あれ、と思う。ロイは暗い回廊の中で目を凝らした。
「……何やってんですか?」
「……ロイか」
 回廊の窓から外を見下ろしていたヴァルディアは、こちらを見てそう言って、そしてすぐに視線を戻す。
 ロイもその視線を追って窓の外を見るが、しかしいつもと変わらない風景が広がっているだけだ。協会を覆う石壁、その向こうに広がる蒼樹の街。それらが真夜中の闇の中に沈んでいる。
「……今日の昼に王宮に行ったのだが」
 唐突に長官が口を開く。視線を向ければ、街を見たまま白い息で彼は言った。
「紅軍の将軍の一人に呼び止められた。ロイ・シュベリア=ツィクスという騎士を知らないか、とな」
 途端、ロイは苦い表情を浮かべる。ヴァルディアは仄かに笑んだ。
「ロイと言う名前など大量にあり過ぎてわからん、と答えておいた。感謝しろ」
「そりゃどうも……あーあ、バレたかー」
「知らないでいるとでも?」
 盛大に溜め息を吐き出すロイにヴァルディアは言う。ロイはだろうけど、と視線を泳がせた。
 これじゃ何の為に称号隠してたんだか、と思う。紅軍、国王軍の中では、そこまでの名前でもなかったのにとロイはヴァルディアを見て、気付いた長官は横目をくれた。
「エジャルエーレ侯爵の軍の師団長とはさすがに知らなかったが。侯爵はお前の事を捜し回っているようだが?」
「あー……ほとぼり収まったら自分から行くんで、それまで知らぬ存ぜぬでよろしくお願いしますわ」
 通常、国王は自身の軍や兵を持たない。キレナシシャスの場合は護衛師団が国王直属の軍としてあるが、あれは軍と言うには少々そぐわない。
 この国で国王軍と呼ばれるのは、国王に仕える騎士達、つまりは貴族達の私兵の事だ。国中に散らばる貴族たちがそれぞれに軍を編成し、旗を掲げて国王の名の下に集う、それが国王軍。
 軍の編成は統一されている。それぞれの軍勢のトップである将軍、副官があり、その下に各師団を束ねる師団長。師団の中でさらに部隊長があり、そこで俗に『兵』と呼ばれる騎士達が所属する形になる。
 そしてエジャルエーレ侯爵の軍は国内で五指に数えられる、国王軍の一翼だ。その中で師団長と言う大役を預けられていた男は、ヴァルディアの視線を遮るように顔を俯けて頭を掻いた。
「……俺って貴族生まれじゃないんで、師団長も異例だったんですよ。将軍……いや、侯爵様は買って下さってたんですけど、……俺がいるせいで主君が罵声を浴びるってのは、気持ちのいいもんじゃなくて」
「なるほど」
 ヴァルディアはあえて軽く言う。この国は生まれの差が歴然とし、そしてそれが平然とまかり通る場所だ。ロイはその中で頭角を現し、そして最後には自分の良心に耐えられなくなったのだろう。__貴族が平民を遇すれば、両者が貴族の批判の的になる。
 そうして身を隠すように軍から身を引き、そして蒼樹に入った。思ったよりも試験に手こずって中々に大変だったのはいい思い出になりつつある。同僚たちには一切言わずに、試験に落ち続けてようやく、と言ってはいたが。
「……しばらくしたらまた王宮で会議がある。その時には白黒を数人連れていくが、お前はどうする?」
「俺まだ白服じゃない筈なんで。……それ何日後ですか」
「十日くらいだが」
「それまでに俺白服になれるんですかね」
「明日その予定だ」
「…………ぇえッ!?」
 長官の言葉を理解するのに随分かかった。そして思わず口をついた大声に、逆に長官が驚いたように振り返る。その彼にロイは詰め寄った。
「ちょっ、早すぎるだろ!?」
「数日で黒服になったやつがいるのに何を今更。それに、使える人材はさっさと使わないと勿体ない」
 この人に勿体ないと言われるのは嬉しいのかなんなのか。ヴァルディアはそのロイの反応に疑念を浮かべながらも、視線を窓の外に戻す。
「それで、どうする」
「あー……どうするったって、俺頭の整理苦手なんだよな……」
「そうか。ちなみに私と侯爵は前々から仲がいい方でな。今度彼がここを見てみたいと言ったのを快諾したのも今日の出来事だが、まあお前には関係のない話だったな」
「……それ、いつの」
「お前の整理が付かない内は関係のない事だろう?」
