居住棟の廊下を走る。何度か角を曲がっても人の気配は異様と言って良いほどに全く失せていて、その中、目当ての扉を見つけて、そしてロイはそれを叩いた。
「フェル! フェル、居るか!?」
 手を止め、荒い息を押し殺して少しの間待つが、しかし返答は無い。ロイは膝に手をついて大きく息をつき、そしてすぐさま元来た道を取って返す。居住棟から主棟、東棟へと渡って外に出れば、そこにあるのは屋外調練場。
 太陽は既に西に向かって傾いている。まだほんの薄い闇に覆われつつある調練場には、居住棟と打って変わって多くの白服達が集まっていた。何かを囲うように大きな半円を描いている彼等の、その人垣の奥を見やれば、見慣れた三人が立っている。
 フィレンスとクロウィル、そして蒼樹長官のヴァルディア。これから一体何が起こるのかは、おそらくこの場に集まった白服のほとんどが勘付いているだろう。ロイもそうだった、だからこそフェルを探したが、黒服達は協会のどこにも見つからない。この場にも、いるのは白い服を纏った騎士だけだ。
「――護衛師団?」
 不意に聞こえた声に、ロイは荒れたままの呼吸を押さえ込む。誰かは分からないが、白服の間で囁かれるそれに耳を向けた。
「ああ、そうらしい。隠して協会に入り込んで、何を考えてるんだか……」
「長官もそんな相手に一体何を……」
 そこまでを聞いて、ロイは抑えていた息を吐き出した。聞こえるのは悪態やら陰口やら、聞きたくもないのに耳の中に入ってくる。
 フィレンスにも、このざわめきは聞こえているはずだ。しかし彼女は顔色一つ変えず、白服を見もしない。ただ淡々と長官と何かを話しているようだった。そのすぐ近くのクロウィルは時折周囲に視線を向けていたが、特にこれと言った反応は示さない。
 ここまで白服が集まった理由、その一つは長官が手にしている黒い剣。もう一つはその長官のもとに剣を携えた『禁忌破り』が現れた事だ。長官は時折白服の訓練に付き合う事もあるが、その時ですら真剣を扱う事は無い、訓練用の刃を潰したものを使っている。その彼が自分の剣を持ち、そして計ったようにフィレンスが現れた。そして昨夜の一件は伝え聞いてでも知っているのが大半だろう。
 手加減で相手の力を見るような事は無い。むしろ剣を交えれば即座に殺し合いへと直結しかねない二人だ、彼等の力を目の当たりにした事のある者は少ないだろうが、それくらいの予想はついた。
「……離れていろ、周囲の事など考えないからな、自分の身は自分で守れ」
 唐突にヴァルディアの声が響く。それを聞いて、集まって来ていた白服達がより距離を取るために散り、だがこの場を立ち去る者は少ない。白い人垣の中に大剣を背負う姿を見つけて、ロイはその彼に歩み寄った。
「なあ……」
「……ああ、どうした?」
 声をかけるとクロウィルの視線が一瞬だけ遠くなり、そして彼はすぐに聞き返してくる。そう言えば特にこれと言った交流があるわけでもなく、ロイは彼が自分を覚えていてくれた事に感謝しつつ、背後を指差し口を開いた。
「あれ……もしかして予想通りか?」
「だ、な。何か良く分からないけど色々条件出されてる、どうなる事やら。見てるだけで危険ってことには変わりないけどな」
 弊害がひどそうだ、とクロウィルは言う。適当な距離を取って問題の二人へと視線を向ければ、片方が苦々しげな表情を浮かべていたのが遠目にも分かった。それを見ながら、ロイはクロウィルにもう一つ問いかける。
「止めなくて良いのか?」
「止められるかって。口約束とは言え、師団と協会の交換条件だし……護衛師団の隊長を実力行使で止められるのがどれだけいるのかって所だな。今は俺が一応、制止役だけど、それこそ団長くらいじゃないと」
「……フェルは、」
「結果はとうに分かってるから別にいい、だと」
 ロイの言葉を遮ってクロウィルは言う。遠くに立つ白い姿に視線を向けて、そして息をついた。
「フィレンスに勝ち目なんて無いからな」



