文字通り頭を抱えたくなったフェルは、しかしその寸前、何かを感じて視線を上げた。違和感__いや、それよりも強い気配。
 フィレンスがまだ追いついて来ない、遅すぎる。気配はこちらではなく__いや、確実にこちらの方向に向かってはいるが、フェルに向かってくる様子は無い。何かと思って視線を向ければ、自然と空を見上げる。繁った葉と、そこに降り積もった雪に閉ざされた先。
「…………」
 眼を細め、手に持った杖を握り締める。__一瞬、何かが。
 不審には思ったものの、フェルは軽く頭を振ってそれらを振り払い、改めて周囲を見渡した。今はそれよりも。
 数歩先の木の陰に転がっているものに歩み寄り、しゃがんで膝をつく。指先で触れればざらりと崩れる屍骸、禍落のそれを見下ろして眉根を寄せた。『異種』の屍骸が残るなど、通常では有り得ない。空気中の邪氣の濃度が高い時に限って稀に残る事があると聞いた事はあるが、稀に、だ。それにこれほど明確な姿を留めるとは聞いてはいない。すぐ傍の樹の幹に手を当てて、不意にフェルは眼を細めた。
 ゆるりとその幹をなぜる。森に入る前は感じていたが、入った直後には感じられなかった気配を感じて、すぅ、と息を吸い込んだ。
「『……レイフィン、森の者達』」
 呼びかけると、ざわりと浮き足立つように樹々がざわめく。す、と音も無く現れたのは霞が形を成したような人影。
「……レイフィン、主はどこに?」
『ヌシ、は、イない。イズミ、で、カゼとキえた』
 霞が揺らめき、たどたどしい言葉が微かに響く。共鳴するように、風もないのに樹々が葉を鳴らした。
「『異種』が現れたのは何時です?」
『ヌシ……ふぃーらとりりん、が、オサえてた。カワを、サカノボって……ミズの、キライ、だ。モリ、を、マモらなかった』
「……前から、『異種』はいたんですね?」
 その問いの返答には、やや時間があった。迷うように霞がそよいで、また別の場所に像を結ぶ。
『イシュ……れいふぃんに、は、ナニもしない。ヒトに、オソう。……イシュ、ふぇる、オソった……?』
「大丈夫ですよ、何ともありませんから。……有り難うございます、しばらく眠って、休んで下さい」
 言いながらフェルが手を伸ばすと、霞はそれにすり寄るように形を崩し、腕を包んだかと思った瞬間に消える。
 レイフィン、森の精霊の総称だ。各個として意識の存在しない彼らは、森全体の意志としてその姿を現す。主とは、その森の中でも特別に力の強い精霊。フィーラとリリン、とレイフィンは言っていたが、そのどちらかが森の、そしてもう一方は泉の水の主の事だろう。
 森に入った時点では、精霊に対して呼びかけができるような状況ではなかった。誰かの魔法が縦横に張り巡らされていたからだ、下手を打てばこちらが相手に魔法に引きずられかねないような状態だったのに、いつの間にかそれらが消えている。禍落、配下が保っていたものが、それが消えて効力を失ったのか。そしてそれをする必要は。
 __気付かせないためか。
「……森と泉の主がいれば、そもそもこれは起こらなかった……?」
 木も水も、その根源は聖に繋がる。そして聖は、それだけで邪を浄化しうる唯一のものだ。そこまで思って再び視線を落とせば、変わらずそこにある気味の悪い屍。
「……どういう事……?」
 ここが既に禍楽を作り出した魔法使いの手の内である事は分かっている。それだけではない、何か別の意図があるような気がしてならない。
 人間を忌避するような魔法を仕掛け、その実森に『異種』が溢れているわけではない。禍楽も副産物だろう、都合がいいから使っただけ。賢者が現れたのは、全くの偶然だろうが……
 繋がりかけている。だが、何が。



 軽い咳払いをして、胸に溜まる違和感を吐き出そうとするが、違和感は消えるどころか一向に増すばかりだ。フィレンスは双剣の片方の柄を握り、努めて呼気を鎮めた。僅かに魔力を流し込めば澄んだ氣が流れ出す。
「……気持ち悪……」
 見下ろした先には、禍楽の屍骸。斬り裂いた跡までが明確に残っている、こんな事は今までで一度も経験した事が無い。『異種』は命が尽きればそのまま消え去るものだと思っていたが、これではまるで。
「まるで……どこぞの動物だね……」
 吐き出すように呟き、クロークを手に持ち口元にあてがう。それで防げるようなものではないが、これは、邪氣は、人間には毒だ。騎士として訓練を積んで来た分、これでも影響は無い方だが、それでも不快感を覚えるには充分過ぎる。