 ヴァルディアはこちらに横目をくれてにやりと笑う。ロイは項垂れた。この人は全く、どこまで知っててどこまで仕掛けてくるんだ。視線を向ければ既にこちらを見ていない。そしてロイは、大きく息をついた。
「……行く。行きゃいいんだろうが」
「よし」
「……ちなみに、なんで白黒連れていくんだ? 長官達の会議だろ?」
「長官だけの会議ではない。頭老院に紅軍の総帥、護衛師団団長に大公に四協会長官で行われる、対『異種』の会談だな。白黒は、……理由は知らないが」
「ないのか? 理由」
「おそらくは社会科見学だな」
 どこの学校だ。思ったが口には出さない。ロイは何度目か息をついて、そしてはたと思い至る。そういえば国王軍、特に上層部を占める輩と協会所属者って確か。
「……長官」
「何だ?」
「俺はその場面に遭遇した事ないんだけど、……たしか紅軍と協会ってめちゃくちゃ仲悪くなかったか」
「そうだな。言ってしまえば世紀末的に。顔を合わせれば喧嘩ばかりするので王宮でこの会議が行われる度にどこかしら修繕される箇所が出ると言う都市伝説までできた。まあ事実だが」
 それは都市伝説とは言わない。しかしそこに突っ込むと本題を忘れそうなので、ロイはあえてそれを無視して、そして言った。
「……もしかして、俺仲介役?」
「安心しろ、フィレンスとクロウィルもそうだ」
 そもそもその二人は協会と言うより軍であって、軍と言うより護衛師団じゃないか。協会側で押さえんの俺だけかよ。それらの思いが脳裏を駆け抜けて、風が吹くように消えていく。人間許容量を超えると無心になれるらしい。
「……ぜんげんてっかーい、とか、無効だよな……」
「無効だな。諦めろ、私もエジャルエーレ侯爵には色々と借りがあって、そろそろ返さなければならないと思っていた頃にお前がここに来たんだ。上手く使われろ」
 言われてロイは目を瞬く。頭をがしがしと掻いて、そして口を開いた。
「……なあ、長官」
「なんだ?」
「長官、いい奴だって言われないか?」
 瞬間の彼の顔は見物だったと、後にロイは語る。
 ヴァルディアは完全に虚を突かれた表情で金色の目を軽く見開き、瞬く間にそれは険しい顔に移り変わる。眉根を寄せた彼は、そして口を開く。
「……は?」
「……まあ、無意識ならそれでも。そうすると二割増しだな」
「何の話だ」
 ヴァルディアは言って、そして視線を街へと戻す。ロイは肩をすくめた。
 この一連の会話で気付くなと言う方が無理な話だ。息をついた長官に、ロイはもう一度視線を向ける。
「……で、なんで長官はこんなところでぼうっとしてるんだ?」
「お前はどうした。真夜中は回っているが」
「俺は中々寝付けなくて。……で?」
 さり気なく逸らされそうになったのを元に戻す。ちょっとした意趣返しのつもりだったが、ヴァルディアは静かに溜め息をつく。
「……?」
「……報せを待っているだけだ」
「報せ?」
 彼は答えず、暗闇の景色を見つめる。そこから何かが現れるのだろうかと視線を追ってみても、目に入るのは硝子越しの冷たい星空と町並み、どこから漏れたのかも分からない光を反射して輝く雪だけだ。昼なら見える凹凸のある地平線と山並も、今は闇に埋没して しまっている。
「……お前、オーレンの事は?」
「……知ってるけど」
 人並みに話せるようになるまで中々かかったが、と付け加える。それよりも唐突な問いの意味をはかりかねていると、視線を全く動かさずに彼は言った。
「呼んで来てくれ。この時間ならまだ、」
「……それには及ばない」
 背後から聞こえた声に、二人は同時に振り返る。ロイは軽く目を見張った。まるで意識していなかったとは言え、ここまで見事に気付かなかったとは。
 回廊の暗がりに紛れるように立っているのは、間違いなくオーレンだ。藍色の髪が今は黒く眼に映る。しかしその様子が、いつもとは違った。
 壁についた手までが黒い。苦しそうな呼吸を喉で押さえつけているのか、浅い息に雑音が混じる。
「__おい、っ!?」
 僅かに数歩の距離を詰めて崩れかけたその身体を支えて、瞬間ぬめるような感触にロイは息を呑んだ。黒い衣装に染み渡ったもの、濃い錆の臭い。
 視界の端に燐光が入り込む。長官が手を伸ばし、回復魔法が展開されたのを見てか、オーレンが緩慢に顔を上げた。腕を持ち上げて、そして。
