『この大地は鎖されている
 空に触れる事も舞い上がる事も許されない
 だから私たちは求めるのだろう 希望という言葉を

 この生命は鎖されている
 時を飾る事も運命を覆す事も許されない
 だから私たちは与えるのだろう 希望と言う言葉を


 光を失い闇を彷徨う者の中には
 闇を求め闇に惑う者がいる
 やがて燦然と輝く太陽を失うこの世界ならば
 玲瓏と響き渡る月を求める事も許されないのだろうか』
                    王立図書館蔵書『喪失』 レティエル著



「で、結局誰が勝ったんだ?」
 執務室に入ってきた二人を見るなりヴァルディアは開口一番そう言って、そしてフェルが笑みを浮かべた。
「ぎりぎりで、引き分けです。時間切れですね」
 それを聞いてフィレンスが憮然とした表情を作る。ヴァルディアは机の上から数枚の紙の束を手に取り、それを二人に向かって突き出した。
「残念だったな」
「ええ、本当に」
「何が……」
 執務室の至る所に山積みになっている書類の間をすり抜けて長官の机にたどり着き、フェルはそれを受け取って地形図を手元に、他の数枚をフィレンスに渡す。二人がそれらに目を通す間にもヴァルディアは言った。
「フェルにとっては初任務だからな、二人組に渡す任務としては比較的簡単な内容だ。中位水棲『異種』と、それが率いる小物が少数」
「……小物の正体は?」
 フィレンスが書類から目を上げて問うが、しかしヴァルディアは軽く頭を振った。
「そこまで調べる余裕はなかった、既に近隣の村に被害が及んでいる。水棲『異種』の正体は『露核』だろう、特徴も一致している。小物の方が既に同化してしまっている可能性もあるが……いずれにせよ、生息する泉は既に毒に侵されたようだな、そこから流れる川の水で中毒者が出た村が幾つか報告されている」
「……浄化ができるレベルですか?」
 露核の毒は邪氣によるものだ。それを言ったフェルに、彼は今度は頷いてみせた。
「急げば間に合う。討伐が成功すれば土地の水氣が自然と浄化を促すだろう。……ただ、注意して欲しい事が一点」
 最後の言葉にフェルが顔を上げる。ヴァルディアはそのフェルを見て、微かに眉根を寄せた。
「問題となっている場所は全体が森で覆われているが、その森が近隣の村の住人から『裏切りの森』と呼ばれている。複数人で共に森に入ると必ずはぐれ、そこで裏切りが起こる、と」
「裏切り……?」
 フィレンスの疑念の声に顎を引いて肯定し、ヴァルディアはもう何枚かの書類を取り出す。それに眼を落として、口を開いた。
「調査にやった先遣隊の魔法使いが何らかの魔法的要素を発見したが、恐らく森全体に張り巡らされたもので、呪いか結界の一種だろうと言ってきている。森に入ってしばらくすると相方がいつの間にか消え、更には攻撃を仕掛けてきた、と」
「……だから裏切り、ですか」
「そのようだな。そのおかげで充分な下調べができなかったとも言えるが……注意するように。本来の目的はあくまで『異種』の討伐だからな、森自体に捕われるなよ」
「了解」
「了解です。……長官、その森は放っておいて良いんですか?」
 そのフェルの問いに、長官は肩をすくめる。その彼のすぐ近くに立つクラリスが書類から眼を上げた。
「解呪のための準備を整える事になっているわ、何らかの害になる可能性もあるし、村人がそこで逃げまどって遭難、なんて事も何回か起こっているし……」
「治安の問題でもあるからな。だが、片を付けられそうならつけてきてくれると私としては有り難い」
「……分かりました、やれそうならやってみます。で、村人が遭難ってことは、そこに意図的に足を踏み入れる人もいるんですね?」
「ああ。だからフェル、これを」
 言ってヴァルディアが差し出したのは、掌にすっぽりと収まる程度の小さな瓶。それを受け取り、光にかざしながらフェルは疑問符を浮かべた。
「何ですか、これ?」
「特別に調合した、瞳の色を変える魔法薬だ。今度調合法をまとめて渡すから今度からは自分で作れ。フィレンス、それで良いな?」
