響いた声に振り返る。見えたのは黒衣。
 ――黒衣を纏った、オーレンが、そこに立っていた。
「――え……オーレン、さん……?」
 フェルは呆然と呟いた。オーレンはゆっくりとフェルから手を離し、そしてその場に膝をつく。
 そしてまるで主君に忠誠を誓うかのように、深く頭を垂れた。
「非礼を申し上げる、ツェツァ様」
 低く滑らかに響く彼の声。水の音に重なって何重にも反響し合うそれを聞いて、フェルは思わず足を退く。岩盤の壁に背があたる。オーレンは頭を下げたままだった。
「御身を危険に晒した事、どうかお許し頂きたい。もうじきに紫旗師団が来る、その前に、」
「……嫌だ」
 小さく声が漏れる。オーレンが顔を上げて眉根を寄せ、フェルは彼から離れるように壁伝いに後退る。
 彼が何を言っているのかが分からない。分からないが、思考を置き去りにしたまま思考だけが拒否を吐き出す――聞きたく、ない。
「嫌だ、いやです。聞きたくない……」
「ツェツァ様、まさかリフェスに」
「知らない、……私は、フェルです。フェルリナード=アイクスです、ツェツァでは、ない……」
 途端険を帯びたオーレンの視線に身体が萎縮する。しかしそんな事よりも早く、この場から逃れたかった。視線を外せないまま更に後退る。足元を流れる水が垂直の滝を作り出す、崖へと。
「ツェツァ様、貴女は……っ」
「違う、私は」
 オーレンの声を遮る。違う名で呼ばれる度に違和感と混乱と、そして形容しがたい感覚が駆け巡る。良いものではない、それはむしろ恐怖に近いもの。
「オーレンさん、私はフェルリナード=アイクスです、……そんな名前、知らない」  彼がゆっくりと立ち上がる。フェルは更に足を退く。崖の縁に足がかかった瞬間、オーレンの腕輪が鈍く光り足が水の無い堅い感触を捕えた。崖の先、その空中に浮かんだ巨大な構築陣がさながら地面の役割を果たし、フェルは更にオーレンから逃げるように後退る。
 恐いと、純粋にそう思った。オーレンが恐いのではない、彼が持っている言葉に恐怖を感じる。それを自覚した途端に足が砕けて、フェルはその場に崩れ落ちるように座り込んだ。
 崩れた身体を叱咤する事すら出来ない、身体が竦んで、それ以上は。
 それを見た彼が、無表情を歪めた。何かを耐え押し殺すような表情を浮かべ、そして足を踏み出す。ゆっくりと歩み寄る彼を見上げて、フェルの唇から微かな吐息のような声が零れ落ち、意味をなさずに空気に溶けた。
 緋色の紋章が浮かび上がる透明な地面を踏みしめて、オーレンはそのフェルのすぐ傍に立つ。その場に膝をついて手を伸ばす、その彼の背に広がるもの。
 フェルがその紫の瞳を見開く。視界のほとんどを覆う藍色の髪と、紅蓮の翼。
「……オーレン、さ、――」
「……今は、時間が無い」
 耳元で低く響く声。何故か無性に泣きたくなって、フェルはそのまま眼を閉じた。
「重ねての非礼、どうか……」
 言う彼の腕が身体に食い込む。強く抱き締められた次の瞬間、振り落とされた手刀にフェルは意識を手放した。



 不意にヴァルディアが視線を上げた。気付いた藍の衣裳を身に纏う女性が同じように視線を上げて、そしてその姿が薄れて気配が遠のく、実際はすぐ近くにいるのだろう、紫旗師団が使う隠形、そういうものだ。
 灯を点していない室内は暗い。大きな窓を背にして椅子に腰掛けているヴァルディアは、背後から差し込む、月の無い夜の光さえも届かない影の中へと視線を投じた。
 そして、静かに口を開く。
「ようやく、お出ましか?」
「長くかかったのには理由がある。その理由は、残念ながら師団以外には言えない」
 聞き覚えのある、しかし普段に比べて幾分柔らかい声音のそれにヴァルディアは微かに瞠目した。それを隠すように眼を閉じて、思う。協会よりも死に近い場所が、彼女にとっての場所なのだろうかと。
