まずったな、と思う。彼は手首で音を立てる腕輪二つを押さえた。木の幹に背中を押し付け、しかしいつでも走り出せる体勢のまま注意深く背後を見やった。いない。だが隠れているだけだろうと判断して音を立てずに大きく息をついた。
 まさか調査を終えたと判断した官吏が、その報告のためにその場から協会へと向かった直後に、おそらく本命なのだろうと思われるものと遭遇するとは思わなかった。残っていたもう一人が慌てて戻って行ったが、なんで俺が足留めしてなきゃいけないんだ、と口には出さずに悪態をつく。
 その上不運というか、謀られているような気までしてくるのだから人間良い加減にできている。
 こんなに大変なことになるんだったら手伝うんじゃなかった。道案内だけのはずだったのに。お人好しすぎた過去の自分を殴りたい。思いながら、コートの胸元から銀色の糸を引っ張り出した。細い数本が縒り合わされている、太さのある銀糸。それを適当な長さで引きちぎり、手元を見もせずにくるくると繰って複雑な形に編んでいく。広げた翼のような形になったそれを両手の平で包みこんだ。
「『炎、風、烈風は東より西へ駆け……』」
 小さく詠唱する。手の平の中のそれが固さを増して、そして微細な声を聞きつけたのだろうそれの声が間近から聞こえる。ああもうここ静かすぎるんだよ魔法使いにとっちゃ致命的じゃねぇか詠唱だだ漏れだよと思うと同時に、地面を蹴った。
 走る、その最中に体を反転させ振り返り、彼は手の中のそれを高く投擲する。
「『名を与える、“ヴィヴァンツェス”!』」
 爆音とともに炎が膨れ上がった。



 不意にフェルが視線を滑らせた。
 一点を見つめて足を止めた彼女に、フィレンスは気付いてその視線の先を見やる。
「どうしたの?」
「……今、魔法が……」
 フェルは短く呟く。何かと思って足を踏み出した瞬間、その視線の先で雪が蠢く。
「……本当に数多いね全く」
 フィレンスが剣を抜く。出てくるなら一気に来れば良いのに、と言う呟きにフェルは遠い眼をするだけにとどめた。一気に来たら流石に死ぬ、この数に群れられたらどうなるか。
 思いつつ杖を喚んで、しかし視線が向けられたのは現れた結花の更に奥、変わらず白い雪原の向こう側__
「……フィレンス」
「ん、何?」
「この辺りに地下道ってありますか? 坑道でも玉泉でも良いんですけど」
 雪を避ける為に、大昔に設けられた地下道は、街と街を結ぶ冬の街道だ。今では全てが崩れ、埋められ、あるいは立ち入り禁止として全面的に閉鎖されているが、街道として生きているものはまだ残っている。また西は質の良い鉱石や錬金術に使用する玉、触媒の鉱脈が他の土地に比べて大量にあるが、それらは総じて地下にある為、そこに通じる道もまた無数にあると言っても良い。
 そして唐突にそれを聞いたフェルに、フィレンスは首を傾げた。
「あるけど、それがどうかした?」
 フェルは視線をそよがせた。結花がじりじりと迫っている。特に構えた様子もなくどうしようかと少し考えて、フェルは迷った結果口を開いた。
「……ええと、とりあえず片付けてから説明します」
 フィレンスはやはり不思議そうな顔をしたが、一瞬後には既に剣が弧を描いている。迫ったものを炎で散らし、そこに鋼の槍が降り注げば縫いとめられたものが霧散していった。フィレンスはそれを視界の端で確認して、そして目の前の二体を一太刀で両断した。その最中にも魔法が舞って、しかしそれを繰るフェルを見ればいつもと違った淡々とした様子。
 必然的に敵のただ中を突っ切る形になる騎士が、やはり戦闘中はより『異種』には狙われやすい。知能の高いと言われる高位『異種』ならともかく、中位程度なら離れた場所の数体が後衛、魔法使いに気付けばそちらに来る程度で、基本的に負傷のリスクは魔法使いの方が低い。仮に後衛に向かって来れば同時に二つの対処をしなければならないが、その程度なら軽いものだ。それすら無いのだから、フェルは少々物足りないと思ってしまう。任務にそれを感じる事自体ほめられた事ではないのだが。
