溜め息をついたのはディストだった。
「ユール……貴方、本当に馬鹿だったんですね」
「なァッ!? 今のはさすがに聞き流せんぞ」
 つかつかとフェルに歩み寄り、回復魔法を展開する彼にユールが噛み付く。ディストはもう一度息を吐き出し、横目を向けた。
「どこの世界に敵のファッションセンスに文句つける輩がいるんです。フィレンスも、無理に答えなくてよろしい」
「ごめん」
 同じように横目で睨まれ、フィレンスは即座に謝る。ディストには逆らわない方が良い、絶対に。服従するともっと危険だが、とりあえず不興を買うととんでもない事になる。回復魔法の構築陣が何重にも広がっている中、ずっと俯せて頭を抱えていたフェルが、ゆっくりとその手を離した。
「……ディスト、さん……?」
 頭だけを少し動かして、見上げたそこにいた人を見て、思わず呼びかける。彼はそれを見やり、指先で顔にかかった髪を除けながら言った。
「正解です。お久しぶりですねフェルリナード。魔法の反作用以外に不調があるなら申し出なさい」
 言いながら額に手を当て、背などに軽く触れて様子を見ている。フェルが首を横に振るのを見て、腕を掴み彼女が立つのを支え、フェルがバランスを取り戻すのと同時にさっさとその手を離した。
「フェル、大丈夫?」
「……大丈夫です」
 フィレンスの声に、フェルは僅かに俯いたまま答える。ディストが眼鏡を押し上げ、口を開いた。
「……さて。結局、一か月もちませんでしたね」
 その言葉にフェルの肩が揺れる。フェルが彼を見上げる事ができずに視線を彷徨わせていると、その様子にも呆れたように息をつく。
「できないのならやるなどと言うなと、随分と口煩く言ったはずですが。意地を張るのも結構ですが時と場合を考えなさい。貴女の行動で死ぬのは貴女の護衛ですが、それで良いのなら話は別ですが」
「……すみません」
 フェルは口早にそれだけを言って、俯いたまま沈黙する。呆れたように息をついたのはユールだった。
「……サディスト」
「本心です」
「じゃあ翻訳しとく。フェル、要はだ、『フィレンス達が死んで悲しむのはお前なんだから』って事だ、文字通り受け取るなよ?」
「……ユール、それ今この場で言われても反応しづらいよ……」
 本人いるんだから、とフィレンスは付け足す。ユールはディストの向こう脛を蹴り飛ばそうとして避けられ、変わりとばかりに口撃を仕掛ける。その間におずおずと近寄ってきたもう一人が、ゆっくりとフェルの頭を撫でた。
「えと、……副隊長は、厳しい人だけど、優しい人、ですから。きっと、フェルの事、考えて、言ってくれてます、よ?」
「……ありがとうございます、フォルティさん」
 小さく礼を言って、フェルは彼女のローブを握る。仕方が無いと思いながらその頭をなでてやり、フィレンスはそのままユールを見た。気付いた彼が振り返るのを見て、彼女は口を開いた。
「……それでだけど、何ですぐ入ってこなかったの」
「あいつの魔法が始まってた。中断させたらヤバいって、フォルティがな」
 水を向けられて、フェルを抱きかかえるようにしていたフォルティが「すみませんすみません本当にすみません」とぺこぺこと何度も頭を下げる。いいよというふうに手を振ってやり、視線を戻して、溜め息をついた。
「……囮だって言われたよ」
「……真に受けんなよ? 『秘さず』が団の唯一の規律だろうが」
「分かってるけど……」
 フィレンスはそこまで言って、あとの言葉は飲み込む。ユールがそれを見て、そして頭を下げた。
「……俺の不手際だ。すまない」
 フィレンスはそれを見て眼を見開く。フェルが彼女の袖を軽く引いて、視線を泳がせながらフィレンスは口を開いた。
「……やめてよ。気持ち悪い」
「気持ち悪いって何だよ!?」
 顔を上げてユールが反駁する。フィレンスがまた溜め息をつき、その彼女に彼は詰め寄る。
「ひどいぞお前、人が誠意見せてんのに!」
「騎士が誠意見せなきゃいけないってどうなのさ。常にそうあるべきでしょ? 破戒騎士ももうちょっと礼儀正しいよ?」
「俺それ以下……ッ!?」
