「私の責任ではない」
 執務室に入るなり言われてフェルは眉根を寄せた。扉を後ろ手に閉めながらじとりとねめつける。
「それ言うって事は多少なりとも何か覚えるところはあるんですね」
「さあな」
 確定。この長官が言うこの台詞は『言わせるな』と同じ意味だ。息をついて、不意に部屋の中を見やれば数多くの書類の山。前も見かけたような気はするが。
「……増えてませんか、長官」
「幻覚だ、忘れろ」
 今度は溜め息を吐き出した。クラリスがいないところを見れば、おそらくは今まさにこの山を消化してしまおうとしていたところなのだろう。開け放たれたまま冷たい空気が入り放題だった窓に陰が落ちて、少し遅れて鷹が止り木に降りるのを見ながら机へと近づいていけば、ヴァルディアは立ち上がってその鷹の脚に括り付けられた紙を取り外して文面を見やり、ついですぐ傍まで来たフェルを見やった。フェルは首を傾げる。
「それで、今日は……」
 一人しか呼ばれていないが、と言えば、彼は手にした小さな紙に目を通しながら、ああ、と呟く。数秒の間、それを上着の中に仕舞って、彼は椅子に掛けてあったコートを拾い上げた。
「任務ではない。所用がある、付き合え」
「え?」
「お前も知り合っていた方が良い相手だ、ついでにあの小さいのにも良い場所だからな」
「え、でも」
「正直な事を言えば私一人で会いたくない」
「……」
 道連れか。
 むしろこの長官が会いたくないと評するほどの人物となぜ自分が会っておいた方が良いのかが分からないが、何となくここで避けておきたい。思っているとヴァルディアは机の上に載っていた紙包みを持ち上げて、投げられたそれを反射的に受け取った。受け取って、あ、と思う。視線をあげればにやりと笑う顔。
 フェルは引きつった笑みで口を開いた。
「……これも仕事の内ですか長官」
「書類との一騎討ちに飽き飽きた長官に逃げ出されたくはあるまい?」
 溜め息をついた。観念しよう。



 黒服のままでは流石に出歩きにくい上住民たちを不安にさせかねないのではないかと思ったが、長官が問題無いと言うのでそのまま出る事になった。執務室から出る寸前クラリスが戻ってきたが、いってらっしゃい、と言っただけだったから、おそらくは長官が出かけてしまっても大丈夫なのだろう。回廊から階段を下り、主棟を出ると協会の外へと繋がる石畳の敷かれた道。その先には門番の控える鉄の門がある。
 そこに立っている一人が、長官を見るなり笑みを浮かべる。上着の下には皮鎧、手にしているのは槍。警護官だ。
「ああ、長官。今日はお忍びではないんですか?」
「忍んでいくのに堂々とここを通るか?」
「裏を掻きたいのかと」
 ヴァルディアは溜め息をついたらしかった。肩越しにこちらを見るのに少し首を傾ければ、門番がそれにも気づいてああ、と声を上げる。黒い服を見てか、顔を見てなのかは分からないが、納得したように頷く。
「なんだ、公式の用事ですね」
「……前から思っていた事だが、遠慮がないという程度ではないぞ、お前」
「それが蒼樹かと思いまして。気をつけて、最近暴漢が出るようですから」
 後半はこちらに向けられた言葉だ。フェルは目礼を返して、それを見てヴァルディアは歩き始める。追ってすぐ横に並び、問いかけた。
「結局、どこに行くかって聞いてない気がするんですけど……」
「蒼樹の街の作りは知ってるか」
 問いが返されて、フェルは首を振る。元々この街で生活していた事も無ければ、拝樹試験の間からずっと会場の中だったから、自由に外を歩くという事も中々無かった。何回か散歩と称して人気の無い場所を選んで歩いてみたことはあるが、どこに何がという意識で歩いてはいなかった。何しろ道が入り組んでいて気を抜くとすぐに迷うのだから、協会の方向を覚えているだけで精一杯だったのだ。
 ヴァルディアもそれを予想していたのか、東を向いた鉄門を出て右に曲がり、協会とその外を隔てる城壁に沿って南に進みながら口を開いた。
「この街は居住区と市場が二つ、商業区が一つ、学区が一つある。大まかには北に商業区、東に市場、南に居住区、西に学区。向かうのは南だな、と言っても学区に近い場所ではあるが」
「居住区」
「そうなる。知己がいる、協会の協力員だ」
「協力員……?」