「長官殿に感謝を。こちらのいたらなさを押し付けてしまって申し訳ない」
「こんな変な魔法薬の調合法を知っている魔法使いの方が少ない、仕方ないだろう」
 その会話を聞いてフェルは小さく溜め息をついた。知らない所でフィレンスが長官に頼んでいたのだろう、イースやジルファは調合に向いた魔法使いではないのだ。
 瞳の色を変える、それは紫銀である事を隠すためだ。今でこそ協会ではフェルが紫銀であるのは当然の事のように思えるが、その紫銀が黒服であると言う事は大衆には知られていない、知られてはいけない事だ。協会の外に出る以上それはこれからずっとついて回る。それを暗に言われたようで、フェルはわずかに不満げに言った。
「……やっぱり変えなきゃ駄目ですか」
「うん、駄目。協会の任務中は護衛つけられないから、私だけで対処できない事になったらどうするの」
「それは、…………そうですけど、その可能性を否定できないのが悲しいです」
 とっさに言い返そうとして、しかし言葉が出てこないと分かって素直に認める。紫銀として顔を出した事は限られた場所で数えるくらいしか無い、色さえ隠してしまえばそうと分かる事は無いはずだ。
「……黒服や護衛師団の隊長でも到底太刀打ちできない相手はごまんといる、私でも勝てない相手はいる。そういった輩が害を為さないとは限らないからな、安全策だ。仮にもしお前が何者も太刀打ちできないほど強くなれば、また別だが」
「仮定で話さないで下さい」
 即座に言い返すが、当然強がりだ。フィレンスは苦笑を浮かべてフェルの肩を叩き、踵を返す。フェルはそれを追って、そして執務室の扉をくぐり回廊へと出た。


 任務で指定される地域は、協会の近辺とは限らない。他の協会との境界線の近くともなればそこに行くだけで数日を要するが、特に人員の少ない蒼樹協会にとってはその時間すら惜しい。一つの任務に複数の所属者を何日も拘束するのは効率が悪すぎるからだ。
 だから協会は、その管轄地域の場所場所を魔法で協会と結び付け、より時間効率の良い移動方法を編み出した。簡単に言ってしまえば瞬間移動だ。
「だからって一瞬で行けるわけでもないんだよね」
 フィレンスは言いながら手にした燭台を掲げる。灯りの少ない螺旋階段を下る彼女の後についていきながら、フェルは小首を傾げた。
「それって、どんな感じなんですか?」
「いや、移動してる最中は大方気を失ってるようなものだから、よく分からないんだよね。気がついたら向こうについてるし……ちょっと時間経ってるかな? と思うくらい。実際そうなんだけどね」
 目的地まで瞬時に移動をするような魔法はまだ開発中らしく、今協会で使っているのは試作段階のものだ。試作段階では移動する距離に応じて時間がかかる。数分から、かかっても一時間くらいだから、通常の移動手段を使うよりも早いことには変わりないのだが。
「で、フェル、何となくでも分かった? 森の事」
「憶測ですけどね」
 振り返りながら問い掛けたフィレンスに、フェルは肩をすくめてそう答えた。緩い螺旋階段の終わりが見えて、そこにある扉を見ながらフェルは続ける。
「情報が少ないので今ここで考えてもあまり、とは思いますけど、現状で考えられるとしたら二つ。一つは、森全体に幻覚結界と妨害結界が張ってあると言う場合。これは結界を壊してしまえば良いので比較的簡単に解決します。二つ目は、その森に入る人……近隣の村人たちですね、その人たちにあらかじめ『そうなるような魔法』が掛けられているかもしれない、という可能性です。こっちは解呪方法を見つけるのに手間取る可能性もありますから、『異種』討伐を急いだ方が良いですね」
「討伐に森が邪魔になる事も考えられるけど、そのときは?」
「別々に森に入るしかなさそうですね。複数で森に入った場合にしか例の現象の報告は見られませんでしたし」
 フェルがそう言って、フィレンスは納得したように頷く。そして彼女はくすりと笑った。
「……やっぱり黒服がいると楽だね」
