「……それで、これか」
 言ってヴァルディアは羊皮紙に目を落とす。夢の中の重要な部分だけをかいつまんで語った上でその一文を示したフェルは頷き、次いで首を傾げた。
「私が聞き取ったのが間違ってるんでしょうか……」
「……いや、どうだろうな。可能性は否めないでもないが、確証もない上に古代語で生きていたお前が聞き取れないとは考えにくい。言語自体の性格も併せて考えるのであれば、やはりなにかしらの意味は持つのだろうが……」
『Fif, rifft rihk, as reans cevan lendia.』
「無理に訳せば、『白になる彼の者に畏敬の祈りを』で、一応意味が通るって言えば通るんですけどね」
「それでいいんじゃないのか?」
 クロウィルが横から口を挟む。フェルは羊皮紙を見て、そして眉根を寄せて口を開いた。
「良くないんですよ」
 現代語にも文法があるとはいえ、それを意識しながら話す人はまずいないと考えていい。自由に言い換えができ、主語や述語が抜けてもある程度までなら会話は成立する。
 しかし古代語はそれができない言語だ。全ての文章、たとえ書き言葉であろうと話し言葉であろうと、その場その場で最も適切な文法の『型』に当てはめなければ、会話が成立しないどころの話ではなくなる言葉だ。一つ間違えれば、それだけで全ての意味が通らなくなる。そしてこの問題となっている文は、その意味が通らない文だ。
 フェルがそう説明するのを聞いてクロウィルは渋い顔をする。青い髪を少し乱暴にかき混ぜて、納得できないといった風情で口を開いた。
「……分かんないな、その、感覚って言うのか、それ」
「えーと……たとえば、誰かと話している時に、急に相手が外国語で話しはじめたり、すごく訛りのきつい喋り方をしたり、それでこちらが聞き返しても相手はどうして聞き返されたのか分からなくてそこで会話が終了してしまうような、そんな感じなんですけど……ですよね?」
「まあ、それに近い感覚ではあるな。同じ意味の事を言うのに、書き言葉と話し言葉で全く違う型になったりと、せわしない言語ではある」
「……ええ?」
 さらに困惑したクロウィルに、ヴァルディアは空中に指を滑らせて何かを書く。燐光が集まって描き出されたのは、ごくごく短い古代語。
「古代語……アーヴァリィには二種類ある。口語のロツェと文語のオフェシス。これはオフェシスで、意味は『全ては白になる』。ある魔法の詠唱の一説だ」
 燐光は『Arvvien chell sirv lennd.』と、その形を保ったままゆったりと空中に留まっている。不意にヴァルディアが何かを口にしたが、難解な響きのそれにクロウィルは眉根を寄せた。その彼にヴァルディアは視線を向ける。
「文字通りに口に出せば、こうなる」
「……そんなのが聞き取れるのか?」
「訓練すればな。しかし詠唱の時に実際に詠うのは、『Alyya arcee en lenadii cava.』オフェシスをロツェで読む事になる」
 言いながら再び空中に指を走らせる。フェルはその二つの文を指し示し、クロウィルを見た。
「全くの別物になるってことなんですけど、……分かりました?」
「……微妙に」
 ヴァルディアの言葉に次いで言ったフェルに、クロウィルは渋い顔のままそう答える。フェルが長官を見れば、彼は仕方がないといったように肩をすくめてみせた。
「実際に使ってみないと分からないことの方が多い言語だからな。説明しても分からないだろう」
「そんなもんですかね……慣れだと思うんですけど」
「気付けばできていた輩には言われたくない言葉だな」
 その言葉にさすがにむっとした表情を浮かべたフェルだが、しかしヴァルディアが再びその羊皮紙に視線を落とすのを見てそれを打ち消す。ヴァルディアはしばらく無言のままそれを見て、唐突に口を開いた。
「これを言われた時、違和感はなかったんだな?」
「ちょっと混乱しましたけど、特に違和感とかは、……考えてみれば変ですね」
