扉越しに声を掛けて、返答が無い事に眉根を寄せた。軽く握って堅い木の扉を叩いた手を、取っ手に掛ける。躊躇いを感じるのを振り切った。
「閣下、入ります」
 言ってそれを押し開き、暗い寝室に入って後ろ手に扉を閉める。閉じられている筈の天蓋が乱れているのを見て視線を巡らせる。その最中に冴えた色を見つけて、レゼリスは鏡台の前に腰掛けた彼女のそのすぐ傍へと歩み寄った。
「お目覚めでしたか」
「……迷惑をかけました、レゼリス。取り乱していました」
 その声が落ち着いているのを聞いて、膝の上の手を見やれば力なく置かれているだけで、それに遣る瀬ない心地を覚える。隠すように頭を深く垂れた。
「ご無事で何よりです。……無理はなさらず、成年の儀もまだ終えていらっしゃらないのですから」
 多少は、というそれには緩く頭を振る。額を押さえる仕草を見咎めて、立ち上がったレゼリスがその肩にガウンを掛けながら口を開いた。
「案件の殆どは、既に終えられています。もう少し、お寝みになりますか」
「大丈夫です」
 短く言って、それで彼女は立ち上がる。眼を僅かに伏せた。
「……では、お召替えを。紗は濃い物に換えさせましょう。後で、水をお持ちします」
 冷やした方がと付け加えれば、彼女は一度鏡を見やって目元に触れて、そこでようやく自嘲めいた笑みを浮かべた。



「ラシエナ!」
 強い調子で呼びかけられて振り返った。藍色のクロークを肩に羽織りながら本部から出て来たユゼが、珍しく口には何も無しに歩いて来る。首を傾げた。
「団長、煙草ないの久しぶりだね」
「小姑がいるもんでな、外では吸うさ。昨日は悪かったな仕事盗っちまって」
 言われて眉根を寄せた。視線を前にして歩き出しながら口を開く。
「ほんと良い迷惑」
「悪かったって」
「泣かすし」
「……あーもう分かったから。悪い。すまん」
「言うの私にじゃないでしょ」
 芝生を踏みながら言ううちに、すぐ横にユゼが並ぶ。溜め息をついて、横目を向けた。
「……それで、何、団長?」
「あー、うん。お前ヴァルディアに護衛ついたの気付いてるだろ?」
「ユールでしょ? 最初階層違ったから何事かと思ったけど。隠形の別階層使うなんて珍しい」
 細い鉄を編んで作ったような意匠の飾り門を潜る。本部をぐるりと囲う背の低い柵とこの門は、それ自体が強固な結界だ。よほどの事が無い限り出入りはこの門からしか出来ない。クロークの留め金を掛けながら、ユゼは言う。
「第八から別動として編成させた。もしユールが動かざるを得なくなったら、是が非でもフェルを俺の所に連れて来てくれ」
 軽く眼を見張る。フィレンスがユゼを見上げればいつの間にか火のついた煙草を口にくわえた彼の顔には何の別も見えない。ちら、と赤い瞳がフィレンスを見やった。
「……やっぱ気になるよな、理由とか」
「……秘さず、じゃないの」
「その通りだよ。でも流石に時間が足りん、ユールから説明させるから待ってくれ。今は、仕事だろ、『隊長』」
 その言葉には彼女は僅かに眼を細める。言われなくともとその肩を軽く叩いてからすぐに隠形で自身の姿を消し去る。そのまま神殿へと向かうのだろう彼女を見送って、ユゼは一度その場に立ち止まった。
「……っつー事なんで、頼むわ」
《……勝手に人を加担者にするな……》
 どこからか聞こえてくるのはヴァルディアの声で、その後ろで誰かが面白そうに笑う声。振り返れば、すぐにユールと、彼に腕を掴まれた西の長官が数歩の距離に現れる。ヴァルディアはユールの手をすぐに振り払って、そして憮然とユゼを見やった。
「……完全に秘してるだろうが」
「んなことねえよ。『俺も知らない事実があっただけ』だ。だから頼むっつってんだろ」
「人を強制的に連行して加担させた挙げ句にこれでは頼まれても受けたくもなくなる。大体、説明した所であいつが納得するか?」
「しなくても動くさ、団員だからな」
