――天にある創世、その者が定めし地平を覆う絶対の定理。
 一、其が天に触れてはならない。又、天が其に触れてはならない。
 二、天を歪めてはならない。又、優越してはならない。
 三、魔とされる理を犯してはならない。それを優越してはならない。
 四、地の理と天の理を混同してはならない。同一にしてはならない。
 五、天の理をもって地を枯らしてはならない。地の理をもって天を枯らしてはならない。
 六、天と地をもって樹と泉と扉を保たなければならない。これを乱してはならない。
 七、これを犯すに地の理の許しが無くてはならない。犯さんとするを禁忌とし、これを禁ずる。

「この国の人間は文字が読めてないんですよ」
 辛辣に言い放ち、フェルは創世記を少しばかり乱暴に閉じた。それを横で見ていたフィレンスが肩をすくめる。
「まあ、分かりにくい文章だってのは認めるけど。読めてないっていうより解釈の違いでしょ?」
「神様が書いた物なんだから人間の視点で解釈する事自体間違ってるんですよ。つまり解釈という言葉そのものが間違ってます」
「そんなものなのかな……でさ、フェル、放してもらっていい?」
「やです」
 フェルはそう言い放ち、フィレンスの膝に頭を乗せ上向けていた身体を反転させて逆に強くフィレンスに抱きついた。寝台の上で上体だけ起こした彼女の、その腰辺りに腕を回して力を込めると、フィレンスはそれを見下ろして仕方が無いといった風情で息をついた。
 その彼女の寝台に勝手に乗り込んで、あまつさえ寝転がり持ち主よりも寛いでいるフェルは、彼女が眼を覚ましてからこのかたずっとこの調子で、くっついたまま離れようとはしなかった。その銀色の頭を撫でてやりながら、フィレンスは視線を虚空へと投げる。そして思い出したかのように口を開いた。
「護衛師団の本部にいた頃から、本もって私の部屋に来ると、毎回こうだよね、フェル。眠いの?」
「眠くないです」
「嘘。昨日の夜から寝てないんでしょ? 聞いたよ」
 フェルはそれには答えず、沈黙を誤魔化すかのように頭をぐりぐりと押し付ける。フィレンスは軽く笑いながらその頭をぽんぽんと叩いてやった。
 昨日、あの一戦を終えてすぐにフィレンスは意識を失い、それからその傷の治療に当たったのはフェルとイースの二人だけだった。二人が医療班を寄せつけなかったのだ。フィレンス自身はそれを後で聞き、感謝するより先に呆れが立ってしまった。イースは白服たちに弊害が出ないよう高位結界をずっと張っていて魔力が減っている状態で、フェルは龍神を召喚してさほど時間が経っていない状態。回復魔法はそれでなくとも魔力の消費が激しいのに、何をやってるんだと治療してもらった身で思ったくらいだ。
 それでも回復魔法で癒せるものには限度があった、左腕はまだ鈍い痛みが残っている。万全ではないが動かせるし、日常生活では支障を来す事は無いが、念のためという事で絶対安静を言い渡されたフィレンスだった。フェルがくっついて離れないせいで動けないとも言える。
「フェルも、イースも意地張って……無理してくれなくていいのにさ。死ぬほどの怪我じゃないんだし」
「意識を失って数時間昏倒する程度の怪我ですね」
「……医療班に任せてくれて良かったんだよ?」
「そしたらフィレンス、『人間じゃない!』って絶叫されますよ、この身体」
 言いながらフェルは掌でぱす、とフィレンスの背中を叩く。フィレンスは肩をすくめた。
「仕方ないよ、今まで医療班の世話になった事無いし。禁忌の代償だからね」
 数秒の沈黙。フィレンスが視線をやり、フェルは気まずそうにもそりと動いた。
「……そうやって冷静に返さないで下さいよ」
「え?」
 フィレンスはごく自然に聞き返した。衣擦れに紛れそうなほど小さく、フェルは呟く。
「代償の話になったら、何も言えなくなるじゃないですか……」
「……ごめん」
 紫銀は神に近い。その分代償の重要性を良く分かっている。何も言えなくなるのは、それが当然のものであり、過不足なく代価として失ったものだと分かっているからだ。そうなってしまったらそれに対する文句すら言えない。
 フェル自身も神々に対して大なり小なり代償を差し出している。それもやはり当然のもので、それに対して人間が言える事など何も無いのだ。
「……フェル、疲れてるんでしょ? 寝ちゃっていいよ」
 無言を疲れのせいかと思ったのか、そのフィレンスの言葉に彼女を見上げる。色違いの眼は、騎士としての色を取り払った視線をこちらに向けていた。
