黄色い紋章を、ゆっくり指先でなぞる。読み解き方は、何となくだけれど察しはついてきていた。
 今日はコウはこの部屋に留まっていて、フィレンスは他の組との任務だと言っていたから、戻ってくるのはきっと夜になるだろう。
 指先で触れたそこに、ほんの少しの魔力を注ぎ込む。そこが白く変じる分だけ。外周を覆う紋の内、一番大きく円周をとる一連が、一番やりやすいのだとはわかっていた。既に周囲には、三層分の構築陣が、数列と文字となって浮かび上がっている。ここまでに丸二日かかって、それでもあと眼に見えるだけでも四つの層が見える。連の中の数カ所に魔力を注ぎ込めばふわりと浮かび上がって、それでようやくその上の、一回り小さい円を描く一連に眼を移した。
 これは雷だと、エーフェは言っていた。手順を間違える度に手に走る衝撃も極小の雷のそれだったから、身をもって理解している。紋章は棘の目立つ文字にも見える、だが理論ではなく魔法に対する理解による勘でということなのだと、やっているうちにわかった。
 やってみようと思えばできる、それでも初めて見る部分には不安しかない。理屈が通用しない部分にどうやって手を出すかなど、今まで一度も、そんな事に触れた事もなかったのに。
 紋章が重なっている部分に触れる。僅かに魔力を流し込む刹那、空気すら波立つ程の音と衝撃が両手に走った瞬間に思わず強く瞑ってその珠を取り落として、眼を開くより早く、何かの声。
『っ、だああああもう!! 苛々すんだよお前!!』
 間近のそれに顔を上げるよりも先に項垂れる。肩に掛かったコートがずり落ちたのをコウがくわえて引き摺り上げてくれる、そこに少年の声が降り掛かった。
『ほんっとお前向いてない!! ちまちまちまちましてるくせに些細な所で間違えて何度も何度も何度も!! その度に身体ん中弄くり回される俺の気持ちにもなれってんだよ!! 馬鹿か!!』
「イーライ、気持ちは分かるから戻れ。練習にならんだろーが」
『俺を!! 練習台に!! すんな!! テティのが適役だろどう考えても!!』
「テティは簡単なんだよ、練習じゃなくてもまぐれで解ける」
『なら!! クヴァスとかに!! しろ!!』
 ばちりと雷の鳴る音。少年の声がする度にちりちりと音が鳴る。『妖精』のそれに、フェルは無言のままそちらへと手を伸ばした。舌打ちする音。
『嫌だ』
「イーライ」
『いくらエーフェの頼みでも嫌だ』
「……早く」
 顔を上げないままのフェルが、そこでようやく低く声を零す。イーライ、『妖精』は、それに黄色の眼を向けて眉根を寄せた。
『嫌だっつってんだろ』
「早く」
 コウが小さく鳴く。イーライはそれにはちらと眼をやったが、腕を組んで余所へ視線を向けてしまった。
 これで三回目だ。黄色の紋章を核とする『妖精』イーライが、我慢しきれずに姿を現したのは。エーフェは最初からイーライを説得する気はないらしく、毎回テティやコウが何とかしてくれていたのだが。
「早く」
 三度、同じ言葉を繰り返す。イーライは再び舌打ちを響かせた。
『断るっつってんだよ。そんなんじゃ何回やっても無駄ださっさと諦めろ』
「煩い。早く」
 機構の調整をしていたらしいエーフェが、お、と呟いてようやく眼を向ける。機構の内部に潜っていたテティが、エーフェが手を止めたせいか顔を出した。小さい頭が傾げられるのも見ないまま、やはり俯いたままのフェルは手を伸ばしたまま、下ろさない。
「早く」
『何回言えばわかんだよ、耳も聞こえねえのか馬ー鹿』
 コートを羽織った肩が僅かに揺れたのを見て、その顔を覗き込んだコウがその瞬間に全身の毛も羽毛も逆立てて硬直する。それすら無視してやっと『妖精』を見た紫は、剣呑に細められ、真っ直ぐに黄を射抜いた。
「Lic Luo-Brass di Cuvvid ovus Duva,"Illiaruai"」
 ひ、と小さい声を漏らしたのはテティで、眼を見開いて身構えたイーライはそのまま何も言わずに核の姿に戻ってエーフェの膝先に転がる。目を瞬かせたエーフェがそれを拾い上げるより早く身を乗り出して絨毯の上からそれを攫い、フェルは作業に戻っていく。赤い瞳が、怯えたように機構の枠からその紫銀の様子を窺っている一つに向いた。
