唐突に何かが消え去ったような感覚がして足を止める。フィレンスは剣の柄に手を掛けて振り返った。
「……フェル?」
 問いかけるが、応えはない。始まったか、と思いながら視線を戻し、歩き出す。
 森の中には特別何か変わった気配があるわけでもなく、ただ冷たく凝った空気があるだけだ。時折聞こえる軋む様な音は、雪の重さに耐えかねた枝の音だろう。腕に絡み付くような感覚はフェルの魔法、何故かは分からないがフェルが遠く離れているわけでも、かといってすぐ近くでもない場所にいると言う事が分かった。
 裏切りの仕掛けが分からないうちに下手な事をすればどうなるか。魔法は逆らえば反発する、だからフェルも攻撃的な手段に訴えなかったのだろう。
 考えながら、そのまましばらく歩き続ける。元々この森には『異種』は少なかったと調査書には書いてあった、その数が増えればその場にも影響が出るものだが、今のところこれといって不審な点は見つからない。何かが争った跡があってもおかしくないのだが、それが無いというのが不自然だ。逆に何かがある、そんな予感がする。
 そう思って、剣の柄を離さないまま歩を進める。湿った土を踏みしめて奥へ奥へと進む、その途中に聞こえたのは遠くで何かが弾ける音。
 薄い硝子の瓶が割れたような、甲高い音。足を止めてその方向を見やる。
 少しして、見慣れた姿が樹々の間から現れた。銀の髪、紫の瞳、黒い服。
「……フィレンス?」
「……さて、本物かな」
 剣を軽く引き抜く。フェルはそれを見て杖を握ったが、しかし二人とも戦闘態勢には入らない。しばらくそのまま見合って、そして唐突に二人は武器を降ろした。
「どうやったの、フェル?」
 問い掛けると、フェルは少し困ったような顔をする。それでもフィレンスの問いに答える、その言葉は澱みない。
「いえ、よくわからないんですが……私のじゃない結界が幾つも張ってあったので、面倒だったし全部壊してみたんです」
「それで、解けた? それとも一時的?」
「一時的だと思います。自然のものなら再生しますし……誰かが意図的に作った結界なら、術式主は結界が壊されたと言う事が分かります」
「そうか……」
 フィレンスは呟き、フェルから視線を外して辺りを見渡す。何の変哲もない森の中。そのまま無言で歩き始めると、フェルも後ろについてくる。しばらく無言で歩き続けて。
 その間にも二人は何も言わない。フェルは周囲の様子を窺いながら、フィレンスはそれに任せながらゆっくりと歩を進めていく。
「……フェル、何か見つかった?」
「いえ、特には。結界が幾つかあっただけですね……妨害結界でした、何か変な仕組が組み込まれていたのかもしれませんが、そこまでは」
 フィレンスはただ頷いて、そのまま森の中を進んでいく。どこかで枝や幹の軋む音が響くのを何度か聞いて。
 そしてフィレンスは唐突に足を止める。溜め息をついて、手袋に覆われた手で金の髪をかき混ぜた。
「……うーん、ここら辺だと思うんだけどなぁ……」
「何がです?」
 妙な呟きにフェルが首を傾げるのが気配で分かる。フィレンスは振り返らず剣の柄を握り、そして言った。
「ん? フェルの居場所」
 振り返ると、紫の眼が見開かれているのが見えた。フィレンスは笑みを浮かべる。
「驚いた? ……なんて、魔法に対して聞くのも変か」
「……フィレンス?」
「残念だけど、君はフェルじゃないよ。まず、フェルはこの森に対して不信感を前提に動いてる、仮に森の中で本物の私と出会ったとしてもまず攻撃をしかけて、このパスとやらの仕組がちゃんと反応するかを見る筈」
 言いながらフィレンスは左腕__フェルがパスを通した腕を示す。
 両方が戦闘状態になったら森を出る、とフェルは言った。なら、フェルからフィレンスに対し攻撃をしかけた場合はほぼ同時に両者が戦闘状態に入る事になる。まずそれが第一の判断基準。
