切り離した意識の一端が、眠る彼女の中へと潜っていく。
 その慣れた感覚を追いかけながら、クウェリスは銀色をしているのだろうそれをゆっくりと撫でた。見つかった全ての断片を包み込んで取り出し、暗号という文字列として構築陣から吐き出されたそれを白紙の本の頁に一つずつ刻み込んでいく。
 表層から次第に深層へ、ゆっくりと深くへ潜り込みながら、ただそれだけを静かに繰り返していると、不意に草と土を踏む音が耳に入った。そちらに顔を向ければ視界に入り込んでくる光がわずかに遮られて、それにはふ、と笑みをこぼして口を開いた。
「お帰りなさい。コウは満足したかしら?」
「の、ようだな。ずいぶんと川を荒らしていたが、大丈夫か」
「大丈夫。ここはもうここだけで魔力が循環してくれているから、もう私自身と同期する必要もないのよ、だから問題ないわ。相変わらず心配性ね」
 ヴァルディアはそれにはちらと視線を向けるだけで、何を言うでもなく草の上に腰を下ろした。相変わらず古い言葉を使う、そう思っていればコウはクウェリスの膝の上の彼女を覗き込むようにして、その動きを察したのかクウェリスがそれに向かって言う。
「今は深くまで休んでいるから、無理よ、コウ。人間は消耗するしかない生き物だから少し待っていてちょうだい」
 それを聞いてかコウは僅かながら不満そうな声を上げたが、すぐに座っている二人の背へと回って、三人を囲うようにして草原の上に寝そべる。今は竜らしい巨躯がすぐ後ろに来たのを見、ヴァルディアはそれに寄りかかるようにして背を預け、空を見上げた。抵抗されないのを良い事に、そのまま息をついて眼を閉じる。
 しばらくの沈黙。構築陣の中に座ったまま、眼を閉じたままのクウェリスがほんの少し振り返るかのように首をまわした。
「協会に戻っていても良いのよ、どうせこの後私も行く事になるんでしょうし」
「それを言ってからと思っていた」
「分かるわよ、それくらい。ルサッカにも、もうそうやって伝えてあるから、ここもしばらく無人になるかしら」
「……そう長くもかからないだろう、待つ。戻っても結局は仕事だしな、ようやく一日休みを作る暇ができたんだ」
 少しは、とヴァルディアは零す。クウェリスは視線を手元に引き戻しながら苦笑した。
「普段から逃げ回ってばかりだって聞くけれど、そのせいじゃないかしら、長官」
「厭味か」
「さあ?」
 風の音が近づいてくる。草を薙ぐそれが吹き抜ける数秒の間口をつぐんで、そうして彼は息をついた。
「……好きでやってる訳じゃない」
「ええ、知ってるわ」
 言うと彼は何事かを零したようで、クウェリスはまた少し笑う。小さく鳴いたコウの首元をヴァルディアが撫でてやれば、気持ち良さそうに眼を閉じて猫のように喉を鳴らす。
「……それで、どれくらいかかりそうだ、そっちは」
「さほどはかからないわ、今外が午ごろだから、夕方までには」
 本当は、十五年さかのぼるのに丸一日はかかるものだけれど、とは小さく付け加えるだけにとどまる。ヴァルディアもそれには何も言わずに、柔らかい羽毛のような鋼色のそれに半身を預けて口を開いた。
「寝る、終わる前には起こせ。疲れた」
「子守唄はいる?」
「知らないだろう、お前は」
「……確かにね。おやすみなさい、ディア」
 言ったそれには反応はなく、しばらくすれば完全に風の音と小さい息の音がかすかに聞こえるだけになる。それを耳に拾って、そしてクウェリスは空を仰いで大きく息を吐き出した。



 扉を軽く叩いて、返された声にそれを開いて中を覗き込むと、そこには一人が座っていて本を閉じたところだった。あれ、と首を傾げる。
「フェルは?」
「なんか良く分からないけど、呼び出されて長官の所行ったよ。外出たらしいけど、私も行き先は知らない」
「あー、そうか……どうするかな、聞きたい事あったんだけど」
「急用? 急ぎじゃないんなら、帰ってきた時に伝えておくけど」
「……んー、いや、いい。自分で伝える。ありがとな」
「……そう」
 フィレンスが短くそう返すのを聞いて、軽く手を挙げる仕草だけを残して扉を閉じる。そのまま回廊を自室の方へと進みながらクロウィルは息をついた。冷たく凝った空気に上着の襟を押さえながら、そうしながらもう片方の手に持った本を見やる。