 顔を覆って天を仰ぐ。フォルティが小さく笑って、ディストが溜め息をつく。それを聞いてか半歩下がったフェルを見て、彼は更に溜め息をつきかけ、それを押し込んだ変わりに、緩く頭を振った。
「……強くなりなさい。私に言えるのはそれだけです」
 その声にフェルは彼を見上げる。横目を向けられて慌てて逸らして、しかし先ほどよりも幾分はっきりと、はい、と答えた。それを見たフォルティが、くすりと笑う。
「……副隊長、も……もっと、素直に……」
「私はいつでも素直です。フェルリナードに対しても、無茶をするな、安全な所で平和に生きろとしか言っていないはずですが?」
 眼鏡を押さえ、心外だと言わんばかりにディストは言う。端で聞いていたユールが、け、と毒づいた。
「言葉がひねくれてんだよ馬鹿野郎。だいたい協会も安全っちゃ安全だし」
「協会よりも団よりも安全な所ならありますがね」
「え、あるの?」
 フィレンスが思わず口を挟む。フェルが眼を瞬いて、ディストは当然だと頷く。
「生憎と一人専用ですが。私のし__」
 言いかけたそこに二振りの剣が襲いかかる。片方は長剣、片方は太刀。その二つを器用に避けて、そしてディストは眉根を寄せた。
「……そちらから聞いておいて、それですか」
「ごめんそれは駄目」
「言わせねぇよ馬鹿が!」
 二人の声が被る。フォルティも全力で首を振り、しかし両手はしっかりと少女の耳を塞いでいた。問題発言をしかけたディストを指差すユールの指先が、細かく震えている。
「この、この__っ、あーもう適切な罵声が思い付かねぇ! とりあえず、とりあえずだ、お前もう外見未成年者に近寄るな。フィレンスも危険だからな!?」
「ええ!? 私もうてっきりアウトだと思ってたんだけど」
「いえ、ぎりぎりですがセーフですよ?」
 もう一年でもすればアウトでしょうが。今はまだ反応が子供っぽい所ありますからね。
 そう付け足す彼から、女二人はじりじりと遠ざかり、もう一人は訳も分からないままそれに引きずられていく。ユールがまたディストを蹴ろうと足を振り上げたが、あっさり避けられた。
「ふむ、私の好みははっきりしていると思うのですが」
「はっきりし過ぎてて怖いんだよ! あーもう何でこんなのが副隊長なのか! 何で副隊長なんかにしちゃったんだ俺ッ!?」
「私は貴方が隊長だと言う事を全力で否定したい人ですがね。……別に問題ないでしょう、少しばかり性癖が特殊なだけです」
「少しか。それ少しなのか。それって少しなのか?」
「三回も言わなくても通じますよ。それに、私にとってはそれも『普通』ですからね。……さて、ここでじゃれてても何にもなりませんが。隊長方、どうするんです?」
 言われて、フィレンスとユールが眼を見交わす。フィレンスが自分の白い服を示して、ユールは頷きを返した。
「よし、ディストは第九を纏めて中隊一つを俺に回してくれ。フォルティ、第八の指揮を任せる。慌てんなよ?」
「了解」
「あ、え、はい、……わかり、ました」
「よし。フィレンス達は協会に戻るんだろ?」
「報告あるからね。……一つ聞くけど、『あいつ』、今どこにいる?」
「……さてな。俺は知らん」
「……分かった。なら、ラカナクとジルファを後で向かわせる。使って」
「ん、悪いな」
 言ったユールがディストの腕輪を掴む。フォルティもまた最後にフェルを撫でてからそこに駆け寄り、そうして二人を残して、それらの姿は忽然と消えた。



 ペンを走らせる音が響く。その音に足を止めて、ヴァルディアは振り返った。どこまでも暗い空間の先、闇に腰掛けた少女。少女は唐突に手を止めると膝に抱えた巨大な本を数秒見つめて、そして息をつく。また文字を連ねていく最中、どこか楽しげに声を上げた。
「失敗だってさ、ヴァルディアさん」
「……お前は……」
 声を上げる。誰もいないはずのこの場所に何故、と。眼にかかる金の髪を払いのけて、同じ色をした瞳で少女を見れば、くすりと笑う声。
「さてはて一体誰でしょう?」
 茶化すように少女は言う。そして顔を上げ、見えたのは凹凸の一切無い白い仮面。暗い色のローブは闇にまぎれて、まるでその仮面だけが浮かんでいるかのようにも見えた。
「……お前は私の事を知っているようだが、何用だ?」