「二つ目。発言と行動が甘い。情報提示をするまでは良かった、ただしそのあと私が知り得たかもしれない事を何も聞こうとはしない……魔法関連は黒服の専門なのに、魔法の中で行動しているに等しいこの状況で行動選択を騎士である私に任せている事も」
 フェルはその言葉に小さく俯き、手に持った杖を見やる。フィレンスは剣を引き抜く。
「三つ目。フェルは君みたいに無口じゃないし、眼は今、紅いんだよ」
「……成程。参考にさせて頂きます」
 固い、感情の見えない声でフェルが答える。次の瞬間その姿が消え失せる。
 ほぼ同時に背後から襲いかかった大鎌の斬撃を見もせずに避ける。同時に腕に這っていた蔦のような感覚が消え失せ、消されたかと瞬時に判断。
 再び襲いかかった刀身に白刃を絡ませて、空を斬るその動きを止めた。大鎌の形に変形した両腕を見て、フィレンスは眼を細めた。



 襲いかかる白刃を杖の柄で阻む。その衝撃と重さに顔を歪めて、フェルはそのまま口を開いた。
「『嘗て栄光極めし者、我が命に従い敵を伐て!』」
 詠唱を聞くやいなやフィレンスは剣を振り抜き、フェルはその力をわざと受けて間合いを開ける。広がった構築陣、そして突風が駆け抜けた。
「『風よ悉く我が矛と化し大気よ悉く我が楯となれ! “レツェンド・フィアス”!』」
 殺到するのは鎌鼬。術者自身を守る風の結界の中で、フェルは小さく舌打ちした。フィレンスは樹々を使って上手く風の刃をやり過ごしている。
 パスが切られる寸前、違和感があった。おそらくは向こうでも何かが起こったに違いない__
「……さて、と。これで本物疑惑は消えましたね」
「偽者疑惑じゃなくて?」
「あなたが本物じゃないって言うのは最初から分かってましたから。だいたい、私がフィレンスの前で何度レツェンド・フィアスを使ってると思ってるんです? 無効化出来るのにしなかった、これがまず変です」
 フィレンスは剣を握ったまま、しかしこちらの言葉を聞くつもりなのか攻撃はしかけて来ない。フェルは内心意味のない事をあえて選んだそれを不思議に思いながらも、続けて口を開いた。
「次にパスの繋がった状態で現れた時。もしフィレンスが本当に私を裏切ろうと考えた時には真正面からなんて来ません。背後を取って一発で片付けられるようにするでしょう、合理主義ですから。パスで大体の方向は分かりますしね」
「時空間魔法の可能性は?」
「……今のも、変ですよ。フィレンスは攻撃魔法以外の魔法の知識は相当疎いですからね、時空間魔法で現在と現在の時間軸をずらす事なく時空間で誤差を感じさせるように出来る事なんて知りません。その可能性にも気付かないでしょう、根が騎士ですから」
 フィレンスは困ったように笑う。緩く頭を振って、それでも攻撃をして来ようとはしない。フェルはその様子を見て多少驚きながらも、言った。
「最後に、決定的なミスが一つ……魔法使いの私を騙そうなんて、無謀にも程がありますよ」
 人は常に気と氣を発している。それは一人ひとりに細かな特徴があり__今目の前にいるように、何の特徴もない希薄なものしか纏っていないもの、たとえその姿をしていたとしても本物だと信じる方がおかしい。魔法使いにしか分からない事だが、魔法使いだからこそこれをしかけた本人もそれは分かっている筈だろうに。
「……私が裏切らないとは思わなかったんだ」
 悲しげに彼女は呟く。フェルは対して心を動かされる事もなく、肩をすくめてこたえた。
「さて、人の心は簡単な事で移り変わりますからね。ですが『あなた』が私に攻撃を仕掛けて来る事は明白でしたから」
 フィレンスが何を考えているのかはフェルには分からない、だがここでフィレンスが自分に斬り掛かって来るのならそれは偽者だ。たとえ、本物だとしても。
 光が迸ると同時に展開する構築陣。放たれた炎を白い姿のそれは真正面から受け、しかし傷一つ負わず黒い姿に斬り掛かる。それを避けて、そしてフェルは杖を握り締めた。
「真似する気無いんだったらその姿でいるのやめてくれませんかね! それともただ魔力が宿っただけの傀儡にはそれだけの思考能力も備わっていませんか!」
