「お待たせしました。お呼び立てしておいて、すみません」
 空に藍色が見え始めているのを横目にしながら、開かれた扉を潜ってすぐ、そう声をかける。ソファから立ち上がったその人は、ふ、と笑った。
「閣下のお呼びであれば、いつなりとも喜んで。こちらも先触れも何も無く、失礼を」
 答えたのは男性、紫の組紐の綬は魔法院の高位の官職の証。見慣れた顔は、院の中でも信頼される老師の一人。――本当は、これも本意ではないが。思っているうちにその当人が軽い疑念を表情に浮かべてみせた。
「それで、私一人とは何事ですかな。今更魔法の授業でもありますまい」
「結界魔法の権威直々の講義の事は有り難く思っています、アイルス老師。でも今日は残念ながら」
 お仕事です、と付け加えればそのすぐ後に二人揃って苦笑する。律儀にソファから立ち上がったままの彼には改めて座を勧めて、フェルも柔らかなその向かいに腰を下ろした。レゼリスが背後から少し腰を屈めて促すのを制しておいて、あえて下座に座を構える。そして手にしていた小箱を膝の上に据えた。
 アイルスはその箱には怪訝な色を眼に浮かべながら、それで、と口を開く。
「会議での事であれば、老師全てにと思いますが」
「会議……会議の事と言えばそうなるかもしれません。大体の予想は、老師も察していらっしゃるかとは思いますが」
「学院の事、ですかな」
「それも含め、です」
 小さく笑みを浮かべて、そうしてからやおら背を正して視線を改める。それにはアイルスも好々爺の形を潜めた。魔導師の、形式上とはいえ頂点近くに立つ人物は、相対するものに合わせて己も変えさえする、だがそれは、こちらも同じ事。
「回りくどい事は全て省いてお訊きします。アイルス、紫旗の行動制限を指示させ院と軍を動かしたのは貴方ですね」
「左様」
「魔法院の預かる領分を著しく越えている事は自覚していますね」
「無論」
 応えた瞬間、フェルの膝の上の小箱が小さく震える。アイルスはそれに気付いたのか一度視線だけを向けたが、対するフェルは一切眼を逸らす事なく更に問いを重ねた。
「何故です。その理由を聞きましょう」
「秩序の安定を第一と見た。神殿が良し、陛下が良しとしている以上、院が動くより他には無い」
「ではどうします」
「処罰を下されるのであれば甘んじて受けよう。己が何をしているか、その自覚も自負もある」
 強く言い切ってから、彼は自嘲を零した。ではこれは尋問かと呟く声には応えないままで、大公は眼を細める。
「……では本当に、貴方は気付いていないのですね」
 僅かな諦観が、その声音に混じる。何かと眉根を寄せた彼に構わず、彼女はようやく小さな箱の留め金に手を掛けた。弾く音で開いた蓋の中には、小振りの宝珠が納められていた。それを掌に取り上げて、差し出すようにして老師へと示す。
「……それは」
「見ての通り、宝珠です。簡易演算珠、複数の魔法の構築と補助が出来ない分……」
 唐突にその宝珠が光を纏う。光の中に陣が浮かんだ、瞬間、男の手が大公の手を殴るように振り払った。
 身体を乗り出し驚愕にか眼を見開いた彼とは対照的に、手を強く弾かれた紫はどこか冷めたようにアイルスを見据えていた。間を置かず小さなその珠が床に跳ねる硬い音。
 銀が閃く。腰を浮かせた老師が背に何かが叩き付けられたような衝撃に思わず呻こうとして、そこでようやく胸の圧迫に気付く。胸元から首筋に這うように刀身の面が見えて、後襟を乱雑に掴まれて後ろに強く引き倒された形、叩き付けられたのは自分の背の方かと理解が追いついた頃には、変わらない様子で座したままの大公が腕を下ろした。
「……詠唱もなく、発動に至る事が出来る。アイルス、今私の魔法が何であるのかと問う前に、構築の妨害を行いましたね」
 魔法院の人間なら考えられない行動だ。それは、魔法の失敗を誘発するような行動は、『異種』を絶対的な敵とみなす魔法院の老師がやって許されるようなことではない。
