「創世記から派生する血族の歴史……」
 ヴァルディアの視線が虚空を捕える。女性は沈黙をもって先を促した。
「そもそもこの世界は二人の神によって創られた。創世と創造、その二つの力をもって大地を創り水を創り命を創り、そうして輪廻を創り、神が自らの持つ力を魔法としてその一部を大地に生きる命に分け与えた。これが人間と呼ばれる者達、私達の祖先だと言われている」
 語られていくのは誰もが知る創世記。黒曜石の石版に刻み付けられていたその文言は、神々から人間に対する唯一の記録だとされている。
「その人間達は魔法の力を良く学んだ。その力によって狩りは容易くなり、人間達は栄えていく事になる……」
 一番最初に間違ったのは、誰だったのか。
「魔法の力には、当時から個々によって差があったようだ。支配者級の力を持つ者が、自らの意志に反する者、異論を唱える者を魔法で殺し始めた。次第に魔法は生を助けるものではなく、死を助長するものになる」
 次第に世界は偽りと恐怖に満ちていった。神々は人間に干渉せず、それが人間達の暴走を加速させたと言っても過言ではないだろう。歯止めは利かなかった、人間達にそれを止めようとする意志すらなかった。
 そしてその中に生まれたのが、人間の最大の脅威となる『異種』。元は何かしらの魔法だったのだろうそれは、いつしか使役者の配下から抜け出し異形となった。魔法はいつも完全な姿を現すとは限らず、完全になり得なかった魔法の成れの果てが『異種』となり人間達を襲うようになったのだ。
 根底にあるものが魔法そのものであるために、『異種』を根絶する事は不可能。この世界は真実魔法で成り立っている、それが消えれば、どうなるか。
「……スザナという一族が確立したのは、その時代だそうだ。大地に降り立った神と人間の一人が交わり、そして生まれた子供、その子孫……それがスザナであり、本当の意味で神々の末裔と言える」
「……禁忌は、どうしたのですか」
「当時は定められていなかったのか、それとも知っていてか……それは私達の知る所ではない。だが神と人との交わりは許されないものとして、二人は処罰を受けたらしいな。しかし残された子に責はないとして、人としての生を約束され神の一人としても祝福された。……その子供に祝福を与えたのが、紫銀を持った神だったそうだ」
 藍色の女性は軽く眼を瞠る。ヴァルディアは虚空を見つめる視線を落とした。
「だから、スザナには紫銀が多い。強大な力を持つ魔法使いや剣士も多く、一度魔法文明が潰えた後もずっとその知識を伝え続けた。魔法が再び人間の手の中に戻り機械文明が滅んだ後も、どの種族もどの国も敵わないほどの知識を有し、一時は世界の中心に立ち全ての人間を導く指導者として君臨さえした。何故姿を消したのかは、……この国の人間なら知っている事だな」
 女性はそのまま口を閉ざした長官を見る。躊躇と逡巡を経て、そして彼女は小さく口を開いた。
「……キレナシシャスによる、スザナ一族への侵攻、侵略……」
 一方的な、理不尽な武力行使。自分の国に服属しなければ滅ぼすと脅迫し、それを切り捨てた一族に対して大軍を差し向けた。
 強大な力を持っていても、スザナは小さな一族だった。その侵略を終えるまでに、二日もかからなかったと史実書は語っている。
「それによって、スザナは一族以外との接触を絶った。一族はほぼ全て殺し尽くされたと聞いている、その中には勿論紫銀もいた。スザナは抵抗せず、しかし一切の口を利かないまま、捕えられた瞬間に自ら命を絶ち、彼らの村は事実上滅んだと。……生き残りは別の場所に再び集落を作り、そして外界と完全に隔絶された中に生きているとも言うが……キレナシシャスによる侵攻が、およそ三千年も昔の話。それ以降に千年の間、紫銀はとうとう二人しか現れないまま。片方は今も一人きり、紫銀の成すべき事すら分からずさながら信仰の対象に仕立て上げられている」
 ヴァルディアは細く長く息を吐き出した。それを合図に、女性も小さく息をつく。
