フェルは談話室から廊下に出て、手を組んで伸びをした。壁に取り付けられた燭台がぼんやりとした光を放ち、灯が完全に落ち暗い廊下を仄かに照らしている。フェルは自分で自分を抱き締めるようにして身震いした。
 毎年、一年の最後の二か月には雪が積もり始める。だが今年は年が明けてもちらほらとしかその姿を見る事ができず、それなのに冷え込みは激しい。日が落ちればすぐに気温が落ち、屋内であろうと暖炉がなければ凍ってしまうかと思う程だ。
 外はもうすでに真っ暗だが、時間で言えばまだそんなに遅くはないはずだ。フェルは足らなくなった材料を取りにいこうと、自室へと歩きはじめた。部屋で作業する気になれないのは、何となく一人きりになるのが寂しいような気がしたからだが、底冷えしそうだというのもある。
 協会所属者には個別の部屋が割り当てられる。協会の回りには巨大な都市が形成されているが、元からその街に住んでいる人はそこで暮らしても、そうでない場合は協会で生活する事になるからだ。
 協会を中心として広がる都市は、外から見れば中心の協会が一番高く、外に向かうにつれて建物の背が低くなって行く様子がよく分かる。建物の背だけではない、この街は大きな丘の上に建っているからその所為もあるだろう。活気に満ちるこの街は、日が落ち夜が近付いても完全に静まる事はない。人を喰らう異形に侵されるこの世界では、なんとも平和な光景だ。
 思いながら、フェルは無言のまま窓の外を見やる。遠目に街の光を見て、ほんの僅か眉をひそめた瞬間、甲高い音が協会中に鳴り響いた。
「警鐘……」
 小さく呟く。ほぼ同時に協会の主棟から絶大な魔力が迸り、巨大な結界が街全体を覆った。
 長官、ヴァルディアの結界魔法。今となっては剣の力で知られている彼も、元は黒服だ。最高峰の魔導師、そして同時に剣士である彼には、騎士のような禁忌は存在しない。だがそれでもその両方の力を同時に得る事は至難を極める――元より本質が異なる魔法と剣、それを同時に扱おうとする事が、理に反するからだ。必ず拮抗し、どちらかが劣る。
 フェルは乳白色の結界が街の全てを覆い隠すまでそれを見つめて、そして踵を返し廊下を小走りに進む。主棟に近い建物の屋根を見つけて、足を止めた。少し考えてから窓に手をかける。
 それを開いた瞬間吹き込んで来た切るように冷たい空気に眉根を寄せ、しかし高い位置にあるその窓の桟に飛び乗る。そして躊躇う事なく、風に逆らって跳躍した。
 重力に従って落下する、その身体が風をはらむ。灰色の服がはためき、冷たく吹き荒ぶ冬の風に押し上げられた。
 華奢な身体が屋根にたどり着く。そのまま更に上、執務室のある主棟の屋根に向かって再び跳躍し、着地すると同時に纏った風が勝手な方向へと流れて行き、銀の髪が大きく翻った。
 それを片手で押さえながら、フェルは視線の先に立つ人を見る。
「見習いって、どうしたら良いんですか?」
 ヴァルディアはそれを聞いて、宝珠の埋め込まれた黒剣を手に口を開いた。
「お前はもう見習い扱いではないからな。『異種』の相手も初めてではないだろう? ……分かっていると思うが、私とお前がいる限り、引き付けられてくるぞ、『異種』は」
「分かってます」
 『異種』。この世界に跋扈し人間を喰らう異形。特に貴色――金や銀を好み、それを持つ人間を嗅ぎ付けては襲いかかる。
 ヴァルディアの足元には巨大な構築陣が広がっている。恐らくこれが街全体を覆った結界のそれだろう。長官はその巨大な魔法を維持しているとは思えない涼しい顔で、視線を彼方へと投じる。
「……大物が来てるな……中位『異種』の一団だ。行ってこい」
「方向は」
「二時。今、結界の領域に、入った」
 彼の言葉と同時に屋根を蹴る。同時に薄く唇を開いた。
「『――Liifan.』」
 再び風が身体を包み込む。瞬間、全身の感覚が薄れた。
 風の氣を用いた瞬身。次の瞬間見えた異形に向かって、フェルは腕を伸ばした。
「『汝我らに相対せし者よ、無情の裁きに伏し朽ちろ! “ツェヴェーナ”!』」