「院の意義にすら反する恐れのあることを、躊躇いもしなかった」
「……急にこのような場で魔法となれば、自衛にも出る」
「王宮のどのような場であれ魔法行使を許された『老師』の身で、結界魔法の権威である貴方が、魔法すら使わずに?」
 これには窮するような沈黙が返ってくる。大公がその反応に息をついて視線を向ければ、長剣で彼の身体を押さえ込み首に刃すら据えたままの翡翠が見上げてくる。どうする、と問うようなそれにほんの僅かに長い瞬きで答えれば、再び視界が開かれたときにはその姿から何から全てが消え失せている。アイルスは困惑したように、掴まれたせいでか崩れた襟を正しながらソファに座り直した。
「……一体何の真似かと、問いたいところではあるが」
「できれば、気付いてほしいと思っていました。この調子ではいくらかかっても無理でしょうから率直に申し上げます、アイルス老師」
 息を、ゆっくりと吸い込んで。
「貴方には一度死んでもらわなければなりません」



 少し、騒がしい。思いながら建物の外周をぐるりと巡る大きな螺旋状の階段を駆け下りて行く。院のなかでも指導者である老師が急に二人もいなくなれば素直に研究ばかりもしていられないのがいるんだろう。しかも両方が神殿に向かったとなれば、勘繰りたくもなる。
 しかし思ったよりも早かった。こうなるとは予想していたから先に全て済ませてはいたが、心残りが無いと言えば嘘になる。まだやりたい事はあったのに。
「……結局一人しか殺せなかったし」
 頭布を引き下げながら呟く。研究に没頭している魔導師たちの耳には入りようも無い程小さく。
 片手、指に収まる指輪を一瞥する。嵌め込まれた小さな宝珠は罅割れて光を失っていた。修理のしようも無く破壊されてしまっているのを何度目か確認して、同じように何度目か舌打ちする。
「ちっくしょ、覚えてろよ大公……僕の人形壊した上に宝珠にまで攻撃仕掛けやがって」
 並の魔導師がそこまで出来るとは思わないじゃないかと愚痴を口に、駆け下りた先の扉を開く。暮れ始めを越えて夜陰がじわじわと浸食する中を、駆け出した。



 言い放たれたそれに、彼は眼を見開いたまま硬直する。遅れて言葉の意味を理解する最中、紫に白を重ねたドレスを揺らして彼女が立ち上がる。空の箱を肩越しに背へとやりながら、そこにいる副官へと口を開いた。
「レゼリス、廊を鎖すよう」
「御意」
 空箱を受け取った侍従長はそのまま一礼だけを残して、すぐに背を向けて扉の外へと消える。見送りもせずに大公は虚空に声を向けた。
「イース、結界を。……ラウラス」
 空間を閉ざす結界が張り巡らされる、その感覚に少し遅れて、藍色の人影が抜き身の剣の、その刀身を手に姿を見せる。刃自体を両手で支えるように持ち、支えた彼を見上げて、そしてようやくアイルスが再び腰を浮かせた。
「閣下、何を」
「見て分かりませんか、老師? 貴方が逃げようとしてもできないように、貴方が助けを求めても誰も来ないように、そのための準備です」
 言うその足許に騎士が膝をつく。手を伸ばして柄を握る。アイルスには視線すら向けずに剣を捧げた彼は身体を沈めるようにして深く頭を垂れ、そのまま溶けるように姿を消した。長剣を手にした痩躯だけが残っているのを見て、焦燥を押さえ込みながらもアイルスは口を開く。
「斬るか、院の人間……魔導師を」
「今更魔導師程度いくらでも換えは利きますからね。……まるで、無力な人間を死に追いやる輩の台詞には思えませんが」
「誰一人の死も無く秩序が成るとでも思っているのか、神殿は」
「死の恐怖を楯に為される秩序はただの強制です。払う術を持たなければ死ぬより他には無いのだから、規範にすらなりませんよ」
「綺麗事に過ぎん」
「綺麗事吐くのが『大公』の仕事ですからね」
 それこそ今更だと、半ば嘲りにも近い色を浮かべた眼を細める。一歩踏み出そうとすれば立ち上がった彼が距離を置こうと後退り、それを見てフェルは溜め息を吐き出した。
