ふ、と髪を攫った風が暖かい事に瞠目する。すぐ後ろで扉を閉めたヴァルディアが息をついた。
「また春か」
「冬嫌いだからさ、クーウェ」
 声のした方を見れば、低い位置にある屋根から吊るされた鉢からはこの季節に似合わない花がこぼれているのが眼に入った。足下にもたくさんの鉢が置かれている。
「やっぱ驚くよな、最初は」
「え、っと」
「隠すような事じゃないから良いって。ここ、家主の趣味でいっつも春か秋なんだよ」
 そんな事が、と思っているうちに少年が更に手招きするのを追いかける。不意に空を見上げれば僅かに白味がかかった青が見えた。一種の結界だろうか、至る場所に花の飾られた庭に入り、この国には珍しい、大きく張り出した屋根を柱で支える回廊を進む。雪も降らないのだろう、土は湿り気もなく乾いたままだ。
 ただ少し、違和感がある。人の気配以外にもあるはずのものが一切ない、空虚な安定した空気。
「クーウェ、客だよ」
 少し先を歩いていたルサッカが一つの扉の前でそう声をかけて、何かを待つような間を置いて扉を開く。眼で示されてその中に入ると、何かの作業台が壁に沿って設けられていて、本棚の奥に一人が座っているのが垣間見えた。
「ディア? 早かったのね」
 女性の声。立ち上がろうとしたのを見て、ヴァルディアが先に進みながら口を開いた。
「立たなくて良い、そちらに行く」
「あら、甘やかしてくれなくても良いのに」
「怪我をされるのは気が咎めるからな」
 言いながらの彼に手招かれて、本棚の向こうへと向かう彼の後に続く。そこを見たと同時にフェルは眼を見開いた。
 灰色の髪、左の頬から鼻梁を越えて広がるごくごく薄い刻印。エルシャリス__稀少種族の筆頭、時の種族。
「作業中だったか」
「平気よ、一段落ついた所だったから。……もう一人は、初めましての人かしら?」
 急に声をかけられて、とっさになんと言って良いか分からずにいると、その人が小さく笑った。軽く顔を指差すのを見て、それでようやく両目を閉じたままだと気付く。
「ごめんなさいね、眼が悪くて、見えていないの。一人? もしかして二人かしら」
「一人と一匹、だな、正確には」
「あら。……少しこちらに来てくれるかしら、名前を教えてくれる?」
 片手を差し出される。少し迷って、左手でそれに触れると、やんわりと引き寄せられた。彼女はやんわりと笑んで、フェルの手を包むように左手を重ねる。ヴァルディアがわずかに眉根を寄せた。
「……クウェリス」
「平気よ。……緊張しているかしら、大丈夫よ。名前は、教えてもらえるかしら?」
「フェル、です」
「よろしくね、フェル」
 顔を上げたその人と目が合う、そう思った瞬間にフェルは思わず半歩引いた。同時に視界の色合いが失せる感覚、目を見開く、浮遊感。
「……大丈夫? 椅子持ってこようか?」
 その声が聞こえて我に返る。背に腕の感触、数度目を瞬いて、それでようやく自分が床に座り込んでいるのだと気付いた。すぐ後ろでヴァルディアの声。
「……ルサッカ、頼む」
「分かった、じゃあ、」
「いえ」
 動き出そうとした少年を彼女がとどめる。ほんの少しの間を置いて、頭上から声が響いた。
「いえ……いいわ、ルサッカ、外してちょうだい。……ごめんなさいねフェル、先に言うべきだったわ」
「……すぐの部屋にいるから、何かあったら呼んでくれな」
 立ち上がってから見れば、既に扉を閉めた少年が去って行く足音。視線を戻せば、額に手を当てたその人は既にこちらの手を離していた。少しの沈黙。
「……恨むわよ、ヴァルディア」
「宣言もなしに勝手に見るからそうなる、先に警告はした。……フェル、大丈夫か」
 問いかけられて、それには頷き返す。姿勢を正したその人は既にもとのように柔らかい表情を浮かべていて、そうして閉じられたままの瞳でフェルを見上げた。
「ごめんなさいね、驚いたでしょう。……改めて、初めまして、フェルリナード」
「__え、」
「名前を知った上で触れると分かるの。エルシャリスだから。……エルシャリスは、分かるかしら」
「え、と、はい」
 頷こうとして、すんでで思い直してそう答える。彼女は笑みを浮かべた。
「私たちが得意とするのは、時間を引き金にして様々な事を知る事なの。今では仲間も随分減ってしまって、それも知られなくなってしまったけれども。今は、少しだけ貴女の記憶に貴女の事を聞いたのよ。平気で嘘をつく人もいるから、……長官が連れてくるくらいだから、大丈夫だとは思ったのだけれど」