 それよりも、予想以上に手こずった方が問題だ。思っていたよりも引き離された。その上道中の氣でも吸い上げたのか、移動するだけの僅かな時間しか無かったというのに、その僅かな時間で目を見張る程に成長していた。剣がまるで通じないのだから、こちらのスタイルを見て学んだとしか思えない。斬り裂けはしてもほとんどダメージにはなっていないようだった。
 『異種』にも学習能力はあると、それは知っていた事だったが、今回ほど顕著に現れた事はない。元の魔法が魔法だからなのか、あるいは……
「……参考にするって、本当に参考にしたのか、あの偽物……」
 だとすると、フェルの方はもっと厄介かもしれない。魔法使いは総じて接近戦に弱い、仮に距離を詰められたとしたら逃げようもない。しかしそうは考えながらもフィレンスは特に焦っているわけでもなかった。別れる間際フェルが再び通したパスはまだ残っているし、そこからは焦りも危機も感じる事はない。困惑に似た感覚なら、戦っている最中にかすかに感じたが。
 フィレンスは再び息をついた。さてどうすると、文字どおり足下に死屍累々と転がるそれを見下ろす。触れれば崩れるようだったから、全て崩しておいた方がいいのか、あるいは自然に砕けて完全に消えるまで放置していた方がいいのか。
 フェルのように精霊と話せるのなら便利かもしれない、とフィレンスは思った。フィレンスには自然界に棲む精霊と会話をするほどの力はない、元々魔法使いに向いてはいなかったのだから仕方がないし、精霊と会話する能力と言うのは自分が望んだ力の範囲外だ、訓練したとしても身に付くかどうか。いや、そもそも魔法に関する能力について言えば、才能がなければいくら訓練しても無駄なのだが。
「……どうしよう、これ」
 考えていくうちに思考が脱線していくので、口に出して軌道修正を計る。本当は迷う暇もさほどないのだが、このままこの場を離れて蘇って来られても困る。そう思って白い手袋に包まれた手を軽く伸ばして、指を鳴らした。
 瞬間、身を切るような冷たい風が駆け抜け、禍楽の屍骸を塵に帰し、さらっていく。それを最後まで見送って、そしてフィレンスはようやく踵を返した。それでもやはり、違和感は消えない。
「……まさか倒れてたりしてないよねあの子……」
 魔法使いと言うのは総じてその傾向があるが、フェルは特に氣の変化に弱い。本人は控えめにそうではないと言っている事もあるが、周囲の氣に左右され過ぎているのは騎士であるフィレンスから見ても明らかだ。そして邪氣は色々な意味で毒になる、気を失ったとしてもパスはそれを伝えてくれるのか。
 そのパスの感覚と勘を頼りに、フィレンスは森の中を進んでいく。足下の土は、湿ってはいるものの固い地面のそのままだ、ここに来るまでの自分の足跡が残っている事も無いだろうと思って、そのまま歩を進める。さすがに遅くなれば、フェルの方から何かしら合図なりを出してくれるだろう。
 とにかく今は先に合流しようと、曖昧ながらも方向を伝えるパスを頼りに走り出す。大体の方向が分かれば良い。
 不意に違和感を感じて、僅かに速度を緩めて枝に隠された空に視線を送った。ほんの一瞬のそれに眉根を寄せ、それが新手でない事を祈りつつ走る。
 しばらく走って見えた黒は、地面にしゃがみ込んで頭を抱えていた。
「……えーと?」
 どう声をかけるべきか悩んだ結果、フィレンスはなんとも言えない声を出した。それでようやく気付いたフェルが、振り返って立ち上がる。
「あ、お帰りなさいフィレンス。片付きました?」
「片付けて来たけど……何、どうしたの?」
 聞けば、フェルはなんとも言えない微妙な表情を浮かべて視線をそよがせた。右手で左腕をさすり、少しの間考える。
「……ちょっとまだ私の中でも整理できてないので、説明できるようになったら説明しますね」
「分かった。そんなに複雑なの?」
「複雑と言うか、唐突と言うか……えーと、多分ものすごい偶然と言うか、必然なのかもしれない何かが起こったのかもしれませんとだけ」
「……うん、良ーく分かった」
 まだ混乱していると言う事が。
「ええと、それで、また別の話です。というかそもそもこれが本題な訳ですが……元々森と泉の主が強い場所だったみたいですね、そのおかげで『異種』の活動が制限されていたものが、いつ頃かは分かりませんが主が消えた事で活発化されたようです」