 白服と黒服の二人の行動では、方向性を決めるのは黒服の方が得意だ。それは全ての場合に共通しているし、新人とはいえフェルも例外ではない。とっさの反応や臨機応変な行動では白も黒も変わらないが、しかし事前の情報を手掛かりにするのとでは勝手が違う。
 それを言外に言ったフィレンスに、フェルは眼を瞬いてみせた。
「……やっぱりってことは、他の黒服の人と任務行ったことあるんですか?」
「うん、オーレンとね」
 沈黙が流れる中、フィレンスは扉を押し開く。フェルが何も言わずにそれを追い、無言で見つめているのに気付いてフィレンスは肩をすくめた。
「勝手に組まされたの、黒白が数組必要だからって。結局三組くらいでの合同任務だったんだけどね、その時のこと思い出してさ。白服になって初めて完全に戦闘に集中できたの、あの時だから」
「……オーレンさん、なんだか人を避けてるような所ありますけど、フィレンスとかクロウィルには気安いのって、そのせいだったりするんですか?」
「そう……なのかな。よくわからないけど。あいつの判断基準って何がなんだかよくわからないからね」
 フィレンスは言いながらフェルが部屋に入ったのを見て扉を閉め、壁に備え付けられた燭台に、手に持ったそれから火を移していく。それを何度か繰り返すと、広い丸い部屋の輪郭がようやく見えた。
 壁沿いに小さな机が二つ置いてあり、丸まった羊皮紙と燭台が幾つか置いてある。フィレンスはそのうちの三つに灯を灯して、そしてずっと手に持っていた燭台をそのすぐ側に置いた。鑞の融ける、ねばるような濃い臭いが狭い部屋に充満する。
 フェルが床に視線を落とせばそこには白線で描かれた小さめの構築陣。小さめと言っても半径で二メートルはあるが、魔法のそれにしてはシンプルで小型な方だ。
「さて、と。じゃあ行こうか。フェル大丈夫?」
「大丈夫も何も、まだ何もしてませんって」
 フィレンスの問いに苦笑混じりに答えて、フェルは構築陣の上に立つ。正面にフィレンスが立ち、そして眼を閉じた。
 向かうのは、ファスティア。



 ファスティアの村には、村を南北に二分するように川が流れている。というよりも、その川を挟む形で出来上がったのがファスティアという名を持つ村だった。川の上流を覆い隠すように広がる森を遠くに見て、村はこじんまりと栄えている。
 森のすぐ近くに村を作らなかったのは、『異種』の襲撃を恐れての事だった。だがその森には等級の高い薬草がある。それはファスティアが栄えた一因でもあるし、それは今も変わらない。
「……だから、森に入れないと困るのに……」
 少女は、灌木の間に立ってそう呟く。森の入口、森がこれ以上村に迫らないように定期的に伐採を繰り返して来たそこは、今は背の高い雑草や灌木に埋め尽くされている。
 少女は革の手袋をした手を握り締めた。雪が積もった枝が軋む低い音を遠くに聞きながら、やはり森の入口で逡巡したまま。
 薬草を採ってくると言うのは、主に若い女の仕事だ。『異種』の比較的少なく、いたとしても害の無いものばかりだったからこその仕事だったが、この前蒼樹協会の調査員が来てからというもの、誰もこの森に入る事ができなくなってしまった。危険な『異種』がいると聞いて、近付くような人間はいない。__普通なら。
 少女は自分を鼓舞するように力強く頷いて、そして足を踏み出した。灌木をかき分けて、樹の海へと入り込んでいく。薬草は樹々をすり抜けていく途中にすぐ見つかった。
 かがみ込んで、手袋をしていてもかじかむ手で丁寧に根元を手折る。いくつか採った所で肩に掛けた鞄にそっと仕舞って、ふうと息をついた。
「これだけあれば、足りるかしら……」
 川の毒にやられた村人は多い。この薬草が回復に役立つと分かってから、彼女はこうやって何度も薬草を採りに来ていた。村長には言わず、その度に怒られてはいるものの、やめる気はない。
「……蒼樹の人、早く来てくれないかしら……」
 立ち上がり、小さく呟く。足早に来た道を引き返そうとして、少女は足を止めた。