「……誰から聞いたのですか、この話は」
「私のこの国に導いてくれた命の恩人に、だ」
 そうとだけ言って、不意にヴァルディアが視線を上げた。それを見た女性も、眼を細めて立ち上がる。
「……さて、話しているうちに相手は動き出したようだな」
 その言葉に女性が視線を虚空に向ける。ほんの少し眉根を寄せ、しかし動こうとはしなかった。それを見てヴァルディアは意外そうな顔をしてみせる。
「いいのか、フェルが殺されても?」
「ここで長官を見張っていろとの副隊長命令です。肝心な時に逃げられたのでは意味がない、と」
「……なるほど。しかし、最近は逃げずに大人しくしてるはずなのだが……」
 副隊長はあの青い髪の騎士だ。今頃奮闘しているのだろうと予想を立てつつヴァルディアが薄暗い部屋を意味もなく見渡しながら言うと、彼女は淡々と言った。
「常日頃の素行の悪さのおかげではないでしょうか。王宮でも色々な噂を耳にします。……事もあろうに禁忌破りが蒼樹の騎士の上位に位置するなど、と」
「……それは、」
「簡潔に申し上げましょうか? 我らの直属の長が毎夜貴方の寵愛の下にあるのでは、という疑惑です」
 その言葉に沈黙が落ちる。ヴァルディアは無言で机に両腕を着いて顔を覆った。こっちに影響が及ぶ事も予想はしていた。恐らくこういった類いの火の粉も飛んでくるとは思っていたが、面と言われるとどうも。
「私は誰に対しても贔屓をした覚えはないが?」
「噂とは尾ひれがつくものであり人の口に戸は建てられません。しかし隊長は貞節に厳しい公爵家の出自、たかが協会での位を得るために長官の夜伽の相手をするほど卑しい精神は持ち合わせてはおりませんでしょう。そして多少の醜聞はあって然るべき……」
「だからと言って私を巻き込むか?」
「巻き込んだのはこちらではありませんので、文句は王宮に行った時にでも本人達にぶつけて下さい。それと……この気に食わない状況を打開するためにも長官様には一芝居打って頂きたく」
「今更尊称か。……それが本題だな?」
「言ってしまえばそうなるかと。前置きが長くなり申し訳ありません。隊長が安い人間だと思われている事に第二部隊をはじめとして団全体が相当頭にきているものですから、それを一片でもご理解いただければ幸いかと」
「やけに肩を持つ……敬愛か」
「敬愛もそうですが、彼女は私達の妹同然ですからね。妹が血を吐いてまで手に入れたものを脅かそうとする輩が姉として許せない、それだけです。勿論隊長として尊敬もしていますが」
 女性はその言葉の全てをやはり淡々と言うだけだったが、その言葉の中には慈愛と怒りが垣間見えた。それに気付き、しかし何も言わずにヴァルディアは口を開く。
「……フィレンスの才能は私も認めるがな」
 言って、そして溜め息をまた吐き出す。そして口を開いた。
「……ああ、そうだ、良い機会だから聞いておこう。常々気にはなっていた事だが……お前達、特に第二部隊の面々。フェルの力をどこまで把握している?」
「……仰る意味が分かりかねますが」
 女性はただそう応える、しかしその声音がどこか強張る。ヴァルディアは視線を向けず、しかしそのまま眼を細めた。
「はぐらかすな。魔法の力もそうだが、あの才は危うい……フィレンスとはまた別の、別格のものだ。記憶がないにしても不安すぎる、その上全てが未知数で今も限界が見えない。本来魔法使いならその力を現して二年のうちに限界は見えるものだが、既に三倍近い時間が経っていると言うのに、だ」
「……何事にも例外と言うものは存在します。まして『紫銀』に、私達の常識が通用するか……」
「『紫銀』と呼ぶのも、例外か」
 それに女性は言葉を詰まらせる。溜め息をついてみせた彼女に、ヴァルディアは変わらず言った。
「確かに、その他大勢と同じようには行かないだろうな。『何か』が起こったとしても、原因を探る手立てもないだろう、……どうだ、紫旗師団」