 言えば彼は苦い顔を作る。ユゼはその様子にくつくつと笑った。似合わず、知人に対して詐欺紛いの手を使う事に抵抗を覚える男だ。手を伸ばしてその肩を軽く叩いた。
「問題がなけりゃ全部話すさ。だけどまだ若すぎる。暴走されたら元も子もないんだ、ラシエナには護衛でいてもらわないと困る」
「……禁忌破りだからか」
「お前も、お前の身内殺されたくはねえだろ」
 金が逸らされて舌打ちの音。ユールを見やれば彼は肩をすくめてみせる。ユゼはそのまま、踵を返した。



 御前に、と聞こえた彼女の声には微かに頷き返す。昼夜を問わずの護衛達は交代で休息を取り、それ以外にはほぼどのような場であろうと付き従う。今ここには、これでラカナクとスフェリウス以外の全員が揃った筈だ。
 思いながら文字を連ねていく。出来る限り先の事もここで済ませておきたい。今日で三日目、もうあと一日もないここで、院の事すら終わっていないのにと思考が吐き出すのを、しかしどこか他人事のように仕舞い込んだ。
 新しい季節を迎える祭儀も迫っている。例年に準じるだけとはいえ、それは全て大公の号がなければ動けない。副官は大公の署名を完全に真似て書けるが、筆跡は作れても記憶が作れないのが難点だった。なまじ容易に調べる事が出来てしまうから、神殿に欠点を求める人間はそのような粗さえ探りに来る。神殿の持つ権限は限定されているが、影響は相当なものだ。それが邪魔な人間などいくらでもいる。
 処理を終えた書類は端の定位置に積んでおけば、侍従の誰かが気付いたものから持っていくから、机の上にはさほどの量は残らない。朝からずっと、少しの休憩を挟む以外には書類を片付け、あるいは院や中央との根回しに向かう程度で、既に陽が傾き始めているにも拘らず、彼女はずっと室内に籠りきっていた。
 もう急ぎのものがあるわけでもない。院の事は完全に解消されてはいないが、後は院自体の動きを待たなければこちらも動きようがない所までは終えている筈だ。それなのにと、隠形のままその後ろに控えたフィレンスは僅かに眉根を寄せる。翡翠を見やれば彼は肩をすくめるだけで、どうしようもないだろうというそれには密かに息をつくしかなかった。
 本人も気付いて、解っているだろうに。それとも意識できない程か。侍従の一人に声を掛けられて顔を上げる、その表情はいつもと何ら変わりはないが。
 手を伸ばしたクロウィルが肩を叩く。過保護と口だけで言ってやれば彼女はばつが悪そうに眼を逸らしてその手を振り払った。自覚はあるのになと思いながら、クロウィルは視線を戻す。指示を侍従に伝えているその様子をただ見ているうちに、レゼリスが新しく淹れた紅茶を手に戻って来るが、その彼の声にも彼女は首を振るだけだった。流石に少し手を止めて差し出されたそれを受け取ったが、ほんの少し口をつけただけですぐに作業に戻る。
「……閣下」
「大丈夫ですよ。後もう少しで終わりますし」
 答えるそれを聞いて、レゼリスが息をつく。フェルがそれに眼を瞬くのを彼は珍しく無視して、そしてその大公の背後を見やった。
「クロウィル・ラウラス」
《何か》
 名を呼ぶだけのそれに短く問い返す。通常ならば侍従長であろうと彼の命令に従う義務は無いが、意図は分かっていた。目を向ければ隊長は外、庭園の方向へと指を向ける。レゼリスの声。
「許します。外に」
《了解》
 やはり短いやり取り、言い終えた瞬間に手を伸ばして飲み込めていないその腕を掴んで前触れも無く痩躯を抱え上げる。こちら側に引きずり込まれた彼女が驚愕の表情を浮かべているのをただ担ぎ上げて足を踏み出した。
「っ、なに、」
「命令不服従は死罪なもので」
 明瞭に聞こえる声に言い返す。方便だが、それでも言葉に詰まったのがわかった。卑怯な言葉ではあるが、今は仕方ないと思ってそのままにしておく。
