執務室の扉を叩くと、秘書の声がどうぞ、と答える。あれ、と思いながらも扉を開くと、ヴァルディアはちょうど別室から戻ってきた所のようで、扉を後ろ手に閉じた所だった。
「……遅かったな」
「色々あった。……こちらの手落ちも含め」
 ヴァルディアはフィレンスの言ったそれに眉根を寄せる。いつものように椅子に腰掛けながら手招き、書類を取り出した。
「何があった?」
「想定外の人物との遭遇。任務を中断して帰還するより早く、交戦した。おかげで大変だったけど……」
 フィレンスは言葉を濁す。ヴァルディアが視線を向ければ、肩をすくめた。
「……ユーディス・ディシェン」
「……馬鹿な、どうして今更この国に」
 十二年前、不可解な形で王立の研究所を消失させ、その足で王宮のとある所を襲撃し、その後忽然と姿を消した魔法使い。一切の足取りが追えずに、とうに死んだものとして考えられていた。生きていたからと言って驚きはしないが、しかし。
「分かったら苦労しない。一応、任務は達成したけど……」
「……負傷は?」
「私は、そこまでじゃ。フェルが何度か」
 魔法を、フィレンスが言いながら視線を向ければ、フェルはそれを見返して言葉に詰まる。ヴァルディアを見て、すぐに眼を逸らした。
「……すみません」
「いや、いい。そこまでの相手を前にして致命傷を負わなかっただけで十分だ」
 フェルはヴァルディアのそれにそれに頭を振る。視線を上げて、そして口を開いた。
「……長官、『夢現』と『水鏡』と『時の針』の、三つの術式語が入る魔法って、ありますか?」
 ヴァルディアはそれに僅かに沈黙する。息をついて、立ち上がった。
「フェル、鎖を」
「え?」
「手の、鎖を。……もう役には立たないだろう」
 言われて思い出す。左手を差し出そうとして、眼を瞬いた。
 そこにあったはずの鎖が消えている。どこかで切れて、落としたのだろうか。
 見ればヴァルディアは眉根を寄せている。フェルは少し迷って、口を開いた。
「……あれは、何ですか」
「…………」
 問いには沈黙が返される。フェルは手首を押さえた。
「……ヴァルディア様……?」
「……一種の保険だ」
 眉根を寄せる。ヴァルディアは溜め息をついて、フェルの左の手を取り、その甲に指を走らせた。燐光が、何か複雑な文様を描き出す。
「鋼を磨けば銀になる、銀はその身に毒を受けると色を変える、そういう事だ。赤を越えて銀に戻った時には注意しろ」
 銀は邪だが、実際に銀として現れる事は稀だ。ほとんどの場合が次点、炎の赤として姿を現す。
「どういう……?」
「私もそれ以上は聞いていない。真意が知りたければ私の師に聞くしかないが、あの人はそう簡単に捕まる人ではないからな……」
 そこまで言って、ヴァルディアは息をつく。燐光は一瞬強く輝いた後に跡形もなく消えた。
「……過去を見る魔法だ」
「……?」
「対象の記憶を視る。術者と対象の合意の上でないと完全な効果は望めないが、『水鏡』……意識と潜在意識を越えた所までを探る事ができる」
「……フェルの記憶が必要だった、って言ってた。そのため?」
「だろうな。過去形が気にはなるが」
「……それ以前に、その魔法私に使って、分かるものなんですか?」
 フェルは自分自身を指差して首を傾げる。だって記憶ありませんし、と言いたげなそれに、ヴァルディアはどうだろうな、と答える。椅子に戻りながら、言った。
「記憶とは記憶として保存されるものではなく、魂とやらに刻み付けられるものだそうだ。それを管理しているのが意識と呼ばれるもの。思い出せる思い出せないと言うのは、潜在意識で選別されたものを意識が拾い出せるか、と言う事だそうだ。人間は本能的に『忘れる』と言う作業を繰り返しているらしい」
「そう、なんですか?」
「らしいな。私は専門家ではないから、本の受け売りだが」
「では……その魔法を使えば、分かる事もある?」
 フィレンスが僅かに驚いた様子でフェルを見る。ヴァルディアは眼を細めた。
「……精神崩壊を起こしたいのであれば好きにしろ。中断すれば必ず壊れる。対象の意識がない状態を保って行使する魔法だ、自分で自分に使えるものではない。行使者も相当な集中を強いられる上、一年の記憶を掘り返すのに一週間はかかる」
「リスクがあるのは分かっています。無い魔法なんてありませんから。……どうしてもと言っても、駄目ですか」
 フェル、と横で小さく諌める声には答えず、彼女の視線は揺るぎない。ヴァルディアはそれを真正面から見た。
「断る。……それは私に、お前の人生全てを負えと言っているのと同じ事だ」
 即座に言ったヴァルディアに、フェルは僅かに怪訝そうな表情を浮かべた。そこまで、重い話なのか。フェルがその疑念を口にするよりも早くヴァルディアは溜め息を吐き出して、そしてその話題を断ち切るように口を開いた。
「フィレンス、そちらの対応は」