 そして二つの色は苦笑を浮かべる。
「大丈夫、居なくなったりしないから」
 頭を撫でられ、上げていた頭をフィレンスの膝の上に戻す。柔らかい手の感触を感じながら眼を閉じて、これじゃどっちがどっちなんだか、と思いつつフェルは口を開いた。
「ヴァルディア様も、右肩だけ重傷だったみたいです」
「え」
「光のせいで視界が利かず。おかげで治癒魔法が使えないってぶつくされてましたよ」
「うっわ……やばいな、次の任務なんだろう……」
 フィレンスは言いながら天を仰ぐ。フェルは小さく笑った。その頃には自分も巻き込まれているだろう。
 治癒魔法は回復魔法よりも効果が高く、しかし制御とその発動に関わる条件のせいで扱える場面が限られてくる魔法だ。今回は二人ともその条件が達せず、主に回復魔法のみでの処置になってしまった。
 ヴァルディアの場合は高をくくって自分の魔法に巻き込まれた上での負傷だから、ある程度は自業自得なのではないかと思う。そういえばあの勝負を吹っかけて来たのも長官だし、と脈絡も無くフィレンスが思っていると、膝の上にそれが急に重さを増した。その顔にかかる銀色をそっと払いのけ、フィレンスはその頬に手を添える。
「……ほら、やっぱり疲れてたんじゃないの……」
「……寂しいのだろう、やはり」
 突然聞こえた声に瞬時に心臓が跳ね上がり、早鐘を打つ。それを一切表情や態度にも出さず、フィレンスは声の聞こえた方へと顔を向けた。
 立っていたのはやはりヴァルディア。フィレンスはほんの僅かな沈黙の後、眉根を寄せて言った。
「女性の部屋に勝手に入ると後で何が起こるか分かってる?」
 わざと敬語は使わずに言い放つ。ヴァルディアはごく自然にあらぬ方を見やった。
「クロウィルの二の舞いになる、だろう?」
 その返答にフィレンスは一瞬だけ遠い眼をして、何事も無かったかのように視線をフェルへと向ける。再び仕方が無いと言わんばかりに溜め息をついた。
「……この冬で十七でしょうが……いつまで甘えたがりかな、この子は」
「お前達が過保護なだけだろう。護衛師団の面々は総じて世話好きがそろっているからな。だからこその護衛師団だろうが」
「全くね。……で、何か用?」
 大体の予想はついてはいるものの、一応聞くと、ヴァルディアはやはり予想通りの答えを返した。
「白服やら黒服やらが談話室で悶々としている、邪魔だ。解消して来い」
「無理」
 即答にヴァルディアは沈黙する。しばらく無言の応酬が続き、その最中フィレンスが気まずそうに眼をそらした。
「勝手に居なくなると後で倍になってくっついてくるし……」
「おい、過保護者」
「でも、本当に無理、話したくないし」
「そうか?」
 ヴァルディアのそれにフィレンスは溜め息をついた。魔法使いめ。視線を向ければ、どうだ、と言わんばかりの視線とぶつかり、結局フィレンスは大きく溜め息を吐き出した。
「……何人いるのさ……」
「さてな、ほとんどには任務を渡したから、十人か十五人か」
「じゃあ、来れば話す。そう伝えてくれると有り難い」
「タダ働きか」
 その一言にフィレンスは眼を細める。ヴァルディアはそれを見て、口の端に笑みを刻んだ。
「……冗談だ」
 そのまま、視線が外れた瞬間にその姿は掻き消える。フィレンスはそれを見送って、そして小さく息をついた。
 ふと、フェルが持って来た本が眼に入る。それを右腕で持ち上げて表紙をめくり、中に書かれたものを眼で追った。
 創世記は、元々は古代語で書かれていたものだが、これは共通語に訳されたものだ。分厚さの原因はフェル曰く間違った解釈が載せられているせいだろう。
 教養として幼い頃から読み慣れた内容ではあるが、やはりこれにも不可解な点は多い。部分を見れば何ともないが、全体としての食い違いが散らばっていて、その上一番人間に関わりがあり、一番人が知りたがる事柄に関しては、たったの一行しか記述は無い。
 紫銀に関するもの。『紫銀を持つ神が力ある人間に祝福を与え、その二つの色を特例とした』としか書かれていないそれは、創世記の時代からその呼び名が存在していた事を示しはしても、それが何を指し示すのか、そして紫銀が一体何を意味するのかは一言も書かれていない。紫銀が何なのか、何故『紫銀』と呼ばれ『神の愛し子』と呼ばれるのか、その理由は未だ欠片も分かっていない。
 キレナシシャス史上で言えば、史実に登場する紫銀は七人。この国は三千年近い途方も無い時を刻み続けているが、大国、紫銀の発見が一番多いと言われるこの国でさえも、割合で言えば千年に二人。厳密に言えば、二千年前までに六人、そして長い時を経て、現代に一人。