 加えて、それに気付けないように相手の魔法が張り巡らせてあったことも伝える。あからさまに妨害するのではなく、全く関係のない魔法を使ったのだから趣味が悪いと呟くと、フィレンスはそれに苦笑を浮かべて息をついた。
「そう工作されてたんなら仕方ないでしょ? ……それと、木と水は聖の派生だっけ。普通に考えるんだったら枷が外れた、か……『裏切り』のタネは?」
「主が消えた事を良い事にやけに能力のある魔法使いが壮大な悪戯を仕掛けたのかなーと思っています。でもどうであったとしても、私たちの仕事は『異種』の討伐ですからね」
「面倒だねー……」
 茶化しながら言ったフェルに、フィレンスが溜め息をつく。魔法使いが関わっている事が明確な場合はやけに時間がかかる。と、なれば。
「道中何があっても無視してさっさと泉に向かって露核倒して帰って長官に報告するのが一番だと思いますがどーでしょーかフェルさん」
「賛成です。いくら森に入る前に川の精霊達を盛り上げて来たとは言え、そろそろ浄化も限界でしょうし」
 森に入って一時間と少しくらいだろうか。冬と言えど太陽の傾きが顕著に分かるほどの時間ではないが、『一時的』にしか効果のないものなら限界は近い。水の精霊達は『異種』によって発生した邪氣の毒を浄化する、魔力を与える事でその効果を引き上げていたのだが、それも一時的な物だ。魔法使い云々が協会の管轄外とは言え、後の事を考えれば出来る限り多くの情報を持って帰りたいとは思うが、任務自体を為損じてしまっては本末転倒と言わざるを得ない。
「じゃあ、それで行こうか」
「そうですね。それに、相手方もそろそろ自分自身以外の札が切れた頃でしょうし」
 フェルが言ったそれに、そんなものか、と納得しかけ、しかしふとフィレンスは足を止める。先に足を踏み出したフェルの背中に向かって、何でも無い口調で問いかけた。
「フェル、それ待ってたの?」
「待ってたようなものでしょうかね。三段構えなんて常套手段ですし」
 答えて、そしてフェルは小さく、あ、と声を上げた。一瞬動きが止まり、そして間髪入れずに走り出す。後ろから追い上げる音、フェルは振り返りもせずに叫んだ。
「だってそうなるもんですもん魔法使いの思考って!」
「だったらそう言え馬鹿がッ! 何か意味があるのかと思って突っ込まずにいたけど、相手の手札が切れるまでふらふらしてたってどんな誘い受けだこの策士ッ!」
 逃げるフェルに、あっという間に追い付いた白服が手を伸ばしてその首根っこを引っ掴む。一瞬首の締まったフェルが潰れた呻き声を上げたが、構わずそのまま首に腕を回して微妙に手加減しつつも締め上げる。腕を振りほどこうと暴れるのを押さえ込み、フィレンスは口の端を釣り上げた。
「確かに気にはなるけどね、効率って言葉知ってる?」
「知ってます知ってますだって相手の手が切れた方がこっちが思うように動きやすいんですもん予防策もしてますし!」
「言われてみれば前準備が念入りだったね、気付きゃよかったよ。初めての任務だから慎重になんて似合わない事してんのかと思ってね」
「似合わないって何ですか! フィレンスこそなんか何も言わないなと思ったら」 「一応気遣ってたんだよ! これでもう何も心配する必要なんてないって分かったけどね!」
 ぎりぎりと音を立てん勢いでフィレンスがフェルの首を締め上げる。手加減と言う言葉を故意に無視したフィレンスに、全力で抵抗し続けるフェルが慌てて声を上げた。
「とっ、とにかく! ここでこうやってじゃれあう時間も使い果たしちゃったんですってば! ちょっと急がないとそれこそ次の手を立てられちゃいますって!」
「……同感。でも腑に落ちないなぁ」
 そこまでの応酬は何だったのか、フィレンスはやけにあっさりとフェルを解放した。ようやく逃れることのできたフェルは数歩離れたところで自身の首をさすり、相方に非難がましい視線を向ける。向けられた方は片眉を跳ね上げた。
「で、やらかした成果は?」
「……次に何か来るとしたら本人です、配下はもういないでしょう。加えて、森全体を手放した印象です、もうこちらに対して興味がないか、本当に手段がなくなったか……」
「魔法使いに限ってそれはないと思うけどね」