 赤茶の皮の装丁に金の装飾の施された、鍵のかかったそれを軽く指先で叩く。開くための鍵はない。壊してしまえばいいことだが、なぜかその気にはならなかった。
「……無機物には効かないんだよなぁ……」
「何が?」
 唐突に声をかけられて、足を止めて振り返ればセオラスが立っていた。息をつく。
「……魔法使いは人の背後を取るのがそんなに好きなのか」
「いや、偶然。声をかけようと思ったら独り言が聞こえたんだからしょうがないだろ、で、何が?」
「穿鑿すんな」
 言いながらもクロウィルは手に持っていたそれを彼に投げ渡す。危なげなくそれを受け取ったセオラスは赤茶のそれを見て、鍵の部分を見やって首をかしげた。
「……なんだこれ」
「もらった。鍵がなくて中身が分からなくて、開けられるか?」
 セオラスはそれには一度クロウィルを見やって、そしてすぐに鍵穴に手をかざす。ほんの小さな構築陣がそこに浮かび上がるのを見やる数秒ののち、セオラスは眉根を寄せた。掌を放して陣を消し去る、そのままその本をクロウィルに突き返した。
「解錠と破壊の魔法に対する死言反呪が仕込んである、無理に魔法で開けようとすると死ぬぞこれ」
「……マジか」
「マジ。……こんな物騒なもん誰にもらった? 中々危険人物だぞ多分、知らねえけど」
「……いや、よく知ってる人じゃないんだけど、よく知られているというか」
「……はい?」
「初対面では、ない。顔見知り程度、なんでこれをくれたのかもわからないけど」
「……なんでもらったよそんなの」
「いや、拒否権がなかったというか」
 言いながらもう一度その本を見下ろす。表紙や背表紙には金の飾り模様が箔押しされているが、それも所々剥がれ落ちているところを見れば最近のものでもないだろう。こうして本の体裁を整えているということすら、世間一般ではそうないことなのに、それに金の装飾が入っているということは相当値の張るものだろうが。
「タイトルは?」
 同じように装丁を見下ろしていたセオラスに問いかけられて、本を表紙にかえす。そこに書いてある文字を、そのまま声に出した。
「Akasha……アクアシェクロニク……?」



 目を開けるより早く、誰かの話し声が聞こえた。声はすぐ上からと、少し離れた場所からの二つ。
「__が滅入るわね、この調子じゃ」
「言うな、私も善処はする。集まるまでには時間がかかるだろうが、お前には当日だけ出てくれれば医療班も心強いだろうからな」
「でも確定じゃないのでしょう、今の口振りじゃ」
「協会総出で行うのは確定だ、既に他の三つとの同時態勢に入っている、会議を挟んでからにはなるが……既に西の中でも数カ所に大規模な地点がしぼられているから、それで、」
 言いかけた声が途切れる。少し身じろぎしてうっすらと瞼を押し上げると、目の前には黒が見えた。ぼんやり瞬きしていると、こめかみのあたりに何かが当てられる。
「起きたか」
「あら、起こしてしまったかしら?」
 手が温かい。一つ目の声がすぐ近く、二つ目の声が近づいてくるのが何となく分かって、そしてフェルは草に手をついて飛び起きた。顔を上げた至近に黄金。
 硬直する。口を開こうとして言葉が出てこないまま、声を押し出す。
「……え、と…………お、はようございます……」
「人の顔を見て何を言うよりもまず青ざめるのは流石に失礼だとは思わないか」
「いえ、その……」
 上司の膝の上で寝こけるなんてそうそうない上にその相手がヴァルディアともなれば青ざめもする。というかいつの間に、とクウェリスを見やれば、口元を覆って笑っている彼女の膝の上には一冊の本が横になっていた。
「ふふ、私も久しぶりにやったら、少し疲れてしまって。だからって起こすのも悪いと思ってたら。ね」
「無理に起こして八つ当たりされても困るからな」
 え、と声を漏らせば視線を向けられて思わず逸らす。どこで知ったんだという疑念の前に、気まずい。どうしよう、と思っていると、クウェリスがさて、と声を上げた。
「それじゃ、丁度だし、もう一つの方も話してしまいましょうか」
