「ちょ、っと、くるし、……」
「喋るなって、息吐け。久々でキツいのは分かるけど」
 灰色、時の月の四番目の日。扉を叩こうとしたロイは中から僅かに聞こえてきた二人分の声にその手を止めた。
 あれ、と思いながら、顔が引きつるのを感じる。上げかけた腕が硬直している。くぐもって聞こえるのは、やはり見知った二人の声。少し力の入ったような、苦しそうな声音の。
「ほら、力抜く」
「だっ、て、痛、」
「馴れれば楽だろ? 初めてじゃないんだし」
「そう、ですけど、……っ」
「……どうした?」
 唐突に真後ろから声がかかって飛び上がる。振り返ればこちらに向かって二人の黒服が歩いてきていた。
「あ、ああ……エクサにセオラス……」
「どうした? 居ないのか?」
「いや、その」
 歯切れの悪いロイのそれに疑問符を浮かべたエクサは、そのままロイの横に立って止める間もなく拳で濃い茶色のそれを叩く。あ、と声を上げると同時に扉の向こうからも声が聞こえて、そしてすぐに目の前のそれが開いた。
 現れたのは金髪。
「ごめん、時間?」
「いや、まだしばらくは。様子を見て来いって、長官からな」
「ああ……なるほどね、ちょっと待ってて」
 一度扉が閉じられる。中から早くという呼びかけや無理無理という悲鳴やらが聞こえて、それが一旦収まって再び扉が開いた。
「お待たせ」
「全然。大丈夫か?」
「一応ね。ちょっと機嫌悪いけど」
 フィレンスは言いながら、中に、と手招く。セオラスのどうしたんだよという声には何でもないという仕草を返しておいて、ロイは素直にエクサに続いて扉をくぐった。
 中に居たのはフィレンスと、まくった袖を元に戻しているクロウィル。部屋の中には何故か箱と布地が散乱していて、セオラスが何かを探すようにその中に視線を巡らせた。小首をかしげる。
「およ、主賓は?」
「主賓って……」
 暗い声が衝立の奥から響く。苦笑したフィレンスがいくつかの布地を持ってそこを覗き込むのを眺めながら、溜め息をついたクロウィルにエクサが声をかけた。
「何をしてるんだ?」
「何って、着付け。力仕事だからな、こればっかりは」
 男手が必要になる、と言われて三人は納得したような顔を浮かべた。災難、と衝立の方に視線を送って手を合わせたエクサの横でロイはクロウィルを見やったが、その視線に対する疑問の顔を浮かべられてそのまま逸らす。若者め。
 奥からは二人分の問答する声と布の擦れる音が絶え間ない。片方の声が明らかに暗いのを聞きながらセオラスがふむ、とうなった。
「ところでクロウィル」
「何だよ」
「お前そのまんまで行くのか?」
 再び疑問符を浮かべた彼に、セオラスは自分の黒い服を示す。それで察してかクロウィルは自分の白地の袖を見やって、気の抜けた声と共に息を吐き出して頭を掻いた。
「……いや、流石に着替えないと罰則喰らうな、多分」
「罰則って、なんで」
「正装じゃなくちゃいけないの。特に私達は神殿にも出入りするし、護衛対象が紫銀だしね」
 エクサの疑問には衝立の奥から返答が返ってくる。相変わらず低い声で何か苦痛を訴えるような声が僅かに聞こえてきたが、同時の我慢の一言で消えていった。本気で嫌なんだなぁとセオラスが平和に呟く。ロイがそれを聞きながら自分の白服に視線を落としたのを見てか、椅子の背から自分の上着を腕に抱えたクロウィルは、ああ、と呟いた。
「そっちは、特に気にしなくていいと思う。正装してる白なんて見た事無いし」
「いや、それもあるんだが……そうか?」
「そんなもんだろ。なんせどうして長官にくっついて白黒が来るのか、その理由を分かってる奴も皆無だしな」
 俺含め、と堂々と言い放つ。そもそも黒には正装なんて概念が無いからな、とクロウィルに続いてエクサが妙にきっぱりと言い退けて、それには白も二人で苦笑する。黒服の正装もあるにはあるものの、画一されているかと言えば全くされていないとしか言いようがない。一体どこで使うのだろうと当事者の間で言われているほどだ。意味があるんだろうかと黒服二人が言い合っている中に、よし、と唐突に声が上がった。衝立から一人が出てくる。