 瞬間、闇に包まれた空から幾筋もの雷が降り注ぐ。突然のそれに振り向いた白服、その中の一人が声を上げた。
「っ、フェル!?」
「あ、フィレンス」
 呑気に言って、右腕を伸ばす。顕現させた長杖を掴み、さらに構築陣が展開された。
「『命を守護せし聖人よ! 我が同胞にその眼差しを、“エフィレンド”!』」
 冬の風が白い姿を覆い、傷を塞ぐ。フィレンスは剣を手にそのフェルの横まで後退して眉根を寄せた。
「何でここまで来た」
「長官の命令で。中位の一団がこちらに向かって来ているようです、『異種』を引き付けておけって事でしょうね」
「囮か。長官がやれば良いのに」
 確かに。思ったが口にはしないフェルだった。かわりに苦笑を浮かべる。
 それが命運だ。紫銀は神に愛され、人間や『異種』に狙われる。曲げようも変えようもない摂理だ。
「……でも、正直助かった」
 前衛達が作った前線をくぐり抜け、迫る小物を斬り伏せフィレンスは小さく言う。その言葉にそっと周囲の様子をうかがったフェルは、あからさまに溜め息をついた。
「大人げないですねぇ、大の男が」
「うわー言っちゃった……」
 しかもばっちり前衛に聞こえる大きさで。フィレンスの控えめなその呟きに、フェルは肩をすくめてみせた。
「大丈夫ですよ聞こえてませんよどうせ。戦闘中にそんな事に気を回してる余裕あるんだったらさっさと目の前にいる敵でも倒してくれませんかね全く」
 周辺には白い姿がいくつも見えるが、協力するどころか逆に孤立させてしまえと言わんばかりの空気。死んだとしても知った事か、といった感じだろうか。――馬鹿馬鹿しい。
「敵対心が見えるようですねぇ。追い付いてから言って欲しいものです」
「私が言うのならともかくも……そのせいで更に反感買うの私なんだが?」
 きっと聞こえているだろうから、と言外に言うフィレンスに、フェルは魔法を放ちながらにっこりと笑った。
「ああ、それなら私がしっかり仕返ししておきますから安心してくださいフィレンス。私がやられた相手にやり返すの大好きなの、知ってるでしょう?」
 満面の笑みと共に放たれた言葉に、フィレンスはもうこれ以上何も言うまいと剣を握った。
 視線を戻した先、真正面を猛然と駆けてくるのは、人間の背丈よりも大きい、狼にも似た『異種』。フィレンスが長剣を握り直して口を開いた。
「フェル、援護と距離魔法で頼む。……実戦だからな、死ぬなよ」
「『異種』との交戦は初めてではありませんよ、分かっています。任せて下さい」
 フェルはそう答え、そして幾度目かその足元に構築陣が広がった。
「『紅炎の其の八、“レフィル・ディヴァ”!』」
 長杖が打ち払われると同時に巻き起こった膨大な炎が衝撃とともに『異種』を包み込む。それに足を止め咆哮を上げる、その喉頸に長剣が突き立った。
 燃え上がるそれが絶叫を上げ、その叫びすら断ち切るようにフィレンスはそのまま『異種』の首を切り裂き、そこに襲いかかった小物を叩き伏せる。
 その二体が硝子が砕け散るように崩れ落ち、宙にその破片が舞う。その中に立つ白い背中に襲いかかった異形は、寸前、瞬時に現れた槍に貫かれ同じように砕ける。それすら振り返らず、フィレンスは巨大な『異種』の懐に滑り込んだ。
 無防備な腹部を切り払うと同時にその姿が黒く染まりまるで影のように結界を這う。ついで左肩に鈍い痛み、押さえると僅かに暖かい、後ろから声がした。
「フィレンス、紅鬼! 毒が!」
「高位まで来てるのか……!?」
 フェルの叫びに小さく漏らし、フィレンスはその場から離脱、後退すると同時にフェルの治癒魔法が展開され傷が塞がり、その白い背の後方で彼女の声が聞こえた。
「紅鬼大っ嫌いなんですよね私……っ! 『来れ清らなる光り戴く者達よ! “フェスタナリア”!』」
 顔を歪めたフェルが光の矢を放つ。襲いかかる無数のそれは、しかし大きく広がった影に呑み込まれた。
 次の瞬間全く同じ魔法が空中に展開し灰色の姿に襲いかかる。フェルは長杖を消し去りそれに向けて両手を伸ばした。
