人気のない回廊を小走りに走る。行儀で言えばここでそれ以上悪い事はほとんどないが、見つからなければどうという事も無い。それよりも今は見つかる訳には行かないと、そう思いながら東翼の廊下を音を立てないように駈ける。
 不意に声が聞こえて、そしてその方へと視線を向けて足を止めた。ここは東翼の最西端、外殿から内殿へと入って来た人間が、神殿の領域に入る為の門がある場所。素性の明らかでないものは東翼へと入れない為に衛兵が常に詰めているのだが。
 そこで、一人の侍女が、槍を手にした警備の三人に止められているのが見えた。足を止めたまま、首を傾げる。少し遠くのそれは、静かな改良に反響して聞き取り難い。兄が、と、そう聞こえて足を踏み出そうとして、唐突にその肩を掴まれた。
「閣下」
 呼び掛けられたそれに思わず背を強ばらせた。恐る恐る振り返る。薄い金髪を丁寧に結った彼の、柔らかい笑み。
「……レゼリス……」
「閣下、お出かけでしたら、必ずお声かけくださいと、何度も申し上げておりますが」
 淀みなく言われて言葉に詰まる。彼女は彼を見上げた紫の視線を彷徨わせた。こんなに早く見つかるとは思ってなかったと胸中に落としてから、フェルは改めて副官を見上げる。
「少し、行方不明という事で」
「何時頃お戻りになりますか」
「……」
 沈黙する。答えたくない、出来ればこのまま逃がしてほしい。思っているうちに、笑顔が覗き込むように降りて来た。
「何時、戻られますか?」
「……ひる、まえ、には」
 笑顔の圧に負ける。レゼリスはそれを聞いてにっこりと笑みを深めて、そして肩を落とした彼女の背の方向、フェルが見ていた方へと顔を向けた。そして仕方ないと言わんばかりに、苦笑する。
「……では、レナ。あの侍女の案内は任せました。私は閣下を捜しに行きますから」
「はーい」
「レナ」
「はいっ」
 咎めるような、仄かに笑うような声には一度背を正す。そしてまだ少し距離のあるそこへと、今度は静かに歩いていった。



 朝から少し騒がしいな、とは思っていたが。
 用意された部屋で一夜を明かし、普段に比べればずっと遅くに目覚めて例の広間に顔を出せば、見知った顔がいくつか見えた。そのうちの一つが軽く手を上げる。
「よ。遅いな」
「おはようセオラス。気抜いてたら熟睡したらしい」
「あー俺あの部屋落ち着かなくて駄目だわ。何度来ても慣れない」
「言う割には堂々としてるよなお前」
「顔に出すの好みじゃないんだよ」
 言いながら、不意にその眼が逸れる。少し離れた所で何かを話し合っているらしき一団が居る事にそれで気付いて、ロイは小さく唸って腕を組んだ。セオラスがそのロイに、そういえば、と眼を向ける。
「昨日どうしたんだ? 戻って来たの相当遅かったみたいだけど」
「あー、色々な。知り合いと言うか元上司というか……と、話し込んでてな。別に何か問題があったとかじゃない」
「……元上司?」
「俺去年まで軍属だったから」
 沈黙が返ってくる。眼を向けるのが何となくできなくて、そのうちに自然と息が漏れた。
「……悪かったよ、嘘ついてて」
「……いや、びっくりした。理由あんなら別に気にしないけど。むしろ良く軍から蒼樹に来ようと思ったな……」
「噂とか知らんかったからなぁ、南の出だし、そうじゃなくても協会に興味も無かったし。まあ……称号を返上しなかった時点でお察しってか」
 言えば肩を強く叩かれる。苦笑してから一度深く息を吐き出して、そしてちらと窓の外を見やった。耳に入る音は少ない、静かではあるが。
「……音は無いけど、か」
「ご名答。赤いのが大増殖しててなーなんか監視されてるみたいでやだなあれ」
 毎度の事だけど、とは呟くだけに留まる。後ろで扉が開いたのに振り返れば、入ってきたのはクロークを腕に抱えただけのフィオナとエレッセアの二人。
「おはようございます、お二人とも」
「おはよ。……何かあったの、これ?」
「おはようさん、あったってかありそうってかな。……そういやベラ見てないな、まだ」
 セオラスのそれにロイは部屋を見渡す。珍しい、と思うのは、彼女が普段から朝の空気を好んでいるのを知っているからだが、それにはフィオナが口を開いた。
「ベルエンディさんでしたら、声を掛けたら「酔った」と……」
「……酔った?」
 思わず聞き返す。エレッセアが頷き返すのにセオラスがああ、と声を上げた。