「衣装完了。化粧はいいとして……逃げるんじゃないよフェル」
「……息がしづらい」
 衝立のせいなのか、くぐもった声は黙殺される。フィレンスがクロウィルを見やればうなずき返した彼はその場から忽然と姿を消して、そして大きく息を吐き出す音。フィレンスが苦笑する。
「出てきなよ」
「……やですよ」
「どうせ見られるんだし今恥ずかしがってどうするの」
「別に恥ずかしい訳じゃ」
「じゃあ出て来なよ?」
 沈黙が返ってくる。フィレンスはやれやれといった様子で肩をすくめて、その姿も同じように溶けるように消え去る。断りもなく残されてしまった三人が顔を見合わせて短い視線の応酬が行われ、その最後にはセオラスがまたかと髪を乱雑にかき混ぜた。
「おーい、出てこいって」
「……」
「どうせ後で囲まれるんだし今のうちに覚悟しといた方が良いんじゃないか」
「……囲まれる事前提ですか」
 相変わらず衝立の向こうからの声。セオラスはその衝立の方へ、床に垂れ下がった何に使うのかも分からない布地を踏まないように避けつつ歩み寄りながら更に言う。
「囲まれない可能性の方が低いだろ?」
「……」
「ほら練習台だと思えば。割と時間無いし覚悟は早めに決めといた方が良いぞ?」
 これにも沈黙。ただ間を置いて僅かに衣擦れの音がして、ほんの少し、覗き込むように紫が見えた。結い上げられた髪に淡い色のリボンが編み込まれている。こちらを確認して、更に肩が引けて奥に隠れてしまうのを見て疑念を浮かべた。
「……なに、やっぱ恥ずかしいのか」
「いえ、慣れてるといえば慣れてるんですけど、こう、なんていうか」
 垂れてきたクロークで肩から下を隠すようにしながら、視線を外す。セオラスはそれを見て少し脱力したような気分になりながら苦笑した。
「あー、白黒に見られんのはなんか抵抗ある、と」  それにはフェルは小さく頷く。そうさなぁと背後を見やったセオラスに、エクサは肩をすくめロイが気にするなというように軽く手を振るのを見て、そしてふむ、と声を落とす。フェルに向き直った。
「期待してるってさ」
「、え、」
「セオラス、お前って自分から自分の信頼潰してくよな」
 ロイの呆れた声に彼はにし、と笑う。そして少し考えるように上向いて、セオラスは唐突に思いついた顔をしてフェルに向きなおった。フェルが疑問符を浮かべるのも構わず、口を開く。
「フェル」
「……はい?」
「手」
 言葉と同時に右手が差し出されて反射的に左手を重ねた。あ、と思った瞬間にその手を引っ張られて傾いだ上体につられて足を踏み出す。
「え、ちょっ」
 思わず上げた声にも止まらずそのまま数歩衝立から遠ざけられて、それでようやく手を掴んだ彼が立ち止まる。急なそれにぶつかる寸前で絨毯を踏み息を詰めると、すぐ上から何という事もないような声が降ってきた。
「いやまあ見事に。小さい子供とかがよく引っかかるんだこれ、反射で出しちゃうのな」
「、の、……セオラスさん……!?」
「なんだね」
 軽く返されてフェルは声を詰まらせる。息を吐き出して少し乱雑に手を払って、気まずそうに視線を落としてクロークの前をぴったりと合わせて押さえた。セオラスが肩をすくめれば、エクサが二人の方へと歩を進めながら口を開いた。
「やめとけフェル、こいつ慣れてるせいで何言っても効かないから」
「……わかってますけど」
 答える声も少し小さい。そわそわと押さえつけるようにしたクロークは鮮やかな真紅に、少し濃い紅で見事な刺繍が施され同じ色のレースが垂れている。僅かに見えるドレスは白の紗に淡い紫が合わさって、ふんわりと膨らんで床に向かって曲線を描いていた。どこか得意気なセオラスの後ろ頭をロイが叩いて、我関せずとエクサがフェルに問いかけた。