 フィレンスはその様子に気付いて苦笑する。一旦剣を引いて後退する、それと同時に視線を向けた。
「フェル、顔に出てるよ」
「……気のせいですぅー」
「分かりやすいったら」
 短く言い合って、彼女は再び躍り出る。フェルはその背中を見やって息をついた。いつもこの調子だから、彼女には一向に勝てそうもない。
 それよりも、と視線を定めて、フェルは杖を握った。先程から感じるこれは、普通のものではないが……
「……まずはこっち、ですね」
 言うと同時、太陽に照らされた雪よりも眩しく燐光が昇り立つ。瞬時に紡がれた陣が広がり、ご、と空気の揺れる音。
「『刃持つ者剣に変じ、風を捕らえて我が空へ! 轟く者は深紅の瀑布、謳い上げるは“レヴィア・ツェツィ・コード”!』」
 風が舞い上がる。冬にはあり得ない熱風が渦を巻き、巻き起こった炎の飛礫が白い世界に殺到する。白い雪が水を通り越して即座に水蒸気に変わり、乾いた空気が唐突に重さを帯びて身体に纏わり付くのを振り切って更に炎を喚んだ。流れるより早く火に当てられたそれが熱を帯びて雪の表層を溶かして行く。フェルはあ、と声を漏らした。
「すみませんフィレンス滑るかもです、『“レグェルナースィス”!』」
「ええ!? やめてよねそういうの!」
 殺到する炎は白い姿を避け、結花だけを狙って飛来する。逃げる標的を追う赤いそれを手を伸ばして制御し、そうしながら聞こえた声に言い返した。
「だって溶けちゃうものは仕方ないじゃないですか! 凍らせたらよけいに滑りますしっ」
 そんな細っかい所まで気にしてられませんよ、とも付け足す。本当はそこまで考えて行動しての魔法使いなのだが、まあフィレンスなら大丈夫かという根拠の無い希望的観測に任せてみたフェルだった。
 それに、今はもっと気になる事がある。それ如何によってはこれからの行動が左右される可能性がある、それはどうにかして避けたいところだが。
 雷を喚ぶ。いつの間にか随分と数の減っていた結花にそれを向かわせて、追って白刃が走る。幾つかが弾けるように砕けて、そして残った数体が僅かに動きを止めた後、一様に凄まじい勢いで距離をとった。
 反射的に追おうとしたフェルの肩をフィレンスが押さえる。眼を瞬いたフェルが彼女を見上げれば、苦笑。
「好戦的」
「……逃がすのって何か、罪悪感あるじゃないですか」
「全部倒すのは無理だよ。文字通り無数にいるんだから」
 言われて、そうですけど、と唸る。やんわりと彼女の手を振り払うと、代わりに軽く肩を叩かれた。軽く重さを乗せたそれに、気負うな、と言われた気がして眼を瞬く。見ればフィレンスは既に視線を外して剣を納めていて、杖に視線を落としてしばし考える。
 納得した瞬間、ふ、と息が漏れた。辺りを見渡していたフィレンスがタイミング良く振り向く。
「さて。で、さっきから色々起こってるみたいだけど、どこ?」
「下」
 フィレンスの単刀直入な問いに、フェルは足下の雪、更にはその下、大地の下に広がる『それ』を指差した。



「〜〜ッ、だァッ! いい加減死ね! いや死んで下さい!」
 叫んで掌の中のそれを投擲する。ぺし、と軽い音を立てて『それ』の顔面に当たったそれは刹那の間を置いて大爆発を起こした。衝撃に地面も壁も天井も揺れる。
 否、それらは全て『大地』だ。ここは地下に作られた街、その残骸。無理矢理柱で支えた茶色い空が広がる、石と岩と煉瓦で作られた街並、その廃墟。
 もう既に人の住む事もないそこは、言い換えれば『異種』の格好の温床でもある。
「なん、でっ、協会はこんなとこ放っとくんだ!!」
 埋めろすぐ埋めろ今すぐ埋めろいや俺がここを脱出したと同時に跡形も無く全て埋め尽くして滅ぼしてしまえ名実共に!