「お知らせに来たんだよ。君が今探してる人達が、今どこで何をしてるか、知りたくない?」
「……何者だ」
 ヴァルディアは右手を伸ばす。魔法で作り出した剣、それを握って足を踏み出す。少女は仮面の奥からそれを見たのか、くすりと笑った。
「あらら、随分必死だね? 余裕持たなきゃ足下掬われるよ、ヴァルディアさん?」
「何者だ、と聞いた。答えろ」
「私はまだ『謎な人』でいたいから、だから答えないよ。別に戦っても良いけど、疲れる前に話聞いとかない?」
「…………」
「警戒しなさんな、揃って同じ反応してくれちゃってまったく。血筋かねぇ?」
「……何の用だ。はぐらかす気なら、斬るぞ」
「はいはい」
 答えた少女が膝の上の本のページを一枚千切る。何度か折り目を付けて、簡易な鳥にも似た形に折り、す、と空中に滑らせる。ふわりとそばまで浮遊してきたそれを無造作に掴み、見ればびっしりと文字列が並んでいた。折り目を開いてみれば、開いたそこにも文字列。見覚えのない字。
「……これは……」
「ん、分からない? まあ予想はしてたけど。それはクルシエール、第一世真音古語の正統律だよ」
「……お前は、どうしてこれを」
「何でも知ってるのが私の取り柄。万能ではないけど、君たちが思い付く問いには答えられるよ。『正確に』、ね」
「…………」
「それで、本題。私が用があるのは実際には君じゃなくて、君の知り合いの知り合い。でも彼のいる所に私は入る資格を持ってないから、それ伝言ね」
「……もう既に、誰も扱える者がいない言語だぞ? お前は違うようだが、私ですら、これを解読することはできない」
「だから君は、フェルが言っていた一文の意味を知るため、おそらく古代語であろうそれ、しかし誰にも読めないそれを『唯一解読する術を持つ人物』の所に向かっていた。違う?」
「……読心術が開発されたとは、聞いていなかったが」
「これは、私の特技」
 流れるように、途切れることのなかった会話がそこで途切れる。少女は膝に抱えた本のページをいくつかめくると、そこの文面に目を落としたのか少しの間沈黙し、そしてやおらそこに頬杖をつく。白い仮面が紙面から離れ、こちらを見た。笑っているのだろうと、予想がつく。
「……お前は、何者だ? 人間ではあるまい」
「人間だよ。普通じゃないのは認めるけど。……君の方が、色んな意味で『普通じゃない』でしょ? ねえ……当主」
 瞬間、金属の鳴る音が暗闇に響く。ヴァルディアの手にした剣が、文字通り眼にもとまらぬ早さで振り下ろされ、しかしそれを少女は容易に防ぐ。防いだのは一本の白い羽根ペンだった。剣が空気を斬るその微細な風に、羽の先がふわりと揺れる。
 彼は目を見開いた。
「な……っ!?」
 仮面の真白い面が上げられる。何故か再び少女が笑ったのが分かって、そして彼女はペンを握ったまま、二本の指を立てた。
「ペンは剣よりも強し。なぁんて」
 驚愕に力が揺らいだ瞬間、少女はペンを持つその手、腕に力を込める。闇を蹴って体重すべてをかけて長剣を振り払って、弾いた瞬間とんぼを切って距離を置いた。ととん、と軽い音で着地をして、そして仮面の奥で少女は笑う。
「あっはは、この程度で驚いてどうするの、ヴァルディアさん?」
「答えられるのだろう、ならば言え! 貴様は何者だ!」
 腰掛けていた闇から飛び下り、本を腰と手との二点で支えながら、もう一方の手で羽の姿をしたペンをくるりと弄ぶ。その少女に声を荒げたヴァルディアは鋭い眼を向けて、少女は肩をすくめてみせた。
「私は私。それ以上でも以下でもないさ」
「言葉遊びをしているのではない」
 冷ややかに言い切る。少女の手が止まる。ぱたりとそれが下ろされて、少女は再び声を上げて笑った。
「はははっ、そりゃそうだ。けど、でもここまで綺麗に言い切ってくれるとはねぇ……」
「…………」
 ヴァルディアは沈黙を返す。しかし少女のその声音が微妙に変化したのを感じ取って、剣を握り直す。緩く頭を振って大きく息をついた少女が、片手で巨大な本を持ち上げて、そして重さを無視するように、わずかに手首を上下するだけでそれを高く放る。
 ばらばらと、本が鳴った。
「……だったら、君こそそんな格好で自分を騙して、何が楽しいのやら」