 ヴァルディアが周囲をざっと見回し、白服達が離れたのを確認してから剣帯に吊った剣の柄を握る。引き抜いたそれは、他の白刃とは違う、黒みを帯びた刀身。相対するフィレンスは自身の携える二振りのうち、片方を引き抜いた。
「嫌そうだな」
「これからどうなるのかを考えると嫌で嫌で堪らない」
 ヴァルディアの声にフィレンスは即答を返す。それを聞いた彼は口の端に小さく笑みを刻んで、手にした長剣を感触を確かめるように軽く振る。黒い刃、空気を切り裂く音が走り、それを見てフィレンスが息をついた。
「どうしてこの長官に対しては何も無いんだ……」
「私は元々魔法使いだ。お前と違って、文句を言われる筋合いは無い。……日が暮れるな、始めるか」
 その言葉に頷き、フィレンスはヴァルディアと距離を取って向かい合う。ほんの少し迷ってから、右に持っていた剣を左手で逆手に握る。そうして空いた右手で、滅多に使う事の無いもう片方をゆっくりと引き抜いた。
 ――双剣。ヴァルディアが僅かに眼を細めた。
「……今まで、協会では使わなかったようだな。何故だ?」
 言われて、フィレンスは右手に握ったそれを見やる。鍔に嵌め込まれているのは赤い宝珠。主に応えるようにぼう、と光を放ったそれを宥めるように指先で撫でる。――今日は、お前には頼らない。
「……さあ? 何かのけじめだと思うが」
 そうとだけ答えて、フィレンスはヴァルディアを見据える。二振りの剣を構えもせず、しかしヴァルディアはそれを見て満足そうに笑みを浮かべた。
 そして燐光が立ち上る。展開される構築陣が見えた瞬間、フィレンスは地面を蹴った。
 広がったそれが映り込む地面を剣先で切り裂き、途端展開されていた構築陣が構成を乱して霧散、魔力が拡散する。凄まじい速度で更に肉薄し迎え撃つ黒剣を右で受け流し左の剣で胴を薙ぎ払う。空を切る感触。
 しかし初撃のその勢いのまま更に踏み込み、逆手に握った剣を黒い刀身に絡ませる。ヴァルディアが眉をひそめてそれを素早く振り払い、そしてその反動をのせた白刃が襲いかかった。
 切っ先に軽い感触。しかしヴァルディアの姿は既にそこには無く、フィレンスは背後から襲いかかる魔法を見もせずに避け振り返るよりも早くその姿が掻き消える。
 同時に甲高い音が鳴り響いた。瞬身で一瞬にして距離を詰め襲いかかる剣を、しかしヴァルディアは的確に捌く。一際高く白刃を弾いた瞬間、燐光が灯った。
「『烈風の其の七、“リフューレ”!』」
 色違いの瞳が見開かれる。フィレンスがその場から離れるよりも一瞬早く凝縮された大気が爆発する。放たれたのは、もはや眼に見える姿を成した夥しい数の鎌鼬。
 金色の髪が一房舞い上がりあっという間に吹き散らされる。白い騎士の姿は既にヴァルディアから離れ、その頬には薄く紅い筋が走っていた。
 初撃は互いに軽傷。ヴァルディアが感心したように言った。
「……早いな」
 言いながら彼は自身の上衣の、その襟を横目で見やる。そこにあるのは小さく切り裂かれた痕。対するフィレンスも僅かに血が滲む程度のごくごく浅い傷一つ。
 風属性の魔法は展開、発動の速度がともに十二の属性で一番を誇る。元々超至近距離で発動された魔法を避けるのは至難なのに、中位と言えど風のそれをどうやって避けたのか。そう考えるヴァルディアの思考が分かったのか、フィレンスは頬を伝う血を無造作に袖で拭いながら口を開いた。
「瞬身を使っただけだが……ここ数年風属性をやたらに多用する魔法使いとずっと一緒に訓練していたから、単に慣れているだけだ」
「慣れか。それだけでここまで動けるようになるのであれば、世の騎士は苦労しないだろうな」
「私が苦労しなかったとでも?」
 ヴァルディアの声に僅かに眉根を寄せたフィレンスが言う。ヴァルディアはそれに微かに笑った。
「いや、さすがは『翔剣士』、と思ってな」
 その一言にフィレンスは苦虫を噛み潰したような顔をする。そうしながらも右の白刃が滑らかに大気を撫で、そして地を蹴る軽い音。霞んだと思った白い姿は、瞬きの間も置かずに肉薄していた。
