岩盤を叩き割るような音。川を覆う氷に深い亀裂が走ったのを見て、フィレンスが目の前のそれに躍りかかる。フェルが杖を握った。
「『踊り踊れ乱舞の蝶、舞い舞え道化の鳥! 眠りを授ける瞳、闇の“アスフェルゼ”!』」
 藍色の蝶がどこからともなく現れ、現れたかと思った瞬間、目の前の露核に大群で群がりその『異種』が内包する氣を吸い取っていく。振り払おうと飛び上がった露核の翼がぱきん、と軽い音を立てて干上がったようにひび割れる。フィレンスが刀身を撫でた。
「『轟く、“ゴート”』」
 瞬間、青い稲妻を帯びた剣が露核の柔らかな体へと突き刺さる。内側から爆ぜる衝撃に、ぱしゃん、と露核の胴体が散り、残りの体も浮遊する力を失って氷の上へと落下した。
 刹那風を切る音。水の刃が迫り、新たに散る赤。
「ッ、フィレンス!?」
「大丈夫、掠っただけ!」
 肩口を軽く切り裂かれたフィレンスはフェルの声にそう返し、すぐさま露核へと距離をつめる。一瞬崩れたと思った露核は何の変哲もなく元あったように浮遊し、そして一瞬手をとめてしまったフェルへと向き直った。
 魔法には知能がある、魔法から生まれた『異種』もまた然り。考える力があるのなら、より厄介で簡単な方__魔法使いを狙うのが道理。
「ッ、『“レツェリエル”!』」
 フェルはとっさに簡略化した魔法を放つ。露核が怯む。そのままずる、と崩れたかに見えた露核は、しかし黒と白に向かって、的確に槍と化した水を放った。片方は足止に、片方は貫くために。
 その切っ先を寸前に見据えて、フェルは乱れた息で笑った。
「一体……何したらそんなに進化するんでしょうね」
 一瞬遅れて築いた結界は、襲いかかる切っ先を本当に寸前、あと少しでも遅かったら貫かれていただろう所で押し止めていた。フェルはすぐさまその場から離脱、フィレンスが剣を片手にそばまで退く。
「使い過ぎ」
「そもそも雷氣が地上には少ないんです」
 言い返し、フェルは息を整える。天空を駆ける神の纏うものなのだから、地に足を着いている状態では雷氣の供給は辛いものがある。土と雷は相性としてはあまり宜しい方ではない。しかもここは水辺だ、水と雷は相反するもの。だからこそ『露核』には雷が有効だが、地理的にも雷氣を扱うには宜しくない。
 フェルは黒い服の中から小さな袋を取り出す。片手でその中から小さな琥珀のような石を取り出すと、おもむろにそれを口の中へと放り込んだ。奥歯に挟んで力を込めると、すぐにぼろりと崩れて溶ける。あらかじめ用意しておいた魔石だ、こうなる事は想定の範囲内。だが無限に使えるものでもない、数だけは持って来ているが、副作用がどう働くか。
 それを一瞥したフィレンスが手に持つ剣を閃かせ、踏み出す。瞬時に距離を詰めて水のような体躯を切り裂き、そこにフェルの放った雷鞭がしなり爆発でもするように水が四方八歩へと飛び散った。爆ぜたそれはすぐさま空を走って『露核』の体を形成し直し、再生する。弱点である雷をもってしても、柔軟な水には決定打にはならない。フィレンスがそれを見て眉根を寄せた。
「どうするのさ!」
「結合を緩くするか一気に蒸発させるか諦めるかです!」
「……三つ目は無視するとして、これの弱点って雷だよね」
 襲いかかる瀑布を避け、飛来する飛礫を斬り捨てるフィレンスが聞き返す。横目を向ければさらに深く亀裂の走った川。同じようにフェルが視線を向ければ、水から氷へと転身した精霊達が右往左往しているのが見えて、再びその亀裂を覆うように魔法を放つが、時間稼ぎにもなるかどうか。そうしながらも説明の為に思考を割くのは、やはり魔法使いの性だろうか。
「やかんの中の水も、放置すれば無くなりますよね。火をかければ尚更ですし、『露核』の性質も水ですから、火をぶつければその分水氣が減衰して行きます。雷属性が弱点って言うのは、『異種』の存在を構成する氣の構成、結合を緩くする為です。結合を緩くすれば剣でも攻撃が通るようになりますから」
 いくら『異種』だから、魔法だからと言って自然現象全てを無視しているわけではない。むしろ魔法の始まりは自然現象からと言われさえする。ならばその法則も魔法にあてはまって然るべきだ。そして魔法に当てはなまのなら、『異種』にあてはまるのも道理。