「元所属者とも言うな。前線は退いたが、力が衰えた訳でもなし……非常時には配備される要員だ、他の協会にもそういった人間はいるだろう」
「じゃあ、何か問題が?」
「起こりそうだ、という予想だな……すぐに会議があるだろう、あれがある度に何かしら無理難題を押し付けられる。それと、言ったようにお前とコウにも良い影響になるはずだ」
 更に疑問符を浮かべる。コウは朝からずっと眠っていて、今も背中のフードの中で眠っているはずだ。重さはほとんど感じないが、瞳の色を変える魔法薬を瞳に落とすのを少し邪魔してくれたあとは、ずっと微動だにしない。眠っている間にこちらが動いていても、元から途中で起きるような事はなかったのだが。
 思いながら、両腕で持つ紙包みを抱え直す。油紙で包んだ上から麻の紐でくくってある、おそらくは布なのだろう。重さもそれほどではないから負担でもないのだが。
 街へと眼を向ければ、緩やかな下り坂に並んだ家々と大通り、そしてそこに降り積もった雪が視界を白く見せている様が見える。歩いているうちにそれは物陰に隠れてしまうが、簡単に捌けられた雪の量は街の外のそれには遠く及ばない程度しかない。
 街の中は雪に埋まってしまう事はない。それは、この街では鐘楼から展開された微弱な結界が降りしきる雪の一部を、地上に達するより早く氣に還してしまうからだ。そしてその魔法は人々の屋根にも地面の道にも施され、埋められている。
「昔はそんな物もなかったからな、地下に街を造った」
「地下、ですか?」
 フェルが結界に眼を取られたのに気づいてか、ヴァルディアが言ったそれにフェルが彼のすく脇を歩きながら聞き返せば、彼はわずかに振り返るようにして視線を向けてくる。
「お前は冬になってから来たから知らないだろうが、蒼樹は家畜を育ててやりくりする家がほとんどだ。そういう家畜は、冬は地下に入れてしまう。雪にやられてしまうからな」
「夏の間は放牧して、干し草を?」
「ああ。しかしやはり無理が出るから、冬の間に頭数は減る。夏に満足に増やせなかったりなどで問題も起こるから、その点は援助はしているが」
「……貧困街が?」
「ない。かろうじてな。多いのは誘拐だ、色の高く売れる人間が消える。気をつけるように」
「一応、対処はできますけど」
「どうだかな」
 雪を踏みながらのそれには少し眉根を寄せる。確かに完全に何もない、という状況を造る事は不可能だろう、今は瞳の色を変えているとはいえ、銀を好む好事家もいる。赤も数としては多いものの位の高い色である事は変わりないから、ちょっかいを出される可能性は十分にあるのだ。
「警備隊とかも頼っていいんでしょう?」
「ああ。青い布を付けて武装をしていたら公式に編隊を許しているところだ、そうそう妙な奴らに加担する事もないだろうからな」
「……やっぱりあるんですか、そういうの」
「無いとでも?」
 言って彼はすぐに視線を戻す。それを聞いて右手に協会の城壁を見ながら息をついた。見上げれば不意に青い空が見える、今日は快晴。
 向かいから馬車が二台走ってくる。石畳の中で溶けかけた雪を車輪が踏みつけ、飛ばすのをよけようとした所で、御者がこちらに気がついて手綱を引いた。長官が気づいてそちらに視線を向けるより早く御者台の上から声がかかる。
「珍しいですね長官、逃げなくて良いんですか」
 雪焼けを避ける為でもあるのだろう、鼻の上までを覆った風よけを引き下ろした御者が言い、後ろに続いていたもう一台もゆっくりと足を止める。顔をのぞかせた一人が、慌てて台から降りて荷台へと駆けていく。
「出会い頭にそれを言われて既に二回目なのだが、そんなに公務を滞らせたいのなら今度の時に協力してくれ」
「はは、冗談ですよ。いつもありがとうございます、これからもよろしくお願いしますよ」
 長官が呆れたように息をつくのに少し笑った御者がこちらを見、視線が合って思わずその場で僅かに身構えた。御者は苦笑する。
「失礼、警戒されたかな」
「ああ……新人だ、面識はないか。フェル、協会に出入りしてる商人だ」
「ここから北に向かいますと、色々なものが手に入るのでそれをいろんな所に運んでいます。今日は布と薬と、街には砂糖やら茶葉やら……」
「……そういえば、外はどうだ」
「妙、ですね」