「ここ、永続魔法が大量に仕込まれてるんだ。人体に影響が無い程度、魔導師なら気付くレベルにって調整はしてあるみたいなんだけど、人によるんだよな。ベラは感応力高いから、たぶんそれだろ。診れるようなら診てやれるんだけど」
「あ、じゃあ聞いてくる? 部屋知ってるから」
「ん、二度手間なると面倒だし俺も行く。大丈夫そうならそのまま戻るし」
「りょうかーい」
 言いながら二人が扉の向こうに消えるのを見送り、ロイはもう一度窓の方を見やる。ちゃんと観察しとけば良かったかとぼんやり思っていると、フィオナも視線を向けながら首を傾げた。
「……この辺りを囲むように、集まっているみたいですね」
「だな。暇な奴らだなぁ本当に……」
「何なんです、これ」
「やっかみと敵対心」
 言い切れば彼女は更に疑問符を浮かべる。それには気にすんなと言っておいて、白黒の何人かが集まっているそこに足を向ける。昨日の東の彼、サフィセスがそれに気付いて、ああ、と片手を上げた。
「おはよう。気付いたかあれ」
「気付くも何もあれで起きたよ、おはよう。誰か巻き込まれたか?」
「いや、幸いな事にまだ誰も。朝からずっと、神官がこの辺り行ったり来たりしてるから、相手も動けないんだろう。なんせ毎度の事だからな、神殿も思う所はあるんだろうし」
 本人は何も言ってなかったけど、とは、一団の中に紛れていたロードがほんのすこし目線を遠くする。サフィセスは慣れないのか肩から落ちかけた緋色の綬の据わりを直しながら、この棟の中に居ても分かる外の紅軍たちの気配に溜め息を吐き出した。この会議の期間に王宮に来るのは初めての事ではないが、だからこそ何が起こるのかが眼に見えてしまう。ロイはその肩を軽く叩いた。
「気にした所でなんにもならないから気にすんな、俺らが何もできないように相手も何もできないからな。剣持ってても抜けば重罪の厳罰だし、そもそも魔法は使えもしないし」
「いや、それはそうだが。……詳しいな?」
「特殊なコネがあるもんで、多少はな。……神殿がすぐ近くだから、嫌味言うのが精々だろうし、実害は少なくて済みそうではあるけど」
 ない、とは言い切れない。他者の眼が届かない場所など、広い王宮の中では至る所にいくらでもある。だから警戒しておくに越した事はないが、それも常にでなくとも良いだろう。
「……ゆっくりできないのは分かってたけど。他の人は?」
「東の連中は一応知ってはいるけど」
「西は触れてないんだよなぁ……」
「先にいっとけよ」
 ロードの呟きには若干恨みがましい眼を向けておくが、相手は肩をすくめるだけ。敵愾心を掻き立てるものでもないと、とりあえずは様子を見ることにしておいて、経験者の一団は自然にばらけていく。何となく昨日の場所にそのまま行くと、その途中で扉の開く音。戻ってきた二人とこめかみを押さえたベラ、そしてもう一人が開いた扉から顔を覗かせた。特徴的な二色の瞳、ロイは眼を瞬かせる。
「……お前ふらふらしてて良い立場だったっけ?」
「ちょっと休憩貰ったの、これからいろんな所に挨拶回りしに行かなきゃで、その前に差し入れ持って様子見に来ただけ」
 言ったフィレンスは広間の中に入ってきて、そして片手に提げた大振りのバスケットを持ち上げてみせる。近寄って行ってそれを受け取って、彼はその重量に軽く眼を見張った。
「……重いな、なんだこれ」
「量が多いだけ、好きにしといて」
 返答は曖昧に返ってきた。何かと思っているうちに横から覗き込んだセオラスがかぶせられた布を軽く捲って、それで漂った甘い匂いには面食らったような顔をする。セオラスが眼を向ければ少し気まずそうな眼が返ってきた。
「……これお前がやってたのか?」
「黙秘する」
「言えよ」
「……私が考えた事じゃないし」
「、……レナ?」
 一度出そうになった音を押しとどめてから言い直せば、フィレンスはそれには素直に頷き返す。とりあえずどうするかと思ってバスケットはテーブルの上に置いておく。視線を向ければソファに沈んだベラとそのすぐ近くにしゃがみ込んだエレッセアが見えて、セオラスもその方に向かう。フィレンスが腕の藍色のクロークを抱え直しながら言った。
「ごめん、さすがに結界は解けないから、辛いようだったら神官に伝えて。緩和剤ならあるから」
「わかった。……色々あるんだなぁ……」
「警備上の都合、こればっかりはね」
 言うそれを見やり、それで不意に違和感を覚えた。鈴蘭の刺繍が襟に施されたシャツに上着を羽織って、細身の裾の長いスカートに長剣。その取り合わせが何となくそぐわないように見える。察してか、彼女は肩をすくめた。