 自衛の為に。稀少種族はそれだけだという理由で高い値がつく、だから知った相手しか招き入れず、本心を探る。
「一方的に、っていうのは好きじゃないから、私も私の事は教えるわね。クウェリス=カルツ・エルシャリス。本当はもっと長い名前なんだけれども、クウェリスで構わないわ」
「……フェルリナード=アイクスです」
「ありがとうね、フェル。……そこの長官とは、学院の時の同期なの。といっても私の方が遥かに年上なんだけれど」
「学院、ですか?」
 行ってたのか、とフェルがヴァルディアを見れば、ただこちらを見るだけ。察したのかクウェリスがくすと笑った。
「ディアの昔の事も知ってるのよ」
「えっ」
「食い付くな。クウェリス」
「あら、何も言わないから悪いのよ」
 僅かに困ったような声音の呼びかけにはころころと笑う。彼が溜め息をついた所で、さて、と言った彼女が立ち上がった。傍らに立てかけてあったまっすぐの杖を手に取って、フェルの頬にそっと手を当てた。
「外に出ましょうか。肩のその子も、その方が良いでしょうし」
 肩の、と言われてコウを見れば、変わらず眼をつぶったまま。ヴァルディアが先に動いて入って来た時とは違う扉を開けて、クウェリスが杖を手がかりにしながらもまっすぐにそこへと向かうのを追う。やはり変わらず暖かい風が僅かに流れている。
「ここもね、私の好きで時間を変えさせてもらっているの」
 その声に、包みを抱え直しながら視線を向ければ、眼が見えていないとは思えないほど正確に鉢を避けながら庭を進みながらクウェリスが言う。足下には花壇と鉢が並んでいて、そのほとんどからは満開の花が溢れている。
「冬はただ寒くて冷たいだけだから、沢山の春とちょっとの夏とゆっくりの秋。雪が綺麗だとはよく聞くのだけれど、もうその景色も忘れてしまったから……昔は、この眼もしっかり見えていたのだけれどね」
 杖が地面の石畳を叩く軽い音が聞こえる。
「……季節を変える、なんて、できるんですか?」
「季節そのものを操っている訳ではないのよ。地面、草木、風の中にある春の経験を引き出しているだけ……だから花の精霊もいないでしょう? 冬の精霊達は寄り付きもしないから、この頃はずっと静かなの」
 嫌われるような事ばかりしているから、と、気にもしていないような口調で言う彼女の背中を見ながら、フェルは僅かに首を傾げた。そういうものなのかと思いながら、どこか何かが引っかかる。
「……他の人はいないんですか」
「ええ。ルサッカはここに勉強に来ているのだけれど、色々な事を手伝ってくれてるの。勉強って言っても魔法じゃなくて、時計技師としての、だけれど」
「技師?」
「ええ。私も一時期は蒼樹で黒服としてやっていたのだけれど、ちょっと問題があって辞めてしまったの。そのあとは、時々お手伝いに行くくらい……最近はもう、三年くらいは気ままに暮らしているのだけれど」
 庭を越えて回廊を横切る。そこに見えたのは円形の硝子の温室で、陽に照らされた反射でか中の様子は見えなかった。クウェリスはこっちよ、とまっすぐそちらの方へ歩いて行く。扉を開けて中に一歩入ってから、彼女はフェルに向かって手を伸ばした。
「いらっしゃい。ちょっとびっくりするかもしれないけれど」
 首を傾げる。何かあるのだろうかと少し不安に思いながらも差し出されたその手を握って、荷物をきちんと抱きかかえてから温室の中に入った。踏み込んだ足下には青草、不意に強い風が吹いたのに眼を細めたまま数歩進んで、そして顔を上げると同時、目の前に広がった景色に眼を見開いた。
 見渡すばかりの草原。風が吹くたびに緑の波が立つ。
「これ、って」
「私の記憶の再現なの」
 強い風に浚われないように少し声を張って問いかければ、クウェリスが笑みのまま返す。振り返れば温室の壁は無く、長官が閉じた扉はすぐさま見えなくなる。風が緩やかになって、舞い上がった髪を撫で付けていると不意にクウェリスがそのフェルの肩に手を伸ばした。
「コウ、少しこちらに来てくれる?」
 呼びかけるのを聞いて、ああ、と思う。声をかけられた方は僅かに眼を開けて、そしてフェルの方を見やる。
「……大丈夫です?」
 そう声をかけると、すぐに小さく鳴いてクウェリスの差し出した手からその肩へと歩いて行く。落ち着かない様子で一応はとどまったコウに苦笑して、クウェリスはフェルの手を引いて歩き始めた。