「……長官殿、貴方はどこまで……」
「お前達が知るよりも多くの事を。だからこそ私の眼の届く場所にフェルを呼び寄せた。……分かりやすく言ってやろうか? フェルが『フェル』で無くなった事があるのだろうと、そう聞いている」
 言葉と同時、ヴァルディアは女性を見やる。彼女は言葉に詰まり、そしてその反応が返答そのものだと気付いて息をついた。
 囁くような返答。ヴァルディアはそれを聞いて眼を伏せ、その様子を見た彼女は躊躇いがちに口を開いた。
「……長官殿、先程の話は……」
「信じる信じないは個人の勝手だ。信じろとも信じるなとも、私は言わない」
 言いながら椅子の背凭れに身体を沈める。あともういくらもしない内に真夜中の十二時を迎えるだろう。街の活気も薄れ、今は所々にぼんやりと灯りが灯るのが見えるだけ。
 長い夜になる。



 石畳を蹴り上げて進む靴の音。目が覚めても眼は開けずにそれを聞いていると、唐突に怒号が響いた。
「おい、どうして生かしておく!?」
 距離があるのか、冷たい空間に反響し何重にも重なり合って、その声は聞こえてくる。相反するようにすぐ近くから響いた声は、揺れる事もぶれる事もなく耳に届いた。
「殺すのにも機がある。お前はあの禁忌破りを殺せればそれで良いのだろうが、そのための布石だ。私がお前の望みに添うように調整をしている、お前はお前のやるべき事をすれば良い」
 怒号を上げた男が言葉に詰まったのが分かった。そのまま再び靴音が響き、遠ざかっていくのを暗い視界の中で聴く。気付けば後ろ手に縛られた腕が痺れていて、更にはとてつもなく寒い。何か魔法を掛けられたのか、感覚が曖昧だ。
 不意に髪を引かれるような感触がして、うっすらと眼を開いた。
 見えたのは横倒しの空間。青い洞窟、そして固い岩盤を流れる清流。頬がじん、と冷たいのはこの水のせいだろうか。
「……目が覚めたか……?」
 背後から聞こえた、また別の声。今度はどこかで聴いた事のあるそれに視線を動かそうとして、身体が動かない事に気付く。寒さが増して、肩が震えた。視線だけを彷徨わせる、その眼を覆うように大きな手が上から被せられた。
「魔法の効果が切れるまで、静かに……」
 その言葉と同時に感じた軽い何かの感触に、再び意識を手放した。



 ロイは暗い廊下を、何をするでもなく歩いていた。時間はもう遅いくらいだが、襲撃から目が冴えてしまって寝付けなかったのだ。
 フェルは迎撃に出たのだと聞いた。見習いは基本的に迎撃に駆り出される事は無く、日々に鍛錬に集中しなければならない。
「つっても、やっぱりなぁ……」
 そう呟いて、溜め息をつく。無力感もひとしおだ。要は、虚しい。
 フェルと、自分のような騎士ではやはり勝手が違うのだろうが、それでも彼女は弱冠十六で協会所属者であり黒服。自分は三十も近い歳になってもようやく見習い。これでも若い方だとは言われるが、しかしそれだけだ。他は何も変わらない。突出した能力があるわけでもない。ただ人並みより少し剣術が得意だっただけ。
 ロイはそこまでを考えて、勢い良く頭を振った。下降気味の思考を無理矢理断ち切り、悪い事は考えるものじゃないと思って心持ち速く足を動かしていく。早く歩けば気持ちも上向くかもしれないという根拠の無い期待をしながらそうするうち、真っ暗とは行かないものの燭台にぼんやりと照らされるだけの廊下、その途中に何かが落ちているのを見つけた。
 何かと思って近付き、足を止める。屈んで持ち上げたそれは布――いや、魔法使いの黒服。その衣裳だった。
 まさかと思ってその黒の内側を探る。大量に現れたのは刺繍、その中に銀色のものを見つけて、ロイは手を止めた。
 記憶力には、自信は無い。全く無い、しかし印象深かったものの短気記憶は、まあ人並みだろう程度のもの。つまるところ。
「……クロウィルって確か、護衛師団……!」
 ってかこういう事未然に防ぐのが奴らの仕事じゃないのか!?