「そしてその護衛師団の、我が第二部隊から蒼樹協会長官殿に要請を」
 硬い床と靴がぶつかる音。知った気配が近付いてくる。
「もう既に知っているとは思うが、紫銀フェルリナード=アイクスが協会内の不穏分子によって盗まれた。長官殿には多少のご助力賜りたい」
「それは、命令か?」
「私の立場を考えれば、おそらくはその範疇かと」
 それを聞いてヴァルディアは薄く眼を開けた。
 見えたのは藍色の衣裳を身に付けたフィレンス。その背後に誰かが控えている様子も無い、それをする必要も無いからだ。そしてその襟元の刺繍を見やってヴァルディアは小さく息をついた。
 護衛師団に所属する者は、それだけでこのキレナシシャスという大国の軍、そして協会を掌握しうる権限を持つ。彼らの役目が特別なものであり彼らが国家転覆を企むような輩ではないと言い切れるからこその権限であり、そしてそれを退ける事が可能な人物はこの国の宰相、そして女王のみ。
「命令が嫌なら、フェルの親友としての『お願い』でも。言い直した方が?」
「いや、いい。……しかし、無条件で聞き入れる程優しくはないぞ、私は」
「条件をつけるのであればお好きなように。ただしこれは第二部隊隊長であるラシエナ・シュオリス・リジェル・ディア=アイラーンの独断による要請、護衛師団全体に対しての条件は、こちらとしては受け取る事はできない」
 通称ではなく本名で名乗った彼女にヴァルディアは無言で首肯した。そして眼を開け、金の瞳で色違いの瞳を見据える。そして、やはり静かに口を開いた。
「この件が落ち着いてからで良い、……本気を見せろ」
 刹那、フィレンスが微かに眉根を寄せた。意味が分からないとでも言い出しそうなそれを見て、ヴァルディアは繰り返す。
「本気を見せろ、協会長官であるこの私に。十九という若さ、幼さで禁忌の檻から放たれ護衛師団の隊長を務め上げるその力、私と私の部下たちに見せつけろ」
 それを聞いて察してか、フィレンスの顔に今まで見る事の無かった変化が生まれる。
 嘲笑、しかし焦燥を孕んだ、どこか違和感を纏った整いすぎたそれを浮かべて、彼女はヴァルディアを見た。
「……演武をしろと? 長官殿と私で、殺し合いの真似事をしろと。それで一体何の利が生まれる」
 剣の道の到達点は二つに大きく分けられる。奪う剣と救う剣、フィレンスのそれは完全に奪う剣だ。白服では異形の命を奪い藍の色では人の命を奪い、救うためと銘打っておきながら奪う方が圧倒的に多い。
 その剣を振るえば殺し合いにしかならない。そう言ったフィレンスに、ヴァルディアは変わらない様子で言葉を連ねた。
「軋轢は、あろうとも無かろうとも組織には関係ない、しかし理想としては無い方が良い。そして剣をもってそれを生み出し、他に誇るべき剣を秘し誰にも示さないのならば、それは剣を選んだ人間全てに対しての不敬となる」
 まるで夜の風のようなその声の、しかし途中から鋭さが垣間見えた。フィレンスはゆっくりと息を吐き出す。呼吸を整える。
 声だけで、圧された。圧倒されたわけではないが、息が詰まるほどの圧迫。それを感じながらもフィレンスは彼を見返し口を開いた。
「それを見せて、それで納得するほど協会所属者は単純ではないと思うが」
「少なくとも禁忌破りに対する偏見は消えるだろう、そこまで馬鹿ではない。皆が皆実態を知らないからこそ不信が募る……命まで投げ出して力を得ようとする者は、そうそういないからな」
「実状を知らないのはそうだろう、しかしそれを教えて……そうすれば禁忌を軽んじる者が出ないとも限らない。私は大綱に反する輩を助長するつもりはない。今の私の行動が不敬だと言うのなら正そう、だが……」
「私は下らない慣習を引き摺るつもりはない」
 フィレンスの言葉を遮り、ヴァルディアは言い放った。立ち上がり、真正面から彼女の瞳を見据える。