「温室の中の空間を広げて、記憶を投影してるのよ。すごいでしょう」
「どこなんです?」
「私の故郷から少し離れた所なの。もう残ってないわ、戦争で全て焼けてしまって、血が染み込んで草が育たなくなって……だからここに作ったの。自己満足だし、もう見えないのだけれどね」
 もう何年前か、と彼女は呟く。起伏のある場所だというのに杖だけを頼りに進んで行くクウェリスに少し驚きながら、手を引かれるままについて行くと、起伏の中に隠れるようにして小さな川が見えた。遠くには森も見える。広い、今まで見た事も無い空間。
「……この辺りで良いかしら」
 言ったクウェリスが杖で足下を確認して、生い茂った草の上に腰を下ろす。手招かれるままそのすぐ傍に座ると、ヴァルディアも同じようにして腰を下ろす。
「さて、貴女の前に、まずこの子ね」
 言ったクウェリスがコウを抱えて、そのまま草の上に降ろす。青い眼がフェルを見上げてくるのを遮るようにクウェリスがその頭を撫でる。
「ここはとても広い場所だし、私たち以外に人もいないから、好きなようにしなさい。そのままだと辛いでしょう?」
 言うそれに驚いて彼女を見れば、柔らかい笑みのまま。手を外した後、コウはフェルを一度見上げてから小さな体躯を翻して草の中を駆け、止める間も置かずにその全身が青い炎に包まれた。いつもならすぐに消えるはずのそれが瞬く間に燃え上がるのにフェルが腰を浮かせるのをヴァルディアがとどめて、それに振り返れば彼は無言で炎を見やったまま。
 それに疑問を向けるより早く視界に影がかかってそれを見上げれば、燻したような深い色の巨躯の合間に見える大きな蒼と目が合った。地下の廃墟で見た、あの姿。
「……コウ?」
 呼びかけると嬉しそうに眼を閉じた頭が降りてくる。炎の残滓を纏ったまま喉を振るわせて鳴くのを手を伸ばして撫でればすり寄って来て、思わずバランスを崩して後ろに倒れそうになった所で小さく笑う声。眼を向ければクウェリスが口元を押さえていた。
「え、と」
「いいえ、仲が良いな、と思ったのよ。普通はここまで成長した竜とそう簡単に仲良くなれるものじゃないから。確かにコウは、ちょっと特殊だけれど」
 特殊、というのはいた場所が、だろうか。思っているとクウェリスがさて、と手を叩いた。
「そろそろ、本題に入っても良いかしら?」
 聞く相手は少し距離をとってこちらを眺めていたらしき長官だ。ヴァルディアはそれには了承を軽く答えて、そして立ち上がった。
「少し外す。説明しておいてくれ」
「あら、投げるの? やな人」
「勝手に言ってろ。……コウ、来い。少しでも発散しておいた方が良いだろう」
 言いながら彼はフェルのすぐそばで翼を伸ばしていた竜の首筋を軽く叩き、そのまま草原の広大な風景の中へと歩を進める。コウは一度甘えるようにフェルの腕に額をすりつけてからその彼を追い、その二つの姿は不自然に近くで掻き消えた。
「あれ……」
「……ああ、ちょっと変わった作りにしているから、視界が少し狭いと思うわ。離れるとすぐに見えなくなってしまうのだけれど、実際にはそれほど離れてはいないの。私は全員がどこにいるのかがわかるから、迷っても平気よ」
 実際に多いから、と彼女は小さく笑う。だがそれもすぐに収めて、改めて、と視線をこちらに向ける。フェルもそれを見返して、そしてふと思った。
 __不思議な人だ。眼は見えていないというのに、まっすぐにこちらを捉える。
「ディアが、急に貴女をここに連れてきた理由ね。もちろんディアと貴女の都合もあるみたいだけれど、もう一つ、あるのがわかるかしら」
 唐突な問いに首を傾げる。沈黙をそうと察したのか、クウェリスはフェルを手招いてさらに距離を詰めさせると、左手を差し出した。
「エルシャリスの能力は、この国にも伝わっているけれど。少し面倒な制約があるの、対象に触れていないとできないのよ。しかも了承を得ないと深くまでは潜れない」
 言われて、フェルは彼女を見上げた。差し出された手はその意味だろう、だが。
「……長官から、聞いたんですか」
「ええ。……正確には、彼の記憶に潜ったときに貴女の記憶の事を知ったわ。九年前かしら、学院の卒業試験の寸前にね。ちょっと狡い事をして、見せてもらったのよ」
「どうして、そんな」