 そんな中でいつからかその呼び名には稀少価値の高さが示されるようになり、根も葉もない噂とともにその命を狙われるようになった。だから結成されたのが紫銀を守るための護衛師団。今は要人護衛となっているその役割も、結成当初は紫銀を守る事が何よりも大事だった。国の主を守るよりも何よりも、その役目すらも分からない紫銀を優先する。それを滑稽だと評した人間もいた。フェルの前代の、紫銀。
 当時の記録によれば、前代、彼は相当に難儀な性格の持ち主だったらしい。護衛達を騙して遊び、数年感姿を消して放浪していたかと思えば竜の子供を持って帰って来たりと、要するに意図的な問題児だったのだが、それでも彼も特別な際に恵まれていた。――驚異的な剣の才能。フェルが魔法を手に取ったのと同じように、彼はごく自然と剣を持ち、そして瞬く間に『剣神』と評されるに至った。
 そして彼は、忽然と姿を消す。歴代の紫銀達と同じように。ただ一言、『そろそろ怒られそうだから行く』と書き置きが残されていた他には、彼の私物は処分した形跡もないのに、一切が消え失せていたらしい。
「……紫銀は死なない、か」
 呟いたのは、やけに沈黙を重く感じたからだ。脳裏を巡る記憶を振り払うように溜め息をついて、そしてフィレンスは唐突に視線を上げた。
 同時にその視線の先に現れたのは、藍色の服を纏った一人。
「フィレンス、何かすごい形相の連中が」
「白服?」
 問い返すと、ラカナクは廊下の方に眼を向けながら頷く。フィレンスは眠っているフェルを見てから口を開いた。
「入れてあげて。部屋の外寒いだろうし」
「いいのか?」
「来れば説明する、って伝えてもらったから。それで来たのであれば構わないよ」
 彼はそれを聞いてへえ、と呟き、すぐ近くの椅子の上に投げてあった白い服をフィレンスに投げて寄越す。フィレンスはそれを受け取り、フェルの頭を軽く撫でてからゆっくりと寝台を抜け出した。
 ラカナクはそれを見てから短い階段を駆け降りる。その途中で軽く扉を叩く音が聞こえて、彼は素直に扉を引き開けた。先頭に立っていたのは見覚えのある一人。
 例の馬鹿騎士がやらかしてくれた時に和解した三人のうちの一人だ。そう思い至って、しかし何も言わずに顎をしゃくって中に入るように示唆する。ラカナクはあの時隠形していたから、彼にはこちらの事は分からないだろう。
 白服達は互いを見交わし、無言のまま中へと入ってくる。気まずそうにしているのは恐らくラカナクが藍色の服だからだろうが、しかし彼は気にせずに中二階の奥に声をかけた。
「フィレンス、大丈夫か?」
 問いかけると物音が止む。少しの間があって、そして白い服を着崩したままのフィレンスが見えた。彼女はその場をざっと見渡し、黒い姿の数人を見つけて息をつく。
「……黒服にはウィナ様から説明あったんじゃなかったのか……?」
《あ、何か、細かい事は全部フィレンスに丸投げしたってフェルから聞いたぞー》
 姿を見せずに響いた声に溜め息をついて、フィレンスはラカナクを一瞥する。それを受けて彼は隠形で気配ごと姿を消し、そしてフィレンスは中二階から下へと伸びる階段を下りながら口を開いた。
「適当に掛けてくれ、少し長くなる」
 来たのは白黒合わせて十一人。それぞれ腰を下ろしたのを見て、フィレンスは黒服の一人に眼を向けた。
「緑樹神は、どこまで?」
「……過去の禁忌破りと、その末路、それと……」
 言い淀んだのは、口にするのは憚れたからだろう。フィレンスはその様子に小さく苦笑を浮かべて、その言葉を継いだ。
「私の末路、か」
 彼は微かに頷く。見回すと、それを聞いた白服達が怪訝な表情を浮かべていて、フィレンスは背後の本棚に背を預けた。騎士に対してどこから説明すべきかと、少し迷いながらも口を開く。
「そうだな……順を追って一から説明するなら、大綱の事からか……」
 フィレンスは言いながら視線を彷徨わせる。迷っているというよりはどう言うべきかを考えている様子で、しかし言葉は途切れない。
「大綱、禁忌については、皆が知っているそれと全く変わらない。主に人間に関係があるのは、一の『神と人とは触れてはならない』、四の『天と地の理を混同してはならない』だな。前者は常識、後者がいわゆる騎士の禁忌だ。片方は、今となっては黙認状態ではあるが……」
 言ったフィレンスの眼が黒服に向き、白服達の視線もそれを追う。眼を見交わした黒服に、察した一人が口を開いた。