「『師団の休憩中』だからね。騎士は基本的に準貴族階級、貴族の下。だから正装はできても盛装はできない。これは団の支給品、仕事じゃない時はこれになる。私服だと剣が持てないからね」
「ああ、なるほど……でもそれって、剣持つ必要あるか、逆に」
「特権使えるから。団の魔導師も識別入ってるから結界に左右されないし、そんなもんだよ。で、一つ頼みたい事があるんだけど」
 ロイはそれには疑問符を浮かべ、フィレンスはクロークを腕の中で広げてみせる。その途中でひょこりと鋼色のものが顔を出して、そして彼はげ、と呟いた。
「……いやいやいやちょっと待ておい王宮って結界あるんじゃ、」
「今回協会から直接王宮の中に出たでしょ? だから引っかかんなかったんだな」
 きゅる、と鳴いたそれがフィレンスとロイを交互に見上げて、そして彼女の腕を軽く蹴るようにしてロイの肩に飛び移る。そこで器用に伸びをして満足げに声を上げる、それを聞きつけたのか数人の視線を感じる。どう説明するんだよとロイが顔を覆ったところに、後ろから声がかかった。
「あ、ラシエナさん」
 それにフィレンスがそちらに視線を向ける。声を上げて歩いてくるサフィセスに緋色の綬がかかっているのを見て、彼女は首を傾げた。
「どうも。長官の事?」
「いかにも」
 彼はロイの肩の鋼色になんだという顔をしながらも答える。フィレンスがその返答に微妙に苦い顔をするのをみて、彼もなぜか遠い眼をしてみせた。
「リア長官が探しまわってたんで、一応、伝えておこうかと。後一つだけ頼みたいとすれば、ここで会えないと帰った後しばらくグレるんで一回か二回か付き合ってもらえるとありがたいかなー、なんて」
「……殴って良いよ?」
「さすがに自分の首は賭けられない、一応あれでも上司なんで」
「だよねぇ……」
 困ったようにフィレンスが言う。悩んでいる風を見て、それでロイは何度目か首を傾げた。
「兄、だっけ?」
「ああ、聞いた? 東の長官が長兄なんだけどね。色々めんどくさいから会いたくないの」
「会いたくないって……肉親だろ?」
「そうなんだけど、肉親だからっていうか……」
「ラシエナの事大好きなんですよ、リアファイド様は」
 反射的に眼を向けた。肩の上の鋼がどこか嬉しそうに鳴いて、視線の先の、青い神官の服に頭布で顔の半分を隠した彼女は丁寧に礼をしてみせた。
「ラシエナ隊長、アイラーン様がおいでになりました。南翼でお待ちいただいております」
「…………了解した、すぐに行く」
 答えた声がどこか諦めたような声音に変わっている。ロイは数秒硬直した後、深く息をついた。それらの反応に東の彼が疑念を浮かべているのに構わず、神官はそのまま広間を横断して白い綬の一人に声を掛け、何か二言三言を交わしてから扉を示す。南の黒服がそれで慌てて扉の外に向かうのに遅れて彼女も廊に出、扉が静かに閉じられる。
 フィレンスが額を押さえた。
「……何やってんのあの子は……」
「……遊びにきたとか、で、済むのかね、これは」
「……どうしたよ?」
 サフィセスの問いには視線を交わす。フィレンスは溜め息を吐き出した。
「いや、ちょっとね……祭祀の子で知り合いなんだけど。ほんとなら潔斎と勤めとでこっちには来れないはずなんだけどね……」
「……抜け出してきた?」
「そういうこと。……あー、うん、ちょっと捕獲して戻してくる、連座で祭司長に怒られるのやだし。あ、と、そうだ、外の連中はこっちで散らしておくけど、あんまり油断はしないでおいて」
 言ってから手を伸ばし、ロイの肩の上のコウを一度撫でてから彼女は踵を返す。抱えていたクロークを肩に掛けて扉を開きその陰に入って見えなくなる前にその姿自体が薄れて行くのが垣間見えて、小さな音と共にそれが閉じられる。
 それを見送ってから、不意に疑念が浮かび上がった。サフィセスを見やる。
「……なに?」
「師団だって、前から知ってたか?」
 閉じられたばかりのそこを指差しながら問いかける。彼はそれを聞いて疑問符を浮かべた。
「知ってたけど。知らなかったのか? 割と有名だぞ、ラシエナ・シュオリス=アイラーン、アイラーンの令嬢が師団の団員で、蒼樹に出向してるって」
 眉根を寄せる。ならどうして、蒼樹ではその話が伝わっていなかったのか。
 彼がソファに腰掛けるのを見てその近くの椅子に座る。肩のコウをベラの脇に置いておくうちに彼が言うのが聞こえた。
