「――で、何でここだって分かったわけ?」
 七人が完全に意識を失った事を確認して、フィレンスは溜め息まじりにフェルを見る。その腕輪からゆらりと出て来たもやが、すぐさま女性の形を成した。
「緑紅がいないと思うてな、気を辿ってみたのじゃ。主も気付いていたであろう?」
「確かに。しかし……蒼氷神、こんな簡単に下界に遊びに来ても構わないとは、天はよほど暇だとお見受けするが」
「否定はしないがの。この地に関わる事は全て、漆黒の方が一人で成している。妾達龍神はその補佐に過ぎぬ」
 フェルは言う彼女を見上げる。蒼氷神ヒセルス、つまり氷の龍神は、それを見て笑みを浮かべ銀の頭を撫でやった。
「いつかまみえる事もあろう。漆黒を負う『大賢者』も、紫銀の事は案じているからの」
 されるがままになりながら、フェルは首を傾げた。そしてそのまま、フィレンスに視線を向ける。
「……フィレンス、会った事あります? 『大賢者』に……」
「いや、私は……禁忌破る時に会ったのは十二の龍神だけだったし、訓練をつけてくれた師の髪と瞳は青かったし……」
 フィレンスは眉根を寄せて答える。その師というのはヴァルディア以上に素性の知れない人物だった。紫旗師団の団長とは知り合いだったようだが、それにしても人脈が広すぎるように見えた。それに、禁忌を破る際には正規の手順に則って天界の神々に誓約を捧げるが、その方法を教えてくれた後は忽然と姿を消してしまい、以来一度も会っていない。もしやと思いもしたが、実際に誓約を捧げる段階ではその場に彼がいるかどうかなど確かめる余裕はなかったのだ。
 フィレンスは溜め息をついた。禁忌を破って協会に入り、ようやく三年。紫旗、つまり護衛師団は、既に五年。
「魔法使いは召喚魔法以外に神々と顔を合わせる事なんてありませんし……『大賢者』って神なんですよね?」
「勿論。妾よりもよほど高い位の神、創世神や創造神といった至高の存在に連なる御方よの」
 つまりは、人間とは触れあう事のない真性の神。本来ならばこの龍神も人間と関わり合う事はない、しかしそうは言いながらもこうして禁忌の網をかいくぐる事は出来る。だがそれであっても禁忌である事には変わらず、今こうしている間にもフェルは魔力を差し出すという形で、それでも軽い代償を贖っているが。
 ヒセルスは考え込むフェルを見て一層目元を和ませ、そしてその小さな身体をやんわりと抱き締めた。フェルが軽く瞠目する中、ヒセルスは艶に笑む。
「妾もこのような子が欲しいものじゃ。いっそこのまま連れ帰ってしまおうかの、同胞達も喜ぶであろ」
「は、ええっ!?」
「ほんに愛おしい。よりによってあの双子に負けている事だけが口惜しいがの、妾の力は場所と時を選ぶ故仕方がない」
 双子、というのは水と風の龍神の二人の事だ。フィレンスは微笑むヒセルスと慌てるフェルを見て、そして遠い眼をした。
「……クロウィル……相当頑張らないといつか龍神につれてかれるよ……」
 呟くが、しかしそれは二人には聞こえなかったのだろう。フェルはなおも慌てた様子のまま、しかし疑問を口にした。
「に、人間って天界に入れるんですか?」
「入れるとも。興味があるのならすぐにでも連れて行ってやるぞ、フェル。主なら大歓迎じゃ」
「い、いいです! 遠慮します! 今の所はまだ人間界に居たいので!」
「そうか? 残念だのう……」
 猫にマタタビ状態だ、とフィレンスは思った。神々も紫銀には相当甘いらしいというのは今までずっとこういう光景を見て来ているから知っているが、眼に入れても痛くないというやつだろうか。特に害はないので眺めるだけにするフィレンスだった。
「妾達を下界に喚べるものなど限られている。天界はいつまでたっても同じ顔ばかりでつまらんからの、皆下界に出て来れる機会を窺っているのじゃ。紫銀は妾達にとっても大切な存在だからの、尚の事競争率が激しい」
「そうなんですか?」