「消え去れ、『dhiva』!」
 一声、それに押されるように白い光の矢が消え去る。古代語による力の行使だ、フェルは伸ばした手に長杖を呼び戻した。
「コンツェルツェでもないかぎり効かないんですよね紅鬼って!」
 多少の苛立ちと共に叫ぶ。さすがに実体の無いものは斬れないフィレンスは、ひとまず周囲の雑魚を斬り伏せそのフェルの隣に立った。
「あれはやめろ、詠唱長い上に死ぬだろ」
 言いながら視線を走らせる。今フェルが対峙する高位『異種』の紅鬼、そして紫銀に寄せられて他の異形もこちらに向かって来ている。この紅鬼は今は結界と同化したまま硬直して動かない。フェルはそれを見て舌打ちした。自分かフィレンスか、あるいは他の白服か、誰かの姿を写し取ろうとしている。
「……どうする?」
「どうするもこうするも……仮にあなたがこれから三十秒間あの紅鬼を含める全ての『異種』の攻撃を防いでくれるのであればコンツェルツェで片がつきます。が、きっと無理」
 一人の騎士の許容量を超えている。フィレンスが『本気』を出すならともかく、白服を着ている以上、出来る出来ないではなくそれは期待しない方が良い。
 さてどうするか。襲いかかる『異種』に向かって魔法を放ち、不意に思考の端に掠める言葉。
「……あー、私、長官に「行ってこい」って言われたんですよ、フィレンス」
 すぐ近くで剣を振るう彼女の背に、そう言う。振り返ったフィレンスは少し考えるような間を置いて、そして眉根を寄せた。
「……ごめん、騎士に分かるように言って」
「たぶん、ある程度ここに『異種』が集まったら分かると思います」
「…………ああ、そういう事」
「普通の騎士はこれで分からないと思いますよーフィレンスさん」
 納得した顔のフィレンスにフェルは苦笑まじりに言って、しかしその表情はすぐに引き締められる。
 雑魚はいくら束になっても雑魚だが、紅鬼は違う。高位が一匹いるだけでこちらの負担は増大する、これだけでも抑えるか、倒してしまわなければ。
 構築陣を展開し、フェルは自らを中心に鎌鼬を放つ。巻き込まれた『異種』が切り刻まれ、あるいは風にもまれて吹き飛ばされて行くのを見ながらフェルは眼を細めた。
 ここはヴァルディアの結界の上、大地に触れていない状態で扱える魔法は限られる。少なくとも土と木の属性は無理だろう。その上今は夜、月の支配の下では聖と光、そしてそれと本質を同じくする水も扱い難い。
 どうするか。そう思った瞬間、硬直したままだった紅鬼が唐突に動き出した。
 凄まじい勢いで肉薄する、それに反応が遅れフェルはとっさに光速結界を展開する、が、一瞬遅い。
 影の姿をしたそれが槍のように尖った先端を伸ばす。とっさに足を引いた時、ほぼ同時に背後から腕を引かれ抱き抱えられる形でその軌道の延長線上から無理矢理外された。瞬きする間さえないまま響いたのは硬質な甲高い音。
「っと、ぎりぎり平気、かね」
 真上から聞こえた声に視線を上げる。翡翠の瞳が、相対する『異種』を見据えているのを見て、フェルは声を上げた。
「っ、クロウィル!?」
「大変そうだったから加勢に来てみたり」
 彼はにやりと笑うと、紅鬼の槍のようなそれを振り払う。鋭利なそれを阻んだのは巨大な刀身だった。フェルをかばうように背後にやると、一転、彼は眉根を寄せて声を上げた。
「まんまと姿写し取られてんじゃねえよフィレンス!」
 クロウィルが怒鳴る。その視線の先には剣を携えたフィレンスが、そしてその声に言い返したのは全く別の場所で『異種』を斬るフィレンスだった。
「知るか! 防ぎようがないだろうが!」
「でも紅鬼が誰かの姿真似してくれてればその分私達に有利ですよ!」
 フェルがクロウィルに言う。言われた彼は手にした両手剣を片手で構えた。
 クロウィルは、姿形こそ普通の人間と変わらないが、その生まれはコウハ族。剛力を誇る大地の種族。人がようやく両腕で持てるかというほど巨大な剣を、彼は片手で操ってみせる。