「……フィレンスか?」
「え?」
「いや、用意をしたのは」
 言いながら彼がフェルのその衣装を示すと、彼女はいえ、と言いながら散乱する箱と布を見やった。
「送られてきたので、それで」
「へぇ……律儀だな」
「本当はこっちで用意もしてあったみたいですけど、無下にもできないので。……やだったんですけど」
 それにはエクサは疑問符を浮かべる。答えずにフェルは諦めたように息をついて、次いで暗い顔で胸元を押さえた。
「……息が苦しい……」
「あー、女子は大変そうだよな。大丈夫か?」
 ロイの手を押さえ込んだセオラスが言うのには力なく笑って見せる。大丈夫じゃなくてもこれはなんとか耐えなければならないことだから、仕方ない。そう割り切りでもしないとやっていけない。上半身の殆どを締め付けるこれを毎日やっているというのだから、宮廷の女性はすごいと思う。思っていると、後ろで布の擦れる音がして、それで振り返れば藍色の姿。
「ああ、終わったのか、フェル」
 どこからか景色を揺らして現れたクロウィルは、普段の白とも藍とも違う、装飾の施された貴族のような衣装に右腕にクロークを抱えている。腰には長剣を佩いた正式な出で立ちに、ロイが感嘆の声を上げた。
「おお……珍しくちゃんとした騎士の正装」
「茶化すなよ」
「いや、褒め言葉だよ。藍色はキレナシシャスの騎士の羨望の対象だろ?」
「なんかなぁ……」
 言われて彼は気まずそうに青い髪をかき混ぜる。それを見たフェルがなにか気付いたように小さく声を上げて、それで彼の方によって行くのを見ながら、エクサはどこが遠い眼をして呟く。
「……フェルはなんか恥ずかしがってるみたいだけど、俺らは場違いだよな」
「まあ白黒なんて平民代表だしな」
「安心しなって、被害者は合計すれば三十人はいるから」
 セオラスとロイのそれに続いて聞こえた三番目のそれに三人が揃って振り返ると、ソファの肘掛けに腰掛けたもう一人。クロークも既に身に付けて、や、と言いたげに片手を上げる。
「会議も四日間もあるからね、何か暇つぶしのものも見つけといた方がいいかもね」
「……良いのか、それで?」
「いいんじゃない、毎回そんなもんだよ、皆」
 言って立ち上がる、その彼女も騎士にしては華美な衣装を身に着けている。クロウィルと違うのはその裾が比べて長い事と常の二本の長剣が腰に下がっているという事。その彼女はさて、と声を上げて、そして一つ手を叩いた。
 乾いた音が響いた瞬間、答えるようにいくつも同じような音が部屋の中で立て続けに起こる。何だ、と周囲を見渡したエクサと、感心したようなロイやセオラスには構わず、音で気付いたのだろうフェルとクロウィルも顔を上げた。それでフィレンスは良し、と頷いて虚空を見渡す。
「全員いるね。そろそろ時間かな」
「それくらいか。早い事に問題は無いだろう」
 後半の問い時計の盤を見やったエクサのそれを聞いて、フィレンスが視線を向ければクロウィルの姿が掻き消える。それを見やってから彼女は白黒の三人を見やった。
「悪いんだけど、先導お願いできる?」
「? 別に構わないけど、お前らじゃないのか」
「私達は護衛だからね」
 ロイの返答にフィレンスは苦笑する。ほんの少し膜を張ったような、僅かにくぐもる声がそれを継いで続けた。
《先導は本来別の人がやるんだ、俺らは後ろ。今はその人がいないから、正式にどうすれば良いのかは分かんないんだけどな。そういう時は俺らは隠れてるのが正解だから》
「……細かいな」
「今までが雑だった、って事。白だからって色々無視してたからね。あとはまあ、監視の眼がなかったし」
 ちら、と視線を向けられたフェルはわざとらしくあらぬ方を見やる。察したセオラスがその頬をつつくと抗議の眼。それじゃ、と言い残したフィレンスの姿も気やの景色に溶けて消えて、見送ったフェルが気にしなくていいのにと呟くとロイが苦笑を浮かべた。