「そんなものじゃ。前にクィオラが気に障るほど嬉しそうにしていたのでな、ラキオルクと一戦交えておったわ」
 フェルの顔が引き攣った。クィオラは水の龍神、対しラキオルクは雷の龍神、互いが互いに弱点の属性だ。龍神は己の司る力しか扱えないと聞く。
「……あの、それって……結構大変だったんじゃ……」
 それ以前に龍神同士が争ってどうする、とも思ったが自分の責任もありそうなのでそこには触れられなかったフェルだった。ヒセルスも苦笑する。
「大変だったとも。最後にはクシェスが仲裁に入ったがの、たかがそんな事で争うな、と言うたおかげであやつも巻き込まれておったわ」
「それって仲裁じゃないじゃん……」
 白服を一か所にまとめて積み上げながら端で聞いていたフィレンスが、とうとう口を挟む。それを聞いて、龍神は呵々と笑った。
「フェルが生を成すまで、天でも問題が立て続けに起こり暗い話ばかりだったのじゃ。元より、妾達は魔法使いにすら喚ばれる事は無いに等しいしの……」
 龍神とて淋しいのだ、と呟く。完全に隔絶された神々と人間。神はこの世界に幾千幾万と存在するが、天界に常に居なければならない十二の龍神はその神とも会う事は少ない。まして龍神は上位、皆が皆かしずいて、声を交わせる相手すら珍しい。
「……まあ、楽しいなら良いけども」
「楽しいぞ、すごぅく、な。もうフェルに教えられる事もほとんど残っておらんがの」
「それだけが目的じゃありませんもん。教えてもらいたいのは、そうですけど」
「嬉しい事を言うてくれる」
 青は言葉通り、嬉しそうに細められる。言葉は一度、そこで途切れた。
「――紫銀は太古、創世神と創造神の力を半々に受け継ぎ生み出された神が下界に寵を与え、それを享受した一族に多い。我等は彼等を知っているがの」
 唐突な語り。フェルが彼女を見上げて、え、と声を漏らすと、蒼氷神はただ優しく笑んだ。
「妾はこれに対する問いの答を授ける事は許されておらぬ。すまぬがの……お前の最もちかしい者はその問いに答える事ができよう」
「ヒセルス様、それは……」
「許せ、できぬのだ。……そろそろ時間じゃの」
 ヒセルスはフェルの視線から逃れるように虚空を見上げる。ついでフィレンスを見て、その眼を細めた。
「……迫るものがあるの。主の師とやらを頼れ、神々の良く知る御方じゃ」
 フィレンスはそれを聞いて、そして口元を手で多う。短い沈黙の後に納得した表情を浮かべ、しかし何も言わなかった。ヒセルスも淡く笑んだだけで、再びフェルを見やった。
「では……諦めるでないぞ、フェル。何も知っているのは、我らだけではないのだから」
 フェルが声を上げる寸前、その姿が空気に解けるようにして消える。ついで左腕の腕輪が消え失せ、フェルはそこを手で押さえた。――魔法は解いていない。召喚主ではなく、召喚された者が強制的に魔法を解き、消えた。
「……フェル?」
 フィレンスが呆然としたままのフェルの肩に手を当て、紫の瞳を覗き込む。フェルは何でもないと言うように頭を振って、しかし腕輪のあった場所を見下ろし、口を開いた。
「……フィレンス、私って……」
「フェルはフェルでしょ。何度目?」
「そう、ですけど……」
 記憶の事。いつも極力楽観的に考えるようにしていた。だが、先程の言葉は明らかに。
 フィレンスはフェルの思考が分かったのか、ヒセルスの立っていた空間に眼をやる。そして息をつき、言った。
「……龍神の言ってる事なんて分からない事の方が多いよ。必要以上に干渉してはならない、それは相手が誰であろうと変わらないんだから」
 紫銀だろうと無条件に全てが許されるわけではない。フェルもそれは分かっている、だから気になる。必要のない事なら言わない龍神が、わざわざそれを自分に言ったという事が。
「……大丈夫?」
「……ん、大丈夫です」
 フェルのその返答に被さるように、枯れ枝を踏む音が響く。二人が視線を向けた先に立ったクロウィルは、平然としている二人を見て意外そうな顔をしてみせた。