「第八と第九が動くみたい。私も、この後本部に一旦行く予定だけど」
「ユゼに、季節だ、と伝えてくれ。ヴァルディアの伝言だと」
「……了解」
 フィレンスは疑念を浮かべながらもそう答える。ユゼ、護衛師団の団長と、この長官が既知だと言う事は知ってはいるが。ヴァルディアはそのまま、再びフェルを見た。
「……妙な気は起こすな。いいな」
「……わかりました」
 その声にどこかいつもとは違う違和感を覚えて、フェルは素直にそう答えた。ヴァルディアが書類に視線を戻したのを合図に、二人は軽く会釈をしてから執務室を出た。
 二人の気配が離れたのを確認して、そしてヴァルディアは唐突に溜め息をつく。机に肘をついて、握った拳を額に当てた。書類は既に視線すら向けていない。執務机の、飴色を被せたような濃い茶色の天板の一点を見つけるようでいて、その実どこも見てはいなかった。
 そのまま沈黙が落ちる。唐突に声が落ちたのは、それから随分と経った頃だった。
「……アシュリス」
 呼ばわる声に答えるように、扉も窓も閉め切られた執務室の中に風が舞い上がる。姿を現したのは明るい緑の長い髪を緩く結い、瞳を閉じた精霊。薄い衣を体に巻き付けた彼は、未だ視線を向けすらしないヴァルディアに向かって口を開いた。
「……私を呼ばれるとは、随分と焦っておられる」
「承知の上だ。……お前に伝言を頼みたい」
「我が主の頼みと言うのなら、喜んで」
 男にしては柔らかい声で答えながら、風はふわりと笑む。ヴァルディアはようやく顔を上げて、そして言った。
「『谷』へ、……もうすぐに、戻ると」
 ヴァルディア様、と、クラリスが驚愕の声を上げる。



 回廊を歩きながら、フィレンスはフェルを見やった。
「どうしたの?」
「何がです?」
「焦ってる」
 言われて、フェルは言葉に詰まる。息をつくと、フィレンスの手が頭を撫でた。
「……どうしたの? 何かあった?」
「……少し。まだ良く意味が分からないので、あまり言いたくないんですけど……」
 そのまま言葉を濁したままにしようとして、しかし何故か誰かに聞いておいてほしいような気もして、フェルは彼女を見上げた。
「……最近、記憶について言われる事が多いんです」
「……誰に?」
「色々な人に。あの二人もそうでしたし、……フィレンスと離れた時にも、一人、会ったんですけど……」
「なんで言わなかったの」
「敵ではありませんでしたし、それに……まだ、整理、ついてなくて。すみません」
 それにフィレンスは息をつくしかない。フェルはこういう時はいくら問いつめても答えない性格の持ち主だ。その彼女はそのまま、言葉を続ける。
「……必ず、言われるんです。『覚えてないのか』、って」
「……それって……」
「全員、私の事を知ってる。でも私は相手の事なんて知らない。……もし、相手が、私がそうなる前の私を、知ってるなら……」
 彼等は知っているはずなのだ。自分が何者なのかを。
 不可解な問いを投げかけてくる彼らは、決してその答えを強要しなかった。驚きはしても、『答えられない』事に対して不信を抱いた様子は無かった。
「……教えてほしいと私が言った時、答えられない、そう答えたのが二人です。後は何も言ってはくれなかった……一人は無理にでも『視よう』とした。……おかしいです」
 まるで、知るなと、思い出すなと、そう言われているようで。しかしそれを欲する人がいて。
 そして、記憶を示唆した人々の、その時の記憶すら、既にあやふやなのだ。ヒセルス、オーレン、ジュセ、その三人と何を話したのか、彼らが何を言ったのか。帰還する道すがら考えているうちにようやく気付いたという体為。だがその消え方も異様で__虫食いのように、その部分だけが抜け落ちているのだ。その前後には一切の影響も無く。ヴァルディアの言を取るなら、潜在意識がそうなるように選別しているかのように。
「……おかしいんです。今までは、ずっと『紫銀だから』こういうことに巻き込まれるんだと……でも、それじゃ済まない。まるで全く別の物にすりかわってしまったようで……」
「…………」
 フィレンスは沈黙するしかできない。人気の無い回廊にいつの間にか立ち止まっていたのを、少女の手を握ってやって、先導するようにゆっくりと歩きはじめる。そうしながら、小さく言った。
「その事で、焦ってる? それとも不安?」
「……多分、両方です。不安で、落ち着かないからどうにかしたくて、焦ってる……そんな感じだと、思うんですけど」
「うん……」
 ただそうやって小さく答えて、フィレンスは自分の部屋へと向かう。扉を開いて中へと入り、すぐの場所に据えられたソファに座らせる。薬缶に水を入れて火に掛け、手早く紅茶の準備をしながら、口を開いた。
「……私はこれから、一旦本部に戻るよ。どうする?」
