手を伸ばす。ずり落ちた毛布をかけ直そうとして、不意に手が止まった。
 視線の先の、薄い夜着の下で小さく緩やかに胸が上下している様子に眼をとられる。意識せず僅かに開かれた唇へと視線が動く。寝台に片腕をついて、ゆっくりと手を伸ばし、
 ――クロウィルは震える手で毛布を掴みそれらを全て覆い隠した。
 倒れ込むようにして椅子に座り直し、俯いて深く息を吐く。白い手袋に覆われた手で青い髪をかき混ぜて、そして胸中で叫んだ。――眼に毒過ぎる!
 そして自分の情けなさに彼は顔を覆う。俺は死ね、速攻で死ねと思う傍ら自分の自制心に惜しみ合い拍手を送る。今は朝、今は夜明け、善を司る太陽神の下で愚行を犯したくはない。
 しかし、この場にフィレンスが居なくて本当に良かった。いたらそれこそ光速で半殺しにされていたかもしれない。フェルが長官から黒服を受け取った時も、即座に逃げたにもかかわらず重傷を負わされかけた。背後から笑顔で超高位魔法を展開しながら迫ってくるなんて悪夢以外の何物でもない。というかあいつは一体何処から嗅ぎ付けてくるのだろうか。他に護衛のいない時だけを狙ってやっているのに。
 考えてやっている辺り確信犯だという事を棚に上げ、クロウィルは溜め息をついた。そうして視線を上げて、窓の外を見やる。地平線から姿を現す太陽が、次第に空へと昇っていくのが見えた。
 視線を戻せば変わらない様子で眠っているフェル。それを見て今度は少しむっとしながら、クロウィルは再びその銀の髪を手に取った。刺激にならない程度に弄ぶ。
「……多少勘付いてくれたって良いだろ……」
 呟くが、眠ったままのフェルからの反応は当然無い。イースが魔法でフェルの意識を落としてから既に五時間、イースは最低でも六時間程度は魔法の効果が残るだろうと言っていたが、逆にその程度の眠りで回復するとは思えない。過去にこういった状況に陥った魔法使いは嫌と言うほど見ているが、いくら熟達した魔法使いでも、否、熟達しているからこそ魔力を失った時の反動は凄まじい。フェルはまだ『熟達』の域に達しては居ないが、保有する魔力は熟練のそれに勝るとも劣らない。それは様々な魔法使い達が認めている。
 そんな事を思いながら銀の髪をいじっていると、不意にそれが不自然に揺れる。何かと思って視線を向けると、紫の瞳がぼんやりとこちらを見ていた。
 クロウィルは椅子から立ち上がり、代わりに寝台の端に腰掛ける。白いシーツの中に沈んでいる白い手を握って顔にかかる前髪を払い、宥めるように頭を撫でながら口を開いた。
「ここにいる、大丈夫だ」
 それだけを言って頬に手を当てる。彷徨っていた焦点が次第に定まって、そしてゆっくりとその場を見渡した。
「……フィレンス、は……」
「休んでる。夜が明けたばっかりだ、起きるか?」
 それを聞いてフェルは再び眼を閉じる。軽く息をついてから寝台に腕をついて、上体を起こして額に手をあてた。
「……頭、痛い……」
「変な所があるなら横になってろ、話が出来ればそれで良いから」
 ごくごく小さな呟きにクロウィルは言う。しかしフェルは微かに頭を振って、そして俯いたまま口を開いた。
「何時間、経ってますか?」
「五時間とちょっと、って所だな、まだ市場の鐘が鳴る前……っと」
 クロウィルが言いかけ、そして立ち上がる。ほぼ同時に扉をノックする音が転がり込んで来た。フェルが顔を上げて、そして怪訝そうな表情を浮かべる。寝台から出て白い上着を羽織り、低い手摺の下を見下ろした。所属者に割り当てられる部屋はほとんど同じ作りで、一人で使うには十分すぎる広さがある。更に中二階があり、フェルはその奥を寝床にしていた。
 その中二階から一階を見下ろすと同時に応答を待たずに入って来たのは、金の髪と瞳の人。フェルは眼を瞬き軽く首を傾げた。
「ヴァルディア様、何か?」
「情報が立て続けに入ってな、その後の経過を伝えに来た。さすが第二部隊だな、仕事が速くて助かる」
 言いながら彼は後ろ手に扉を閉め、言葉とは裏腹に疲れた様子で息をついた。短い階段を上り、彼はフェルを見る。
「大丈夫なのか」
 唐突な問いに、しかしそれが唐突だからこそフェルは引き攣った笑みを浮かべた。視線を外して虚空を彷徨わせながら、小さく言う。
「……大丈夫じゃないかもですねー」
