構築、発動する。魔法使いは自身の体内に蓄積された氣を、魔法発動に適切な形として『魔力』に変換させ、魔法の力を行使する。
 その氣の中でも、聖と邪に次いで強力だとされる闇、その王。召喚するだけでも充分死にそうになる事請け合いの『禁忌』魔法だ、が。
「……その様子だと、龍神召喚は既に何回もやってるみたいだな」
 フェルは明後日の方向を見やった。クラリスが咳払いをして、彼女は渋々口を開く。
「色々教えてもらったりしてるんです、魔法の事とか、紫銀の事とか……」
「さすが紫銀だな、神にさえも好かれやすい」
「でも架空神は意地悪ですよ……」
 フェルは項垂れながら言うが、そういった面を見せるのも相手が紫銀だからなのだろう。フェルは息をついて膝に抱えていた本を閉じ、腕に抱えて立ち上がった。
「実はこれから蒼氷神と会いたいなー、なんて思っていたりして」
「他人を禁忌に巻き込むような行いは協会の中ではするなよ」
「一人でやりますから大丈夫ですー」
 言って本を棚に戻し、フェルは執務室を出る。クラリスがいるならヴァルディアは仕事から逃げるような事はしないだろう。最近は新人が入って来たばかりだから真面目な仕事ぶりを発揮しているようだが、それもいつまで続くのやら、と白服たちが嘆いているのを端で聞いていたので、多少心配なフェルである。仕事が逃げている所を見た事はないが、話は十分すぎるくらいに聞いている。その上本人が否定しないから。
 そう考えながらも、読書で強張った腕や肩を回しつつ、フェルはすぐ傍らを文字を抱えて浮遊するフィオーネを見た。
「戻っておいた方が良いですよ、これから大きな魔法使いますから」
 フィオーネは首を傾げ、しかし大きく頷くとどこかへと飛んで行く。文字を戻しに行くのだろうと思って視線を前に戻すと、突然白い服に包まれた腕が迫って来た。
「え、っ!?」
 唐突なそれに声を上げると同時に身体に白い腕が回される。一瞬の浮遊感と、そして垣間見えた青い髪にフェルは目を見開いた。聞こえたのは予想通りの声。
「捕獲、っと。あーやれやれ」
「っ、クロウィル!? 何ですか!?」
 フェルを肩に抱え上げ、すたすたとどこかに向かってか歩き出した彼にフェルは慌てて声を上げる。変に暴れて落ちるのも怖くて抵抗もできないフェルに、クロウィルは視線を巡らせて、そして翠の瞳で彼女を見上げた。
「魔力ってそう簡単に回復しないんだろ? でかい魔法使ったら危ないだろ、黒服認定控えてるのに」
「……一般にいる普通の魔法使いと一緒にしないで下さい、体力はありませんけど黒服の皆さん並みには魔力は有り余ってますし回復は早い方です」
「左様で。でも黙って見てると俺がフィレンスに殺されかねないから、あいつ説得する策を見つけてからやってくれ」
 言うクロウィルのそれに、揺られるフェルは言葉に詰まる。思い至る記憶があり過ぎるという現実から目をそらしつつ、ふ、と笑った。
「フィレンスさん何やってるんですか……」
「フィレンスさん怒ると怖いからなー……むしろ恐ろしい域だぞ、あれは」
 そしてフェルとはまた違う意味で殺されかけた事のあり過ぎるクロウィルも、言いながら視線を泳がせる。そうしながらも言葉は途切れない。
「自重してくれよ、フェル」
「私以上に自重していない人が何言ってるんですか。……協会入った時点でもう自重どころの話じゃなくなってるはずなんですけどね」
 言いながら、クロウィルのその肩の上で器用に頬杖をつくフェル。そして眼を細めて、言った。
「……で、周囲の眼が痛いので降ろしてくれませんかクロウィル」
 すれ違う所属者達が何事かという眼でこちらを見ているのを、それとなく言ってみたのだが、しかしそれでもクロウィルはそれに頓着する事無く口を開く。
「降ろしたら逃げるだろ?」
「愚問を。それ以外に何があると?」
「じゃ、嫌だ」
 沈黙。フェルは溜め息をつくと、おもむろに腕を伸ばす。
 振り落とされかけた肘鉄は、寸前でクロウィルの手に阻まれた。小さな舌打ち。
「放して下さいって言ってるんです、分かります? その耳は果たすべき機能を果たしてますか?」
「果たしてるからこうやって返事してるんだろ? ……誰かが召喚魔法を使う、その度に近くにいる俺とかフィレンスとか、もう回数も回数だし顔と名前覚えられてるんだよな。嬉しいんだか悲しいんだか何なんだか」
「良かったじゃないですか、龍神様と顔見知りなんて。大綱は一体どこに消え去ったんでしょうねぇ」
 主に主犯であるフェルは他人事のように言う。それについで響いたのは、クロウィルとは別の声。
「聞いた所によると、召喚魔法で龍神を喚び出せる程の力の持ち主はごく限られているためにそれに関する大綱は定められていない、あるいは抜け道とされているようだな、現在の神学者の見解では」
 クロウィルの脚が止まる。フェルが上体をねじらせて進行方向の方を見やると、そこに立っていたのは見知らぬ黒服。藍色の髪に隠れがちの瞳も同色、傍目にも顔色が良いとは言えない、だが整った出で立ちの男性だ。
 その彼を見てクロウィルが軽い驚きの表情を浮かべる。立ち止まったそこにフェルを降ろし、口を開いた。
「珍しいな、オーレン。久々に太陽の光でも浴びに来たのか、こんな真っ昼間に起きて来て。槍が降るぞ」
「さすがに私もそこまで常識外れの生き物ではないのでな。ただ単純に、紫銀が蒼樹に入ったという噂を聞いて、見物に来ただけだ。……お初にお目にかかる、紫銀殿」
「……初めまして」
 見物、の一言に、何だかなぁと思いつつも、敢えて追及しない事にしたフェル。クロウィルはそのフェルを見て、そして黒服の男性を指し示した。
「オーレンだ。オーレン=メフィス、真夜中に協会を徘徊する変人魔法使い」
「私はただ己の心のままに月の光を愛でているだけだが?」
「そりゃご苦労様。今日は新月だぞ」
「知っている、だから昼に動かざるを得ないだけだ」
 ――どうやら他人には理解できない思考回路の持ち主のようだ。
 二人の会話を横で聞きながら、フェルは無表情の下でそう思う。思った瞬間、黒服、オーレンがこちらを見て、視線が合った瞬間フェルは硬直した。まさか思った事がわかったわけではないだろうが。
 思ううちに黒い手袋に包まれた手が、銀の髪の一房を掬い上げる。フェルとクロウィルが疑問に思う間もなく、そして彼は何の予告も無くそれに唇を落とした。
 眼を見開いたフェルとクロウィル。その反応を気にもしていない様子で、彼は呟いた。
「美しいな」
「……はい?」
 何とか聞き返せた一言。オーレンは、どこか柔らかい笑みを浮かべた。




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