扉を叩く音に二人揃ってその方向を見て、そして視線を交わす。フェルが動くよりも早くクロウィルが立ち上がり、そして短い階段を駆け下りていった。
フェルは首を傾げてそれを見送り、少し離れたところで小さく交わされる会話を聞きながら再び本に視線を落とす。
「――フェル」
しばらくしてから聴こえたクロウィルの声に顔を上げ、本にしおりを挟んで抱え込み下が見渡せる場所に向かう。今まさに扉を閉めたその人を見て、フェルは眼を瞬いた。
「セオラスさん?」
呼びかけると彼がこちらを見上げる。瞬間、彼は何故か視線を彷徨わせながらばつの悪そうに口を開いた。
「あー……ちょっと心配で。邪魔だったならすぐ帰るけど」
フェルは更に首を傾げる。上衣の前を押さえながら階段を駆け下りてクロウィルを見ると、彼が満面の笑みを浮かべてこちらを見ていたので光速で無視。瞬時に思考を巡らせて、そしてフェルはセオラスに向かって煌めく笑みを閃かせた。
「何を想像したのか聞いても良いですかセオラスさん?」
一瞬だけ合った視線は、しかし瞬時に逸らされた。
「いや、聞かない方が幸せだと思うし聞いてくれない方が俺が幸せになれるから聞かないでくれ」
それを聞いてフェルは残念そうな顔をしながら、後ろ手に喚び出した魔杖を消し去った。セオラスはそれを見て引きつった笑みを浮かべる。――良かった、万全じゃないとはいえフェルに勝てる気はしない。勝ててもその後が怖い。
フェルは息をつき、そして今度は素直な笑みを浮かべた。
「ともかく、心配して下さって有り難うございます。おかげさまで大事ありません」
「あるだろうが」
クロウィルがそのフェルの頭を軽く小突き、フェルは大して痛くもなさそうにそこに手をあて眼を細めてクロウィルを見やる。しかし何も言わずにセオラスに視線を戻して、そして眼を瞬いた。
「それで、本当の用件は何ですか?」
その問いに、セオラスは僅かに眉根を寄せる。すぐにそれを打ち消すと、やっぱり、と言わんばかりに口を開いた。
「……鋭いんだな、フェル」
「予想は付いてましたから。……護衛師団の巣窟になっていそうな私の部屋に、たとえ無関係だったとしても黒服が入ってくるのは、相当な勇気がいると思いますが。必要なら彼も下げますよ」
彼、と言いながらフェルは肩越しにクロウィルを示す。本棚を勝手に物色していたクロウィルは肩をすくめるだけで特に何も言わず、しかしセオラスはそれには首を振った。
「いや、それをして疑われるのも怖い。で……フェル、ちょっと良いか?」
「……なんでしょうか」
改めての言葉にフェルが首を傾げる。その後ろでクロウィルがあからさまに眉をひそめたのを見なかった事にして、セオラスは僅かに逡巡しながらも口を開いた。
「少し、頼みたい事が……」
セオラスが言いかけた瞬間、フェルは手にしていた本を、何気ない動作で机に叩き付けるように投げた。
彼の言いかけた言葉が喉の奥に消える。クロウィルも小さく眼を見開く中、机の上の小物がかたかたと音を立てる。それが収まった頃、ようやく瞠目したセオラスを見上げて、そしてフェルはにこりと笑んだ。
「絶対に嫌です」
「……え?」
「どうせフィレンスの事でしょう? 私は友人を好奇心のエサにするつもりはありませんし、それ以前に私にフィレンス関連の事頼むなんて良い度胸してますね? 私とフィレンスが仲良いの、知ってるでしょう?」
いつも通りの笑みを浮かべて、しかし言い放つのは完全な拒絶の言葉だ。フェルはそこまでを言って視線を外し、本棚に歩み寄った。何冊かを検分するように半ばまで引き抜いて、そのうちの数冊を腕に抱えながら口を開く。
「大体、私に聞いてどうするんです? 他人伝えに聞いた話を素直に信じられるだとしたら、相当平和な頭してますね」
「……フェル」
さすがにクロウィルが声を上げ、しかしフェルは肩をすくめるだけ。口を閉じはしなかった。
「全てを知っている方を喚ぶくらいはしても良いですけど、対価を払うのは私ですしね。そこまでの余力はさすがにありませんし、要するに自分達だけで何とかして頂きたいです」