 『露核』の場合は、魔法使いのみで戦うのなら炎一択の戦いとなる。だがここに騎士がいる以上、魔法使いだけの戦いではない。騎士が動けるように、基盤を作るのは魔法使いの役目だ、騎士が魔法使いを物理的な傷から守るように。
「だから雷使ってるんですけどね、本当は炎で蒸発してもらうのが良いんです」
 フィレンスの剣が透き通る体をすり抜けるように切り裂き、『露核』はそのまま翼のように変化した手で白い体を弾き飛ばす。それをわざと受けて後退したフィレンスに続けざまに体当たりを仕掛けて、しかしそれは雷を纏う結界に阻まれてばしゃり、と崩れる。同時に爆発したものが『露核』どころか周囲の空気までもを大きく振るわせ、更に数歩下がったフィレンスが軽く咳払いをして喉に絡んだ吐息を吐き出す。そうしながら、フェルの言葉に軽く唸ってみせた。
「ええー……魔法使うのは、まあ、この前吹っ切れたから良いとして、私『炎』の調整利かないよ?」
「まあ『Flence』ですからねぇ……」
 彼女には聞こえないよう、フェルは小さく呟く。通称であるとはいえ彼女の名の一つ。炎、苛烈であり高潔な性情を表すそれを負っていながら魔法使いでない彼女がそれを制御するのは至難だろう。本人は意識していない上、気付いてすらいないが、フェルもあえてそれは言わない。フェルリナード、『Fr-lendia』は時と氷の名だ、彼女と相性がいいとは言えない。それだけかと言われればそれだけなのだが。
 ふとフェルは顔を上げた。不意に、何度目か違和感が走る。方向は以前とは比較してはっきりと、視線が向かった先は川の上流、遠くに見えるのは泉。あそこが川の始まりか。思ったその時と同時、轟音が耳朶を強打した。
 途端、その視線の端に白くくすんだものが映り込む。降り注ぐそれから咄嗟に身をかばうように結界を展開し、そして見上げれば、身を切るほどに冷たい水飛沫と、透き通り輝く身体の『異種』。反射的に叫んだ。
「うわーきちゃったっぽいです! 『紅、纏う者、地を征く、“クルフェ・ジヴェルド・ナナ”!』」
「きちゃったっぽいじゃなくて確実に来てるでしょ!」
 フィレンスの声を聞きながら詠唱する声が響き、砕けた氷塊が沈みは浮かびを繰り返すその上、現れた二つの異形を紅蓮の炎が覆い尽くす。何かを焼くような音と、水分をより多く含んで重くなった風が吹き荒れた。少し遅れてフィレンスがその魔法の標的では無いもう一体に短剣を投擲、察したフェルが空中に構築陣を展開し貫くように落ちた稲妻がその短剣を軸に瞬く間に駆け抜ける。畳み掛けた白刃が風の刃をも従えてそれを両断し、そして初めて『露核』に変化が現れる。
 蜘蛛の巣を貼付けたような、ある種の整合性を伴ったひびが全身を覆う。羽と変じた両腕を羽撃かせ高く飛び上がり、追撃の為の魔法を紡ごうとした、その時。
 何かが聞こえた。そして視界がぐらりと揺れて、慣れた感覚。
「『雷の号、“ラフィル・コード”!』」
 紅い構築陣が広がる。降り注いだ紅い稲妻にフィレンスが眼を見開く、とっさに見やった先のフェルも、己の手に残る感触に瞠目した。
 邪性の雷、だが今の魔法は純粋な雷のそれのはず。自然と眼が見やった左腕、その手首、鈍い色の鎖。瞬時に脳裏に浮かんだのは真紅の色。たった一瞬の言葉。鋼の色を磨けば銀になる。それは。
「フェル!」
 一瞬、思考の間だけ止まった体が、目の前にまで迫った異形の姿に硬直する。ひび割れた透き通るそれを見やり、そして再び、何かを聴いた。
『Iif ra. __Ewin, fr.』



 視界の端に何か光るものが映り込んで、眼を向ける。何かと思ってしばらくその辺りを眺めていると、雷の氣が流れて来た。どうやらもう交戦状態に入ったらしいと思って、幹に背を預けたまま、外套の中に仕舞い込んだ試験管を、二本、手に取る。
 それを取り出そうとした時、不意にその動きが止まった。彼はそのまま視線だけを上へと投げて、そして静かに口を開く。
「……リィシャ、じゃ、無いね。誰だい」
「さてはて、誰でしょう」