 列挙する間に問いかけたヴァルディアに、彼は即答を返す。フェルが視線を向ければ、彼は上着の中から羊皮紙を取り出してそれを長官へと差し出した。
「商人仲間からもらったものに色々書き加えてあります、今近寄ると危険な場所です。おかげで遠回りしましたが……これは、冬にしても多すぎますね」
 御者のそれを聞きながらヴァルディアはその羊皮紙を広げる。書かれているのはこの国の全域を記した簡素な地図、至る所が赤く囲まれ、斜線が引いてあるものだ。横からそれを覗き込んだフェルも僅かに瞠目する。
 国の至る所に付けられた印で、地図は赤く染まっていた。僅かに思案する沈黙、ヴァルディアが視線を上げる。
「……貰っても?」
「ええ。色んな所で色んな連中に渡そうと思って、書き写しだけはたくさんありますから」
「助かる。今行くなら書記官が対応するだろう、何かあれば夜まで待ってくれ」
「分かりました。では」
 御者の彼は風よけを元のように引き上げて、手綱を打って荷台を牽いていく。後ろのもう一台の御者台に乗った女性が軽く頭を下げるのを見送ってから、再び南へと歩き始める。少しの間。
「分かっただろう」
「え?」
「黒服でも大丈夫だと言った理由」
 眼を瞬く。すぐあとにああ、と思った。長官が長官だと知れているのなら、先ほどのように声をかけられた時にわざわざ部下だと説明する手間が省ける黒服のままのほうが楽なのだろう。
「長官、顔知られてるんです?」
「長官になる前から街を徘徊してたからな……蒼樹にいる年月は長い」
 そんなものなのだろうか、と思いながらそれ以上は問いかける事はせず、狭い路地の方へと道を逸れたヴァルディアの後について行く。建物はそれ同士の間隔が狭く、背が高い。雪も満足にはけられてはいないから、黒い服の裾はすぐに雪にまみれて白く重くなってしまう。頼めば氷や水の精霊達がある程度は落としてくれるのだが、濡れてしまうのは嬉しくない。思いながら、足を取られないようにと注意しながら歩を進めた。背中で何か動くような感触がして、きゅ、と小さい声が聞こえる。
「コウ?」
 呼びかけるが、僅かに動く感触があるだけ。少し先を行くヴァルディアが、足を止めて振り返った。
「……どうした?」
「……なんだかちょっと、朝から様子が……」
 言うと彼はこちらの方へと来て、フェルが羽織ったコートのフードの中に手を入れる。少し抵抗するような声が聞こえたが、すぐにその彼の腕を伝って出て来てフェルの肩に落ち着く。べったりと乗ってそのまま眼を閉じてしまうのを見たフェルがヴァルディアを見れば、彼はそのコウの頭を少し撫でてから、こっちだ、と路地の先を示した。
 肩の上のコウが小さく鳴くのを聞いて、フェルはその首を指で軽く撫でてからヴァルディアの後を追った。左の横道へと逸れたのを追いかけてそこに入れば、今まで狭かった路地の景色が急に広くなった。きれいに石畳の上から雪が除けられた一郭のその奥、簡素な木の塀と扉が見えた。そしてそのすぐ傍に一人の少年。
「ルサッカ、久しぶりだな」
「ほんとにな、長官」
 白い髪に青い瞳の、首に毛皮を巻いた少年が声をかけた長官にに、と笑って返す。ヴァルディアがこちらへ、と示すのに数歩前へと出れば、その少年はこちらを見て首を傾げた。
「珍しいな、長官が他人連れてくるの」
「色々あってな。クウェリスには伝えてあるが」
 ヴァルディアは短く答えるだけ。少年はそれにふうん、と呟いてこちらを再び見やった。
「それでちょっと気にしてたんだ、クーウェ。……あんた黒服か、名前は?」
「……フェル、と」
「愛称? ふうん……ま、いっか。長官が連れてくるくらいだし一つ二つの隠し事はあるだろうし」
「心外だな、それは。それで、案内してもらえるか」
 長官が言えば、彼はすぐに背を向けて扉へと向き直る。鍵を開けているのだろうその間にヴァルディアを見上げれば、彼は肩をすくめた。
「門番だ、事情があってな」
「そ、先に言っといてくれないと、っていう。あ、こっちの名前、ルサッカ。呼び捨てで良いよ」
 背を向けたままの少年は鍵の開いた扉を押し、一足先に中に入ってしまう。ヴァルディアに軽く背を押されて、少し戸惑いながらもそこをくぐると、途端に暖かい空気が渦巻いた。




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