 小さく、闇に紛れそうなその姿が、ぶれた。
 次の瞬間には目前に迫る体躯。手に持つのは、黒く長大な、鎌。
 視界が上下真っ二つに割れる。金の髪の数本が持っていかれて、それで舌打ちをした。手を伸ばす。
「『煌々たる者、“フィーヅァー”!』」
「『楯よ!』」
 嬉々としているともとれる声で少女が命じる。瞬間、闇がその姿を現して魔法を飲み込み、まるで何もなかったかのように少女はその場に立っている。先ほどと違うのは、抱えていた本が彼女のすぐそばに浮いて、ひとりでにページを繰っていることと、少女が巨大な鎌を手にしていることだった。
「……ああ、これ? 結構使い勝手良いんだよ、非力でも扱えるしね。刃が曲がってる分、不意や死角も突きやすい」
 少女を凝視し、沈黙しているのをなんと受け取ったのか、少女は手に持つ鎌をひゅん、と回転させる。長い柄を肩に担いで、かつん、と一歩踏み出した。
「さて、と。言っとくけど、私は君と争いに来たわけじゃない。それを渡したかっただけであって、ついでにちょっと話をしてみたかっただけのこと。君が切り掛かってくれば、それなりの対応はするけどね?」
「……目的は何だ。狙いは私か? それとも、別の……」
「私の目的は、秘密。言ったところで信じないだろうし。私『達』の今の所の目的は、事実だよ。本当の事を知りたい。知って、助けたいんだよ」
 その最後の言葉に、ヴァルディアは僅かに肩を揺らす。気付いていないのか、その振りなのか、それには一切触れずに少女は続ける。
「君はその意味、ちゃんと理解できるはずだけど」
「…………」
 ヴァルディアはそれを聞いて、剣を握る手から力が抜けるのを感じた。剣先が下を向いて、息をつく。そのまま消し去れば、少女も鎌を手放し、凶器は闇へと帰っていった。本にも手を伸ばして両腕で抱え、そして開く。
「……無駄な事だ」
「私は、そうは思わない。君らの先入観が間違ってるだけ。……そういう風に、言っておくよ。あるいは君の周囲が変えてくれるかもしれないけど……」
「それも、あり得ない事だ」
「……悲観主義。そういうの、私は嫌い」
 言い放って、少女は手荒に再びページの一枚を剥ぎ取り、くしゃくしゃに丸めてヴァルディアに投げ付けた。へろ、と力無くなだらかな曲線を描いて足下に落ちたそれを拾い上げて視線を向ければ、少女は背を見せて歩き出していた。
「……待て」
「何さ」
「最初の、『失敗』はどういう意味だ」
 少女の足が止まる。大きく、溜め息をついたようだった。
「……覚醒の、失敗。水鏡を、越える事ができなかった。それだけ」
 どこか口早に言って、少女は逃げるようにその姿をかき消す。気配が絶えて、完全に消え去ったのだという事が分かった。ヴァルディアは周囲の暗闇を見渡して、そして息をついた。
 拾い上げた丸いそれを見遣る。くしゃくしゃに丸められたそれを広げれば、二人分の字が交互に並んでいた。鋭く角張った字と、流麗な筆記体。
『未来を。端的に』
『己を知らずに森に墜ち、領域を越え再び進む。相対を選び二度の闇を味わう』
『……その先は?』
『未だ未定。現在も不確定要素が多すぎる。お前が御しきれば、確定もあるいは可能だが』
『不確定を全面に確定。揺れるに任せる、その場合は改めて』
『了解した』
 筆記体の方がそう短く書き、それで異様な会話は途切れている。ヴァルディアが眉根を寄せたと同時に、どこからかなにかの囁くような声。
「……時間か……結局今日も駄目だったな……」
 紙を畳んでコートに仕舞い、息をつく。軽くうつむいて眼を閉じると、僅かな浮遊感を覚えた。



 眼を開ける。橙色の光が部屋の中に差していて、随分と長い間潜っていたのだという事が分かった。扉を叩く音。
「__ヴァルディア様、フェル達が」
 戻ってきた、とは言わずとも分かる。ヴァルディアは息をついて、そして寝台に横になっていたままの体を起こした。
「……分かった。今行く」
 はだけていたシャツを直して、上着を羽織る。薄いローブを手に取って、仮眠室の扉を開いた。




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