 フィレンスが言い、フェルもそれには無言でうなずく。仮に自分が何かの目的があって森にこうやって何重もの罠を張るのだとしたら、目的は一番最後まで__自分自身を囮にしてでも、一番重要だと判断したものは相手に悟られないようにするだろう。興味を失ってくれればいいのだが、と胸中に呟きを落とし、手に杖を喚ぶ。
「じゃあ、さっさと行きましょうかー……」
「歯切れが悪いけど、理由は?」
「いきなり疑り深くならないで下さいよフィレンスさん。……すごく嫌な予感がするだけです」
 フェルが言葉の割にあっさりと言って、フィレンスは肩をすくめる。その彼女に無言のまま方向を示せば、そこに視線を向けて軽く顎を引き、音もなく足を踏み出した。
 樹の間を歩き、音を立てないように灌木の間をすり抜ける。足取りは心持ち早く、一分ほどまっすぐに森を歩けば、先を行くフィレンスが剣を抜いた。
 微かに流れる水の音。樹々の奥に太陽の光を弾く水面を垣間見て、フェルは歩きながらも吐息だけで詠いはじめた。
 途端風が凪ぎ、電気臭い空気がその場に充満する。ほとんど何の音もしないそこに、しかし次第に独特の感覚が満ちていく、それを感じたフィレンスが肩ごしに振り向き、それを受けてフェルは片手を伸ばした。上向けた掌の上には赤い文字列が光る球体。
「『駿馬の瞳、翼を持つもの、久遠の賢者の魂よ』」
 変わらず吐息だけの、囁くような詠唱。呼びかける瞬間光を放つそれは消失し、そして再び現れたのは青い水面の上。フィレンスが剣を握る感触を確かめて、そして地を蹴る寸前。
「『迸れ__“レツェリエル・ディレスィア・カツェル”』」
 浮かび上がる赤い球体が膨大な量の光を吐き出す。形を描き出したのは円が重なり合い、まるで巨大な柱のように空中にまで浮かび上がった構築陣。白い光がその中心を貫き、そして導かれるように迸ったのは赤い雷。
 ここまでが刹那。次の瞬間に聞こえたのはひび割れた悲鳴だった。水面が割れ、鱗に覆われた翼が姿を現した。フィレンスが軽く眼を見開く。
「弱点は!」
「雷、剣なら翼です!」
 問う声に、フェルは反射的に答える。同時に声にならない叫び声を上げた。__まさかとは思っていたが。
 中位水棲『異種』、露核。今回の任務の本命その一だ。この露核を率いているという『異種』の姿は見当たらない、今が好機だろうという判断。一番嫌い、苦手とするのは雷だが、剣が効かない厄介な敵でもある。フェルが放った氷の魔法が水面を氷で覆い尽くし、雷撃を受け水から飛び出した露核の退路を断った。その氷の上に浮かび上がるのは、水かゼリー状のものを形にしたようなもの。人間の女を模したような胴体、鱗に覆われた翼と、下半身はスカートのような甲殻で覆い尽くされている。透き通る姿はどこか美しいようにも見えるが。
「こいつの相手、大っ嫌い」
 地を蹴ったフィレンスが一つ呟いて長剣を薙ぐ。切り裂いた翼は、瞬間に水と変じて、そして何事もなかったかのように元の形を取り戻す。切り裂いた感触も水そのものだ。フェルが杖を握り口を開いた。
「『威光、天を衝き地を貫く大兄! “ジルヴァレン・グエガルド”、使徒よ北の災禍を穿ち滅ぼせ!』」
 敵を囲うように球体を描き浮かび上がった構築陣が途轍もない量の稲妻を吐き出す。再び形容しがたい叫び声があがって、小さな水の粒が空気を裂いて四方八方へと飛来した。
「っ!」
 樹を盾にそれをやり過ごし、フェルは一瞬息を詰まらせる。掠った腕から流れる血を乱雑に拭って、杖を強く握った。瞬間形を変えた杖が、鈴の音を立てて振り落とされる。
 それに従い飛来した雷の矛が露核を貫き、爆発する。ちりちりと小さく爆ぜるような空気が流れて、一旦フェルのすぐ近くへと待避したフィレンスが短く息を吐いた。フェルが横目を向ける。
「魔法、使えますか」
「この状態で? 何を?」
「氷か、雷が理想的ですけど……魔力は私のを使って下さい」
 言ったフェルがフィレンスの腕を握り、離した時には細身の腕輪が光っている。フィレンスはそれを見て、そして薄く笑った。苦みの混じったそれで、露核を見上げる。
「それって、やっぱり」
「ええ。……さっさと終わらせましょう。これと同じのがあと二匹、氷の下で暴れてます」
 露核は、本来下位の『異種』。だが下位はここまでの力を持たないし、ここまで魔法に耐えられると言うこともない。
 考えられるとすれば、変異か、進化。




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