 瞬間、フェルのすぐ後ろに立っていたクロウィルがその細い身体を肩に担ぎ上げ、くるりと踵を返すと寝台に向かって歩き出した。まるで荷物のような扱いにもフェルは何も言えず、ヴァルディアも呆れたように眼を細める。
「……この短時間で全快するとでも思っているのか?」
 無言のクロウィルによって寝台に降ろされたフェルにヴァルディアは言う。フェルは寝台の上に座り、乱れた銀の髪を整えながらそれに答えた。
「目が覚めてしまったので。確かに眠っていた方が魔力の回復は早いんですけど、魔法での強制的な睡眠ってあまり長続きする方じゃなくて……」
「抵抗力の問題だな。……手を」
 言われて、フェルは素直に左手をヴァルディアに差し出す。彼はその手を握り、瞬間その手が燐光を纏った。
「『我が下に在る時の精霊……』」
 短い詠唱とともにその燐光が何か文字のような紋様を刻み、ヴァルディアは更に何事かを呟く。同時に燐光が立ち消え、それを見ていたフェルが長官を見上げた。
「……良いんですか?」
「ああ。私が前線に出て戦う事はもうほとんどないからな」
「……今のは?」
 その会話を聞いていたクロウィルが疑問符を浮かべた。それを見てヴァルディアが口を開く。
「私の魔力を分け与えた。魔法使いは魔力が枯渇している状態では疲労が溜まる一方だからな」
「そんな事できるのか」
「魔力の譲渡もそうですし、魔法それ自体の譲渡も場合によっては可能ですよ。魔法の譲渡は本当に偶然が重ならないと出来ないんですけどね」
 フェルが言って、ヴァルディアは無言で頷く。そしてクロウィルを見て口を開いた。
「……フィレンスが言っていた通り、犯人は魔法使いだな。協会内で私が捕えたのは七人だが、その全てが魔法で操られている状態だった。そちらで捕まえた輩がどうかは分からないが……とにかく、魔法の効果は途絶えていて犯人特定には役に立たない。捕まった奴は事情を聞いた後解放したが」
「ってことは加担者にさせられただけ、か……所属者を操ったのは撹乱か……?」
 クロウィルは言って口元に手をあて、思考を巡らせる。ヴァルディアは彼の言葉には頷いてみせ、そして溜め息をついた。
「私も、所属者の締め付けはしていなかったからな……しかしこの夜のうちに姿を消した魔法使いも騎士もいない。何処から入り込んだのかは、師団の方で確認を頼みたい」
「頼まれた。というか第七がやってくれてるはずだ」
「上々。それと……フェル、覚えている事は?」
 唐突に向けられた問いに、フェルは反射的に首を振った。黒服の記憶が脳裏に浮かぶが、ヴァルディアを見返して口を開く。
「あんまり……ほとんど、見てなくて。助けてくれた人はいたんですけど、顔は……声は、どこかで聞いたような気がするんですけど……」
 言うとクロウィルが頭に手を置き、軽く撫でられてフェルは眼を瞬く。彼を見上げると、クロウィルはこちらを見ないままヴァルディアに向かって言った。
「俺も見た、恐らくっていうか、ほぼ確実に悪魔族だ。赤黒い翼を隠しもしていなかったし……自分を所属者だとも言っていた。長官、心当たりは?」
「いや……ないな。蒼樹に入るのに種族は関係ない、私も官吏達もいちいち確認はしていないからな……分かった、それはこちらで調べよう」
 言ったヴァルディアがフェルに視線を向ける。何かと首を傾げた彼女に、ヴァルディアは少し考えるような仕草をして、そして口を開いた。
「……一応、伝えておこう。黒服が、話を聞きたがっていたぞ、フェル」
「え?」
 クロウィルの手の下から彼を見上げると、ヴァルディアは仄かに笑みを見せて踵を返す。その途中で姿が消え、フェルは更に首を傾げた。クロウィルがようやく手をどかしてそれを見る。
「どうした?」
「……長官、大丈夫ですかね?」
「何が」
「少し疲れてるみたいでしたけど、……って私のせいですよね絶対……」
 フェルは言いながら寝台に突っ伏した。両手で頭を抱えて唸ると頭上からクロウィルの押さえた笑い声が聞こえて、そして寝台に片側が沈み込む感覚。
「フェルのせいじゃないって、悪いのは相手だし」
「いや、私が紫銀じゃなければこんな事には……」
 言った瞬間、沈黙が落ちる。そのまま数秒が流れて、フェルは俯いたまま内心であ、と声を上げた。更に数秒経って、そしてすぐ近くから溜め息が響く。
「……フィレンスがいなくて良かったな、フェル」