 明らかな挑発。しかしそれは今目の前にいるフィレンスの姿を模したそれではなく、それを作り出した魔法使いに対して放たれたものだ。魔法使いは何よりも自分の魔法が嘲られる事を嫌う、それを分かっているからこそ。
 僅かに反応を返したのは、目の前にいるフィレンスだった。地面を蹴り肉薄する、その剣を見つめ、そしてフェルは不意に眼を見開いた。咄嗟にその剣を弾き、牽制の魔法を白い姿の足元に向かって放つ。
 炎が爆ぜ、瞬時に水分を失った土が舞い上がって煙幕のように舞い上がる。その中をフェルは駆け出し、少し遅れて後ろにその気配がついて来たのを感じて舌打ちしたい気分になった。向かうのは、パスが途切れる寸前までそれを感じていた方向。
 背後に迫る白い姿もそれに気付いたのか、妨害するかのように一気に距離を詰め一閃を放つ。それを紙一重で避け、フェルは尚も走った。
 一度詰められた距離はもうそれ以上変わらず、しかし次第に気配は迫る。これ以上は無理かと思った瞬間にフェルは振り返り魔法を放ち、しかしそれは白いそれを掠めるだけ。
 走ったせいで若干苦しくなった呼吸を抑え込み、フェルは樹の幹に手をついてフィレンスを見上げる。剣が振り上げられた瞬間、直感が確信へと変わり、そしてフェルは叫んだ。
「『__Flance!!』」
 硝子が弾け飛ぶような音が、響く。



「フィレナーシェ!」
 響いた声にフィレンスが眼を見開く。相対する黒い姿のそれが眼を見開き、そして唐突にその姿が歪んだ。ほぼ同時にその姿を切り裂く白刃。
「フィエル・リナーディア!」
 再び響く声。その声に圧されるように黒い影が潰れて、そして小さく何かが破裂するような音を立てて弾ける。唐突なそれに眉根を寄せたフィレンスは、しかしすぐ顔を上げると声を張り上げた。
「フェル!」
 声が聞こえた方へと走り出す。樹々の合間に見えた白に、反射的に斬り掛かった。
 金属同士がぶつかり合う甲高い音。フィレンスは眼を見開き、そして次の瞬間笑った。
「自分自身と手合わせできるなんて、どんだけ希有な経験なんだか」
「っ、フィレンス……!」
 背後、座り込んだフェルの声。すぐ近くから聞こえて来たそれには横目を向けて答え、フィレンスはそのまま目の前のそれの剣を弾き返した。
「フェル、どうやったの」
 剣を構え、目の前のそれに向けながら背後の黒服に問い掛ける。フェルは多少戸惑う様子を見せたが、すぐに言った。
「解決法が見つかりました、とりあえずあなたの本名をあなた自身が口にして下さい」
「……ラシエナ・シュオリス・リジェル・ディア=アイラーン?」
 途端、目の前の白い姿が歪む。すぐに人としての輪郭が消え、先程と同様に弾けて消えた。それが完全に消えるまで見届け、そしてフィレンスは振り返る。
 目が合って、フェルは眼を瞬いた。そして一拍。
「……フィレンス?」
 胡乱げな視線を向けられ、フィレンスは眼を瞬く。あれ、と呟いて、軽く首を傾げた。
「え、もしかしてまだ疑われてる?」
「一度ある事は二度あるって言いますし……」
「なかったら逆に凄いと思うよ?」
「二度ある事は三度あるって言いますし……」
 沈黙が流れる。そう言えば魔法使いって疑い深いんだった、と声に出さずに呟いて、そしてフィレンスはその場にしゃがむ。視線を合わせて、そのまま言った。
「……それってさ、三度ある事は……って永遠に続く感じ?」
「まさしく。よかった、本物ですね」
 フェルの表情から疑う色が消え失せる。フィレンスは小さく笑って、そして立ち上がるとフェルに手を貸して立たせ、服に付いた土を払ってやる。そうしながら口を開いた。
「怪我は?」
「ないです。……どうやら古代語で構築した傀儡に魔法をかぶせて、さながら本人のように振る舞わせているみたいですね。対象の記憶を妨害魔法の中に組み込んだ時空間魔法で転写して、その記憶の中で一番最後にこの森の中で会った人物に似せているみたいです」