「あれ、フェル。こんな所に居たのか?」
 探した、と言わんばかりの彼に、フェルは眼を細めてみせた。先程までの思い悩んだ様子はどこへやら、不満げに口を開く。
「だってあなた、オーレンとかいう魔法使いの人とずっと何か話してたじゃないですか。待ってるの、時間の無駄ですもん」
「うわ……それでこんな事になってるわけか」
 クロウィルは地面に転がった七人を見渡す。フィレンスが溜め息をついてその一人に歩み寄り、軽く蹴り上げる。その顔を見たクロウィルが眉根を寄せ、低く呟いた。
「……蒼樹に居たのか、この馬鹿。フィレンス、大丈夫か?」
 その問いにフィレンスは軽く肩をすくめてみせる。フェルはその手に触れ彼女を見上げた。
 何かと見下ろして来たフィレンスに、小さく囁く。
「……大丈夫ですよ」
 フィレンスはそれを聞いて軽く眼を見開く。ついで困ったような笑みを浮かべる、その全身から力が抜け落ちた。
「おわっ!? っの、大丈夫じゃないだろうがフィレンス!?」
 とっさにその腕を掴んで転倒を防ぎ、しかしその場に倒れ込んだ彼女を見て怒鳴るようにクロウィルが言う。胸元、襟を掻き合せ強く握り込み、彼女は小さく呟いた。
「ごめ、無理した……」
「しない方がおかしいですこの馬鹿! 何でこんな所で無茶するんですか!」
 言いながらフェルは倒れかけたその身体を支えるように抱きかかえて構築陣を展開する。音を立てて浅い呼吸を繰り返し震える手で肩を掴み返してくる、その手に自分の手を重ねた。
「おい……」
 声をかけようとしたクロウィルをし、と唇に指を当てて制し、空いた手を伸ばして彼のクロークを引っ張る。察したクロウィルがフィレンスの背にそれを重ねて、フェルはその上から小刻みに揺れるフィレンスの背に手を当てて、小さく言った。
「ラシエナ、ここは蒼樹協会です、学院じゃありません。ゆっくりで構いません、そこから出て、戻って来て下さい」
 心的外傷、他者に植え付けられた悪夢。そうなっていない方がおかしい、何年もの歳月が流れているがそんなものは何の役にも立たない、どころか二度目すら同じ相手で。
 それを押さえ込もうとする目の前の馬鹿と、それ以上にあの連中に今更ながらの怒りが込み上げてくる。このままあの白い七人を灰になるまで燃やし尽くしてやろうかと思ううち、フィレンスに掴まれた肩が鈍い痛みを訴える。顔を歪めたフェルは、しかし声には決して出さず、かわりにその耳元にゆっくりと囁いた。
「フィレンス、戻って下さい。あなたが見ているのはただの過去の映像です」
 どうしても堪え難い出来事を体験した人間は、それを克服しようとするか、本能的に抑圧し忘れようとするか、主にこの二択のうちいずれかをとると言う。多くは後者を選び、そして再び同じような状況に陥ればその全てが掘り返される。現実と過去が混同する、フィレンスも例外ではなかった。抵抗出来ている分、まだ良い方。
 本来ならば夢を見ないように魔法をかけて意識を落としてしまった方が良い。しかし今の状態でそれをしても一時凌ぎにしかならない、逆にやってしまえば後々まで尾を引く傷になる。
 何度もゆっくり、名を呼ぶ。しばらくそうしているうちに、その震えが少しずつ収まってくるのが分かって、ひとまずは安堵の息をそっと吐き出した。元々意志の強い人だ、精神的なものには強い。強いはずのその彼女に悪夢を植え付けた男に視線を向けて、フェルは静かに言い放った。
「クロウィル、そっちのもっと馬鹿な奴ら更迭して下さい。どこが騎士だ……前科もあります、蒼樹どころか、騎士にさえも相応しくない」
「分かってる、元よりそのつもりで来たんだからな」
 クロウィルはそう答え、それを聞いてフィレンスが蒼白になった顔を上げる。フェルが止めようとするのを逆に首を振り、それでもフェルの手を借りて上体を起こした彼女に、クロウィルは背後を見て口を開いた。