「ああ、おかしい。私も古代語は母語と自負しているからな、こういう類いには敏感な方だが……文自体が間違え過ぎていて違和感すらないのか、あるいは確立していない型を使ったものなのか、考えられる可能性としてはこの二つだな」
「私たちの認識が間違っていると?」
「固定観念に捕われているのは皆が皆同じ事だろう。……悪い予感がする、調べておこう」
「お願いします」
 ヴァルディアが羊皮紙を上着の中に仕舞い、その手が止まる。何かと思ったフェルが首を傾げると、長官は溜め息をついて立ち上がった。
「フェル、手を」
 唐突に言われてさらに疑問符を浮かべる。ヴァルディアに視線で促されて左手を差し出すと、その手首に細い鎖が巻かれた。
「……これ、何ですか?」
「知人から預かっていた物だ。身に付けて離さないように、と」
「知人?」
「私の、魔法の師、とでも言えばいいか……信頼できる人からだ、安心しろ」
 三重に巻き付けられた鎖の端の、その交差したところにヴァルディアは何か印を描き、それが一瞬だけ光った瞬間、あまりの部分が音もなく断ち切られ机の上に落ちる。フェルが華奢な腕環にも見えるそれを掲げて見るのと同時に、ヴァルディアが言った。
「まじない、だそうだ」
「……私の面識のある人、ですか?」
「ああ。……と言っても、お前が紫旗に引き取られてすぐの時だから、お前は覚えていないだろうが」
 言われてさらに疑問に思ったが、聞いても分からないだろうと思ってフェルは鎖を袖の中に仕舞う。すぐに気にならなくなるかと思ったが、少し動かすたびに肌から離れて冷たくなった部分がまた肌に触れて、その冷たい感触に今までなかったものがあるという違和感が拭えない。
「で、結局分からずじまい、か」
 クロウィルのその声に視線をあげる。ヴァルディアも肩をすくめてみせ、フェルは視線を泳がせた。
「あー……そうなりますね……」
「分かり次第、伝える。夢のことは、気になるのであれば誰かに潜ってもらえ」
「潜る?」
「『夢現は水鏡』、だ」
 フェルの短い問いにはそう答え、ヴァルディアは椅子に座り直す。そして続けて言った。
「ああ、もう一つ、ついでだから伝えておく。お前の仕事始めは諸事によりフィレンスの全快を待ってからになるが、二日もかからないだろう。優秀な主治医がついているからな」
「皮肉ですか」
「純粋な褒め言葉だ」
 即座の問いに返された即答にフェルは腕を組んで視線を彼方に投げる。ほんの僅か苦い表情で、確かに医術師免許は持ってますけど、と呟くが、ヴァルディアは聞こえなかったかのように言葉を連ねた。
「早まる可能性もある。準備はしておけ」
「分かってます。いやに濃度の濃い数日でしたからね、何かいきなり気が抜けて調子狂うところでしたよ」
「すぐに忙殺されることになる、満喫しておけ。……ああ、それと、宰相殿から私にも書簡が届いていてな、先程読んだんだが」
 刹那、素早く踵を返そうとしたフェルの動きが止まる。どうやっても足が動かないと分かって、フェルは諦めたように振り返り、ヴァルディアを見た。そして言い放つ。
「無視して下さい」
「安心しろ、そのつもりだ」
 ヴァルディアがそう言った瞬間、フェルは安堵の溜め息をついた。その様子を見ていたクロウィルが問いかける。
「何か、あったのか?」
「……まあ、いつものあれですよ。『王宮に戻ってこい。協会は危険だ、いつ命を落とすか』以下略。私にとっては王宮の方が色々と危険なん、」
「そういえばこの前登城した時にエルバ伯爵と出くわしたんだが」
 フェルは小さく舌打ちしかけた。どうしてさっきの時点で魔法を解いてくれなかったんだこの長官は。逃げられないと分かっているから、フェルは素直にその続きを聞いた。長官はにやりと笑う。
「色々と恨み辛みを吐き出ししまいには泣き出さん勢いで懇願されたぞ、フェルに王宮に戻るように説得してくれ、とな」
「……まだ言ってるんですか、あの馬鹿」
