銀の軌跡が宙を舞う。フィレンスは我知らずの内に舌打ちを零して大きく跳び退った。残像を切り払う黒剣と、そして背後から襲いかかるもの。
 ヴァルディアが留め置いたままだった構築陣が強く光を放つ、現れた炎蛇が轟音を従えて駆け抜けるのを躱し、そして新たに襲いかかるのは雷鞭。
「『霹靂の使徒、“レヴィーナ・カツェル”!』」
 鋭い詠唱とともに具現化し大気を切り裂くそれを紙一重で避け、フィレンスは跳ね飛ばされた右の剣が地面に転がるのを視界の端に捉える。すぐさま左の剣を右に持ち替え、いつの間にか肉薄する黒刃を白刃で防いだ。
 瞬間両腕に走った衝撃に顔を歪め、次いで襲いかかる連撃を避け距離を取る。魔法を撃つには近く、しかし剣で切り払うには遠い位置。そこで荒れはじめた呼吸を整え、フィレンスは自分の右腕に触れた。
 完全にしびれている。今剣で来られたら、おそらく怪我をするどころの話ではなくなるだろう。
「女の細腕、少しは理解しようよ……」
 皮肉を口にして、柄を握り直す。ヴァルディアは分かってやっているのだろうし、それに文句を言えるわけでもない。弱点を抱えている方が悪いのだから。
 見据えた先のヴァルディアは、一旦構えを解くと刀身を肩に担いだ。にやりと笑い、言い放つ。
「五分だ。疲れたか」
「……やはり男性の方が体力はある様で」
 嫌味に返す言葉も無い。向こうが魔法を多用し、こちらに防ぐ術が無いから走り回されているだけなのだが、やはり長官は分かってやっているのだろう。弱みを突くのも正攻法だが、何となく反則のような気がしてならない。
 しかしフィレンスはまだ重傷を負っているわけではない。頬を薄く裂かれ、髪を斬られはしたが、それは怪我の範疇では無い。明らかに手加減されているからこその今の状況だろうが、それでもフィレンス自身の力が無ければここまで耐えるのも難しいのも事実だろう。
 長官は宙を一閃し眼を細めた。空の手を伸ばし、何かを呟く。次の瞬間跳ね飛ばされて地面に転がったままだった右の剣が吸い寄せられるかのようにその手に収まり、そしてヴァルディアはそれを地面に突き立てた。
 黒い刀身に黒い柄の剣を構えて、そして彼は口の端を笑みの形に吊り上げる。
「取りに来い」
 フィレンスはそれに笑い返し、地面を蹴った。



 おかしくないか、と誰かが呟いた。
 クロウィルはそれが聞こえた方へと視線を向ける。集まっていた白服の一団、その中の一人が眉根を寄せていた。
「何が?」
「いや、……わからないが、なんだか……」
 もう一人の問いに、おかしいと呟いた彼は言い淀む。クロウィルは溜め息をついた。
「お前達の相棒は普段何で戦ってんだよ……」
「……ああ、魔法を使って、無い……」
 尻窄みになったそれを聞いて、周囲の白服達が一斉に遠くで舞う白い姿に視線を向ける。長官の魔法を、掠りさえせずに躱していく。そして流れるように斬り掛かったのは白刃。彼は更に眉をひそめる。
「……魔法は使わないのか? それがあるからじゃ、」
「今回なんだか魔法を使わないって条件付きでやるみたいな事ぬかしてたわよーあの隊長」
 突然割って入った女の声にその場のほとんどが文字通り飛び上がった。慌てて視線を向け、藍色の衣裳の魔法使いがクロウィルのすぐ近くでしゃがんで戦場を眺めているのを見て、白服達は愕然とした。――気配がなかった。
 クロウィルは大して驚きもせず、気にもしていない様子で腕を組み、唸る。
「まさか本当に使わないとは……馬鹿かあいつ」
「まあ確かに隊長の魔法って、不完全すぎてその上不安定で魔法使いとしては見てるこっちがハラハラするっていうか、単純に言っちゃえば下手なのよねぇ」
「それ本人に言ったら殺されるぞ?」
「だから隊長がいない時に言ってんじゃない」
 イースはひらひらと手を振り、クロウィルは肩をすくめる。彼女は周囲を見渡して首を傾げた。
「フェル、いないのね」
「勝敗が見えてるから別に良い、だと。魔法使いが一人もいないと困るからお前ここに残れ」