 まるで誘い合わせるように瞬時に展開された構築陣が刹那強く輝き、生み出された火球が降り注ぐ。だがそれが到達するよりも早く薙ぎ払われた白刃を黒剣が受け流し、返す刃と白いそれが噛み合った。拮抗する一瞬、噛み合ったその上から更に衝撃が重なって、眼を見開いたヴァルディアが黒剣を振り抜いた。白刃が弧を描いて宙に舞う、ヴァルディアは地面を蹴って後方へ飛び、音を立てて地面を踏み締め、留まる。
 剣を弾かれ体勢を僅かに崩したフィレンスは、しかしそのまま器用にとんぼを切って素早く距離を取り自由落下に任せて宙を舞う白刃を空中で捉えた。そして寸分の違いもなく、再び元あったように二振りの剣を構える。ヴァルディアは自らの黒刃を一閃、そして眼を細める。
「……随分と無茶な戦い方をする」
「無茶を『させられている』だけなんだが……」
 言いつつもフィレンスの表情には、動揺やそれに類するものは見えない。とっさの事とはいえ素直に表情に出してしまったヴァルディアは軽く息をついた。――まさか鍔迫り合いを避けるためとはいえ、自分の剣を自分で斬るとは。しかも過去何度もやっているに違いない。回数を重ねれば、どちらかが負けて刃が欠けるだろうに。
 しかしその事は一旦意識の端に追いやり、長官は僅かに剣先を下げる。ぼう、と光ったのは燐光。
「『“レクェスト”の使徒、赴く者“ツェフィエール”!』」
 放たれたのは光弾。しかしそれが到達するよりも速く距離を詰め、フィレンスは向かい撃つ黒剣を受け流す。そのまままっすぐ喉を狙った刺突は彼の金の髪にすら触れず、だが空いた胴にいつの間にか正位置に握られた左の剣が肉薄。
 甲高い音とともに金属同士が擦れ合う音が響き、刀身同士が絡み合い引き攣れたような濁った摩擦音が空気を裂く。打ち合わされた刃が再び拮抗するよりも速くフィレンスはヴァルディアの剣の力の方向を無理矢理転換、そして素早くその場から離脱する。
 鍔迫り合いに持ち込みたくないのは事実だ。純粋な力の押し合いでは圧倒的にヴァルディアが有利で、たとえ一瞬でもその状況を作れるのであれば彼が優位に立つだろう。とにかくそれを作らせないようにしなければならない。その上確実に、長官はまだ本気を出してはいないだろうから。
 どうするか。互いに動かない状況で胸の内に呟きが落ちる。最初から勝ち目が無い事は分かっている、魔法が使えるとしても勝率は変わらないだろう。相手に『負けない』という選択肢も、相手がヴァルディア、教会の長官では残されてはいないに等しい。フィレンスはそこまで考えて、やおら眼を細めた。
 結論。考えても意味がないし、考えない方が無難。
 そうしてフィレンスは静かに息を整える。調練場に降る太陽の光は濃い橙に染まっている。――あともう少し。せめて陽が暮れてくれれば。
 見据えた先、ローブを羽織った彼の周囲に構築陣が浮かび上がり、そしてその燐光を残してその姿が消える。反射的に背後を薙いだ剣が、甲高い音とともに跳ね飛ばされた。



 フェルは遠くから聞こえて来たその音に一瞬だけ足を止め、しかし眼を向けすらせずに再び元あったように歩きはじめた。
 日が傾きはじめる前にウィナは天界に戻り、それからずっと黒服達は何か考えふけるように無言のまま。無理もないと思いつつもフェルは何も言わず、今は第二調練場に向かっている。
 護衛達は今はあの出来事の事後処理のために散っている。フィレンスは、今頃は他の事に頭を回す余裕は無いだろうし、クロウィルは白服達の牽制のため離れられないはずだ。そのため黒服か白服達のいる所にいろと、そう言われてはいるが。
 時間があるわけではないが、今しかないと判断した。後になればなるほど、難しくなる。
 屋内調練場は北棟に纏められている。その中でも一番端の方にもなると、床に敷き詰められた石材ももうぼろぼろだ。今は使われておらず、必要がなければ人も近付かず、年月の経過を示すかのように進むごとに痛みはひどくなって行く。元は石造りの棟だったのか、老朽化が進み明かりもないそこは影が重苦しく底冷えのする冷気が漂っていた。