「……すみません」
「ついでに言えば俺以外の護衛がいなくて良かったな」
「…………ごめんなさい……」
「イースとかがいたら更に惨状だな」
 何も言い返せないまま、フェルはほんの少しだけそっと顔を上げる。クロウィルの翠の瞳が呆れたような表情を浮かべているのを見て、気まずくさが増していく。
「俺は別に何も言わないけど」
 言ったクロウィルがこちらを見て、視線が合うがフェルはすぐにそれを外す。誤摩化すように掛布を引き上げて口元を覆うが、視界の端でクロウィルが笑うのが見えて僅かに眉根を寄せた。
「……それが言ってる事になってますよ……」
「フェルが悪い」
 その言葉とともに軽く頭を叩かれる。クロウィルはそのまま銀の髪を手に取り、指先でいじりながら息をついた。
「大体、フェルが紫銀じゃなかったら、フェルの事を前団長が見つけたとしても護衛師団に来る事は無かっただろうし、もしそうならフィレンスとも会ってないぞ?」
「そうですけど……出来れば青とか翠とかが良かったです。水麗神と風俊神の色ですし、……」
 言いながらクロウィルを見た瞬間、フェルはもう一度、あ、と小さく声を零した。
 視線が合って、そしてやおらクロウィルがにやりと笑う。
「へーえ、そうかそうか。変えてもらえるように頼んでみたらどうだ、その龍神様に」
「っ、違いますからね!? 絶対にあなたが思ってる事と違いますからね!?」
 自分の顔が朱に染まるのを感じながらフェルは反射的に言った。クロウィルから遠ざかるように寝台の上を後退る。
 『青翠』の騎士、クロウィル・ラウラス=フィオン。髪は青、瞳は翠。フェルは未だ笑っているその彼の視線に絶えきれず、言った。
「偶然です、深く考えて言った事でもありませんし!」
「つまり深く考えなくてもそんな言葉がついつい出るほど青と翠が好きなんだなフェル」
「だから違いますってば! 単にその色自体が好きなだけであって別な意味なんてありませんからね!?」
 クロウィルのそのからかいの笑顔が深くなる。眼を細めて口の端を微かに吊り上げて、そしてクロウィルは楽しげに言った。
「別な意味って、何の事だ?」
 フェルは一瞬硬直し、その顔が瞬く間に更に赤くなる。言い返すにも言葉が出て来ないフェルの髪を一房手に取り、クロウィルは更に問い掛けた。
「何考えてたんだ、フェル? 青と翠に何か特別な意味でもあるのか?」
「っありません! 何でもありませんから! 放して下さい!」
 フェルは言いながら更にクロウィルから離れようとするが、しかし髪を掴まれていてはそれ以上動けない。クロウィルはその手を緩めるでもなく強く引くでもなく、ただフェルが逃げられないようにその髪に指を絡めた。そうしながら口を開く。
「そういえば、ここまで綺麗な銀髪も珍しいよな。大概が何かしら他の色も多少は混じって青銀か緑銀なのに、ただの白でもなく銀色か」
「――ッ、ええそうです何の色も混じってない無彩色ですみませんね!」
 青と緑を更に強く強調されて、尚も楽しげなクロウィルに対してむしろ開き直ったかのようにフェルが言う。しかしクロウィルは不意に笑みを消し去り、そして静かに口を開いた。
「俺は好きだけどな」
 クロウィルがそれを言い終えると同時にフェルが完全に動きを止める。それに気付かず、彼は銀の髪をしみじみと眺めた。
「銀は邪の色だって言うけど、実際そういった話は聞かないし……銀は世界中に普及してるしな。嫌う奴の気が知れない。紫銀だって銀は持ってるのに何を今更って思うけど……」
 言うクロウィルが視線を上げ、再び硬直したフェルと眼が合う。言うに言えなくなったままのフェルを見て苦笑し、クロウィルは唐突にフェルの髪を手放し、その腕を伸ばす。
 捕えた細い腕を軽く引けば軽い体がそれについて来て、クロウィルは倒れこんで来たそれを両腕で抱き締めた。
「――――ッ!?」
 眼を見開いたフェルが突然の事に声も上げられず、ただ文字通りにその身体が跳ね上がる。クロウィルが喉の奥で笑い、フェルはその身体を押し返そうと腕を突っ張った。
「な、なっ、なんっ!?」
「寒いだろ? こうしてれば暖かい」
 言われて自分が身につけているものが薄い夜着と同じく薄い上着一枚だけだったと思い至る。ちょっとこれって色々とやばいんじゃないかと思って更に抵抗の手を強めるが相手にもされず、フェルは混乱した頭で何とか言葉を放った。