 女、しかも少女の声。仲間うちで唯一の女である、あの深紅の彼女とは全く違う。誰何の声に笑みをはらんだ声で答えて、そして姿を見せないままの少女は小さく笑う。
「楽しそうだねぇ」
「まあ、それなりにね。君が誰か分かればもっと楽しいと思うけど」
「口説き文句にもなってないよユーディスさん、女の子には紳士的にね」
「そうしたいけどね、いきなり現れていきなり魔法で拘束されたんじゃ、中々平和に行くのも難しいよ? ……誰だい」
 茶化した返答に茶化し返し、そして彼は二度問いを重ねた。それにもまた笑う声が落ちて、そして腰掛けた幹がゆらりと揺れる。
 異様なほど重さを感じさせない動作で、一人の人間としては小柄な体躯の少女が幹の先に立つ。フードで完全に顔を隠し、しかし首から下はローブが風をはらんではためいている。どこかの学院の制服か、お仕着せのような雰囲気の服を軽く押さえて、そしてその口元がやんわりと弧を描いた。
「詰問すれば答えるとでも思った?」
「の、わりには、あっさり出て来たね」
「別に? 話してる相手に見上げるのを強要するのもおかしいでしょ? それだけ。君が動けないのは変わりないし」
「……まあね」
 認める。事実には変わりない。先程から解呪しようとはしているが、全身を縛るこの魔法の綻びが見当たらない。魔力を直接ぶつけても、反発するどころか反応するでもない。ただすり抜ける。これでは解呪も何もできない上、魔法を使おうとすれば吸収される__こんな便利な魔法があったのかと、感嘆すると同時に口を開いた。
「それで、わざわざ僕にこんな事をしてくれて、一体何の用なのかな」
「それはちょっとした警戒だよ、苛々しなさんな。……忠告に来ただけだからね。漆黒と真紅、その他諸々について」
「知ってるよ、それくらい」
「だからこそ。無知を知らない事ほど怖いものは無いからね」
「……君は僕とは今まで直接的な関わりはなかった筈だけれど、どうしてその君が忠告を?」
「まず、確かに直接には関係なかった、今まではね。次に、私がこれから動きたいように動く為に君たちに好き勝手やられたんじゃ骨が折れるから、忠告っていうか、釘を刺しにね」
「……誰のつながりだい?」
「クセル」
 聞けばあっさりと答えられ、彼は息をついた。使い魔の困惑した様子が伝わって来て、そして彼は静かに口を開いた。目の前の少女を見据えたまま、何気なく。
「……ファーレ、彼女を」
「やめな」
 言いかけた言葉が遮られる。途端すぐそばにあった使い魔の気配が途切れ、視界に蝶が入り込む。眼を細めてそれを見るうち、少女の指先にそれがとまる。
「クセルの集めた魔法使いはどうしてこう、すぐ手を出すと言うか、好戦的なのかな。初対面に使い魔けしかけるなんて非常識だよ?」
「会って数分の相手の使い魔を横から奪って行くのも、十分非常識だと思うけどね」
「先に仕掛けて来たのはそっち。……大丈夫だよ、一旦『糸』を切っただけだから。すぐ戻すよ、だからその魔法薬、仕舞ってくれる?」
 言った少女の言葉に、彼は眉根を寄せた。指先で挟んだ試験管が二本、彼女は分かっているのか。
「……理由を聞いても良いかい」
「それをやると、君が自滅する」
 白い液体が、八分目まで満たされた試験管。白は死の色、転じて『無となる』を表す邪性の時を表す。動かしてみれば指先は満足に動く。かち、と硝子同士のぶつかる音が響いた。少女は演技がかって肩をすくめる。
「それを言いに来ただけなのに、敵意剥き出しにされちゃ買うしかないじゃない?」
「……どうやら全て知っているようだけど……分かった、聞き方を変えよう。君は一体、何だい」
「調停をしてる」
 やはりあっさりとした答えが返って来て、彼は息をついた。その様子を見てか、彼女は小さく笑って言葉を続ける。
「全てを根源から根源へ還るように、ね。是正をするわけじゃないから、誤ったものを正しく導くわけでもないけど」
「漆黒の差し金かい?」
「それは向こう。そもそも黒いのの手の内なんて、クセルは全て分かってる。私を味方に付ける理由は限られる」
「限られるだけでなくなるわけではない、と?」
「そうなるね。でもそれを知ったところで君が私の正体を知るには遠い。……ま、教えても良いけどね。随分と待ったし……」