「了解。隊長死ぬ寸前までやりかねないものねー」
 言いながらイースは立ち上がる。そして未だに眼を見開いたままの白服に視線を向け、腰に手を当てて嘲笑を浮かべた。
「いつまで意地張ってんのかしら。本当の事を知ろうともしなかったくせに」
 その言葉にさすがに白服達も眉根を寄せる。クロウィルはそれらをあえて止めはせず、イースはその反応すら楽しそうに見返し、笑ってみせた。
「図星突かれたからってすぐ機嫌悪くして、どこのお子様なのかしら。たかが世間の風評を真っ向から信じる輩そのまんまね。本当に許されない事ならフィレンスはとっくに死んでるって言うのに、それすら失念しちゃって」
「……何が言いたい」
「どうしようもなくこんな馬鹿な人たちにこんな世話焼いちゃってるフィレンスはなんて可哀想なのかしら、て思ってるだけよ」
 瞬間何人かが柄に手を掛ける。しかし抜くには至らない――全身を縛る不可視の蔓。イースの魔法。
「ほらちょっと突いただけで、すぐ怒る」
「……挑発か」
「ええ挑発よ? でもあなた達もして来たでしょ、ずっと、それこそ今の今まで。禁忌破りだって事だけを聞いて鵜呑みにしてその一言に過剰反応して。だから騎士には相応しくないだの優遇されてるだの言いたい放題言って、反論されないからっていい気になって。反論が無いのも当たり前じゃない。言い返す価値もないわよ、そんな戯事」
「……イース」
 クロウィルがようやく制止の声を上げる。イースは今ようやく気付いたと言わんばかりにわざとらしく口元を覆って、そしてクスクスと笑った。
「あら、失礼、副隊長。そうね、私はただの回復役。隠形しておくわ」
 言った直後にはその姿が掻き消え、僅かに遅れて魔法が解かれる。そして白服の敵意をはらんだ視線は向かう先を失い、最終的には疑念となってクロウィルに向かった。彼は何度目か溜め息をつく。
「……気になるんなら、自分で確かめれば良かったんじゃなかったのか? それをしなかったって意味じゃ、本当の事を知ろうともしなかった、ってのは正しいし」
 それだけを言って、クロウィルはほんの僅かに眉根を寄せた。
 白服達の気持ちは分からないではないが、しかしそれを取りなす気にはならない。言われている本人が気にしておらず、気にするなと言っているのもあるが、それ以前に、自分なら恐くてできないからだ。フィレンスがやり遂げた事も、それを批難する事も。
 『知ろうとしない、それにすら気付かない無知が一番恐い』とはあの小さな黒服の言葉だが、恐らくこの蒼樹ではその言葉は的を射ている。蒼樹は協会としてその組織を確立してからこのかた、周囲と隔絶した状況を好みその中で動いて来た。そしてその中で生まれた慣習はいくら長官が代替わりしようとも変わらないままだ。良い物も悪い物も全て引き継いで、そして唐突に現れた『異端』は異様なまでに排斥される。それでもまだ残ろうとした物に待っているのは、迫害か許容かの両極端。
 まるでどこかの古い村の様だと思う。それと同時に、視線の先の二振りの剣が高く鳴いた。



 風を裂く音、次いで襲いかかる剣を受け流し距離を取るために後退し、そしてフィレンスの姿が薄れる。
 次の瞬間にはヴァルディアの背後に銀の閃光が奔り、しかし半ばで黒の混じった刀身に防がれた。そのまま距離を詰めて薙ぎ払うが、僅か、届かない。
 体を翻す間も無い。視線の先、ヴァルディアがにやりと笑んだ。
「『“リフューレ”! 風よ!』」
「っ!!」
 唐突に巻き起こる烈風、姿さえ無いその衝撃と刃に足が地面から浮き、瞬間走った幾つもの裂傷が赤いものを吐き出す。それでも見据えた発動者本人を守る為の結界の中で、更に光が放たれた。
 現れたのは巨大な紅蓮の劫火。瞬く間に肥大したそれは巻き起こした爆炎に、距離を取る事さえできずに白い姿が埋もれる。ヴァルディアは更にその左の手に長杖を呼び出した。
「『偉大なる王の御許に請う、光在る世の理よ! “ベリーゼオン・コンツェルツェ”!』」