 叫びながら、全く堪えた様子のないそれから全力で逃げる。そうしながら器用に取り出した手の中の金糸と銀糸を組み合わせて編み上げて行き、余分な部分は噛み切って、そして強く片手で握った。
「『炎、雷鳴、姿は瀑布を借り……名を与える、“レグェル”! “リシェスト”!』」
 ふ、と宙に投げ出されたそれが強く輝き、暴風と爆炎、そして紅い稲妻が殺到する。それで悲鳴に似た叫び声が聞こえて、それでようやく彼は足を止めた。膝に手をついて、ぜい、と喘ぐ。振り向けば黒い煙と雷の残滓。
「……これで、倒れてくれりゃ、良いんだけどよ……」
 風すら通らないこの場所では、煙が晴れるのも時間がかかる。さてどうしようかと思った瞬間、不意に視界に何かが掠めて、反射的に握っていた金糸の切れっ端を投げた。
 瞬間的に構築された結界に黒い影で出来た短剣が刺さる。刃の半ばでとどめた結界はすぐさま崩れて、そして煙の向こうで光る一対の瞳。
「……ですよねー」
 呟いた。咆哮が響くよりも早く、再び全力疾走を開始する。ああこりゃ中途半端に刺激したみたいだなと思って、そしてふつふつと怒りが湧いて来た。
「__早く来いよ白黒ーーッ!!」



 くしゅ、と小さい音がして振り返ると、フェルが顔の下半分を押さえていた。苦笑する。
「寒い?」
「やっぱり、少しは。首元がすうすうして……っと、ここですか?」
 フェルの問いかけに、そこを覗き込んでいたフィレンスはかがめていた身体を起こして、代わりにそこを覗き込んだフェルに、うん、と頷いた。
「昔は街から街道が延びてたみたいだけど、そこが、確か崩落したんじゃなかったかな。それからはこうやって、地上に出る穴を作って……」
「……で、降った雪も全部落ちるから、まるで落とし穴みたいになる、と言う事ですか……」
 まるで計ったかのように、直径一メートルほどの穴が雪原に空いている。確かこっちに入り口があった気がする、というフィレンスについて行くと、本当にあった。ただし今は完全に『穴』なのだが。
 というか何でこんな事知ってるんだ、と彼女を見上げると、フィレンスは察したようにああ、と声を上げた。
「何となく国中の地図眺めてた事があって。好奇心って本当に何にでも役に立つね」
「……何だかあなたがいれば国中どこに行っても大丈夫な気がしますよ、フィレンス」
「だと良いけどねぇ」
 茶化すように言い合って、さてどうするか、と再びそこを見下ろす。今の中がどうなってるのかは、という彼女のそれには頷き返して、よし、とフェルは頷いた。視線を上げてフィレンスを見れば視線が合って、そしてフェルは首を傾げて問いかけた。
「フィレンス、高い所好きですか?」
「……何が言いたいのかは分かった。ただ一つ言っておくけど、地下の街って言っても相当高さあるからね?」
「分かってますって。地表から百メートル離して、更に百五十メートルの高さの空間を最低確保しなくちゃいけないのが規格ですよね?」
 そこは知ってるんだ、とフィレンスは溜め息混じりに呟く。諦めたようにさながら兎穴のようなそこの縁に立ち、そして彼女は何の迷いも無く飛び下りた。
 白い姿はすぐに闇に紛れて見えなくなる。十秒と少しを、その場にしゃがんで穴をのぞく形で待ってから、フェルは立ち上がった。ふと背後を見れば複数の『異種』の姿。ふむと唸ったあと、フェルは空中に指を走らせた。
「お相手は、また後で」
 描かれた簡易構築陣が一瞬輝く。小さな結界が穴の入り口を覆い尽くして、結花が殺到するよりも早く、フェルもまたそこに身を投じた。
 瞬間、視界が急激に狭まり急速に流れて行く。その閉塞感が唐突に途切れた瞬間、黒い身体の周囲に幾つもの陣が浮かんだ。瞬間ふわりと風が吹いて、軽い身体を受け止めて落下速度を緩める。その中で黒い服が翻るのを押さえて、そして見えた人に手を伸ばした。
 泳いだ腕を掴んだ手を掴み返して、それでようやく暗闇の中で平衡感覚を取り戻してゆっくりと着地する。纏った風が四方八方に流れて行って、そうしてふうと息をついた。
「……やっぱり体感って違いますね」
「今更」
 ご、と拳が側頭部を襲う。的を外したのか少し痛かった。そこをさすりながら瞬きを繰り返して、そうしながらフェルは言った。
「でも、フィレンス氣の操作上手ですし、大丈夫だったでしょう?」
「……まあ、確かにそうだけど」