「掛布で十分ですから! というかそれ以前に上着ありますからそれで大丈夫ですっ!」
「俺がこうしてたいから却下」
「私は嫌ですから!」
「嫌か?」
「嫌ですよ当然ッ!」
「そうか。でも俺は嫌じゃない」
 言い切り、クロウィルはフェルを抱き抱えたままで器用に掛布をたぐり寄せ、細い肩を覆い隠す。何のためかと言えば自分のためなあたり何だか物悲しい。
 フェルはその掛布を片手で引っ張って俯いた顔まで覆い隠し、もう片方の手でクロウィルの胸板を押し返そうとするが、単純な力の差でそれさえ出来ずに簡単に押さえられてしまう。
 クロウィルは少し考えてから、声を押し殺して俯けられた頭に顔を寄せた。
「フェル?」
 銀の髪に覆い隠された耳元で呼ぶと、フェルは顔を上げるどころか小さく背を丸めて掌で耳を覆おうとする。その手を掴んで阻止し、クロウィルはもう一度呼びかけた。
「フェル」
 抱き締める腕の力を緩めると、小さい身体が揺れて恐る恐る掛布から赤い顔が現れる。紫色の瞳の目尻が泣き出しそうに歪んでいるのを見て、クロウィルは苦笑を浮かべてそれを肩に抱き込んだ。
「ごめんごめん。やり過ぎた」
「…………常春騎士……」
「ごめんって。ああ、でも仮に常春だとして、そしたら季節が春になったら大変だな。二割増は確実だと思、ッ!」
 言いかけ、腹部に走った衝撃にクロウィルが咽せる。その彼の脇腹に拳を突き刺したフェルが右手を左手で覆い、そして予想以上に自分に返って来た鈍痛に涙眼になりながらそのクロウィルを睨みつけた。心は別に痛くはないが、それよりも拳が痛い。
「っ、の、馬鹿騎士……ッ! なんであなたしか残ってないんですか! イースさんは!?」
「ああ、本部に戻った」
 軽く咳き込みながらもクロウィルはさらりと答えた。さほどの衝撃にもなっていないらしい。言葉に詰まったフェルを見下ろしながら彼は言う。
「フィレンスは休んでるし、ラルヴァールとラカナクは軍部に交渉に行ってる。スフェリウスとジルファは捜索続行中、俺は護衛」
「普通護衛はこんな事しませんよ!?」
「残念ながら護衛師団は普通の護衛じゃないからな。その上第二部隊は全体的に年齢層が低くて仲が良いから家族化してるしな。まあ、普通は家族でもこんな事はしないだろうけど」
「そう言うんだったらやらないで下さいよ!」
「ヤだ。こんな好機みすみす見過ごせるかって」
 クロウィルは言うなり腕に力を込める。フェルはもう何度目か分からないほど顔が赤くなるのを感じて、隠すのは諦めて代わりとばかりにクロウィルを睨みつけた。が、返ってくるのは余裕の笑み。
「そんなんじゃ凄んでも全然怖くないぞ?」
「知ってます! 誰のせいだと思ってるんですか!」
「素直にならないフェルのせい」
「責任転嫁!」
 フェルは何とかクロウィルの腕から逃れた片腕を伸ばし、掴んだ枕を彼の顔面に叩き付ける。柔らかく鈍い音とともに拘束が緩み、その隙にフェルはクロウィルの腕の中から逃げおおせ寝台から飛び降りた。
 離れた場所にある本棚に寄りかかり、早鐘を打つ心臓を宥めていると、後ろかから息をつく音。ついでクロウィルの声が響く。
「あー……これフィレンスにバレたら殺されるな……」
「是非殺されて下さい二度ほど。そして私に安息を下さい」
 クロウィルはそれを聞いて軽く笑う。 フェルは息を整えて、近くの木の椅子に座った。乱れた髪を手櫛で梳き、不意に眼に入った本棚を見上げる。その中から一冊を引き抜き膝の上で広げると、それは古代語の本だった。
「……フェル?」
「何ですか?」
 呼びかけに顔を上げて聞き返せば、クロウィルは今の今までのふざけた様子は何処へやったのか、護衛師団の騎士としての表情を浮かべ、口を開いた。
「本当に大丈夫か? 違和感とか無いな?」
「……ありませんけど、どうしましたか、クロウィル」
 その様子に僅かに気圧されながらもそう応える。クロウィルは安堵するでもなく不審に思った様子も無く、フェルの問いに答えはせず、ただ短くそうか、とだけ言った。
 何かと思って軽く首を傾げる。フェルが口を開きかけたとき、軽いノックの音が部屋に転がり込んで来た。




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