 傾いた陽の光よりも強く構築陣が輝く。瞬時に紡がれたのは、しかし高位以上とされる魔法。紡がれた光の矢は尾を引いて紅蓮の中へと殺到し、炎の合間に見えた白はその光に貫かれる。
 それを見たヴァルディアは、しかしすぐさま長杖を消し去り剣を掴んだ。息つく間もなく背後から飛来する短剣を弾き、そして肉薄する刀身を真正面から受け止める。
 色違いの瞳は静かにそれを見て、そして黒い刀身に打ち付けられた刃が甲高い音を立てて滑った。刃が向かうのは首。
 ヴァルディアが左手を宙に走らせ、瞬時に描かれた紋様が光を放ちそこから溢れ出したのは不可視の壁。しかしそれが完全な姿を得る前に、白い剣がその簡易構築陣を突き破った。
 高く鈴の鳴る音と共に形成し損ねた結界が崩れ落ちる。力の方向を急に変えたせいかぶれた白刃をヴァルディアは跳ね上げ、フィレンスは素直に間合いを取る。ヴァルディアはそれを追わず、その場で態勢を整えた。
「……止血の時間くらいくれてやっても良いが?」
 離れた場所で剣を手にしたフィレンスを見据え、感情の読めない眼のままごくごく薄い含み笑いを浮かべてヴァルディアは言う。フィレンスは短く息を吐き出した。
「……動けなくなるまではまだ間がある。それに、止血した所で時間稼ぎにもならない」
 言うフィレンスの左の腕と肩は、強く殴打されつぶれたような傷と共に鮮血が流れている。恐らく炎を防いだのだろうクロークは、それでもその赤を強調するかのように白いまま、しかし次第に赤がにじむ。軽い負傷では、ない。
 確実に体力を削り、疲労が眼に見えて来たと同時に魔法で畳み掛ける。炎と風による強化効果と、炎と光による同一性質を利用した連続魔法、この怪我で済んだだけまだ軽い、直撃していれば先の時点で既に意識を失っていただろう。フィレンスは自分の負った怪我に頓着もせずにそこまでを考えて、そして右手で剣の柄を握り直す。
 左腕はまだ動く。痛みは耐えられないほどではないが動きが鈍る程度のもの。横目で見上げた空は濃い青に覆われていて、いつの間にか、調練場には薄闇がその存在を誇示していた。
 戻した視線の先、ヴァルディアはまだその場から動かない。剣を取りに来いと行った以上、それを阻むつもりだろう。そこまでを思った所で、その無言を不審に思ったのかヴァルディアが眼を細めて口を開いた。
「どうした」
 短い問い。フィレンスはそれを聞いて、そして唐突ににやりと笑った。
「長官殿に礼を言わなければ、と思って」
 ひゅ、と白刃が空を撫でる音。刹那光が地を這い鋭い光が周囲を照らした。その眩い紋様が闇を照らす。――ようやく、と、フィレンスが胸中に呟く。瞬間。
 詠唱を伴う事無く高速展開された構築陣が、突然その構成を乱し霧散する。拡散する光のかけらがヴァルディアの視界を覆い、そして彼は初めて瞠目した。
 襲いかかるのは二つ、大小の刃、短剣を避け、そして見えたのは既に頭上に掲げられた剣。
 まっすぐに斬り降ろすそれを受け流し、次の魔法を展開する。しかしそれも構築陣自体が形を成す前に強制的に分解され、それを見たフィレンスが、笑った。
 そして言う。にっこりと笑んで、左手に持っていた短剣を、がら空きになった彼の胸、心臓へと振り翳しながら。
「ちなみに、これは『翔剣士』の頃からできていた事だから、禁忌とは何の関わりもないよ」
 刃の短いそれは布地を大きく切り裂いた。追って薙ぎ払う長剣が首を捉え、しかし寸前に瞬身で距離を取ったヴァルディアに左手の短剣を投擲する。
 彼はそれを黒い剣で弾き、再び魔法を展開する。しかしそれすらも途中で霧散し消え、彼は眼を細めた。視線を落とした先、地面に突き立っているのはやはり短剣。
「……お前、構築陣が読めるのか?」
「好奇心は大概、何にでも役に立つ。剣士だから、騎士だからと魔法の事に知らぬ存ぜぬでは、魔法使いの相手はできない」
 構築陣を読み、その膨大な情報量の中からその魔法に不可欠な要素を探し当て、物理的にそれを削除し、構築を無に返す手法。元々は古くから、魔法を防ぐ術を持たない騎士が編み出した方法だが、必要となる膨大な知識の前に挫折した者が多く、既に廃れた強制解除。魔法も、発動されなければただの知識でしかない。