 そうして部屋を出て行くのを見送って、その場に残ったフィレンスは溜め息とともに隠形を解いた。それにはレゼリスが意外そうな表情を作る。
「行かないのですか?」
「ま、バレなきゃ離れてても平気だからね。……ああでもあいつ、普通に規律すれすれ通るからな……ジルファ、ついてっといて」
《また僕ですかそういう役回りー》
「頼む、後で私も行くからさ」
 不承不承めいた声がぶつぶつと文句を言いながら部屋を横切る。それが消えるのを待ってから、フィレンスは傍らの調度に寄り掛かって腕を組んだ。そして苦笑する。
「……考えてる事は同じだよ、多分ね」
「ああ……駄目ですね。どうも自分は、儀祭司のようにはなれない」
「役割分担じゃない?」
「だと良いのでしょうが、中々」
「私も大概甘いから人の事言えないんだけどね。ああなっちゃうとどうも弱い」
 言いながら庭園の方角を見やる。止められなければ手を出していただろう、『甘い』とは、自覚しているのだが。
「師団の過干渉は、珍しいと聞きますが」
「過干渉、ね。……護衛が付くのなんて大体が王宮の高官か国外からの来賓だからね。故人として交流するなんて事ないんだよ、普通は。私たちはそれこそ最初からずっとだったから、自然とこうなったって部分もあるんだろうけど」
 『紫銀』は最初、師団によって発見され、侍従だけでは問題に対応しきれず、そのまま師団に預けられて幼少を過ごした。フィレンスとクロウィルはその前からずっと団の本部に入り浸っていたから、幼馴染と言っても過言ではない。本来なら護衛として二人が付いたのも、異例の事ではあるが、それは護衛対象の性情故でもあった。慣れない人間相手にはどうしても、身構えてしまうから。
 虚空を見上げる。今は全員、向こうに行ったようだ。鈴蘭の反応がない。隊長が何を言わずともそうなるのは、第二ではいつもの事だが。レゼリスはその彼女の言葉と様子には視線を落とす。何かを反芻するかのように、そのまま瞼を伏せた。
「……アイラーン公爵が、心配していらっしゃいました。もう何年も、この時期家に寄り付かない、と」
「事実だからね。……直接は言われなかったけど、昨日も言いたげではあったから、分かってるよ」
「まだ、お伝えにはなっていないのですか」
 沈黙、それで察したレゼリスもそれ以上は言わなかった。机の上の書類の幾つかをまとめて、目礼だけ残して去っていく。侍従達に根回しに行くのだろう、大公は留守にしている、じきに戻ると。彼は自分の領分をよく弁えている。どこまで言うべきかを明確に見極めている、だからこそ返答に窮したのも、分っているだろう。
「……ほんと有能っていうか……」
 寄り掛かったそこに重さを預ける。深く、息を吐き出した。



 適当な四阿を見つけてここで良いかと適当に決める。隠形を解いてそこに入って、備え付けられた石の長椅子にそれを下ろしてようやく一息ついた。批難の色を浮かべた紫が見上げてくるのに、眼を細める。
「自覚してんだろ」
 遠慮もなく言い放つ。他人が居れば即座に問題にもなりかねないような物言いではあるが、クロウィルは構わないと言い切った。すぐに周囲に結界が張り巡らされる。気配は少し遠い。周囲の様子にそう思っている間に、見上げていたそれが圧されたように力を失って、下へと彷徨って落ちていく。溜め息をついた。
 クロークの留め金を外して、上着も何も無いその肩に掛けてからすぐ横に腰を下ろす。顔は、見たくないだろう。
「無理に顔作るなよ、レゼリスが困ってる」
「……無理は、してないです」
「手」
 膝の上に頬杖をついたクロウィルのそれに、フェルは言葉を詰めた。自分の掌を見やる。
 開閉する、その動きすら遠く感じる。眼には緩慢に。緩く握り締める、そう見えた。力は入れているはずなのに。
「……だって」
「無理するならするで、わからないようにやれよ」