 思いながらも踵を返して走り出す。談話室か彼の私室か、どちらにいるのかは分からないが恐らくは談話室だろうと見当をつけて走る。
 すぐに見えたその扉を開けば、白と黒が入り交じって談笑する風景。数人の視線を感じながら青い髪の騎士を眼で探し、見つけた後ろ姿に歩み寄った。
 気付いた彼が振り返る。その彼にロイは荒い息のまま、無言で黒衣を突き出した。眼を細めた彼がそれを受け取り、短く問う。
「……どこだ?」
「南棟……居住棟の三階、東側の廊下」
「フェルの部屋の近くだな……」
 いつの間にかすぐ近くまで来ていたフィレンスが言う。周囲の白服達が何かあったのかとこちらの様子を窺って来て、それを見た黒服達も気付く。数人が黒い衣裳の正体に気付き、一人が声を上げる。
「クロウィル、まさか……」
「そのまさかだな」
 答え、クロウィルは視線を上げた。一瞬視線の合ったフィレンスが微かに頷いたのを見て足を踏み出し、その姿がそのまま薄れて消える。紫旗師団の隠形、それをただ見送ったフィレンスに視線を向けて、ロイは眉根を寄せた。
「……あんたは、いいのか」
「……師団が動く以上、協会の白服が勝手に動いても邪魔なだけだろうからな」
 彼女はただそう言って、クロウィルの座っていた椅子に視線を向ける。左手で剣の柄に触れて、しかしそのまま。
「手伝いが必要なら向こうから言ってくる。……言われたら協力すれば良いだけの話だ」
 本来ならフィレンスが護衛師団、第二部隊の指揮を執る。しかし今その席にいるのはクロウィルだ。フィレンスが護衛師団だと明言していないから、動く事が出来ない。策の内とは言え、何ともない風を装うのは難しかった。
 しかし白服や黒服はそれを見て何を思ったのか、あからさまに舌打ちする者もいる。しかし結局は彼女の言葉が全てだ、白服黒服にどうこうできる問題でもなければ、何かしようとした所で何も出来ないだろう。
 フィレンスは僅かに息を吐き出す。重い空気から逃げるように、廊下へと続く扉に向かって足を踏み出した。



 再び目覚めると、両腕の痺れはすっかり消えていた。代わりとばかりに襲いかかって来た度を増した冷気に身体が軋む。
 強張った腕を水の流れる岩盤について、身体を起こす。灰色の服のほとんどが濡れているのを見て、フェルは眉根を寄せた。
「……なんですか、ここ……」
 恐らく魔法で作り出した場所だろうと見当はついたが、一応口に出して言ってみる。寒さで声が震えたが、詠唱には支障はない程度だろうと判断してそのまま立ち上がった。
 寒いと言っても空気が湿気を帯びているから、空気の流れで寒さを感じる事は無い。ただ単純に水が冷たかった。冬場独特の身を切るようなものではなく、ゆっくりと侵食するかのような寒さ。肌に垂れる水を拭おうにも噴く全体が濡れていてそれは達せず、思い至ってほんの僅かな魔力を呼び寄せる。それで服が吸い込んだ水気をあらかた落としてしまってから、息をついて顔を上げた。
 その場に自分以外の誰もいない事を確認して、清流を踏んで歩き始める。ばしゃ、と水の跳ねる音が広い洞窟の中に響いた。水深は、思うよりも深い。簡単に革の靴を越え、足は変わらず濡れたまま。
 歩きながら、不思議な所だ、とフェルは思った。光が差し込んでいるわけでもないのに、ほんのりと青く輝く岩盤のおかげか、足元に気を遣わなくて良いほどに明るい。柔らかいその光の中を進んでいくうち、不意に既視感を覚えて一度立ち止まった。胸に手を当てる。乱れてもいない呼吸を、意識して整えようとする。
 ひどく、落ち着かない。
 ざわざわする。何か強い感覚が、脳裏で渦巻いているような。
 息を吐いて、吸い込んだ空気を胸に送り込み、ゆっくりと足を踏み出す。一歩進むごとに不安に似た感情が溢れてくる。知らない場所なのに、行きたくない、そう強く思った。それなのに足は勝手に動き、先程のように立ち止まる事は容易なはずなのに何故かそれが出来なかった。足元の清流が次第にその厚みを増していくのが見なくても分かる。
 掌を握り合わせる。自分でも分からないのに言葉が口を突いて溢れそうになって、それなのに掠れ声すら出ない。
 そのまま進むうち、ゆっくりとした歩みが不意に止まる。視線の先にあるのは勢いを増す透明すぎる水と、断ち切られたかのような岩盤の淵。滝の音が聞こえるのは、そこを水が流れ落ちているからだろうか。
 その音がする方へとゆっくりと歩み寄る。それにつれて天井が急激に高くなり、真上を見上げれば闇に覆われた巨大な竪穴。その視線を正面に向ければ、広い空間の奥に流れ落ちる滝。岩盤の表面を覆い尽くす水は、そのまま下へ下へと流れ落ちていく。それを追って眼を動かせば、見えたのは青い泉。
 きれいだった。青い光も滑らかな岩盤も流れる水も。
 なのに嫌だと、此処にはいたくないと強く思うのは何故だろうか。後退り、吸い込まれそうな滝から視線を引き離す。満ちた水の音がまるで圧力でも持っているかのように伸し掛って来る。流れ落ちるそこに引き込まれそうな恐怖を振り払って、巡らせた視界に何かの文字が映り込んだ。誘われるように歩み寄る。手を伸ばし、壁に触れる。刻まれた言葉に触れた。