「まあ、分からんでも無いからな、制約もそれを守るのも」
「そうです?」
「生真面目が多いんだよ。じゃあ、行くか」



 今回、長官に随伴する形になったのは白黒合わせての九人となった。毎回十人は連れていたのが今回は欠けたのは、任務の兼ね合いでどうしようもなかったのだという。
「例年通りの四日、か。協会を空ける事にはさして憂慮しないが、問題は向こうで一体何があるかだな……」
「今はちょうど『異種』の騒ぎもありますから、確実に何かありますでしょうね」
 準備された陣を少し遠眼にしながらの長官の声に返し、クラリスは嘆息するように眼を伏せた。それを横目に見てヴァルディアは言い訳のように口を開く。
「私の責ではないぞ、これは」
「でしたら王宮での噂が立たなくなるでしょうね、長官」
「嫌味か」
「諫言です」
 即座のそれに息をつく。部屋を見渡せばどことなくそわそわとしているような数人と、既に慣れたといわんばかりの数人、その数は半々程度だ。そろそろかと思って時計を取り出そうと腕を上げて、途端に肩から先にまとわりついた長く重苦しい大きな袖を見やる。溜め息をついたのを聞いたのか横でクラリスが眼鏡の据わりを直すのが視界の端に映って、逃げるように視線を反対に滑らせる。
「……初日だけ、しかも半日にも満たない時間だけです」
「……何も言ってない」
「そうでしたか」
 ち、と舌打ちを零した。ずるずると裾の長い黒い衣装の中からようやく時計を取り出すと、針はまだ予定の時刻には少し遠い。また何重にもなったローブをかき分けてそれを仕舞っていると、扉の開く音とともに僅かに風が吹き込んできて、そちらを見れば三つの淡い影。逆行のそれが中に入ってきたのを見て、ああ、と声を上げた。クラリスが手元の紙に眼を落とす。
「これで全員、ですね。白服六名に黒服三名、ついでで本命の数人です」
「分かった」
 言って、そして息をついて壁際から陣の方へと歩を進めた。気付いてか小さく駆けてくるのをみてヴァルディアは小さく息をついた。
「急がなくて良い、時間はある」
「あ、はい、すみません。お待たせしました」
「気にするな。……よく走れるな、お前は」
 吐息とともに零された小さな声は聞こえなかったか、傍で足を止めたフェルは翻りかけたクロークを押さえながら首を傾げる。何でも無いと返していると、フェルはすぐさまその格好を見た数人に囲まれていった。それをなんとなく眺めていると、不意に部屋の中央に据えられた陣が光を強める。
 少し考える。結局すぐ傍にいたロードに眼を向けた。
「時間は?」
「十一時、の、少し前」
 全く明確でないそれには何も言わず、床に描かれた構築陣を見下ろす。後ろから何か言い合うような声がしている中で、そこから一つの声が上がった。
「あ、ヴァルディア様」
 振り返ると、もうドレスを隠すのは諦めたのか、多少乱れた髪を撫で付けているフェル。同じように陣を見ながら、彼女はえっと、と口を開いた。
「行く所までは、一緒にで大丈夫だそうです。出迎えはいつもの通り神殿の人間ですが、事情を知っている官だけに限定しました。向こうについてからは、隠れて一旦神殿の奥に戻ります」
「分かった。神殿の他は大丈夫なのか?」
「一応根回しとか偽装はしてるので、知らされていない人間は知らないままです。噂があるとも聞いていませんし。あとは蒼樹の人たちだけで、その点も問題なく」
「なら良かった。叩かれる要素を増やしたくはないからな……」
 言って面倒そうに一度袖を捲って、手袋に覆われた手を一度強く握る。そして部屋に散らばった白黒全員を集める為に声を上げた。




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