 言ううちに暗順応した視界に、ぼんやりと色々なものが映りこんだ。すぐ近くに立ったフィレンスが辺りを見渡しているのを見て、それに倣うと、左右には建物、恐らく住居だったのだろう瓦礫。ちょうど道に降りたようだ。
 見上げればところどころに、しかし数多く林立する太い柱。それで天井となる大地を支えているのだろうが、肝心のそれは闇に覆われてしまっている。真上にはあの穴が空いているが、それも随分小さく見える。
「で、魔法使いがいる、と」
「ええ。それも、かなり特殊な部類の魔法使いです」
 答えて、フェルは手に杖を喚んだ。もう一つ、補助宝珠を取り出す。
「『燐』、頼みます」
 二言、そう言うだけで二人の周りにふわりと燐光が浮かぶ。少し間を空けて数も少なく、一つ一つの光量も大したものではないのは、暗闇の中で行動する以上、眼が光に慣れ過ぎるのも考えものだからだ。
「……それで、何でわざわざこっちに来たの? 魔法使いが一人遭難してるから救助、って言うなら分かるけど」
「ちょっと推測混じりなんですけどね。『異種』の関連性について、最近新しい研究論文が発表されたんですけど、読んで……ないですよね」
 暗闇の中で白黒にも見えるフィレンスの渋い表情に、フェルは語尾を変える。少しずつ歩き出しながら言葉を続けた。足下は雪の感触。
「簡単に言えば、『異種』は自身よりより強い邪性に惹かれる、だから高位の『異種』が中位低位の『異種』を引き連れている場合が多い。引き付けている方と引き付けられている方の属性が違えば互いに利も害も無いから、共に行動している事が多い、という事だそうです」
 言ううちに、感触が石のそれに変わる。フィレンスの声。
「利も害もないなら、一緒に行動したりしないんじゃない?」
「利があるというのは、属性の相性が良かったり一致していたりと言う事です。それだと強い方が弱い方を食べて自分の力にしてしまいますね。害があると言う言うのは属性が反発していたり相性が悪かったりの事で、これだと居心地が悪いんでしょうね、強い方が弱い方をただ倒して終わるみたいです」
「……じゃあ、ここにいる『異種』に、結花が引き付けられてる、と」
「恐らくは、ですが。でも、いくら真冬のこの時期だからって、あの数は異常ですよ」
 飽和度を無視している、と報告書にはあった。それに無数にいるからと言うだけで、同種の仲間が簡単に倒されているのを知って手を出してくるだろうか。
 やけに好戦的なのだ。焚き付け役がいるのだろう。
「……あと、純粋にその魔法使いに興味があると言うか……」
「ああ、……分類って、どういう分類?」
「魔法使いにも色々種類があるんです。私は、正確には魔法使いの中でも『魔導師』、攻撃魔法と補助系統が一番得意な部類ですね。あとは、医術師とか、呪術師とか、魔術師とか、魔法力学者もそうかといえばそうですし」
「……今回は?」
「……分かんないんです。魔導師なら、すぐ分かるんですけど。とりあえず手がかりを探したい所なんですが……」
 会話しながら歩いているうちに、足下は石畳に変わっていた。壊れかけたそれはひどく歩きにくかったが、その中をゆっくりと、しかしまっすぐ進んで行く。フィレンスは辺りを見渡しながらそれについて歩いて、不意に眉根を寄せた。
「……なんだか息苦しいね」
「心理的なもの、……と断言したいんですが、どうやらそれだけのせいじゃないみたいですね……」
 フェルも辺りを見渡しながら言う。不意に足を止めて、しゃがみこんで地面を見下ろした。彼女はゆっくり言葉を続ける。
「精霊がいないんです、ここ。光はともかく、風や、土も……この時期なのに氷もいませんしね」
「……そんな場所あるの?」
「……私はここが初めてです。『異種』を嫌って出て行ったのか、あるいは別の要因か……精霊がいないと、それだけで空間が荒んでいきますから」
 そしてそれ以上に、魔法が扱いにくくなる__
 思いながら地面をなぞっていた指先が、何かに当たる。小石とも煉瓦の破片とも違うそれによし、と呟いて指先で拾い上げる。掌に乗せたそれを覗き込んだフィレンスが、眼を瞬いた。
「……ペンダントトップ? アミュレット?」
「正確には、象徴魔法具……攻撃魔法を具現化したものですね。どうやらさっきから何度も何度も見慣れない魔法を使っているのは、魔法工学師みたいです」
 __その頃、空を舞う一羽の鷹が大きく旋回し、一声高く鳴いた事に、二人は気付かなかった。




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