動いたのは異形。草の音とほぼ同時に、フェルの杖が鳴った。
「『“レフィル・コート”! 報復の主よ!』」
 鋭く放たれた幾百の氷の刃が高く跳躍した『異種』を貫く。飛び上がった猿のような姿をしたそれは怯みもせず、しかし次の瞬間襲いかかる白刃に崩れる。
「フェル、数は!」
「そんなに多くはありません、せいぜい十程度です!」
 巻き上がった風にフードを押さえ、フィレンスの声に答えたその足元に構築陣が浮かび上がる。詠唱なしに紡がれたそれはまだ森の中に潜んだままの『異種』にも降り注ぎ、ひしゃげた叫び声が響いた。
 『敖』と呼ばれる種の異形。動きは俊敏で捕捉の難しく、魔法抵抗力の比較的高い相手だ。おそらく先程の魔法に反応して集まってきたのだろう。フェルは距離を置いて牽制のための魔法を放ち、それを追うようにフィレンスの剣が奔る。それほど強い相手でもない、すぐに片はつく。
「あ、フェルあんまり消耗しないでね」
 優勢の状態を整えるために後退したフィレンスが、唐突に思い出したように言う。それを言われたフェルは一瞬言葉に詰まった。
 魔力の消費が中々抑えきれないのが、今現在フェルの最大の壁となっている。すぐにばててしまうのだ、討伐対象と遭遇もしていない状態で魔力を消費するのは痛い。それでなくとも討伐対象には水棲の『異種』がいる。水の性質が示すように、彼らに剣は効かないのだ。
 フェルは無言のまま、宙に指を走らせ簡易構築陣を描く。指を鳴らした瞬間それは大きく輝き、その場にいる『異種』全てを覆うように展開した、刹那。
 その半球の結界の中の至る所に氷柱が降り注ぎ、幾つもの断末魔が轟音に掻き消された。
「……だから氷属性ばっかり使ってるんですよ」
 小さく反論するように呟く。傍に立ったフィレンスが、一掃された『異種』が硝子が砕けるように消えていくのを見ながら遠い眼をした。
 魔法使いは自然界に存在する氣の影響を受けやすい。魔法を使えばその分魔力は消費されるが、その空いた分には時間の経過とともに自然界に浮遊する氣が流れ込んでくる。だがそれは魔力ではなく氣そのものであり、そしてこの冬と言いう時期は氷氣がそのほとんどを占めるのだ。
 体内には血流と同じく氣が循環する。そのバランスが崩れるのは、魔法を使わない者にとってはほんの些細な違和感でしか無いが、魔法使いにとっては脅威となりうる。氷氣を魔法という形で意識して体外へと出さなければならないのは、魔法全般の効果が均一でなくなるためだ。
「影響受け過ぎじゃない?」
「仕方ないじゃないですか……魔法使いには有り得ないほど左右され過ぎだって、いろんな人に言われてるんですから、それ以上言わないで下さいよ」
 言いながらフェルは再び指を鳴らし、結界が空気に溶けるようにして消える。それを見届けるより早く周囲を見渡し自分とフィレンス以外に誰もいないのを確認して、そしてようやくフードを外した。
 露になった銀の髪が背に流れ落ち、それを見た瞳は紅__魔法薬で変化させた、その結果だ。
「……何で赤になったのかね」
「さあ。紫は元々赤みが強いですし、そのせいだと思いますけど。むしろ私が迷惑に思うのは、この二色に一般の人が過剰反応する事なんですが」
 銀は邪の色。赤はその邪に一番近いとされる炎の色。二色揃えば、どうなるか。
 眼に見えたその色で人を判断する、それはこの世界のどの国でも言える事だ。だからこそ紫銀と呼ばれる存在が生み出され、同時に生を授かった瞬間蔑まされる存在が生まれた。銀と赤は、その最たるもの__ようは迫害の対象だ。
 フェルが魔法薬で瞳の色を変えているだけならまだその影響も少ない方だ、今の身分は魔法使いであり国民たちに信頼の厚い蒼樹の黒服。その肩書きで多少は払拭される部分もある。だが、その国民たちの中にたった一人で取り残されれば、どうなるかは目に見えている。