 ばし、と重い音を立てて手が振払われる。ロイは目を見開き、中途半端に魔法が途切れる。表情を変えない長官に、オーレンが口を開いた。
「    」
 聞こえたのは耳慣れない言葉。どこか不思議な響きのそれは、しかしひどく暗いものを伴うように響いていく。
「    」
 もう一度オーレンが同じ響きを口にする。続けて何事かを言いかけて、しかしその途中で不意に口をつぐんだ。垣間見える彼の瞳が、僅かに歪められる。何事かとその視線を追ったロイが、言葉を失って眼を見開いた。
「    」
 ヴァルディアの声が、静かに落ちる。もう一度手がかざされて、今度はオーレンも抵抗しなかった。長官は動けずにいるロイを一瞥する。
「……忘れろ。いいな」
 言って、瞳はすぐにオーレンに注がれる。魔法のおかげで傷は塞がったのだろうが、痛みが消えるわけではなく、オーレンはそのままずるずると崩れ落ちた。当然それを支えていたロイもつられるように膝をつく。思考が一切を拒否する中、オーレンの声が微かに聞こえた。
「……は、なせ、ロイ……」
「怪我人放っておけるか阿呆っ」
 とっさに言い返す。しかしどうする、という問いだけが頭を空回りしていた。動揺と混乱が同時に襲いかかって来たのだと理解する前に、ヴァルディアの手が伸びてオーレンの頭に触れる。瞬間に重さを増したオーレンの、その腕を掴み上げ肩に担ぐような形で彼はオーレンを持ち上げた。既に意識がないのか、黒服は抵抗も協力もせず瞳を閉じている。
 そしてヴァルディアはもう一度ロイを見やる。何故か言葉に詰まったロイを見て、彼は眼を伏せた。
「忘れろ。見たものも、あの言葉も、全て」
 いつもとはどこか違う声音の命令口調で言い放って、彼はオーレンを背負ったまま歩きはじめる。
 ロイは、ただそれを見ているだけだった。二人の姿が見えなくなってからも、その場に立ち尽くす。呆然と、今目の前で起こった事が脳裏に反芻されるままそれを見続ける。
「……どういう事だ」
 不意に、言葉がこぼれた。同時に白濁していた思考が落ち着きを取り戻しはじめる。だが。__だが、今のは、明らかに。
 何が、と呟きが落ちる。何が起こっている。
 何故、と思う。おかしい筈だ、こんな事はあり得ない。
 誰も気付いてはいないのか。
 彼女は、知らないのか。
 知らない筈だ。知っているのなら、彼女は、とうに。
「一体、どうなってる……」
 握った拳を強く額に押し付ける。白い手袋を染めた半分乾いた血は、暗闇の中ではただ冷たく、黒い。



 不意に手を握られて、彼は目を瞬いた。ただ掛布がずれて露になった首元が寒いだろうと、綿の詰まったそれを引き上げただけだ。意識を揺り起こすような事はしていない。なのに白い手が、寝台から離れかけた手を、まるで引き止めるように捕らえたのだ。
 引き止めると言ってもその力は弱い。振り払うまでもなく、その手を少し自分の身体の方へ引くだけで容易く離れてしまうだろう。だが確かに自分の手を握る温かい手を見て、彼は苦笑を浮かべた。
「……どうした、フェル」
 寝台の端に腰掛けて、横向きに枕に沈む頭をゆっくりと撫でてやる。どこかいつもと違うという違和感を覚えて、手袋をしていない事に今更気付いた。
 規律違反、と脳裏にちらつく文字を故意に無視して、銀糸の髪を梳るように指を滑り込ませる。真夜中でなければ聞こえないような小さな声とともにフェルが身じろぎをする。その拍子にか、握った手の方へとすり寄るように身体を丸めているのが分かって微苦笑を浮かべた。銀色が白いシーツの上で波を打っている。
 この少女は頭を撫でられるのに弱い。胸や背中の方まで暖かくなるのだと言う。子供扱いには拗ねてみせる事もあるが、撫でる事に関しては例外らしいところを見ると、催促する事は決してないが期待している節はあるのだろう。本当は膝の上に抱いて撫でてやるのが一番なのだが、本人の気持ちの問題なのか、最近になってはフィレンスでさえその機会を与えられる事は少ない。彼、クロウィルにとっては、ごく僅かな例外を除いて、それらは遠い昔の記憶だ。