「そうじゃなくても、眼が完全に二色に分かれてるって珍しいからな」
 それを聞いてか、ベラに向かって扇でぱたぱたと風を送っていたフィオナが顔を上げる。
「フィレンスさんの話です?」
「ああ、うん、ちょっと気になった事あってな」
「……フィレンス?」
 今度はサフィセスが疑問符を浮かべる。あれ、とロイは声を上げた。サフィセスは少し考えるように視線を落として、口元を手で覆った。
「……『フィレンス』って、ラシエナさんの通称?」
「って、俺らは聞いてるけど……知らなかったか?」
「初耳。フィレンスって騎士の噂は聞いた事あるけど、一致しないし……」
「むしろ私は、フィレンスさんが入ってくる前からいますけど、彼女の本名を知ったのが最近の話ですが……どんな噂です?」
「……聞かない方が良いと思うぞ」
 蒼樹の面々が眼を見交わす。エレッセアが何か考えるように小さく唸って、そして小声を落とした。
「……禁忌の話、とか」
「いや、そういうのではないな、かなりえげつないっていうか下世話っていうか、そんなだから。というか禁忌の話こそ有名だと思うけど……紫銀の為だろ?」
 ロイは更に眉根を寄せた。フィオナとエレッセアも気付いて顔を見合わせる。蒼樹がおかしかったのか、思っているうちに不意に感じて窓を見やる。ずっとあった気配が、ゆっくりと遠ざかり始めていた。



 散らしておく、の言葉通り、庭園へと降りても誰もおらず、赤い人影はすっかりなりを潜めていた。
「あー、やっと出れた……」
「いつも外走り回ってる弊害だよな、ずっと屋内だと息詰まるって」
 火の日か、と呟いたエクサがほんの少し襟元を緩める。陽を遮る雲もなく快晴で、昨日までは吹き荒れていた風もなく空気そのものが暖かく感じる日和もあってか、やる事も無くなり暇をつぶす方策も尽きた主に白服たちが、赤いものが見えなくなるのもまだかまだかと待っている風景はどことなく微笑ましいものではあったが、暇なのはもっともである。
 同じく暇に飽いた魔法使い達の魔法談義に乗り込んで行ったセオラスと酔ったままのベラを放置し、コウを後者のそばに置いて西の数人で部屋を脱出したのが正午頃の話だ。西は今日も早々に呼び出され、さっさと全員が終わってしまった為に、本当にやる事も無い。
 赤い軍人たちが去ってみれば、東翼の西と南に大きく広がる庭園は歩く人も無く、鳥の姿もよく見られる。王宮内に人は多いと言っても、神殿のすぐ側だというここには近寄り難いのだろうか。
「って言っても、神殿がどこにあるのか知らないんだけどな」
「あれ、ロードって何回か来てるんじゃなかったっけ」
「何回か来てるからって王宮全部練り歩く勇気はねえよ、レッセ」
「招かれざるって雰囲気でしたもんねぇ思いっきり」
 ロードの言い分にはフィオナが笑みで続けて、そして大きく冷たい空気に深呼吸する。吐く息は白いが、さほど寒いという訳でもなく、庭園の生け垣の影に入ってしまっても支障はない。冬にこの日和は珍しいと思いながら整えられたそこを進んで行くと、緑の壁の奥には花壇と、それに囲まれた四阿が見えた。その合間、少し遠くに、くたびれた帽子を被って何か作業をしている背中と、水を運んでいるのだろう小さい一人が見える。
 さすがに庭師くらいはいるかと思っていると、不意にエクサがすぐ近くの花壇のそばにしゃがみ込む。エレッセアがその隣にしゃがむと、彼は蕾を付けた苗の葉に指を伸ばしていた。何かを確認するようにそれに触れる。
「……どした?」
「いや……薬草だな、これは」
 呟く、その言葉自体で確かめるように言って、彼は不思議そうな顔をする。庭園なら、眼を楽しませる花が植わっているものだが。エレッセアが首を傾けた。
「薬草って、普通の薬の?」
「煎じて飲む奴だな。これは、確かに花も綺麗ではあるけど、栽培はしても観賞用には……」
「……二人とも」
 ロードの声が割り込む。振り仰ごうとして気付いたエレッセアがすぐに立ち上がって、エクサが怪訝そうな表情に替えてそれに続く。ロードの視線の先を見やって、それで漸く彼も眉根を寄せた。
「散らすって言ってたんじゃなかったか、あいつ」
「だからこそ「散らす」なんだろ。いくらでも戻ってくる」
 腕をくんでみせたエクサに答えたのはロイで、彼もどうするかねと息を吐き出す。緑の生け垣のその先の赤い制服の数人が、にやりと嗤うのが見えた。




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