 フードで隠していたものそのせいだ。いくら黒服とはいえ、『異種』に襲われた直後にその色を目にして恐慌状態に陥らないとも限らない。フェル自身が銀と赤に負い目を感じているわけではなく、それは他人に対する対処の一つでしかない。
「……面倒だね」
「そうですね。協会の中は、まだ色に対して寛容ですから良いですけど」
 言いながらフェルはその手に持った杖を消し去り、森に近付いていく。フィレンスはその場に留まったままでそれを見ていた。
 フェルは一番近くに立っている若い樹の幹に手を当てた。そのまま、冬であろうと葉を落とさずにいる梢を見上げ、何事かを呟くように口にした。
 その響きが消えないうちに、樹の幹の中程がほんの僅かに光を放つ。フェルはそれを見て、そして眼を閉じた。しばらくそのままで、そしてゆっくりと眼を開ける。
「ありがとう。……フィレンス、やっぱり川から遡って森に入るのが一番安全だそうです」
 その樹に短く礼を述べて、そしてフィレンスを見る。彼女は眼を瞬き、眉をひそめた。
「……今何してたの?」
「あ、樹の精霊と、ちょっと。呼ばれたので」
 フィレンスは沈黙して、そのまま森へと視線を投じた。どうやら精霊に外見は関係無いらしい。あるいは、彼等には仮の姿は通用しないのか。
「……それで、森の事は解決できそう?」
 すぐ傍に戻って来たフェルに、フィレンスは森を指し示しながら問う。フェルは悩みもせずに答えた。
「未知数、ですね。よくわからないんです、まだ曖昧で。……結界に触れるか、核に近付くか、それくらいすれば分かるかもしれないんですけど」
「確認が必要? しなくても大丈夫?」
 その問いかけには口元に手を当てる。だがやはりそれほど時間もかからずフェルは結論を出し、口を開いた。
「……したいですね、今現在の森の中の状況が分かりません。水棲『異種』の露核も、森の中の泉にいる以上そこで『裏切り』が起こるのであれば先に解決しておきたいとも思います」
「優先順位は」
「森、露核、黒幕。ただし森は時間がかかると判断した場合、各個撃破に切り替えましょう。とりあえずは状況確認、フィレンス手貸して下さい」
「ん、何?」
 フィレンスが言われた通りに左手を差し出すと、フェルがその手の平と自分の右手の手の平に何か模様を描き、それを重ね合わせた。そして小さく呟くように詠う。
「『我らを守護せん、大地の息吹……』」
 瞬間走った奇妙な感覚に、フィレンスは眼を瞬かせた。なんだか、腕全体に蔦が這い巡らされたような、しかし不快ではなくただそこに何かがあると言う感覚。
「……私とフィレンスの間にパスを通しました、これで相互の状態が分かります」
「パス?」
「本来はおまじないみたいなものなんですけどね、相手が今どういう状態か分かる魔法です。フィレンスが何らかの攻撃を受けた場合、私が何らかの攻撃を受けた場合に互いにそれと分かるような仕組と言った方が分かりやすいですね。これが切れるか、両方が戦闘状態になったら、一旦森の外に出ましょう」
 そこでそれぞれが知り得た情報を照らし合わせれば、何かが分かるかもしれない。
 裏切りが起こると言う前提で動くのは、その後の行動に大きく関わってくると判断したからだ。そしてその判断にフィレンスも頷き了解を示し、森の中へと踏み込んだ。



 結界の揺れを感じて、彼は口元に笑みを刻んだ。
「ようやく、お出ましかな?」
 樹上、大きく太い枝の上に腰を下ろしたまま、呟く。手もとに視線を落とすと、水鏡の表面にはさざ波が立っていて、思うような景色は映し出されない。
 妨害結界か、と声には出さずに呟き、彼は手を振って水鏡のそれを消し去る。もとよりそこまで期待していなかった実験、あの長官が目を向けただけでも上々。さらにあの二人が来て、予想外に楽しいことになりそうだ。
 ふと森の中の邪氣が強まったような気がして、視線を上げる。その深い藍色の瞳が向かう先は、今まさに森へと入り込んだ二人、その片方。
「……意図して邪性を高める……漆黒の差し金か……?」