 フェルの視線がこちらを向くのを感じながら、フィレンスは紅茶の葉の残りを確認する振りをしてあえてそれを無視した。視線はすぐに逸らされていく。赤いラベルの張られた缶の中から葉を取り出し、沸いたお湯を一旦そのままカップに注ぐ。砂糖を取り出してからお湯を捨て、改めて紅茶を入れる。
 熱い湯の中で紅茶の葉が開くのを待っていると、ようやく声が聞こえた。
「……ここに、います」
 フィレンスは頷く。綺麗に色の出た紅茶をフェルの前に置いてやる。
 手を伸ばしたフェルは、小さい水面に波を立たせてから口を開いた。
「……フィレンス、なんだかいじわるになりましたね」
「優しさだよ? 最初から全てうまくいくようになんてしてあげないよ」
 フィレンスは小さく笑いながら答える。分かっているのなら問題はない。協会の一員である以上、護衛師団に所属しているでもないフェルは極力協会にいなければならない。フィレンスやクロウィルが例外なだけであって、その範疇に彼女はいないのだ。
「……もし問題があるのなら、団長がここに来るか、何か指示を出すはず、だからちゃんと協会に慣れて認められるまで本部には来るな……ラウルさんが、そうやって」
「……言わなくていいのに」
 フェルがラウル、護衛師団の副団長の言葉を口にすれば、フィレンスは言って眉根を寄せる。フェルは苦笑して紅茶を口に含んだ。
 護衛師団の騎士や魔導師たちは、基本的にフェルに甘い。それはフィレンスや第二の面々を見れば分かる事だし、むしろ筆頭は団長なのだ。だが甘いだけではないのが彼等であって、だからこそフェルはここに来る事ができたと言ってもいい。
「……フィレンスとディストさんが筆頭です」
「厳しいのが?」
「ええ。……ディストさんは、私が苦手なだけで、良い人だと思うんですけど」
「……フェルさ、その分類そろそろ改めた方がいいと思う……」
 フィレンスは何やら苦い顔で呟き、カップを口へ運ぶ。フェルはそれを聞いて首を傾げた。
 今まであまり他人と知り合う機会に恵まれなかったフェルは、前々から他人と言うものを非常に大雑把に分類していた。つまり、大好きな人、好きな人、良い人、良くない人、嫌いな人、大嫌いな人、の六つに。
 ちなみに世間一般の『普通』や『どうでもいい』はもれなく『良い人』に分類されるらしい。
「? なんでですか?」
「いや、別に……」
 あるいはもっと細かくすべき、とはフィレンスは言えなかった。そうなるとあの幼馴染みがあまりに不憫すぎる。さすがにそこまで鬼にはなれない、と彼女は息をついた。フェルは更に首を傾げる。
「……?」
「何でもないよ。……それでだけど、多分明日の朝には戻って来れるから、気にしなくて大丈夫だからね」
「あ、はい。分かりました」
「イースつけとくから、何かあったらイース伝いに」
「了解です。……クロウィルじゃないんですね?」
 フィレンスは目を瞬く。今のはクロウィルではないのか、という確認ではなく、本当にイースなんだな、という念押しに聞こえた。フィレンスは少し考えて、紅茶をソーサーの上に戻した。息をついて、正面からフェルを見る。
「……何です?」
 フェルは不審に思って声を上げる。こちらを見るフィレンスは、ほんの僅かに沈黙を置いて、そして口を開いた。
「あのさ、フェルさ」
「はい」
「押し倒されたりした?」
 がちゃん、と持ち上げられかけていたカップがソーサーの上に不時着する。紅茶が僅かに跳ねただけなのは僥倖だっただろう。フィレンスはおや、と思う。
「まだなんだ」
 フェルはそれを赤い顔で見返した。声を荒げて言う。
「っ、何がですか! というか何を! 誰に!」
「って聞く割には取り乱してない?」
 そうなるとフィレンスには先ほどの念押しの意図が分からない。フェルはそもそもどうしてフィレンスがそう聞いてきたのかが分からずに赤い顔を手で押さえて視線を外す。
 フェルは毎度目が覚める度のあの騒動が結構くるものがあるから、イースがいるなら多分途中で帰って来たとしても大丈夫だろうと思っての発言だったのだが、残念ながらフィレンスはそこまで細かい事を把握していなかった。
「うー……っ、フィレンスがおかしい……っ!」
「いや、おかしいのはフェルでしょ? さっきから面白いよ君」
 フェルが八つ当たり気味に言うので、フィレンスは苦笑と一緒に返してやる。違うんならまあいいか、という判断だ。
「さて、と。じゃあそういうことで、よろしくね、フェル」
「……なんだかもやもやするんですけど……了解です」
「ちゃんと休みなよ、明日も仕事だからね」
「分かってますよ。……厳しいんだか優しいんだか……」
「優しさなんだよ、厳しいとか優しいとか以前にね」
 呟きに答えたフィレンスに、フェルは嬉しそうに笑みを浮かべる。立ち上がったフィレンスを見て、フェルは紅茶を呷った。
 そろそろ日が落ちる。東の空には気の早いが見えた。




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