「……古代語……?」
 一目で分かる特別な言葉。本来であれば流麗な形のそれが始まる場所を探し、眼で追う。たどたどしく、そして荒々しく刻まれたそれの、そのほとんどが否定。
 文頭に刻まれたのは短い一文。それを見た瞬間、フェルは息を呑んだ。
『Wray rca novx Azissyva.』
 古代語で書き連ねられた文字列。意味する所は、『私は紫銀ではない。』
 古代語には力が宿る。古代語には意志が宿る。そして構文や語の選び方から見て、これは事実の否定意志――書き手が紫銀であるという事実の、それを否定したいという意志を表す。
「……紫銀が、他にも……?」
 ここに刻まれた文言はそれほど古くはない。自分の他に紫銀がもう一人存在する。その事実を表すそれに、しかし何故かざわつく感覚を覚えて、フェルはそれを押さえ付けてゆっくりと文字列を追った。
『私は紫銀ではない。私は嘘ではない。私は幻想ではない。私は幻影ではない。私は夢幻ではない。私は身代わりではない。私は虚構ではない。私は虚空ではない。私は架空ではない。私は要らないものではない。私は出来損ないではない。私は欠陥品ではない。私は死ぬためのものではない。私は見捨てられたものではない。私は忘れられたものではない。私は生贄ではない。私はツェツァではない。私は彼ではない。私は神ではない。私はツェツァフィスィアではない』
 フェルはその言葉を指でなぞる。既視感が、どこかで感じた事のある感覚が戻ってくるような――もどかしいそれを感じながら、フェルは更に視線を滑らせ他の言葉を辿った。順は、分からない、どれが最初に書かれたものなのか。だが文字を追う眼も意識も止まらない。
『ヴィスが谷から出た。父上と母上は三年前に亡くなっていた。私が此処に閉じ込められてから五年が経っていた。直系の血が絶えた。レーティの樹が枯れた。生命の泉が枯れた。儀式を執り行う季節は今年も来なかった。神官達が怒鳴っていた。早く死ねと言っていたのだと彼が教えてくれた。私は今年も死ねなかった。彼は楽しそうだった。楽しいという感情が私には理解できなかった。大賢者様に会った。すまないと言っていた。『すまない』という言葉の意味が分からなかった。彼は教えてくれなかった。水麗神が私に私を教えてくれた。私は私ではなかった。私は紫銀だった。』
 その後に、幾つも『Azissyva』と刻まれている。紫銀を表す語。更に他の文字列が眼に入った。何故かこれだけ整って、丁寧に刻まれた文章。
『この洞窟で生きて何年になるだろう? 水の音しか聞こえない静寂で耳はとうに聞こえなくなっている。空の色は何色だったか、花の色は何色だったか、いつの間にか思い出せなくなっている。人の声もただの音としてしか聴こえない。彼との会話も出来なくなった。当然彼は構わずに何かを言っているが、音として聴こえても言葉が理解できなくなっていた。唯一残っていた人らしい行動さえ出来なくなっていた。
 大賢者様が再びここに来た。あの髪と眼の色は漆黒、と言うらしい。大賢者様はわざわざ筆談をしてくれた。御名をエシャル、というらしい。エシャル様の言う事のほとんどは理解できなかったが、私は世界でも珍しい生き物らしい。世界とはいったいなんだろうか。この洞窟の外に何かあって、ここに来る前はそこで生きていたような気もするが、思い出せない。前に書き留めておいたものを見返すと、ここに来たばかりの私は随分と外に出たがっていたが、どうしたのだろうか? 外に出ると何か良い事でも起こったのだろうか。
 大賢者様の他にも一人いた。賢者様ではなかった、見た事も無い人間だった。何か言っていたようだが音としか聴こえなかった。魔法と言うものを見せられたが、あんな事を私が出来るのだろうか。外へ、と一言だけ書いていたが、外とは何だろう。エシャル様は谷、世界と色々な事を書いていたがどれも分からない事ばかりだ。私が知っているのは水と岩と青と文字と音だが、それが全てではないのか?
 今年も儀式の季節は来なかった。私はまた生きる事になった。幸せだな、と彼は書いたが、幸せとは何かは教えてくれなかった。笑うという行為をしただけで、また消えてしまった』
「……壊れて、……」
 フェルは我知らずに呟いた。水の跳ねる音が意識を現実へと引き戻す。フェルは慌てて文字から視線を外した。
 大きく息をつく。疲労を感じて額に手を当てる。水の音が耳一杯に流れている。空気が重い、その重悪に負けたかのように視界が揺れて、流れる水に足が取られる。
 そのまま崩れそうになったフェルの身体を、しかし突然支えた腕と響いた声。
「気を確かに、……ツェツァ様」
 流れる水の音を裂くように耳に入った覚えのある声。振り返った先にいたのは。
「――え……?」




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