自分『達』で。今ここにいるのはセオラス一人だが、彼が一人で考えて行動しているとは考えにくい。どうして全員で来なかったという方がフェルにとっては疑問だが、しかし今はそれに触れなかった。
言い終えたフェルはそのまま本を抱え直して、短い階段に足を掛ける。その途中、唐突にセオラスが声を上げた。
「十二の方々を喚びたい、対価は俺達で何とかする。……それじゃ駄目か」
その言葉にフェルは足を止める。しかし眼を向ける事すらせずに言い放った。
「……龍神の召喚、今までに試した事が無いなんて言わせませんよ。それでもそれを言うんですか」
「…………」
「騎士の禁忌破りを異端だと決めつけて、自分達のそれを棚に上げた。その対価くらい自分で払えと、そういう話です。……というか、大体何でセオラスさんがここに来たのかが分かりませんね。やりたいんだったら自分で来いと、来る気がないんだったら他人に説得なんか任せるなと思いますが」
フェルが言うと、セオラスは眼を見開いた。決まりが悪そうに、頭を掻く。
「……そこまでわかってたのか」
「人間の考える事なんて大概一緒ですから。私だったら絶対に嫌ですもん、怒ってる人の説得に行くの。それにセオラスさんは少なくとも表面上は禁忌の事気にしてなさそうですしね……ともかく」
そこでようやくフェルはセオラスを見る。向けられた視線は、しかしどこか笑んでいた。
「その上で協力するだけなら、構いません。自分のした事を素直に認められないほど狭量な人の頼み事なんて聞きたくもありませんから。それと、交換条件として私の頼み事もお願いしたいです」
「……どんな事を?」
セオラスが聞き返すと、フェルは少し考える素振りを見せて、そして口元に手をあてながら言った。
「そうですね……とりあえず、今協会に居る全ての黒服達をかき集めてもらいましょうか」
「ヴァルディア様ー、ちょっと良いですか」
「遊んでいられるほど元気なら仕事の一つや二つくれてやっても良いんだが?」
フェルの声に顔を上げ、ヴァルディアは皮肉めいた笑みを浮かべながら言う。フェルは満面の笑みで応戦した。
「それを言うのであればもっと多く魔力わけて頂きたかったです長官様。……じゃなくって。龍神の召喚魔石持ってませんか?」
執務室の扉から顔を覗かせたままフェルがそう言った瞬間、ヴァルディアは心底疲れたと言わんばかりに溜め息をつく。両手を組んだ上に額を乗せて更に息を吐き、そして口を開いた。
「お前、私が何でも持っていると勘違いしていないか?」
「持ってないんですか?」
意外そうなその声に更に溜め息をついて、ヴァルディアは机の引き出しから小さな箱を取り出す。それを開けて、中に入っていた布包みをそれごとフェルに向かって投げつけた。
「え、ッ!?」
一拍反応の遅れたフェルが、なんとかそれが直撃する寸前に掴み取る。何の競技だ、と一瞬のうちに思って、そして長官を睨み付けた。
「投げないで下さいよ! 危ない!」
「うるさい。昨夜のあれは一体誰のせいだと思ってるんだ?」
「私のせいじゃありませんから。私が荒事呼び込んでるんじゃなくて、荒事が私の方に突っ込んでくるだけです」
人はそれを同じ事だと言う。ヴァルディアは何度目か聞くその言葉に溜め息をついた。フェルの言葉は続く。
「それに、今も遊んでるわけじゃないのであしからず、です。……少し喧しいくらいしとかないと、周りのみなさんに申し訳ないですし」
言ったフェルを呼ぶ声が廊下から聞こえる。フェルが一旦顔を引っ込めてそれに返事を返し、そしてもう一度ヴァルディアを見た。
「有り難うございます、今度手に入った時に返しますね!」
「気にするな」
ヴァルディアが言ったそれを耳半分に、フェルはそのまま走り去り、少し遅れて扉がぱたんと閉まる。ヴァルディアが溜め息をついたのを見て、少し離れたところで書類の整理をしていたクラリスがくすりと笑った。
「お疲れですね、長官」
「全くだ。……自分の不調すら素直に口に出せないとはな」
「彼女なりの気遣いなのでしょうね」