 笑みのままの彼女はそう言って、フェルはそちらを見やった。そういえば、最初に、と言っていたのを思い出して横倒しの本を見やれば、赤茶の背表紙には掠れた金文字が僅かに見える。クウェリスがコウを呼ぶ声にフェルが背後を振り向けば、草原に寝そべっていた巨躯が青い瞳を見せて上体を起こした。小さく声を上げるのを聞いてか、彼女は苦笑する。
「コウも、もしこちらで暮らすのなら、こちらの事を知らないとね」
「……?」
「例えば、フェル、あなたが協会の外、人間のいる場所にこの子を連れて行ったとしたら、その時コウはただの『異種』なのよ」
 言われてフェルが竜を見やれば、青い瞳はただ瞬くだけ。クウェリスは続ける。
「協会も、査問の時に竜がいるなんて判明したら問題になる。使い魔なら良いけれど、竜と契約できる魔法使いなんてそうそういない……ならどうするか。コウが人間に近づけば良いのよ」
「……人間に、ですか?」
「主には姿、次には言葉。コウはこちらの言っている言葉とその意味はほとんど理解できているようだけれど、自分がそれを使う事がどういう事なのかがまだ分かっていない」
 それは、とコウを見やれば、竜は目を瞬いた。今のクウェリスの言う事が分からないのだろうか、とふと思った。
 フェルにしても、普段は仕草や行動などで何となくの意思は伝わってくるが、それが本当にそうなのかという疑念はある。逆にそういったふうに察して、それで成り立ってしまっているからだろうか。クウェリスが更に言う。
「でもそれだと対外的に説明も説得も難しいし、いざという時に面倒だしね。だから、コウが自分で言葉を使えるようになれば良い。姿は、探しにいかないと駄目だけれど」
「人の姿を、ですか」
「『異種』は、元々は人の作り出した魔法だ、その大半はな。その魔法が元になった『異種』である場合、魔法は潜在的に人の姿を持つ事が多い。が、それは第三者の魔法使いが、『異種』の構築陣の中に潜り込んで探してやらないと見つけられないらしい」
「らしい、って……」
「私もやった事が無いからな」
 やけにきっぱりと長官は言い切る。それにクウェリスも右に同じと続いて、それに眉根を寄せたフェルに向かって彼女は苦笑した。
「でも、やった事のある人は知っているから。その人も今度蒼樹に来るみたいだから、ね、ディア」
「ああ。クウェリスと同じ緊急配備の人員の中に、一人そういう事をした奴が居るから、そいつに頼めば良い」
「……竜を使い魔にした人、ですか」
「近いが、違う。詳しい事は本人に聞け」
「……とりあえず、そんなだから出来るってことは知ってるわ。多分、コウの為にもなるわ。さっきみたいに自分の中にある氣が暴走しかけて、ずっと眠っていないと押さえられないなんて事も避けられるようになるかもしれない」
「え、」
「竜にも、紫銀の氣は重かったみたいね」
 言われて思わず本人を見ればわざとらしい欠伸をする。少しむっと思って空中をそよいでいる長い耳を引っ張ると、抗議するように青い瞳がこちらに向いて低い鳴き声。
「妙に元気ないと思ったら……」
「多分、本人も想定外だったんじゃないかしら。……竜は周囲の氣を大量に必要とするけれど、魔法使いの氣は特に澄んでいる事が多いから、それなら少量で済む。ただその氣にも勢いの差はあるから……コウは最近小さい格好でいる事が多かったのかしら、だから余計、押さえるのが難しかったみたいね」
「……じゃあ」
 言いかけた途端、鋼色の頭が近づいてきて袖を咥える。ぐい、と思い切り引っ張られてバランスを崩しかけた所で、ヴァルディアが息をついた。
「コウ、別に引き剥がすとかそういう話をしている訳じゃないからやめてやれ」
「そうならない為の話だからね。……、離れる、というのは本人が了承しないでしょうから」
「え、と」
「でも、は無し。不調の原因は分かっていたでしょうに、自分から離れたりしなかったんだもの、コウの意思はそれで明確でしょう」
 甘えるように首をすりつけてくるのを撫でてやれば嬉しそうに喉を鳴らす。それを見やったヴァルディアが息をついて、それで上着の中から何かを取り出した。小さい紙。
「だからその知識を持っている人間にそれを伝えたら、こういう返事が返ってきたんだ」
 差し出されたそれを受け取る。読んでみろ、と言われてその文面に目を落とす。くだけた口語体の文章。