 それに、とフィレンスは空を見上げる。地平線にかかった太陽の、その夕焼けの光を白刃が弾き返した。
「夜が、私に味方してくれる」
 疑念を浮かべたヴァルディアに視線を戻して、後ろに左腕をのばして背後に突き刺さったままのもう一振りを引き抜く。右に持った剣と入れ替え右を順手に、左を逆手に持ち、ゆっくりと足を踏み出した。
 刹那の間を置かず甲高い音が鳴り響く。迫る白刃は弾かれ、しかし二つ目の剣がヴァルディアの剣を持つ右腕を抜き、弾かれた剣はその勢いを上乗せして肉薄する。全く方向の違う斬撃に彼が後退し距離を取り、再び紡がれた魔法がほんの一瞬光を放つ、次の瞬間地面が震え、幾百もの鋭い氷の刃が大地を裂き現れた。
 その氷柱の上に立ち、ヴァルディアは眼を細める。触れれば貫く氷の槍の、その切っ先が、むしろ小気味良いほど見事に削り取られていた。フィレンスはヴァルディアと同じように氷の上に立ち、そして刀身に付いた霜を振り落とす。
 眼で追える速度ではない、先ほどまでとは明らかに違う。風を味方に付けているのか。何より決定的なのは、通常ならば利の無い双剣を、全て問題なく使いこなしているという事実。ヴァルディアは内心感嘆しながらも、表情には出さないまま口を開いた。
「……そうか、『翔剣士』に魔法は禁じ手だったな」
 夜が味方する、その言葉の通りだ。これほどの速さがあるのなら、たとえ相手の気配を追って暗闇ですら戦える者でも追えはしない。そして魔法、構築陣はそのほとんどが光を放つ。構築陣を読めるのであれば、絶好の好機だ。
 天敵になりうる。そう口には出さずに呟き、ヴァルディアは左手の長杖を消し去る。フィレンスは肩をすくめた。
「数年前はそう言う風に言われていた」
 否定こそはせず軽い調子で言って、息をつく。額に流れる汗が鬱陶しい。早鐘を打つ心臓も治まりそうには無いし、左腕の事は考えたくもなかった。その上思い疲労がのしかかっているかのように、体が重い。いつもの何割の速さが出せているのか、自分自身ですら分からなくなっていた。確実に、動く度に無理が出て、増えている。
 ヴァルディアが黒剣を握り直し、跳躍する。襲いかかってくるそれをほぼ条件反射のように左で受け流し、右で相手の胴を薙ぐが空を切る。逸れた剣筋のそのままで彼の足場を削るが、しかし冷たい風が黒い剣を握るその姿を支えた。
 放たれた刺突を屈んで避け、左で黒い刀身が動くのを阻み右の剣がヴァルディアの金の髪の数本を断ち切る。同時に彼の手の中の黒い剣が燐光を纏い、一瞬の後に光となって霧散した。眼を見開いたフィレンスの、その眼前に迫るのは彼女自身の短剣。
 とっさに防いだ左の剣が予想以上に重いその衝撃に震え、腕に走った激痛にフィレンスが顔を歪める。ヴァルディアが短剣で右の剣の剣先も逸らし、そして体勢を崩したその体に当て身を食らわせた。
「ッ、!」
 足が空を踏む。転落したと理解した瞬間にすぐ傍にそびえる氷柱に右の剣を突き刺し落下を緩め、氷に覆われた地面になんとか無事に着地する。それでも軽い衝撃によろめきかけ、そしてフィレンスはヴァルディアを見上げた。荒い息を押し殺し、彼を睨み付ける。
「……卑怯者」
「私は騎士ではないからな。言ってしまえば下らない誇りに自らの命を投げ出すような事は、絶対にしない主義だ」
 騎士はその矜持故に、その戦いに剣以外の力を持ち込まないのが通例となっている。剣術以外は最低限の体術だけ、それ以外は使おうとはしない。だが剣士は違う。彼等は剣を『嗜む』程度を越えてはいるが、騎士とはそのあり方が違うのだ。
 だから剣士であるヴァルディアに遥かに届かないと言う状況は、どうしようもないとは言えフィレンスにとっては何とも言い難いものがある。正規の魔法使いでも剣士でもないというのも嘘に思える、彼のその力。
「本気を出してくれたようで感謝する。しかし油断したな、フィレンス」