 嫌な氣だ。瞬時にそう判断を下して、彼は一気に地上へと飛び下りた。軽い音を立てて着地して、そして樹の根元に視線を向ける。
「リィシャ、戻っていてもらえるかな」
「え?」
 深紅の瞳が彼を見上げる。立ち上がった女性は、装飾過多ぎみの洋服から雪を払い落としながら口を開いた。
「何よ、ここに呼んだのあんたじゃない」
「そうだけどね、邪魔が入った。どうやら漆黒が僕らのことを嗅ぎ付けたみたいだね、……クセルに知らせておいてほしい」
 言いながら、しかし彼の仄かな笑みは崩れもしない。リィシャ、と名を呼ばれたその人は首飾りを指先でいじりながら溜め息をついた。
「あいつ、それくらい分かってるんじゃないの?」
「だからこそだよ」
 言うと、女性は帽子の据わりを直しながら眉根を寄せた。ほんの少しの沈黙を経て、彼女は舌打ちを響かせる。
「嫌な感じね。蒼樹も気付いてるっていうの」
 言う、その右手に魔力が集まる。探索のために散らした微細な魔力を回収するのを見ながら、彼はその手に杖を呼び出し口を開いた。
「どうやらそのようだよ。まあ漆黒が報せたって言うのが妥当じゃないかな」
「……あんたはどうするの?」
 言うその言葉には少し考える。しかし迷うことはせずに、彼はすぐに答えた。
「せっかくだから実験の結果を確かめる傍ら、ちょっと遊んでみることにするよ。まさかこうも大物が来るとは思わなかったから、準備不足の気はあるけれどね」
 言うと、彼女は呆れたように息をつく。腰に手を当て、半ば諦観を含んだ視線をよこした。
「そうやって喧嘩売るから反発されるんじゃない、あたしたちは敵対してるわけでもないのに……ユーディス、あんた『慎み深さ』って言葉知ってる?」
「『臆病』の別名、だろう?」
 今度こそ心の底から呆れ果て、女性は踵を返すと同時に姿を消す。それを見送った男性は、その様子を見てくすりと笑った。
「……大丈夫だよ、目的を見失っているわけじゃない」
 それは全ての瓦解を意味する。今相対するものがどう思おうと問題ではない、結果が『最悪』でなければ、それだけで意味を成すという賭け。最悪である確率が最も高いそれに、なぜ自分が加担したのか__思ってみれば、退屈していただけなのかもしれない。
「暇を無くすことだけを考えて世界に殺されたくはないからね、僕は」
 銀の髪が揺れる。深い青の瞳で森を見遣り、そして彼は不意に不思議そうな顔をしてみせた。
「……でも、漆黒が僕らに気付いてあれに気付いていないって言うのは、妙だな……」
《……調べましょうか?》
「うん、頼むよ。もしかしたら天界にはまだ影響が出ていないのかもしれないから」
 どこからともなく聞こえてきた女性の声に、彼はそう言って歩き出す。向かうのは森の中心、川の始まりとなる場所。



 フェルは不意に何かを感じて視線を上げた。足を止め、振り返りかけた身体を留める。
「……五式の妨害結界……」
 小さく呟き、そのまま視線を戻して歩き続ける。振り返ってもそこに白い姿がないことは、気配が感じられないことからみても明白だ。
「やっぱり旧三式の結界にしておけば良かったですね……気持ち悪い」
 口に出して言いながら、歩いた歩数と方向を頭の中に叩き込んでいく。一番最初に見た地形図でこの森の大体の規模は分かっている、いざ外に出ようとした時にどの方向に抜ければ早いのかが分かれば、合流も早くなるだろう。
 そのフェルの周囲には小規模な結界が巡らされていた。結界といっても何者かの攻撃を阻むものではなく、こちらの存在を曖昧に感じさせる感覚妨害型のものだ。『異種』との遭遇を回避するためのものだが、一瞬、別の構築式が干渉してきた。