 身体に冷水を浴びせかけられたような感覚。手の平を握り締めて、そして少女は走り出した。同時に何かが追いかけてくる音。振り返りはしない。樹々の間を縫うように走り抜け、灌木を掻き分けて、そして急に倒れ込む。雪に足を取られたのだと分かったのは、立ち上がろうとついた手が白いものの中に沈んでからだった。
 急に視界が陰る。恐怖で身体が硬直して動かない。怖い、とはじめて明確に思った、瞬間。
「『紅炎の其の二、“レグェルナースィス”!』」
 鋭い詠唱の声に反射的に顔を上げる。眼に飛び込んで来たものに、少女は眼を見開いた。
 黒い服、ベージュのコート。そのフードで顔を隠したフェルは、少女のすぐ側にかがんでその腕を掴んだ。
「立って下さい。大丈夫ですから」
 少女は驚いたような顔をしながらも腕を掴み、それを支えに立ち上がる。フェルも立ち上がると、少女を背にして森の中へと視線を向けた。
「……何でこんな所にいるんです? 村ではこの森に入るなと言われたでしょう」
 少女は何も言わない。言えないのだと言う事が分かってフェルはそれ以上問い詰める事はせず、その手に杖を呼び出す。__小物、低位の『異種』だ。恐らくこの森に充満し始めた邪氣に寄せられて来たのだろう。こちらの力を見せつけた以上、向こうから手を出してくる事は無い。『異種』にもそれくらいの知能はある。
 それを示すかのように、僅かの間灌木からこちらを睨んでいた『異種』は、しかしそのまま姿を見せる事無く森の奥へと消えていった。それを気配で感じ取ってフェルは呼び出した杖を霧散させ、そしてフードを手で押さえてそのまま極力顔を見られないように少女を見る。
「大丈夫ですか?」
「…………黒服……」
 少女はそれだけを呟いて、沈黙が落ちる。フェルはどうしようかと思いながら息をついた。黒服って絶句するほど稀少価値の高いものなのだろうか。
「……フェル?」
 呼びかけられ振り返る。今まさに森から出て来たフィレンスは、フェルの後ろに立っている少女を見て怪訝そうな顔を浮かべた。
「何かあったのか?」
「悪戯に遭っただけです」
 それでフィレンスは分かったようで、ああ、と言って刀身を鞘に納め、歩み寄ってくる。フィレンスはフェルの隣に立ち、少女に視線を向けた。
「村に戻って、白と黒が来たと村長に伝えて来てくれないか?」
「……あ、え、ええ……」
「それと、あとしばらくはここに近寄らないように」
「…………あ、ああ!」
 言われてようやく我に返り、少女は文字通り飛び上がり叫んだ。再び雪に足を取られて倒れそうになってすぐにフィレンスが支え、彼女はまた飛び上がる。
「きゃあ!? ご、ごめんなさい!」
 謝りながら飛び退りわたわたと慌てたその様子に、フィレンスは内心遠い眼をした。__絶対、男だと間違われてる。
 女騎士は数が少ない、蒼樹協会はそれが顕著だ。しかも騎士と言えばもっと筋骨隆々なイメージが定着している分、フィレンスのように細身で顔が整っていると、女性の反応には凄まじいものがある。フィレンスもそれは分かっている。
 フェルの胡乱げな視線を感じて、フィレンスはそれとなく眼を彼方へと追いやった。
 と、その視線が細められる。軽い金属音とともに白刃が僅かに引き抜かれ、少し遅れてフェルの手に長杖が現れた。
「村に戻って下さい。ここは戦場になりますから」
 フェルが森に身体を向けながら言う。左手でフードを押さえたまま森を見て、その眉根が寄せられた。
 少女は今度は何も言わず、かわりにほんの少し逡巡した後村へと走っていく。その気配が十分遠くなった所で、唐突にフェルが溜め息をついた。
「フィレンス、男口調」
「ごめん、無意識。そうそう簡単に治ってくれるもんじゃないね、癖って」
「治して下さいよ? できないんだったら男に生まれ直して来て下さい」
「やだよ、あんな面倒な生き物になるの」
 言いながら剣が引き抜かれる。微かな笑い声とともに長杖が太陽の光を弾いた。
 相対するのは、幾対もの『異種』の瞳。僅かな緊張をはらんだ自信の声が、響く。
「さて、初陣といきましょうか」




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