 言うフェルの、しかしその声に力がない。エルバと言う名前を聞いただけで精神的な疲労が積み重なっていくように思えるのはきっと気のせいではないはずだ。クロウィルが遠い目をしてフェルの肩をぽんぽんと叩く。まるで諦めろと言わんばかりに。
 ヴァルディアは尚面白そうに口を開いた。
「色々と苦労しているようだな、『リジェヴァンティ大公閣下』?」
 フェルが言葉に詰まる。少しばかりの沈黙の中で息をついて、そしてフェルはヴァルディアを見返してにっこりと笑ってみせた。
「一体何の嫌がらせでしょうかヴァルディア『様』」
「特にこれと言った意味はない。反応したということは、お前はそういうことだろうが?」
 それを横で聞いていたクロウィルは、さりげなく数歩下がってそれとなく二人と距離を取った。少し離れたところでずっと何かの書類整理をしていた秘書のクラリスの横に立ち、そして呟く。
「背景が氷河期……」
 さっきので終わるかと思ったのが甘かった。魔法使いの口撃はここまで熾烈になるのかと思うほどだ。言葉言葉を見れば大したことのない単語が、どうして文脈だけでああも攻撃力を持つものか。思ったクロウィルのその呟きにも、クラリスは何も言わず、ただ無言で眼鏡を直した。背景は未だに凄まじく吹雪いている。
 王宮では、最初にヴァルディアが言ってみせたように、『紫銀』とたかが四協会の長官では身分に差があり過ぎて、本来なら声を交わす事すら稀だ。護衛である紫旗の第二部隊の隊員でも、大公の背後に控えることができるのは隊長一人のみ、場合によってようやく許されるのが副隊長で、当然のように声を交わすことも許されない習わしだ。
 勿論、それらのややこしいしきたりや慣習などと蒼樹とは全く関わりがなく、ここで出したところで嫌味以外になり得ないが、つまりはそういうことだろう。性格が悪いというかなんというか。
 言葉も無くなり無言の応酬を続ける二人を見て、クロウィルは深い溜め息をついた。横のクラリスに視線を向けると、彼女は面食らったように目を瞬かせる。
「……私なの、あれを仲裁するのは」
「いや、俺は無理。他にできる奴っているのか? いるんだったら教えてほしいくらいなんだけど」
「……いえ、残念だけど私も知りたいくらいだわ」
 クラリスは吐息混じりに言って、書類の何枚かを腕に抱えてかつかつと二人に歩み寄る。そして軽く咳払いをしてから口を開いた。
「長官、特に意味もないと仰るのでしたら、大変に意義のある事柄を優先していただけますか」
 瞬間、ヴァルディアが無表情に戻って視線を外す。フェルもいつもの表情に戻り、いつの間にか離れていたクロウィルを見つけて首を傾げた。
「……どうしたんです?」
「いや、この時期に雪に降られたんならともかくも、室内で氷付けにされるのは御免だからな」
 クロウィルのそれに更に疑問符を浮かべるフェルだが、それ以上の追求はしなかった。息をついてヴァルディアを見て、そしてフェルは言う。
「これからはエルバに会っても無視しておいて下さいね、長官。あの人相手するとつけあがりますから」
 辛辣な口調で響いたのは密やかな嫌悪の言葉。言われたヴァルディアは意外だと言わんばかりに片眉を跳ねさせ、そして言った。
「私も好きで相手したわけではないからな。しかし……許嫁相手にその態度でいいのか、フェル」
「だからですっ!」
 フェルはさながら怒鳴るように言って、そしてすぐに我に返る。露になった苛立ちを今更ながらに隠すように口元を隠し咳払いをする。長官に向かって声を荒げるのは間違いだ。
「……とにかく、私は魔法使いなんてめんどくさい生き物を伴侶にするつもりはありませんし、ましてや自分が選んだのならともかく、他人に勝手に決められた相手がいると言う現状が嫌なだけですから」
 ローエン侯爵家嫡男エルバ伯爵。王宮の魔術師団に所属する、れっきとした貴族出身の魔法使いで、紫銀・フェルリナードの許嫁。白に近い青い髪と藤色の瞳を持ち、それが理由で政略結婚が取り決められた。今はまだ、婚約も紫銀の成年を待っている状態だが、それもあと二年で終わる。