 だから古代語の力に古代語で作られた核が反応し、構築陣が乱れた。後は『本物』が自分の名を名乗る事で傀儡に『虚である』という事実を示し、魔法の構築そのものを虚として消滅させる。魔法の構築にも似た方法だ。__偽者のフェルの瞳が紫だったのは、フィレンスの意識の中にその姿の方が強く刷り込まれているからだろう。
 今回は、傀儡が激しく動く度にそれを形作っている古代語が外殻をなす魔法から垣間見え、それを感じ取る事が出来たから正確な手が打てた。フェルが幼い頃から古代語に触れ、身近に感じて生きて来たからこそ出来たと言えるが、今後同じ手はもう使えないだろう。そうでなくとも魔法使いは自分の手の内を明かしたがらない、一度使った策は上手く行こうと行かずともその一回だけで捨てるのが常だ。
「そんな事できるんだ?」
 しかしそんな細かい事を知らないフィレンスは素直に驚きを表す。フェルも説明するのは今でなくていいだろうと判断し、頷いた。
「出来ちゃうみたいですね、構築陣を見る事が出来ればこの可能性が確定するんですが。とりあえずは仮説で」
 フェルのその言葉にフィレンスは頷き、フェルは手に持っていた杖を消失させる。息をついて森を見渡した。
「……と、いうわけで。森の事は私達の管轄から外れましたね」
 人がその事件の犯人であった場合、それは協会の管轄ではない。より正確に言えば、協会に魔法犯罪を裁く権利はないと言う事だ。その場合は速急に協会に帰還しその事を長官に報告しなければならないが。
「露核の事は私達でしょ?」
「ええ、だから……フィレンス、余力ありますよね?」
「勿論。フェルは?」
「まだ一割も使ってませんよ」
 簡単に確認を済ませる。二人は互いに視線を交わして、そしてそのまま森の奥へと進んだ。



 彼は溜め息をついた。遠目に見える黒と白__その中でも銀と紫であるはずのそれを見つけて、更に眉根を寄せる。
「……な、ちぃ。俺絶対ここには戻って来ないって、決めてたのにな」
 肩に乗る、真っ白なそれに声をかける。固い甲殻に全身を包まれ、強靭な翼膜の張った翼と二本の尾を持つそれは、きゅる、と小さく鳴いた。
 彼は再び溜め息をついて、顔にかかる癖の強い長い真紅の髪を鬱陶しげに払いのける。
 長い付き合いの友人は、もう時代が違うからと無理矢理にここに引っ張って来た。嫌だと言ったにもかかわらず半ば強制的に連行されて、そして途中から別行動になった。それでもこの国から離れるなと言うから、こうして今の紫銀を見に来たのだが。
「……何で、こんな国に留まってるんだ、フェル……」
 呟く。結局は同じだ、紫銀を飼う国家。いつの時代も変わらない、たとえ自分がこの国に生きた時代の人間が全て死んでも、その時代にあったものは受け継がれていく。良いものも悪いものも__全て。
 肩に乗ったそれが甘えるように頬にすり寄ってくる。彼は真紅の瞳でそれを見下ろして、そして不意に小さく笑った。その頭をぐりぐりと撫でて、しかし樹上から見下ろせばその眼は再び剣呑な色をはらむ。
「……本当に、忘れてるんだな。いや、忘れていた方が、幸せか……」
 覚えていたら、きっと笑って暮らす事も出来なくなる。だが覚えていれば、きっと彼女の意志で何かが変わるのではと、そう思わずにはいられない。
「……クィオラ」
《はい、ここにおります》
 呼びかけに答えたのは女性の声。彼は腰掛けていた幹の上に立ち、紫銀を見下ろしたまま言った。
「エシャルに、黙っててくれ。フェルと話す」
《……あの、それは、私にあの方に嘘をつけと言う事でしょうか》
「うん、その通り。頼んだ」
《どちらにせよ、知れたら貴方様がお怒りを……》
「分かってる、ちょっとでいい。どうせあいつに怒られんのに一番慣れてるの、俺だからな」
 逡巡したような女性の声は、しかしそれ以上は何も言わずに気配が遠のいていく。彼は溜め息をついて、それでも視線を逸らそうとはしなかった。




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