「……院も、少し見ないうちに無責任な口が増えましたね」
「何を、」
「フィテルといい、貴方といい……自分が言う事やる事の意味に、自分ですら気付いていないとは」
 一歩、ゆっくりと踏み出す。間にある背の低いテーブルを回り込むようにすればアイルスはさらに後ろへと退いて行く。柔らかい絨毯の感触を靴の下に感じながら、フェルはその彼を見据えた。
「処罰ならば甘んじて受けると言った、自分のその言葉すら持てないのであれば、人民を殺して我関せずを突き通す無責任さも道理でしょうか」
「いくら大公位に叙せられているとはいえ、独断で老師を殺してただで済むとでも……」
「では先にお伝えしましょうか。この事に関して、陛下の承認は既に頂いています。全てを私に一任するとも」
 アイルスの言葉を遮って言い放つ。彼には混乱があるだろうが、焦燥を抱えているのはフェルの方だ。そうそう長く、時間はかけられない。逃亡を防ぐ為に院に関係する全ての人間を監視させてはいるが、漏れが無いとは言い切れない。そもそもこちらに情報が揃っているかも分からない状態なのだから、だから早くと急かす声があるのも、確かな事ではあるが。
「陛下においても院の越権を許すなと判断なされた、そういう事でしょう」
 焦りを見せてはならない。自身にそう言い聞かせながら、柄を握る。後退る彼に詰め寄るように数歩。
「ただ、その行為を看過できないとして殺す事は容易ですが、不可解な事が多すぎる」
 アイルスの背にはほとんど逃げ場はない。腕を伸ばした切っ先が届くか届かないかの距離を感覚だけで計って、足を止める。剣はまだ、床を向いたまま、構えもせずに。
「紫旗師団の行動を制限し、守りの薄い村や町を壊滅の事態に追い込んだところで院に利点は無い。壊滅を防ぐ為に学院が動き結果として未熟な学生が死んだとしても、首が絞まるのは学院でも協会でもなくその命令を下した院でしょう」
 言いながら、視線は見据えたまま逸らさない。言葉に対する返答が無く、それに眼を細めて見せる。アイルスの表情には疑念。それがこちらの言葉に対するものでないのなら、あるいは。
「何故院の老師が、何事も無ければ生涯その地位を約束される人間が、自ら自分の場を揺るがしたのか、それが私にはわかりません」
「……師団を、止めなければならないだろう」
「紫旗にこれ以上の権限を与えてはならない。それは理解できます」
 師団は既に多すぎる程の権限を持っている。しかもそれが頂点に集中していればまだいいが、ほぼ全ての団員に同等のものが与えられている。悪用すればそれが発覚したその瞬間に極刑が下されるとは分かり切った事ではあるが、返して言えば、知られなければ、口を封じてさえおけば好き放題できてしまう事をも示す。それを防ぐ機構が組み込まれているとはいえ。
 だがそれらの中で、独断で行使できるものは少ない。状況に応じて臨機応変に、すぐさまに行動できるようにと整備されたものだ、事態が迫っていない限りは、必ず主君たる国王の指示を仰ぐ。
「師団は常に暴走と叛逆の危険性を抱えている、だからこそ神殿と師団が近い。神殿大公の権限が師団のそれを越えるから。……今回の師団の行動も、陛下の下命あっての事だと知っているでしょう、アイルス」
「私は、」
「状況を並べるだけでも齟齬が目立つ、こんな理の通らない行動を何故起こしたんですか。正当な理由があれば正面に立てば良いものを、どうしてフィテルを矢面に立たせるような事をしましたか。すべての指示を出すように仕向けていたのは貴方なのに、何故他人を使う必要がありましたか」
「フィテルは私のこの考えに賛同し自ら名乗り出たのだ、教唆などしていない」
「その事実は」
「ある! 師団が動き出したそのすぐ後に、私の部屋に訪れて、」
「『誰にも何も伝えていない』のに『まるで心を読んだかのよう』にして『協力を申し出た』」