 自身に妹どころか弟もいないクロウィルは、四、五歳ほどの紫銀の相手を周りの大人達やフィレンスの見よう見まねでなんとかこなそうとしていたのだが、それが報われたためしはとうとうなかった。どちらかと言うと周りが上手すぎただけなのだが、まだ言葉も通じない頃のフェルはクロウィルの抱き方が気に入らなかったらしい。撫でるだけなら喜んだが、抱こうと思うと逃げられる。逃げる先は当時の団長が断トツで、次にフィレンスだった。そういえば親父の所は絶対に近寄らなかったんだよな、と思い出して、苦笑を浮かべる。
 まったく面識のない人物と遭遇した時などは何故かクロウィルの所へ来たのだが、その真意は今となっては分からない。なんせフェル自身がその事を覚えていないのだから、聞き様もないのだ。
 とにかくクロウィルにとっては、この行為が一番馴染みやが深く、かつ一番効果が高い。調子に乗ってみる事もあるが、それでもボーダーは越えないようにしている。根から叩き込まれた規律や誓約に今更面と向かって歯向かう勇気はなかった。そして一度越えてしまうと戻れなくなると言う幼馴染みの言葉に、好奇心も自然と消えた。
 騎士道精神云々は、特に意識しているわけでもないとクロウィルは思っている。だが周囲にそれどころでない面々がいるせいで、自分が自分の思っている以上に真面目な騎士だと受け取られる事が多いのも自覚していた。
 そんな事は決してない。真面目なのではなく人が良いだけなのだと、しばらく彼につきあった事のある人なら言うだろう。クロウィル自身もそう言われた事が何回もある。
 クロウィルの想像する『真面目』とは、騎士の何たるかを全て脳と身体と心に刻み付け、且つそれを実践していくようなものだ。あるいは自分のできる事を精一杯にやる事だったり、きちんと順序立てて物事を解決していくような、それらを全てひっくるめて彼は『真面目』というものをなんとなく定義している。
 それでいくと、護衛師団ではともかくも協会では常に全力であるわけでもなく、騎士らしくもなく、ほとんどの事を何となくで過ごしている自分は該当しない、という判断になる。そしてそこに、頼まれたら断れないが付加されて、それに付随するように色々なものがくっついてクロウィルと言う人格は形成されていた。
 一言で言ってしまえば、飄々としている。必死に事に当たると言う事が、他人に比べて圧倒的に少ないように見えるのだ。
 勿論見えるだけ、ではあるのだが。しかしその見えるだけがいつの間にか評価となり、本人はそこそこ頑張って成果を上げているのだがやはり頑張っているようには見えず、だが確実に手柄は残るため、あいつは実はかなりすごい奴なんじゃ、という噂まで立った。揉み消した。
 風評の中でも平和主義であるというのは認めるが、と胸中に呟く。いつの間にか止まっていた手を動かすと、ほんの僅か、変化していないのではと言う程微量な安堵が瞳を閉じた表情に混じる。
 いつだったか、一人で眠るのは好きではないと零していた。賑やかな所にずっといたから、と誰に言い訳するでもなく言っていたのは、恐らくは本心なのだろう。事実祭事を除き、フェルは時折静寂をあまり快く思っていない様子を見せる。わざと声を出したり、人がいれば会話を引き出そうとする。
 子供だな、とクロウィルは思う。だがそれは呆れではあっても、不快なものでは決してない。例えば友人に変わらないなと苦笑する、そんな感情だ。
 同時に自分も子供だなと、クロウィルはいつも思う。
 いつまで意地を張っていようか。どこまで隠していようか。悪戯を仕掛ける時のように、何かに期待するような感覚がある。期待するのは相手が悪戯にかかる事か、悪戯を見破られて口煩く叱られる事か。
「……この場合は後者だな」
 絶対に、そんな事はあり得ないのに。
 クロウィルは息をつく。頭を撫でていた手を離して、代わりにシーツに押し付けるようにして身体を支える。覆い被さるように上体を傾けて、額を軽く、こつんとあてがった。




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深層に在る私が私に言う。
__お前は自らを省みない、愚か者だと。



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