「……龍神、か」
「そうなる。魔法が発達した今では当然の事だろうが、これも昔は『魔法使いの禁忌』と呼ばれ『騎士の禁忌』と対比された。召喚魔法は、大綱が記された石碑があった遺跡の、更に奥から発見されて、だから神々が許した例外だという主張もあるが、それは人間主体の解釈だ。実際には、戒め……この魔法を使えば身を滅ぼす、だからこれは使うな。そういう意味の警告だ」
「根拠は」
「私が本人から聞いた」
 黒服の一人の声には即答を返す。返した後に、少し考える風情を見せた。
「……本『人』と言うのは、多少考える所でもあるが、まあいい。とにかくそういう意図だったが、正確に伝わる事は無かった。現に今この国ですらそうだろう、厳しく条件が定められているとは言え、お偉方の許可さえあれば使用自体は可能だ。実際に許可が下りる事は少ない上、行使の場所も限定され、約一名の例外を除いてそうそう頻繁に呼び出す事が無いとはいえ、天の方々にとっては誤算だった。人間は人間で、そうして制度として管理しなければならないほど、魔法使いの禁忌破りが大量に現れた。おかげで、召喚が禁忌だという印象は段々に薄れて、現状だ」
「なら、今回の……」
「……確かに、本来なら裁かれるべきではあるがな」
 フェルが、黒服達を巻き込んで行った緑樹神の召喚魔法。だが、今の所とはいえそれに対する咎めは無い。人からも、神からも。長官が気付いていないという事は万に一つも無いだろう、どころかフェルが彼から魔石を受け取った時点で分かっているはずだ。何故魔石を渡したのかという疑念も、あるにはあるが、ひとまずは。
「今回の場合は、線引きは非常に難しい。多人数詠唱は、全員が加担したという場合、術式主が強引に周囲を巻き込んだ場合、数人が術式主に責を負わせようとした場合の、三つが主だ。今回は二つ目、術式主が生きている以上禁忌を問われるのは術式主だが、それが紫銀だからな。フェルが自分の魔力不足にかこつけて黒服を巻き込んだと解釈できなくもない。その場合なら、例外にもなりうるだろう」
 実際巻き込まれたわけだが、と彼女は付け足す。大丈夫なのかと一応の安堵を見せた黒服を見やり、フィレンスは小さく苦笑した。
「もちろん、フェルが介入しているからの例外だ。自分自身であの魔法を組み立てるのは、冗談でなく自殺行為だからな」
「分かってる、構築以前に暴発するだろうしな」
「そういう意味じゃない。確かにそれもあるが……禁忌の代償は、人の身には重い」
「代償? それは魔力そのものじゃ……」
「魔力は単なる必要材料だ。禁忌破りが総じて学者が嫌いだから、正しい事は伝わらない……」
 普段魔法使いたちが扱う魔法は、代償を必要としない魔法だ。魔法の中では明確に『代償が何を指すのか』が定義されていないから、魔力が代償だと思われている事も少なくない。
「大概は、禁忌破り自身に関わる事を差し出す。龍神召喚の代償は、その点では分かりやすいな……術者の魂の、消滅だ」
 何気ないその一言に、その場が水を打ったような沈黙に包まれる。変わらずに響いたのはフィレンスの声だった。
「詳しい事は、さすがに聞けなかった。フェルならどうしてそんな事になるのか知っているだろうから、気になるのなら聞いてみると良い。……何も、禁忌はこれだけではない。無数に存在するように、代償ですら様々だ」
 言ったその声が、初めて不自然に途切れる。白服達がいつの間にか落ちていた視線を上げる。フィレンスは自分の部屋の中だというのにいつものように腰に佩いた剣の、その片方の柄に触れた。赤い宝珠が、微かに煌めく。
「……それで、本題だな。私の場合……五年前に、護衛師団の任務中に想定していなかった『異種』の襲撃に遭い右眼を失明した。元から弱視だったが、完全に。片目でも剣は使えたが、限界も早かった。だがそれが理由で団から出るもの出されるもの恐くて、誰にも言えず……気付いた団長に、そこで初めて魔法の師を紹介された。意図は分からない、でもそこで禁忌の事を初めて知って、二年を知識の蓄積に費やして、三年前に禁忌を破った。……代償の話が出たから、先に言っておく。私が禁忌を破る時、神々に差し出した代償は、治癒をすれば戻るはずの右眼の視力、これから得て行くだろう魔法の、その攻撃魔法以外の力、そして寿命……私は三十になると同時に死ぬ」




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