 斬り掛かって来た紅鬼、フィレンスの姿をしたそれの剣を受け、応戦するクロウィルは、しかしフェルに横目を向け口を開いた。
「フェル、わざわざ前線に出なくても良かっただろ!?」
「長官の命令です! それに、私のいる場所が勝手に前線になるんですよ、だったら少しでも協会から離れた所に出た方が良いでしょう!」
 フェルが再び集まった『異種』に向かって闇の刃の雨を降らせる。同時に乳白色の地面からは鉛色の巨大な刃が突き出し、周囲一体の敵を次々に無に返していった。そうしながらも、異形の姿の一向に減る気配を見せない。
「長官、分かってましたねこんなに数が多い事……」
 低く呟き、フェルは構築陣を展開する。その数は通常のそれよりも多く、そしてフェルは口を開いた。
「『全ての色を宿したる夜空に乞う、緋き光を纏う者、其を包みし静謐よ! 顕現せよ、今こそ刃を振るう時! 来れ、“ディヴィア・エン・レゼス”!』」
 鋭い詠唱、光を放つ構築陣が輝きを増し、そして現れたのは黒い炎。白い姿の間を縫うように駈け、触れた『異種』を瞬時に灰燼に帰す。その威力を見た白服達が目を剥き、とっさに振り返った視線の先に灰色を捉えた。
 中位の『異種』とは言え、魔法の一発や二発で倒せるような相手ではない。それを魔法が触れただけで無に返すなど。
 白服たちの視線を受けるフェルはそれに気付かず、立て続けに召喚したその黒い炎を操り周囲の敵を薙いでいく。その最中、何を感じたのかクロウィルがそのすぐそばまで後退した。
「フェル、大丈夫なのか?」
「……いきなり使役魔法使ったのでちょっと分からないですね。効率を考えました、長官もそろそろ動くはず……」
 フェルが言うのとほぼ同時に、炎は役目を終え溶けるように消えていく。
 高位魔法『ディヴィア・エン・レゼス』。暗黒に棲むという黒の炎を召喚し使役する魔法だ、魔力の消費も半端ではないが効果は高く持続性もある。だが詠唱をかなりの分省いて無理矢理発動した反動や綻びを繕う余裕がなかった、重要な敵を倒すには至らず――紅鬼が標的を変える。大剣を持つクロウィルではなくその背後、フェルは自分に向かってそれを真正面から見据え、
 そして次の瞬間、空が割れた。
「っ、嘘でしょう……!?」
 それを見上げたフェルが我知らずのうちに驚愕の声を上げ、そしてすぐそば、紅鬼の攻撃を弾いたクロウィルの腕を掴み強く引き寄せた。
「『汝清冽を司る者よ、光り輝く燦然たる命を我が元へ!』」
 素早く構築された結界が二人を包み込む。一瞬遅れてフィレンスがそこに滑り込み、そして『異種』達が裂けた夜空にほんの僅か動きを止めた、刹那。
 そこから飛来した銀の槍が、『異種』をことごとく貫いた。轟音、歪んだ絶叫。
「……フェル、これは……」
 フィレンスの驚愕する声。クロウィルの眼も同じものを浮かべていて、フェルは空を見上げた。
「長官の魔法です。これは私も知らないものですが……」
 おそらくはヴァルディア自らが作り出した魔法。純粋な邪の氣を纏う攻撃魔法。長官、彼はフェルに向かって「行ってこい」と言った、それは前線の一カ所に敵を引き付けこの魔法を最大限に生かすためのものだ。
 性悪、と口には出さすに呟いて、フェルは胸元を押さえた。貫かれた『異種』が例外なく断末魔とともに消滅してくその様を見て、瞬時に呑まれかけた意識を立て直す。結界を張ったのはこの魔法に内包される氣があまりにも強すぎたからだ、生身で触れれば引きずられかねない。そして意識が揺らげば結界が揺れる。
「フェル、大丈夫なのか?」
「……ええ、私は大丈夫です。白服達にも結界は張っておきましたし……」
 クロウィルの問いにはそう答え、意識して緩やかに息をつく。その間にも『異種』はみるみるうちに数を減らされていく。自分達が手を出す余地すらない。
 襲撃は、やけに静かに終わりを告げた。




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