 割って入った言葉に、アイルスは絶句した。不自然すぎるのだとという事に、ようやくたどり着いて、そしてフェルは一度目を伏せる。
「……傀儡の根は、やはり貴方でしたね」
「……く、ぐつ……?」
「一人の『根』を軸に、周囲の複数を次第に傀儡に変える魔法です。魔法としての行使自体が終わっても、根が生きる限り作用し続けます。……逆に言えば、根さえ絶えれば全て解ける」
 剣を持ち上げる。正眼に構える。切っ先を向けて、老師を見やった。
「だから言ったでしょう。貴方には一度死んでもらわなければなりません、と」
 困惑も混乱も抜け落ちて、切っ先の向こうには呆然とした一人がいるだけになる。間があって、彼はまるで信じられないと、緩く左右に首を振った。
「……王宮の中では、魔法行使は限られているはずだ。使いたくても使えない、結界がそうしている……」
「一度も王宮の外には出ていませんか? 外ならいくらでも、機会はある。結界が専門とはいえ傀儡式を知らないわけではないでしょう、根を作る傀儡魔法は、そうと知らなければ誰であろうと伝染する。行使自体が終わっていても効果が持続して、伝染し続ける限り効力を失わない。行使されないのであれば結界に触れても消滅は起こりません。……時間さえかければ、この王宮の人間全てを支配下に置く事すら可能だった」
 院の情報にもなかったという、スィナルに渡された魔法。何の事は無い、傀儡魔法はまだ系統として院に認められていないから情報が無いだけの事だった。同じ王立でも、図書館には既に同じ魔法が所蔵されていたにも関わらず。
「……だが、私は、以前からずっと……」
「既にある感情や思いを基盤にした方が傀儡にしやすいだけの話です」
「……では……」
 何かが、爆ぜる小さい音。老師の眼が静かに落ちて、そこから感情の色が落ちていく。フェルは強く、剣の柄を握り締めた。爆ぜる音が大きくなって。
「……ならば、私は、ただ誰かに……使われていただけなのか……?」
 疑念が零れ落ちた瞬間に陣が浮かび上がる、見えたとほぼ同時に動きを止めた文字と記号が黒く滲んでいく。僅かに遅れて、その中心に立っていた彼が、崩れ落ちるようにして膝を付く。
 剣先を、降ろした。
「……アイルス、謹慎を命じます。その覚えが無かったとはいえ、院に甚大な害を為した事は、事実です」
「……わたしは……」
 譫言のように、呟く。持っていかれてしまったのだと、それで分かって、どうしようもなく頭を振った。
「……休養という名の謹慎よりも、通りは良いでしょう」
 足を引く。距離を開けて背を向ける。少しもしないうちに扉が開いて、入ってきた数人の侍従が彼を連れて行く。
「……閣下」
 その場に残った一人だけが、呼びかける。俯いたまま額に手の甲を当てた。
「……長く傀儡式に晒された場合解除に成功した所で何事もなく戻れる可能性は低い。思考、判断、言語能力すら支配下に置かれた結果としてすぐにはそれを使えない。勝手が分からなくなってしまっているから。式の強度によっては一生戻らない事すらある」
「すぐに医師を手配致します」
「解除する前と後で違いすぎる、遠ざけるしか」
「……閣下、剣を」
 もう、と促すそれでようやく、握り締めている事に気付いて、口を噤んだ。意識して一度息を吐き出してから少しだけ持ち上げるようにすれば、その途中で藍色がその刀身をゆっくりと手に持ち、支えるのが見えた。
 握った手に軽く手が重ねられて、それでゆっくりと力が抜けていく。柄が掌から抜けて、剣を受け取った彼は一度だけ手を握って姿を消す。
 ゆっくりと、眼を閉じた。
「……フェル様……?」
「何でもありません。……疲れました。少し寝みます」
 傍からの声にはそう言って返す。レゼリスの方には顔を向けないまま、寝室へと向かった。




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