「命色……髪の色も瞳の色も親の遺伝でもありませんし、いくら紫銀に近い色だからってその子供が紫銀であるとは限らないって言うのに、どこの誰が言い出したのか……」
「まあ、分かりやすすぎる政略結婚だもんな……相手侯爵だし」
 クロウィルは呟くように言う。ヴァルディアがそれを聞いて、少し考えるように口を開いた。
「どこか妙だからな、この国は。紫銀に事が及ぶと躍起になる」
「……『紫銀は死なない』か、それも誰が言い出したんだか」
 長官の言葉を続くように言ったクロウィルのそれに、フェルは彼を見上げる。目が合う前に視線を落として、気付かれないように溜め息を吐き出した。
 『紫銀は死なない』。それはこの国に残された言葉だ。国民たちはそれを希望の連鎖、必ず紫銀はこの国にまた現れると、そう信じて疑いもしないが、本来の意味は違う。――紫銀が死に、永久の眠りの地とするには、この国は相応しくない、と。いつの時代を、どれほどの時を経ても、キレナシシャスに現れた紫銀は必ず、唐突にその消息を絶ってしまうからだ。
 前代、今ではそう呼ばれる二千年前の紫銀ですら、そうだった。唐突に姿を消して、彼が生きていたという証拠となりうる全てのもの、私物も何もかもが、掻き消されたように消えていたという。そして彼が再び姿を現すことはない。人の一生を、何度も繰り返したほどの時を経た今でさえも。
 だから、紫銀は死なない。この国では。
 ――息苦しい。喉元を押さえて、その瞬間に声が聞こえた。
「……フェル?」
「あ、はい。なんですか長官?」
 唐突な呼びかけに沈んでいた思考が浮上し、慌てて顔を上げる。眉根を寄せた長官と口元を押さえて視線を外したクロウィルを見て、とっさにまずい、と思った。なんとか取り繕わなければと口を開きかけた時、ヴァルディアが先に問いかけてきた。
「……大丈夫か?」
 そういって彼は立ち上がり、机越しに手を伸ばしてくる。頭に手をのせて顔にかかる前髪を払い、顔を覗き込んできた。眼を瞬く。
「何がですか?」
 フェルはしらばっくれた。きっと二人とも分かっているのだろうが、わざと。ヴァルディアはしばらく無言でいたが、しかし手を離して溜め息をつく。そしてフェルの額を指で強かに弾いた。
「いっ」
 思わずフェルは眼を閉じて額を押さえ、薄く涙の浮いた眼で長官を見れば、彼は元あったように椅子に座ってこちらを見ていた。何故か言葉に詰まって、それでも彼を睨み付けていると、唐突にヴァルディアは言う。
「嘘をつくならもっと上手くやれ、馬鹿が」
「っ……、なんでいきなり罵倒されなきゃいけないんですか」
「自覚を促しているだけだ。気に障ったのならはっきり言え、隠されるとこちらの気分が悪くなる。ここでは体面を取り繕う必要もないだろうが」
「……別に気に障ったわけじゃないです」
「なら何故だ?」
 問われてもフェルは何も言わなかった。言うべき答えが、返答として唯一返せる言葉が、あまりにも幼稚だったからだ。
 長官のこういうところが苦手だ。人が言いたくない、明らかにしたくないと思うことを、そうと分かっていて平然と暴こうとする。眼を背ければこの感情は次第に大きくなっていくだろうと、それは自分でも分かっていることだ。だが、それでも。
 幼稚である事を笑われるのが恐いわけではない。幼稚さを笑うような人ではないと知っている。
 だからこそ、あの言葉を耳にするたび、まるで必要とされていないような錯覚を覚える事など、言えなかった。
「……ほんとに、なんでもありませんから」
 言えば、必ず相手に何かを植え付ける。それはおそらくどうしようもないやるせなさもどかしさ、そしてそれらは行き過ぎれば悲しみにも変貌する――そんなもの。
「……まだ言うか?」
「本当の事ですから何度でも言います。なんでもありません」
 そんなもの、抱え込むのは自分一人でいい。それを他人に味わわせて、どうすると言うのか。
「意固地だな」
「そう思うのなら思って下さって結構です。実際そうですし」