クラリスのそれに息をつく。他人が自分のことを心配することに対して負い目を感じているのだろう、なまじ自分が騒ぎの中心にいたからこそ。行動を起こしてまで彼等のそれを払拭しようとしているのだから、人がいいと言うか。
しかしあの様子は絶対に本調子じゃないぞ、これで本当に龍神を呼び出す気ならどれだけやせ我慢するつもりなんだ、と呟き再び息をつく。クラリスは更にくすくすと笑い、ヴァルディアはそれを見て微かに眉根を寄せた。
「……クラリス」
「いえ、何でもありません」
少し批難するような色をはらんだ彼の声に、笑いを抑えながら彼の秘書は答える。それでもその小さい笑い声が完全に消えることはなく、長官は更に憮然とした表情を浮かべた。その横でクラリスは楽しげに口を開く。
「そういえば、この数日でフェルはうまくここに馴染んできて、所属者たちもフェルに慣れてきたようですね」
「慣れてもらわなければ困るからな。いつまでも『キレナシシャスの紫銀』ではいられない」
「長官は、それでよろしいのですか?」
その問いにヴァルディアは口を閉ざす。少しの間が開いた事にクラリスが手をとめ、その彼女の視線を受けてようやくヴァルディアが口を開いた。
「……そうしなければ、見つかる」
「……ですが、まさかここにいるとは思いもしないでしょう?」
「いや、ここでは全ての力が出し切れてしまう。全てが揃った事で、特定はより安易になる筈だ。だが、私の結界でそれは阻める。……遅かれ早かれそうなるのが定めなら、できうる限りの抵抗はする。先送りにするくらいは全く問題ないだろうからな」
「クロウィルは不審に思っているでしょう、あの様子では。フィレンスは、まあ慣れているからこそ気付いていないようですが……」
「私も気をつけてはいる。どうしてもそうなる場合はそうなるし、仕方がない事だと思って諦めてくれ。……大体……十二年ぶりだぞ? 我慢できると思ってるのか?」
「……あえて発言を控えます。それと、言葉遣いが乱れてますよ、長官様」
言われて、ヴァルディアは何度目かも分からない溜め息をついた。クラリスが作業を再開しながら更に口を開く。
「オーレンも動き出したようですが……あれは、あとで諌めておきましょう」
「いや、あれについては私たちが出るべきではない。蒼樹の黒服を着ているからと言って長官が関与できる事ではない、私たちも今は『蒼樹』の肩書き付きだからな」
「ですが……あれは逆効果でしょう」
「オーレンは、思い出して欲しいだけだ。フェルはそれを拒否した。理性ではなく。……後は、本人の判断だ。寸前で消えた先を、現すか、それとも別の駒を使うか……」
「ですが、今は消えたのであれば……」
「ああ。……分かっているからこそ、動けない」
それを聞いてかクラリスが空を仰ぐ。書類を手に腕に抱え直して、ゆっくりと息をついた。
「……嫌なものですね、待つばかりと言うのは。……記憶がないだけ、まだ知らずにすむけれど……」
それも一時しのぎのものでしかない。憂鬱そうにつぶやくそれにヴァルディアは何も答えず、ただ深く息を吐いた。
そこに、扉を開く音が転がり込んだ。視線を上げて、そして。
「悲観主義は歓迎しないな、ヴァルディア」
「――ッ、!?」
言葉とともに執務室に足を踏み入れ、触れられてもいない扉がひとりでに、音もなく閉じる。目を見開いたヴァルディアを見下ろしたのは豪奢なローブを羽織った女性。そうしてその女性は、妖艶に笑んでみせた。
「十年ぶり、か。あの若造が、ずいぶんと偉くなったものだな」
「ッ、エシャル様……!?」
腰を浮かせたヴァルディアが上げたのは驚愕の声。クラリスが無言のまま深く頭を下げ礼をするのに、女性は手でそれを制した。そしてヴァルディアにまっすぐ視線を向ける。視線を受け、ヴァルディアはゆっくりと口を開く。
「……何か、問題でも起こりましたか」
それは常日頃の淡々とした事務口調ではない。嫌悪すらはらんだ敵意の声だ。そして問いかけられた女性は薄く笑みを浮かべたまま首肯した。
「まあな。……安心しろ、お前が考えている最悪は、まだその出番ではない。お前が考えているような『問題』も、まだ起こりはしない」