 言った少女が指先の蝶を空中に放ち、そしてその手でくるりと宙をかき混ぜる。瞬間現れた巨大な本を片腕で抱えて、そして少女は悪戯めいてにっ、と笑った。
「言い換えるなら魔法使いが求めているものだよ」
「……『筆記者』か」
 少女の腕に抱えられたそれを見て、彼は静かに言う。問いかけると言うよりは確認の声に、そして少女は笑んだ。真意は見えない、ただ笑っただけ。
「そして今は君たちの勢力。味方とは言い切らないけどね」
「……確かに、クセルは僕達が自滅しようと構わないだろうしね。君はそれが困ると?」
「その方が私には都合がいいだけ。死にたいなら止めないよ、私は事実をただ書き留めるだけだから。でも私は、今は効率を優先したい」
「それに添った行動をする事で、僕に利はあるのかい?」
「とりあえずその魔法薬を使わないって言ってくれたら、今この時だけ君を支援する。第八の隊長と副隊長も待ち構えてる、ちょっときついでしょ?」
「少し、だけどね。本当は、ファーレに相手してもらうつもりだったけど」
 言いながらひらひらと周囲を舞う蝶を見やる。主を見失って、己の姿すら分からなくなっているのだろう、使い魔とはそういうものだ。少女もそれを見やって、息をついた。
「ま、ユールも結局は騎士だからねぇ……ともかく、支援するって言っても私は直接には手は出さないけどね。……これからの予定だよ」
 言いながら少女は本を開き、そのうちの一ページをびり、と破って差し出す。腕の拘束が緩んだのを感じて彼は手を伸ばし、それを受け取った。受け取る以上の行動ができないように調整してあるのは、さすがと言うべきか。
 素早くそれに眼を通して、そして彼は眉根を寄せた。少女を見れば、やはり笑み。
「確かにこの樹は、森の主。自然の魔力を帯びてるけど、君の魔力はその程度じゃ隠れない。それに、あの子に漆黒のマークがついてる以上、仮に君の目論見が成功しても即座に潰されるよ」
「……本当に、どこまでも知ってるんだね。まるで黒幕のようだ」
 言うと、ははっ、と声を上げて少女が笑う。面白がっているのか呆れているのか、それすらも分からない声音で、しかしすぐに彼女は、心底楽しいと言わんばかりに言った。
「黒幕は、もっと性悪だよ。じゃないと楽しくないからね」
 腕の中の本が光の粒子となって消える。そのままくるりと踵を返して背を見せる。
「あ、そうそう。君の『露核』だけど、ちょっと細工させてもらったから、進化してるけど、気にしないでね」
 言うその時には、既にその姿は消えていた。少し遅れて体に巻き付いていた魔法がほどけ、使い魔の気配が戻る。彼は腕を動かし、掌を開閉させてから、おもむろに手で額を覆った。
「……ファーレ」
《申し訳ありません、唐突すぎて……》
「……まあ、いいさ。みすみす目の前でやらせたのは僕だからね」
 言いながら手に持った試験管を弄ぶ。彼女はこちらに答えは聞かなかった、言質を取る必要も無いと言う事だろう。確かにこの誘いを断る手は無い。少し考えて、彼はその試験管を空中に突き付けた。
「ファーレ、これあげよう」
《……ええと、なんと申しましょうか……私は風なのですが……》
「君の友達にあげておいで。あるいは藍色の奴らにでも投げておいてくれ、僕は先に向こうにちょっかいをかけに行くよ」
 言いながら、ずっと腰掛けていた幹の上に立ち上がる。視線の先にあるのは森の一郭、ちょうど深い緑に雪の被さった樹が細く途切れた場所。
「これによると、さして時間もないようだからね」
 受け取った一枚の紙をひらりと見せてやると、ファーレは無言のままその場を離れる。彼はそれを一瞥してローブの中へと仕舞いかけ、不意にその端に書かれた一文が眼に入った。
『未確定要素 ツェツァの行動は予測不可能であると予測』
 この一文だけが筆跡が違う。他はどこか角張った鋭い字だが、これだけは見事な流れるような筆記体だ。
「……なるほどね」
 全く意味が分からないと呟いて、彼は視線を上げた。




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