 陽もそろそろ暮れるだろう、太陽が高い位置にあったうちは多少紛れていた寒さが剥き出しになる。肩にかけていただけのコートを体に巻き付けて更に歩を進め、そしてフェルは目当ての扉を見つけた。
 見るからに重い木の扉。小さく開いたままのそこに迷わず手をかけて、フェルはそれを押し開いた。体重をかけなければ開きもしない重いそれの奥に、一番に見えたのは布のかぶせられた巨大な何か。
 広すぎるほどの空間には、同じように白い布で覆い隠された物がひしめいていた。所狭しと並んだそれを見上げ、その間を縫うように歩を進める。靴の音は調練場の広さに反して響かず、フェルは周囲を見渡した。
「……オーレンさん」
 呼びかけるが、その声も手元で消えて行くかのようだった。林立する白いそれの間を縫うように進みながらフェルは僅かに眉根を寄せる。まるで迷路のようだと思うと同時に、その白い中に別のものが紛れ込んだ。
 何かと思って足を止める。暗闇に紛れて良く見えず、顔を近付けて良く良く見てみると、白い布に掠れた黒い染み。
 不意に掠めた臭いにフェルは眼を見開き、点々と続くその黒い物を辿って走りはじめた。
「オーレンさん!」
 叫んだ声はやはり響かない。進むにつれて周囲に漂うのは濃い錆の臭い。
 曲がりくねり、縦横に走る道を血痕を頼りに走り続けるうちに息が上がってくる。屋内と言っても調練場、魔法のかけられたここはかなりの広さを保つ。フェル自身どこをどう進んだのか分からなくなり、それでも続く後を追って走れば、唐突に視界が開けた。
 恐らくは調練場の中心。床には林立する何かを覆うのと同じ白い布が何枚も折り重なって散乱し、その中に歪な形をした黒い影。
 フェルは布に足を取られそうになりながらも彼に駆け寄り、そしてかざした掌に燐光が立ち上った。
 藍色の瞳が薄く開かれる。燐光に照らされたのは、黒い服と赤みがかった黒い翼。
「――――」
 彼が何事かを呟く。吐息だけのそれを聞き取る事ができず、しかしフェルは更に続けようとするオーレンを制止した。
「喋らないで下さい、傷が」
 深い。体中に裂傷が走っている上にその一つひとつが大きい。フェルは回復魔法を幾つも重複して発動し、塞がりきらないまま放置されていたそれらを完全に塞ぐ。その最中に、オーレンの手がフェルの腕を掴んだ。
「いい……使うと、見つかる……」
 掠れた声でそれを言って、彼は床に手をついてゆっくりと起き上がる。フェルが止める間もなくオーレンの周囲に彼自身の構築陣が浮かび上がって、立ち続けに燐光が立ち上った。疑念を浮かべたフェルに、彼は掴んだ手を離さないままその紫に視線を向けた。
「……何故、ここに?」
「……聞きたい事が、あるんです。でもその前にちゃんと治療させて下さい」
「いい。私の力は及ばなかっただけ……紫銀殿、戻れ。護衛師団の傍にいろ」
 その彼の言い様にフェルは眉根を寄せた。口を開こうとすると、それを手で押さえられる。彼が展開した回復魔法が役目を終えて消え去り、そして藍色をした二つの瞳が歪められるのが暗闇の中に見えた。
「戻れ、ここは安全ではない、……抑えているが、いつ現れるかも分からない」
「……どういう事ですか」
 そのフェルの言葉にオーレンは緩慢に頭を振る。そしてフェルを見据え、彼は静かに口を開いた。
「……紫銀殿、本当に覚えていないのか?」
 唐突な問いにフェルは眼を瞬く。急にオーレンの手に力が篭り、手首に走った鋭い痛みに顔を歪めた。
「つ……ッ」
「私達の事を、一族の事も、全て忘れてしまったのか?」
 悲痛を耐える声。フェルは突然のそれに驚くよりも先に混乱する。オーレンを見れば、形容しがたい感情をはらんだ視線とぶつかった。
「問いには可能な限り答える、その前に教えてほしい。……『谷』やレーティ、当主の事も、全て、覚えていないのか?」
 その言葉に困惑したまま、フェルは彼を見返す。眼の合った藍色の眼に圧されるかのように、我知らずの内に言葉が溢れた。
「……記憶が、無いんです、キレナシシャスの前は全部……」