 それと同時にフィレンスの気配が断ち切られたことを考えれば、これがこの森の騒動の仕掛けだと分かるが、これが半永久的に効果を持続し続ける自然に生まれた結界なら壊しようがない。人為的なものなら協会の管轄ではない魔法犯罪の域だし、それ以前にフェル自身の偶数式妨害結界にその五式、つまり奇数式妨害結界が干渉してきたせいで胸の奥がざわざわと騒ぎはじめたせいで気分が悪い。フェルは意識して深く息を吸い込み、緩やかに吐き出した。持続性の魔法は身体の中に構築陣を留める必要があるが、その構築陣が__魔法が、暴れている。
 魔力の具現化された形である魔法は、意志を持つ。十二の氣の源が世界、神、精霊という知能体である以上、それらの使役する氣自体が意志を持ち、故に魔法は『魔』と呼ばれる。自身の、神に対する忠誠から力を借り受ける神子は法力と呼ばれる奇跡を顕すが、魔法は他を使役し配下に置き発動させるものだからだ。
 だから魔法使いを目指す者が一番にしなくてはならないことは、精霊たちの信頼を得ることだ。彼等を理解し、彼等の理解を得て、そしてこちらの意志に上手くつきあってもらう。その方法を教わることなく身に付けた者が、真性の魔法使いと呼ばれる天才たち。
 だがその点に関してフェルの場合は例外だった。理由は、紫銀だから、の一点のみ。これに関しては本当にそれでいいのかと思っているフェルだった。聞けばヴァルディアもそうだと言うので、更に微妙な気分になったフェルである。
「……というか長官と私って以外と共通点があって恐いんですよね……これで食べ物の嗜好とかが一緒だったら、兄妹とか言われそうな……」
 想像してぞっとした。それ以上考えないようにして、フェルは心持ち足早に森の中を歩いていく。誰の魔法かも分からない五式の妨害結界は依然として周囲を漂い干渉を繰り返してきていたが、こちらの偶数式は二度三度と回数が重なる毎に落ち着き、今では静かに結界を保っている。持続性の結界を発動している時にはいつもだが、魔法に自我があると考えるとなんだかペットの様に感じる、とフェルは思った。攻撃魔法の時には感じることのない感覚だ。
 そうやって任務とは全く関係のないことを考えながら歩を進めて、十分ほど。肉体的ではなく精神的な疲労を感じてフェルは足を止めた。周囲に視線を巡らせて、そして眉をひそめた。
 フィレンスとのパスは繋がっている。近くもなく、遠くもない場所にいる、ような気がするが、すぐ近くにいないことだけは確かだ。それなら共鳴しあって互いに居場所が分かるはず。
 それなのに何故、近付いてくるものがある。
 『異種』ではない、特有の氣の流れがないからだ。曖昧な気配、それにこんなにゆっくり、こちらにまっすぐ向かってくるのは、人間以上の知能を持つものと考えた方が自然。
 唐突に右手に違和感を感じて、視線は気配を見つめたまま反対の手でそれを押さえる。震えを押さえようとした左手ごと右腕を蔦が覆い尽くし、肩を這い上ったそれがするすると葉を伸ばす。それがようやくとまって、そしてフェルは息をついた。
 パスを断ち切る方法には二つある。一つは物理攻撃による切断、もう一つは弾き返し。呪詛返しにも似た方法で術者には苦痛を伴う、間違った解除方法として知られる__パスを通すだけの簡単な魔法だったから、蔦が這う程度で済んだ。もう少し複雑な魔法だったら体中に根を張り巡らされていただろう。
 フィレンスは弾き返しの方法を知らない。そもそもこの魔法を知らなかった。
「と、なると……誰かさんがわざわざ弾き返してくれたわけですね。しかもパスなんて超古典魔法を知ってる人が」
 林立する樹木の間に白いものが垣間見える。森から出る方向は分かっているが、そう簡単には行けないだろうなと思いながらフェルは右手に杖を呼び出す。小さく灯った炎が瞬く間に葉を広げる蔦を焼き、赤い火に煽られ銀の髪が一房舞い上がった。
「誰でしょうねぇ……フィレンス?」
 試すような視線。向けられたその人は、申し訳なさそうに笑んだ。
「……ごめんね、フェル」
 剣を抜く音。そして杖がその刃を受け止める甲高い音が響いた。




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