「……剣を魔法で作れるなんて聞いてない」
「言ってないからな」
 しゃあしゃあと言ってのけ、そして彼の周囲に幾つもの構築陣が広がった。戒めの箍が外れたかのように溢れ出した紅炎が林立する氷を瞬時に蒸発させながら襲いかかる。それが到達するより速くフィレンスはその場から跳び退り、小さく舌打ちをした。
 氷の柱が融け、露になった地面に静かにヴァルディアが降り立つ。まるで結界のように氷に周囲を阻まれ、フィレンスはその彼を見据えた。視線を向けられたヴァルディアは、その手に剣を呼びながら口を開く。
「……ちなみに、参考までに聞くが。魔法が使えなければやはり戦いにくいのか?」
 フィレンスは隠しきれなくなった疲労に肩で息をしながら眉根を寄せた。短い沈黙を経て、そして自嘲の笑みを浮かべる。
「魔法なんて、無いならそれが一番だと、常々思ってる」
 返答になりきらない返答に、しかしヴァルディアは仄かに笑みを浮かべた。続けて問いかける。
「それは何故だ?」
「面倒だから。自分が使うのも、魔法使いの相手するのも、……」
 言いかけた先の言葉は容易に想像が付いた。明確で率直なそれに彼は笑みを深めて、そして剣を構える。
「なら、終わらせるか。そろそろ白服も納得する頃合いだろう」
 フィレンスは何も言わず、ただ返答のかわりに力なく笑って頭を振った。しかし視線を上げた瞬間には静けさが戻り、無言のまま二振りの剣を構える。今度は両方とも順手に持って、負傷している事も感じさせないほど、滑らかに。
 数秒の沈黙。
 そしてヴァルディアの周囲に無数の構築陣が広がる。ほぼ同時に地面を蹴ったフィレンスの、その切っ先が幾つかの構築陣を裂き魔法がただの燐光となって散る。しかし処理しきれずに残った陣がより強くその光を強め、そして黒い剣が振り落とされた。
 轟音とともに残っていた氷柱が砕け散る。刹那の間を置かずに爆発がその場を包み、白いクロークが宙に舞い上がった。



 光が去った後、背中に固い地面を感じながら、視界に景色が戻ってくるのを待つ。
 そしてフィレンスは、ぼやけた輪郭のその人にむかって、笑ってみせた。
「は……っ、右腕、貰った」
 右の剣に何かが伝って、手袋に覆われた手が濡れる感触。首を少し動かせば、冷たい刀身に肌が触れた。
 それらを感じながら何度もまばたきを繰り返せば、次第にはっきりする景色の中に、同じようににやりと笑う長官がいた。
「……右腕じゃないな、肩だ」
「細かいなぁ……同じようなもんでしょ」
「確かにな。しかし厄介な場所をとられた」
 フィレンスの即答に即答を返すヴァルディアの声。しかし言いながらもフィレンスは動かない身体を自覚して、その彼女の予想通りの言葉をヴァルディアは言い放った。
「安心しろ。お前の負けだ」
 その言葉にフィレンスは乾いた声で笑った。ヴァルディアの顔が遠のいていく。右の手で握っていた剣がそれにつれて掌から抜けて行って、次に聞こえたのは良く聞き慣れた声。
「で、そこの大馬鹿二人。気は済んだんですか?」
「仮にも上司に向かってその口の利き様か」
「部下を苛める為だけに自分の魔法にわざわざ巻き込まれる上司なんて聞いた事もありませんから馬鹿で十分です。で、既に動く気力も残ってないもう一人、喋るくらいはできますよね?」
 その言い様に更に笑いが込み上げてくる。肺の中に溜まっていた空気ごと溜め息を吐き出して、フィレンスは唯一動く右腕を掲げた。
 すぐに力が抜けて、そのまま顔の上に腕が重なる。そのまま、小さく呟いた。
「……悔しい……」
「何馬鹿言ってるんですか馬鹿。長官に勝てる所属者がいたら長官の存在意義がなくなりますよ」
 視界の端に映り込んだ銀髪を見て、フィレンスは眼を閉じる。全身の重さに意識を引きずり込まれながら、何故か自然と笑みを浮かべて彼女は再び呟いた。
「ああ……でも、悔しい」




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