それを聞いたヴァルディアの顔から幾らか固いものが消え、小さく息をつく。女性が一言もなく長椅子に腰掛けるのを見て彼も椅子に座り直し、しかし胡乱げな表情を浮かべてその人を見た。
「ですが、なぜ今更になってまで……私たちの役目はもう終わりも近いのでは?」
「いろいろと状況が変わったという事だ。緑紅の方も、穏やかでないとヒセルスに聞いてな」
「……蒼氷神は、何か?」
「怒っていた、さすがにな」
その言葉にヴァルディアは溜め息をついて額に手を当てる。女性はからからと笑った。
「今度会う時には覚悟しておけ。あいつは後手に回るような状況やそれを作った張本人が大嫌いだからな」
「いつになるか分かったものではありませんが。……それで、今度は私達にどんな無理難題を振りかけるつもりですか、エシャル様」
「無理難題、か……」
瞬間、女性の顔から笑みが消える。それを見たヴァルディアの表情が僅かに強張り、しかし女性はすぐ小さな笑みを浮かべた。
「エシャル様?」
「察しがいいんだか、悪いんだか……」
ヴァルディアの疑念の声には女性はただそう呟いて、僅かに疑念を浮かべるヴァルディアを見て苦笑する。そして身にまとったローブの中から銀鎖を取り出し、彼に投げ渡した。
ヴァルディアはそれを空中で掴み取り、そして途端に目を見開き女性に視線を向ける。女性の声。
「フェルに、持たせておけ」
瞬間、ヴァルディアは眉をひそめた。鎖を握りしめると同時に感じるもの――純粋すぎる、そして強烈な『邪』の氣。それが隠し込められたそれを手のひらに握り込み、ヴァルディアは静かに口を開いた。
「……もう既に、顕現の予兆が現れている。『あいつ』を、助長する事になる」
「だからこそだ。……これからは色々と無理難題が降り掛かってくるだろう、私達が表立って助ける事ができればいいが、今回はそれは難しい。となれば……最悪『紫銀』の死を一時的に逃れるためにも『あいつ』の力を借りなければならない事態に陥る事も考えうる」
「それ自体には異論はありません、だがそれをやってしまえばその場の――」
「周囲の被害を考えている余裕があるか?」
女性がそう言い放ち、ヴァルディアが言いかけた言葉を押し殺す。女性はヴァルディアを見はせずに、しかし虚空を睨み付けた。
「他に手があるのであれば既に打っている。こちらに用意された手札は異様に少なく、今のこの状態では守る事で精一杯だ。まして守りに犠牲は必要不可欠、……誰かの死を惜しめば全てが死滅する。今世界が不安定なこの状況ではこれ以上『紫銀』を殺す事はできない、フェルがそれを知るとも知らぬとも。……お前の今の役割は『蒼樹の長官』、そして『導き手』だ。誘う者へと道を付けるだけ、それ以上でも以下でもなく、もちろん放棄する事すら許されん」
静かな声。二人の応酬を無言で聞いていたクラリスが不安げな視線をヴァルディアに送るが、しかし珍しくもそれに気付かず彼はその女性に問いかける。
「……フェルには、伝えないと?」
「伝えたところで変わるまい。緑紅も青翠も、知ったところでどうしようもなかろう。最終的にはフェルの意思如何だが、……贄姫が、どう考えるかだな」
最後の一言にヴァルディアの肩が小さく揺れる。さながら睨み付けるように女性の横顔を見つめ、押さえた声音で口を開いた。
「……それでは、もう」
「ああ。少なくとも時期は近い。お前達の手を逃れた『白』も動き出したようだ……恐らく、この季節を乗り切れはしまい。その時には……」
声が途切れる。言葉を選ぶかのように思案して、しかし女性は諦めたように息をついた。
「フェルは死ぬ」
「あーあ、とうとう来る所まで来ちゃったねぇ」
真っ白なローブを羽織った少女が楽しげに言う。外套のようなそれのフードを目深にかぶり、髪も括っているのか一筋も見える事もない。声の割には白い丸い手でそのフードを押さえ、表情のほとんど見えない彼女は口元をにやりと歪ませる。顔が見えないかわりか、声音は凍ったように響いた。