『じゃあ三日後目安に行くわ、準備もあるしですぐは無理。あと鋼のそいつは好きにさしとけ、時々発散させてやればしばらくは大丈夫だろうし。行ったら手伝うから場所と時間とクウェリスは貸せよ。あと酷使すんなよ全力は尽くすから。』
「……」
 なんと言うか、長官にここまでくだけている人を見るのはセオラス以来だ、と思った。ヴァルディアにそれを返せば彼は溜め息に近く、息を吐く。
「ちなみにこいつも学院時代の知り合いだ。今は北にいるが」
「エーフェ……エィフィエ・ラツィ=テルフェンシェって言ってね、学院に行って次席で卒業しといて協会にも護衛師団にも入らずにふらふらしてる魔法使い。私とディアとエーフィと、後もう一人が同じ班でね、今でも時々会ったり、喧嘩したり」
「……その事は今はいい。とにかくもう一回、となったときが面倒だ、コウが了承するのであればそのように計らう。人の姿を保つだけでも十分な負担になる、それで消費が嵩めば制御できなる事も無くなるだろう。フェルの氣にもその内慣れるのなら、次第にその必要も無くなるだろうが」
「それで足りないのなら、コウ自身が魔法を使うなりして消費しないと、という話になるけれど、まずはやれる事をやってみないとね」
 どうかしら、とクウェリスがコウを見上げるような仕草をすれば、視線を受けたコウは長い尾で草原を軽く叩いて、くぉん、と鳴いた。それを諾と受け取って、そうしてヴァルディアが立ち上がる。
「クウェリス、時間は?」
「そろそろ夜の、七時か八時か、そのくらいよ」
 フェルがそれに慌てて時計を取り出せば、その長針は七と八の間、七に近い場所を差してとどまっている。思っていたより長くここにいたのか、景色が変わらないからかひどく時間の感覚が曖昧になっている。
「それじゃあ、行きましょうか。フェル、大丈夫?」
「あ、はい」
「続きは明日からにしましょう、エーフェが来るのを待たないといけないし、私も協会の方に移るから。これも受け取ったしね」
 行った彼女が傍らの包みを持ち上げる。あ、と思って長官を見れば、彼は肩をすくめた。
「緊急人員に与える蒼樹の紋章だ、白黒は宝珠を証として所持するが、その代わりに所属協会の紋を刺繍したものを与える。腕章なり、ローブなり」
「しばらくの間は、黒服扱いね。私の他にも、エーフェと、後何人か来るんでしょう?」
「ああ。全部で十二人か、非常に少なくはあるが、かき集めてこれだ、限度だろう」
「学院のときの面々が集まると良いのだけれど」
「……一人は確実に無理だろう」
「あら、呼べば来てくれるんじゃないかしら?」
 クウェリスが笑って、そうして杖を手がかりにして立ち上がる。包みを開いて中のローブを取り出し、軽く羽織るのを見てフェルも立ち上がって、そしてコウを見やった。
「行きましょう、……小さくなっても平気です?」
 コウはそれに答えるように頷くような仕草をして、そしてその全身が青い炎に包まれる。急激に小さくなったその炎が肩に飛び移ったと思った時には、両手の大きさのそれが尾を揺らしていつも通りの定位置にいた。
「……想像以上に、べったりだな」
「え?」
「本当に、想像以上。ここまで仲が良いのなんて、なかなか見た事無いもの。最初に意思疎通ができないのなんて、皆一緒の事なのに」
「……精霊と同じような、って思ってたんですけど」
 クウェリスが杖を持たない方の手をそよがせる。気づいたヴァルディアがそれを取るとくい、と引き寄せられて、口元に手を当てたのを見た彼が少しかがんで耳をそこに寄せると、小さく二言三言をクウェリスは囁きかける。それを聞いてかヴァルディアが何かを返して、それが何度か繰り返される。目を瞬くだけで、何をやっているのかと首を傾げるフェルとコウをよそに、クウェリスが口元を覆って小さく笑いながら、ヴァルディアが苦笑しながら小さい内緒話が断ち切られた。
「……えっと?」
「なんでもないの、ただちょっと、ね」
「気にするな。大した事でもない。……クウェリス、扉は?」
 ヴァルディアが促すと、彼女はこっち、と隆起する草原の中を杖一つで難なく進み始める。ヴァルディアが一度視線をくれてからそれに続いたのを見て、フェルも慌ててそれを追った。




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