 その声の中にはいつもは無いものが見えた気がして、もうそれ以上は何も言えなくなった。俯くと、いつの間にか崩れた髪が流れて影を作った。横で、また溜め息を吐き出す音。
「師団で五十人死んだ、魔法院の老師が一人殺されて傀儡にされてた、もう一人は魔法の影響で廃人になった。それがどこまで関係するんだよ」
「でも、もっと早く気付いてたら」
「何とかなったって確証は」
「、でも、」
「それって傲慢って言わないか」
 言った瞬間に、小さい肩が息を詰めて揺れるのが視界の端に映り込む。視線を周囲に巡らせて、部下がすぐ近くには居ない事をもう一度確認してから、クロウィルは深く息を吐き出した。気持ちは分からないでも無い、何も悪くはないのだと、そう居直るよりはずっと良いが。
「……まだ侍従が信用できないか?」
 手を伸ばす。結い上げていた髪が崩れてしまっている中から、生花と簪を一つずつ抜いていく。是も否も、返答は無い。侍従と一括りには呼んでも、今の形に落ち着くまでにはかなりの時間を要した。その間にもあった事が、まだ。
「いくら大公だからって一人で全部抱えられるわけじゃないし、だからこその侍従だろ。使ってやらないと、意義が問われる。俺らみたいに『使われない方が良い』わけじゃないんだから」
「……信頼は、してます」
「信用とは別物だろ。……だったら尚更、責めるような事言うなよ」
 手の届く範囲は全て、侍従が補ってきている。主が自分を無能と称すれば、部下が無能だと公言する事と同義だ。侍従自身がそれを言う事は無いから、誰かが言わなければ気付けない。今は、追い込まれてしまっているだろうから。
 銀の中にもう何も残っていない事を確認して、手で軽く梳いてやる。反応がないのを見てその頭をゆっくりと撫でた。ゆるく、息を吐き出す音。
「……かえりたい」
「俺もだよ。堅苦しいの嫌いだしな」
「嘘ですね」
「なんで」
「なんとなく」
 言って一拍、大きく方が上下する。俯いたままの目元を拭って顔を上げるのを見て、クロウィルは頭から手を離す。代わりに細長い簪の一つを取り上げて髪の一房を手に取った。
「力抜いとけよ、保たないから」
「気をつけます。……あと少しだけだから、そんなに大きな事も無いと思うんですけど」
 言うのを聞きながら、簪を使いながら髪を房に分けていく。分けたそれを丁寧に編みながら途中でピンと生花とで飾っていき、崩れた髪を元通りに結い直す。揺れたりしないかと問いかければ頷きが返ってきて、それでクロウィルは立ち上がった。周りを見渡しながら、わざと大きく息をつく。
「息抜き、だな。すぐ戻ったら俺が怒られそうだ」
「すみません、レゼリスが怒ると怖いので」
「知ってる。何度か見てたからな。……あーでも、後で儀祭司に怒られるのだけは覚悟しておくか……」
 多分レゼリスとフィレンスと連座だ、と彼は表情を曇らせる。フェルはそれを見上げて、少しだけ首を傾けた。
「……エルディアード、第二も捕まえてます?」
「かなり頻繁に捕まってる。スフェとかジルファとか。スフェは全く堪えてないみたいだけど、他はかなり警戒してるというか」
「警戒してるのに捕まるんです?」
「ジルファはスフェと連座のが多いんだなーこれが」
 あいつら仲良いからとクロウィルは言う。フェルは少し遠い眼をした。ジルファはスフェに心酔して師団に入った、入れてしまった稀少すぎる例だ。大概は団の意義や地位に惚れていずれかの席を求めるが、それでも難しいものを全く別の目的でも入れてしまったのだから、有能ではあるのだが。
「……じゃあ、クロウィルは?」
「俺はそんなに。こっちじゃ品行方正で通ってるから」
「え」
「……え、なに」
 フェルは見上げた視線を下へと彷徨わせる。クロウィルがそれに眉根を寄せて口を開きかけた所で、不意に全く別のものを感じ取って顔を上げた。




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