「クセル、準備しておいた術式だけど、予想以上には早く完成するよ。……予定よりもって言ってもあと半年くらいは覚悟してもらう事になるだろうけど」
言いながら少女が視線を向けた先に、こちらは暗い色の外套で頭から足の先までを覆い隠した男。彼は首元を手で引いて僅かに緩め、そして口を開いた。
「分かってる。……あれほど大きな魔法だ、一から組み立てるのであれば早い方だろう」
「言ってくれちゃって。クセルがやった方が早かったでしょ?」
それには無言を返し、男は背を向ける。少女が驚いたように声を上げた。太い樹の幹の上、しかしその上に立つ彼のその動作には一切のぐらつきがなく、腰掛ける少女も特に気にした様子もなく声を上げた。
「あら、見なくていいの?」
「どうせ出てくるのは十二のうちのどれかと漆黒、あるいは真紅だけだ。そんな底辺に用はない」
「漆黒を底辺ってねぇ……。替えはいくらでも利くのに、初代の事ばっかり考えちゃってまぁ」
瞬間、少女の頬を鋭い風がかすめる。同時に喉元に突き付けられた刀身を見て、しかし少女は笑った。
「殺していいの? 私を殺せば全部闇の中だけど?」
「……異邦人が」
「来訪者って言ってほしいね。……ほらクセル、無駄だって分かってるんなら、剣、降ろしなよ。私の力を知らないわけじゃないでしょ?」
言った少女の腕の中にあるのは、赤茶の装丁に繊細な金の装飾の施された、巨大と言うに相応しいほど大きく、そして分厚い本。そして彼女は刀身から目をそらし、男を見るでもなく、足下に広がる風景――蒼樹を取り囲む町の全景を見下ろした。
「……二人の紫銀、出会ったのは魔法の大国キレナシシャス。禁忌破りやら悪魔やら天使やら、果ては絶滅種も集まって……そのまま蒼樹に移動したのも、天の采配かな」
「神をも捕える白い糸、か。聞き飽きたな」
「でも逆らう事はできない。君もね、クセル。……野暮な事はしないもんだよ。傍観者は傍観者らしく、いくら不都合があろうと手を出さない。出したら、君も歯車だよ」
男はそれを聞き、小さく舌打ちを漏らした。少女が指一本も動かさず、一言も発さないまま、いつの間にか体を拘束する力がある。そのまま抵抗もできずに手が剣を手放し、樹上から地面へと落下する最中にその剣も空気に解けるように消え去った。少女の唇が更に弧を描き、見えないながらも気配を感じ取ってか男は口を開く。体は動かない。
「……興味ない。放せ」
「駄目。……見てた方がいいよ、これからのために。私もこれからの事、いい加減決めなきゃいけないし……」
「殺してやろうか、貴様」
男が低く唸る。少女は笑みを崩さないまま、男を見上げた。風が吹いた拍子にそのフードが落ち、身を切るような冷たい空気に晒された髪が舞い上がる。
色は、黒。
「それこそ聞き飽きたよ、クセル」
言い放ち、少女はフードを被り直す。髪を押し込むようにローブの中へと追いやって、そして息をついた。
「それに、なっかなかフェル達が気付いてくれないからって私に当たるのは違うでしょ? フィレンスはともかく、フェルとか、特にクロウィルの感情なんて私には分からないんだし」
「同じようなものだろうか」
「違うよ」
即答を返して、少女は町に視線を戻す。笑みがゆっくりと消え去り、彼女はフードの中で眼を伏せた。
「違うよ、全然。……仮にそうだとしても、それは私を通過した『誰か』の意志。私はその意志を現実に映すだけ。どうせ部品でしかないから自分の事も一切決められない、分からない。この本に従って、それだけ」
指先で腕に抱えた本を指先で弾き、溜め息をつく。そして男を見上げた時には、既に元通りの笑みが浮かんでいた。
「だから、今は君に協力するよ、クセル。既に歪んだ時空軸を正してくれるならね」
「……それが契約内容だろう。それを違える事はないと、そう誓わされたはずだが?」
「どうだかね」
協力すると言いながらのその言葉に、男は呆れたように息をつく。
太陽は既に地平線を離れていた。
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