「禁忌破りは異端、だからどうした。魔法使いの大半が大綱のいずれかを無視して生きているこの世界で、騎士の禁忌破りだけが特別扱いか? 神と約定を交わし代償を差し出した、それを示せ。戒律や制約などどうでも良い、ここは、協会はキレナシシャスという国家の人間を守る事を目的とした組織だ。理想がどうであれそれを果たせない者は必要ない。そして本来仲間であるべき者達を排斥するような輩もだ。目的を果たすためなら自分をも切り捨てる力がない者に用はない。……協会は長く神殿の支配下にあった、しかし今は違う。神殿が推奨する戒律を守ればそれで良いとは私は言わない、汚れても、何かを憎んだとしても殉じる覚悟の無い者は要らない。……お前はそうではないと思うがな」
「…………どう、しろと?」
 フィレンスはそうとだけ問い返した。ヴァルディアは机の上から小さな水晶を手に取り、そして彼女に向かって投げ渡した。片手で受け取ったフィレンスが透明に光を弾くそれを見て眉根を寄せるのと同時に、彼は長剣を手に取った。
「龍神の召喚の手助けをする魔石の一種だ。必要になったら使え」
「……私は龍神召喚の魔法を知らないが?」
「知らなくとも喚べるだろう? ……どうする、第二部隊隊長」
 問いを返され、フィレンスは静かに息を吐いた。



「すまない、遅くなった」
「本当にな」
 クロウィルは背後からかけられた声にそう返し、大きく息をついた。フィレンスはその彼のすぐ近くに立ち、そしてジルファを見る。
「どうだ?」
「すぐにでも開けられますよ」
 ジルファが即答を返す。その視線の先にあるのはごく細い光の線。
「開けられますけど、時空間魔法はこの世から完全に消滅しろと初めて思いました、心の底から世界の果てまでね。……扉は開けていられますが、制限時間は十七分四十三秒、誤差はマイナスの方向に七秒から十一秒。それ以上保たせるんだったらイース先輩くらいじゃないと無理だと思います。僕じゃこれが限界ですよ隊長」
「それで十分だよ。私たちが片を付けなきゃいけないのは首謀者と中にいる馬鹿だけ、他の協会内の共犯については長官の方でやってくれる」
 一人の犯行では無かった。複数、現時点で調べがついているのは首謀者と、その他に共犯が三人。その全てが協会所属者の黒服だった。そして牢から逃げ出した、元騎士の男が一人。
 魔法使いは騎士以上に力に貪欲だと言われる。紫銀、フェルを狙ったのは、その力を自分達のものにするためなのだろうか。他人の力を自分のものとする魔法も存在する、奪い取ってしまえば自在に操る事もできるのだろう。
 ともかく、目的が何であれ逃がす事は無いだろうという確信にジルファが安堵の溜め息を漏らした。
「良かった、これで逃げられたらどうしようかと」
「もう一つの方は?」
「大丈夫、条件つけられたけどね」
 クロウィルの問いにそう答えると、彼は肩をすくめてみせた。おおよその想像はついたのだろう。
 そして視線を上げる。クロウィルは肩をまわして、そして背負った巨大な大剣を抜き払い片手で持ったそれを地面に突き立てる。重い音が響き、そうしてから彼は息を吐き出してフィレンスを見た。
「フィレンス、指揮権全権を返す」
 言うと同時に龍を象った首飾りを投げ返す。空中でそれを捕らえたフィレンスが微かに眼を細めた。そして静かに口を開く。
「良いけど……どうするつもり?」
「できれば一人で動きたい」
 クロウィルのその言葉にフィレンスが軽く眼を瞠る。そして一転、面白いとでも言わんばかりの笑みを浮かべて、そして口を開いた。
「独断はあんまり推奨されないんだけどねぇ。成功させるつもり? 一人で?」
「その自信が無ければ言い出さない。お前も片付けるつもりだろ、……許可を、隊長」
 自分自身の長身とさして変わらない程巨大な剣を手に、クロウィルはフィレンスに言った。視線は向けないままのそれに、フィレンスはその彼を見て、そして軽く息をつく。