 オーレンはそれを聞いて眼を伏した。手からゆっくりと力が抜けて行き、しかしそれでもフェルの手を放しはせず、ごく短い沈黙ののち彼はゆっくりと言った。
「紫銀殿、師団に私の事は話さなかったようだな」
 視線は合わせない。今までのものを振り切るように聞こえたそれに、フェルは訝しく思いながらもそれに答えた。
「悪魔族だという事を言い、あの場所にいたという事が分かれば、捕縛されます、……オーレンさんは、助けてくれたんでしょう?」
 彼の背、暗闇の中に沈むその翼に眼をやれば、ゆっくりとそれが動く。オーレンは肩ごしにそれを見て、そして静かに言う。
「紫銀殿の敵になるつもりは無い、それだけだ。……聞きたい事は、洞窟での事か」
 フェルは頷きそれを肯定する。オーレンは視線をあげ、短く息を吐き出した。
「……あそこは実在する場所の再現、魔法で作られた模造品だ。文言を読んだだろう、あれも全て真実……あそこ、あの洞窟の『本物』の場所には紫銀がいた」
「……全て、その紫銀が書いたものですか」
「ああ」
「その紫銀は?」
 首肯する彼に短く問いかける。オーレンは少し迷うように視線を落とし、静かに言った。
「……生きている、その筈だ。……紫銀殿、信じ難い事ではあるだろうが、今この瞬間に紫銀は三人、確実に生きている」
 瞬間、フェルは驚愕に眼を見開く。どこに、と言いかけた言葉は寸前に彼に制されて喉の奥に消えた。言葉が詰まったその隙に、オーレンはフェルを見て眼を細めた。
「紫銀殿……いや、フェルリナード=アイクス殿、私達悪魔族からの忠告だ、後の二人の紫銀とは関わりを持つな」
「……え?」
「銀の領域と紫の領域、その二つの完全な中立に立つのは三人のうち貴女だけ。……後の二人に関われば、『今』が消える」
 オーレンはそこまでを言って言葉をきった。フェルは僅かに眉をひそめて疑念をそのまま口に出す。
「……どういう事ですか」
「……洞窟に文言を残した紫銀は、己が紫銀である事を忌み嫌い、自分以外の紫銀を忌んでいる。もう一人は破滅と繋がり銀に傾き生まれた凶。どちらも危険だ。神々も、彼等を紫銀とは認めていない」
「……どこで、それを?」
 フェルの放ったその当然の問いに、オーレンは再び眼を伏した。ゆっくりと息を吐き、ゆっくりと言葉を紡いでいく。
「……悪魔族の中でもエリクスと呼ばれる純血種は、祭祀の一族に仕える。私もエリクスの一人であり、そしてその一族の紫銀に仕えていた」
 最後の一言にフェルは違和感を覚える。それがなんなのかが分かる前にオーレンの手が銀の髪に触れて、そして彼は続けて言う。
「……三人目、だ」
「……?」
「三人目……唐突に姿を消した紫銀。名を持たず、ただ役割の名でだけ呼ばれていた。……ツェツァ、と」
 その名を聞いた瞬間フェルが息を詰める。自分でも意味が分からずただ何か恐ろしい物を耐えるかのように、俯き手を握りしめる。突然不安定になった呼吸を無理矢理押し付けた。
 胸の奥がざわついている。わけもわからずに湧き出てきた焦燥にも似た感覚を抑え込もうとしていると、急にオーレンの手が細い腕を掴んだ。
 顔を上げると同時に、彼の腕の中に抱き込まれる。幼い子供を落ちつかせる時のように、ゆっくりと頭を撫でられた。
「……これで、わかった……」
 まるで望んでいなかったのだと、そう言わんばかりの声音。手は相反するように優しかった。
「……龍神は、ある一定以上を言う事は許されていない。私も全てを教える事はできない、知らない事の方が多すぎるからだ。だが一つだけ……十四年間、私が探し続けていたのは貴女だ」
 言う彼の手の温かさに、嘘のようにざわつきが消えて行く。何故か思考はそれ以上を考える事を拒み、最後に問う事ができたのはたったひとつだけ。
「……紫銀は、誰……」
 返って来たのは、二つの返答。
「……ツェツァルフィスィアと、ヴィアリス」




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