「必要だったから。私には。……その話は追々、ディアがしてくれるのを待ってちょうだいね。私は情報屋はやらないことにしているから」
 言って、彼女は笑みのまま口を噤む。フェルは差し出されたままの手を見て、自分の右手を見下ろした。緩く、握り締める。
「……どうして今なのか、聞いても良いですか」
「エルシャリスがこの国にいるという事を知っている人物がこの街に住む数人だけだという事が一つ。貴女が王宮から出て行動できるようになったのを待っていたのが一つ。もう一つは、想定外だったのだけれど、貴女が面倒な連中に狙われているから」
「ユーディス=ディシェン……」
「正解。私は彼らも知っているの、その事をディアが知っていたから私に相談してくれたのよ」
 クウェリスは一度手を引いて、その中指の爪先に軽く口付けるようにして何かを呟く。瞬間灯ったほの赤い燐光が目の前にぼんやりと漂ってきたのを見て少しだけ躊躇った後、掌に捕らえた。その瞬間に脳裏に瞬いたのは四つの人影。うち二つは見た事のある、特徴的な銀と、赤。
「ユーディス=ディシェン。リィシャ=エラベラ。ジルヴィルア・コートレクア=トラス。ギケル・キツ・ファル=ツィス・ラント。もう一人いるのだけれど、もう眼が見えないときだったから」
 名前も分からず。そう続ける彼女のそれを聞きながら、脳裏に現れたそれを眼を瞑って追う。残りの二人がぼんやりとしているのは、自分が彼らを見た事がないからだろうか。細く息をついて、改めて彼女に視線を向ける。
「五人、ですか」
「ええ。でも詳しい事は分からないわ、何をしようとしているのかも、そのために何をしているのかも。ずっと情報もなくてね、ほとんど忘れかけていたのだけれど……ここで動くとは思わなかったのよ。狙っているのが、貴女自身ですらないなんて誰も想定していなかった」
 目的が『紫銀』なら分かる、それは今までに幾度となく起こった事件のいくつかがそれだったという事もあるし、紫銀を狙う輩はいつでもどこでも現れるものだ。だが、あの銀色の魔導師が求めていたのが明らかに違った。もし紫銀を狙っているのであれば、一度魔法に捕まった瞬間に完全に意識を落としてしまえば良かったはずだ。
 反芻する。唯一明確な台詞。
「……記憶が必要だった、と……」
「ええ、聞いたわ。だからディアもここにつれてきたのだろうけれど……でも、先にも行った通り、了承がなければ私は記憶には潜れない。潜れたとしても、現れた暗号としての記憶を読み解くのに最低でも一週間、長ければ三ヶ月はかかる。それをやるもやらないも、記憶の持ち主の選択だから」
 言った、その最後に再び左手が差し出される。フェルはその白い細い手と、変わらず笑みを浮かべたままの彼女とを見て、自分の右手を伸ばした。
 しっかりと、けして強くはなくその手を握る。わずかに笑みを深くしたクウェリスが空いたもう片方の手を軽く掲げて、そこに突如として現れたのは濃い赤茶の皮の表紙の一冊の本。金の留め金のある、明らかに普通の『本』ではないもの。
 あれ、と思った。その何も書かれていない表紙と背を見やる。空中で開かれた中の紙はすべてが白紙。
「貴女から諾が聞ければ、すぐに始めるわ。私が貴女の記憶に潜って、できる限りを拾ってくる。拾ったものは全てこの本に書き込まれるけれど、その解読には時間がかかるわ」
「分かりました。……お願いします」
「……ええ。やっている間は意識を保っている事はできないから、ここにおいでなさいな」
 ここ、と彼女が自分の膝を叩くのを見て、フェルは思わず飛び上がった。腕と手の感触からそれを察したのだろう、彼女はあら、と笑う。
「気にしなくて良いのよ」
「あ、の、でも」
「良いから。大人には甘えなさい、こう見えて数百年は生きてるんだから」
 そう言った彼女に引っ張られて、フェルはほとんど体勢を崩すようにして言われた通りに膝の上に頭を置く形になる。さすがに居心地が悪いというよりどうしたら良いか分からずに彼女を見上げれば、額を掌で押さえられた。
「任務続きで疲れているでしょう、今のうちに眠ってしまいなさい。思ったよりも残っているものだから。……おやすみなさい、フェル」
 額を押さえた掌がそのまま両の瞳を覆う。それに従って、そのまま素直に眼を閉じた




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