「……機がある、その時までは勝手に動く事は許さないよ」
「分かった、ありがとう」
 クロウィルが短く礼を返し、フィレンスが空を見上げた。月の無い空を雲が覆い隠し、計ったように白い氷がゆったりと落ちて来る。それを見ながら、彼女は言った。
「ジルファは何があっても『扉』の維持を。ラカナク、ジルファを援護して。妨害が入らないとは言い切れない」
「了解」
《分かった》
 二つの返答。視線を閉じたままの『扉』へと向け、フィレンスは剣の柄に手を添えた。クロウィルが大剣を地面から引き抜き、隠形していた他の気配が確固としたものになる。
「ラルヴァール、クロウィル、スフェリウスは私と一緒に中に。首謀者とそれに加担する者を捕縛、あるいは排除する。フェルの救出はクロウィル……いいね?」
 無言の返答と共にジルファが構築陣を展開する。幾つもの円陣が重なりあったそれが広がり、ジルファの詠唱が静かに響いた。
 難解な発音で紡がれていく、その言葉は古代語と呼ばれるもの。その声につられるように構築陣が姿を変えていき、その最中空中の細い光の筋が、震えた。
 同時に魔力が流れ出す。禁忌魔法にも相当するそれらが収束し震える光の筋へと向かう。唐突に強くなった光が物理的な圧力を生み出すかのように藍色の姿に降り掛かり、その中でフィレンスは剣の柄を握った。
「十五分だ。それ以降、中に残っていれば死ぬと考えろ。私は助けるような事はしない、他の連中にも助けに戻る事を許しはしない」
「分かってる。誰もみすみす犠牲になったりはしない」
 クロウィルがそう返すのと同時にジルファの詠唱が途切れる。開かれた『扉』が一際強く光を放ち、その場にいる六人のうち四つを呑み込んだ。



 透明な夢を見ていた。
 透明すぎて不安なるほど、綺麗な夢を見ていた。
 白いもやに包まれた風景が通り過ぎていく、それを見送り、また一つ、風景が流れていくのを見つめる。まるで風のようだった。
 不意に何かを感じて振り返る。白い裾の長い衣裳に身を包んだ小さな子供がこちらを見つめていた。
 ――怖いの?
 霞がかって聞こえる声は、そう問いかけて来たようだ。意味が分からず首を傾げると、子供も首を傾げた。
 ――怖くはないの?
 唐突に、その言葉自体に圧力が籠ったかのような感覚が走る。まるで恐怖を強要するかのように子供は微笑んだ。
 ――知ってる? 昔、神様を殺した人間がいたんだって。
 子供は楽しげに言う。無邪気なそれが次第に迫ってくる。逃げる事もできずにそれを見つめていると、子供は不意に疑念を表情にのせた。
 ――なんでそんな事、しちゃったんだろうね?
 それでもその顔は笑ったままで。そして子供は更に言う。
 ――人間は神様の怒りを受けて、呪われたんだよ。
 ――一生を狂わす魔法。
 ――一人だけにとどまらず、その子孫までに受け継がれていく呪詛だって。
 いつの間にか間近まで迫って来ていたそれが、ゆっくりと歪んでいく。
 笑みから、嘲笑へと。
 ――今回選ばれた子は随分幸せな子なんだね。
 ――本当に、幸せ。
 ――いつかは気付かなきゃいけないのに。
 子供は言って離れていく。白い衣裳の裾が翻る様を面白がるるように、子供は楽しそうにくるりと回ってみせる。
 それでも嘲笑は変わらなかった。
 ――大変だよ。
 ――君が眠っているうちに大切なものが消えていくよ。
 ――否定はできないよ。
 ――だってそれは、君の力の及ぶ所じゃないから。
 その子供の姿が次第に薄れていく。それでも聞こえる声は、それまでで一番はっきりと、まるで実験の経過を見るかのような、明確すぎる冷酷な響きをはらんでいた。
 ――それでも逆らいたいのなら、私を納得させてみせてね?




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