「教えてくれた奴が居たからな、何かあったらとは思ったけど……俺達が来る前に終わってたけどな」
 その視線を追う。白服の騎士が数人、気まずそうに視線を落として立っていた。
 フェルが心底以外だと言わんばかりの表情を浮かべる。フィレンスは眼を見開き、ついで俯いて自嘲するように笑んだ。緩く頭を振って、口を開く。
「すまない……助かった」



 七人はクロウィルと二人の騎士が捕縛し、フィレンスは決まりが悪そうにしながらも他の三人を自室へと招いて、そして細々とした事を話している。
 彼等がクロウィルに今回の事を伝えたのは、偶然遠目にだが森に入って行くのを見かけて、どことなく嫌な予感がしたからだそうだ。そしてその礼に何かをと言い出したフィレンスに、三人が言ったのは予想外の問いかけ。
「……だから、言い出さなかったのか?」
 本当の事を教えて欲しい。フィレンスはそれに対して、本当に全てを語り、そして肩をすくめた。
「そんなの、言った所で本当にその時が来るまで誰も信じないでしょ。それに……信じて欲しいなんて言わないよ、真実である事に変わりはないんだから」
 フィレンスは言って、紅茶を口に運ぶ。白服達はその横に座るフェルに視線を向けて、それに気付いたフェルは肩をすくめた。
「私は前から知ってましたから。だから皆さんが言う『擁護』を繰り返してたわけなんですけどね」
「フェルも頑固だから……」
「あなたに言われたくはないですねえ馬鹿が」
 流れるように罵倒を口にしたフェルは横の彼女が苦い顔をするのを無視し、まだ熱い紅茶を啜ってほう、と息をついた。フィレンスの淹れる紅茶は美味しい。見た目や普段の行動に似合わず家事上手なフィレンスは料理も得意で、いつだったか作っていたケーキも相当美味しかった記憶がある。
 そのフィレンスは息をついて白服達を見た。何か吹っ切れたようで、先程から口調も素のまま口を開く。
「それで、私からも聞きたい事あるんだけど、いいかな?」
「何だ?」
 最初はその変化に戸惑っていた白服達も、案外すぐに慣れた様子で聞き返す。その三人に向かって顔色も変えずにフィレンスは問いかけた。
「最近協会の中で変な事してる奴知らない? オーレン以外で」
「……何か、あったのか?」
 一人が聞き返してくる。オーレン以外、というのには反応しないのかとフェルが思ったと同時にフィレンスがああと呟き、服の中から二つの首飾りを取り出した。
「これ、見てもらえば分かるかな」
 身体を乗り出す三人にそれを投げ渡す。受け取った一人が真っ先に眼を見開き、ついで一人が絶句し、残った一人が大声を上げた。
「お、お前っ……護衛師団!? しかも隊長なのか!?」
「あんまり叫ばないでね、今のところ隠してるから」
 紫旗師団は国王軍の中でも精鋭中の精鋭、それを率いる者の座にある彼女は、やんわりと釘を刺してから肩をすくめた。
「鈴蘭、つまり第二部隊。私達の仕事は『紫銀』の護衛、最近協会の中が色々と怪しいって報告があって調べてる途中なんだけど」
「お前……」
 相当すごい奴なんじゃ、という呟きは空気に紛れて消える。フェルは遠い眼をした。
「……これで、既に護衛師団所属だって知られてるクロウィルが実は第二所属で、しかも副隊長だって言ったらどうなりますかね」
 その言葉にフィレンスは目の前の三人を見やる。見事に放心しフェルの声が聞こえていなかったのか、それを見ながらフィレンスは答えた。
「さてねぇ……でも、あいつ便宜上十階梯って事になってるけど、それ以上の実力があるって言うのはみんな知ってる事だろうし」
「そんなに驚かれませんかね」
「じゃない?」
 フェルはそれを聞いて口元に手を当てた。何故か不満げな表情を浮かべ、そして立ち上がる。視線を向けて来たフィレンスに言った。
「ちょっと長官の所に行ってきます」




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