 意地を張っている事など分かりきっているからこそ、フェルは正面切ってそう言った。嘘をついていると認めたも同然のそれにヴァルディアは呆れたように眼を細める。そして溜め息混じりに口を開いた。
「……では、次の嘘は上達しておけ」
「何の事ですかね」
「もういい。とにかく、もう問題は起こすなよ」
「だから、私が起こしてるんじゃなくて問題が私の方に寄って来るんですってば。……別に言われなくても同じ事だって分かってますから言わないで下さいね」
 そのフェルの言い様にヴァルディアは軽く笑ってみせる。それを見たフェルが意外そうな顔をしてみせて、そして不意に眼に入った窓の外の、その景色に視線を向けた。
「……ああ、降り始めたな」
 同じように視線を向けたクロウィルが呟いた。大きな氷の結晶がふわりふわりと落ちて来る。
「今度こそちゃんと積もるでしょうか……」
 寒さが厳しくなればなるほど雪が恋しくなるのは、雪国に生きているからだろうか。四つの景色の中、一番長い冬。その中でも一番の厳しさを伝えるこの時期に、この国は白銀に包まれる。
「……フェル」
「はい?」
 クロウィルの呼びかける声に視線を向ける。同時に軽く腕を引かれて視線の端に青い髪が映り込んだ。ごめん、と耳元で囁く声。
 フェルは反射的にその懐に拳を突き刺した。鈍い音が響く。
「……そういう事は余所でやれと言ったはずなんだが?」
 長官の冷たい声には顔の大半を袖で隠して睨み付ける事しかできず、フェルは鈍痛の走った右手を握りしめる。横腹を抱えて悶絶するクロウィルを見下ろした。
「っ、この、馬鹿騎士……ッ! そういうの言うくらいだったら普段からもっとちゃんと気をつけるとかしたらどうですか!?」
「はいはい、フェル、落ち着いて。男ってそういうものよ、気を使うとか、そういう場所から一番遠い所にいる生き物なんだから」
 今度こそ本当に怒鳴るフェルと、それを宥めるクラリス、そのクラリスの言葉に追い打ちをかけられて言い返せないクロウィルの三人を見て、ヴァルディアは僅かに息を吐き出した。今日もおおむね、蒼樹は普段通りに騒がしい。
「……時にクラリス、それは私の事も言っているのか?」
「さて、何の事でしょう。どこか心に引っかかる部分があるのであれば罪悪感という言葉を思い出してみて下さい」
 言う彼女がまるで母親がしてやるようにフェルを抱きしめてやると、フェルは素直にそれに抱きついた。クラリスはそれに苦笑を浮かべて、そしてその表情にわずかに憐憫を混じらせクロウィルを見た。
「……よかったわね、クロウィル。ここにいるのがフィレンスじゃなくて」
「……なんで蒼樹の官吏ってこう、人の着ずに塩擦り込むの上手いんだろうなぁ、クラリス……?」
「さあ誰のせいかしらねぇ、長官?」
「さて誰のせいか、全く見当も付かんな」
 ヴァルディアは机から拾い上げた書類に眼を通しながらしゃあしゃあとのたまう。クラリスはまだフェルの銀髪をなでながら、不意に声を上げた。
「そういえば、フェル、フィレンスが見えないけど、どうしたの?」
「……あ、え、と、部屋に置き去りに」
 忘れていたのを一体誰に誤魔化すつもりなのか、自分でも変な言葉が出てきたと思う。横からクロウィルが言った。
「普通に休んでるって言えよ」
 フェルは至極真っ当な事を言った彼を睨み付け、ようやくクラリスから離れる。ほんの僅か慌てたように踵を返して、扉へと向かう途中で思い出したように振り返った。
「あ、ありがとうございました長官! クラリスさんも」
「気にするな」
「暇な時には遊びにいらっしゃい」
 二人の声に頷いて、扉をくぐる寸前クロウィルを見やる。彼が足を踏み出すのを見るより早く廊下に飛び出して、駆け出した。




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第一の記憶を記す。第一の断章『夜明け』と題し、筆を措く。



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