「……今なんて言ったのあの娘っ子」
『……相当怖い事、しかも古代語』
「何て?」
『…………今すぐ文字全部潰されるのと門裂かれるのと大人しくするのどれが良い、て』
 エーフェはそれに二度瞬きをするだけの沈黙を返す。そうしてから唐突に、ぶは、と噴き出した。
『うっわ汚ッ!?』
「マジかよそれ古代語で言うかよ普通!」
 テティの声も気にせず言って、そのまま彼は笑いを抑えようというのか背を丸める。震える肩と背はそのままで顔だけ上げて見やれば、その紫銀の手の中にある核は僅かにその紋章の色を濁らせている。尚の事耐えきれなくなって、エーフェは文字通り腹を抱えて完全に顔を伏した。
「ほんとこいつ、元とはいえ『異種』相手に、して、脅しとか……! しかも古代語とか……ッ!!」
 ひぃと喘ぐような呼吸不全の音すら立ててエーフェはそのまま絨毯の上に沈む。聞こえているだろうフェルは、その笑い声も言葉もまるで意に介さずに手を動かしていた。立ち直ったらしいコウが、若干ふらついているようにも見える足取りでほとほととその彼の近くまで来て、そして機構の筺の横に腰を落ち着かせた。テティは何が嵌ったのか笑いの引かない主を一瞥して、そしてそのコウの横に降り立って膝を抱えた。
『……どしたのよ』
 唸るような鳴き声。テティはそれに、どこか青褪めた顔でどこかへと視線を泳がせた。
 ――微塵に刻むぞ魔法生物。声になりきらない程小さなその呟きも、竜の耳はしっかりと拾い上げてしまったらしい。
『……言うようには、見えないわよねー……』
 それには同意を示すようにぱたりと尾が振られる。テティは息をついた。
 古代語は『異種』に限らず、全ての魔法生物に対して有効な手段だ。言葉自体に力がありそれを制御する事ができるという事は、その発声だけで魔法に関わるあらゆる制御が可能である事も示す。はたしてそれが『異種』の核、『妖精』の核にどれほどの影響を齎すかは分からないが、力ある言葉で陣の破壊をと脅されれば、どれほど姿が違えど魔法の一種でしかない『妖精』はそれに従うほかない。まして相手が魔導師、戦闘魔法を専門にする魔法使いなら、尚更、それは脅しですまない場合すら容易に想像がつく。
 『妖精』は人間に対して攻撃を行う事ができない。少なくとも、エーフェが使役する百余の『妖精』はそのように構築陣を改変されているし、それは『妖精』自身が望んだ事でもある。例外は主の命令か許可があった時、主に危険があると『妖精』が判断した時だけ。でなければ、彼が異端を扱う人間として断罪されかねない。
 いずれにせよ『妖精』は人間に対して抵抗すら許されない。そうするための命令が組み込まれているだけとはいっても。それはどうするのだろうと紫銀を見れば、既にその手元には幾つかの式が浮かび上がって、核に走る紋様の密度が減っている。エーフェは飲み込みが早いと言っていた、ならそうなのだろう。
「っはー……」
『……やっと落ち着いた?』
「いや、思い出すと危ない」
『何がそんなに面白かったの、エーフェ』
 顔を上げた彼を見上げる。エーフェは、顔はまだ笑っているのを口元を押さえながら、いやな、と『妖精』を見やった。
「普通、これから魔法を使いますとか、作りますって時には、魔導師は魔法側にお願いする立場な訳だ。こうあって欲しいこうして欲しい、だからお願いします、って感じで構築を作ったり使ったりするわけだな、普通は。だから魔法使いにはどんな事があっても魔法を脅すなんて思考回路ねえんだわ、普通なら。相当魔法に好かれてるって自信あるか支配に自信があるか……命色が紫銀って時点でアレではあるけども」
『んー。確かにこう、違和感とか、嫌な感じはしないけど』
 あんたはべた惚れよねとテティは横を向いて、コウはつんとそっぽを向く。色の序列は決まっていても、個々の差異も無視できない。同じ見かけでも違いはあり、同じものを前にしたときの反応も違うのだから、その時々でしか分からない。紫銀を前にした『異種』の反応もそれぞれだろう、だからこの差もさして不思議でもないのだが。
 竜ほどの高位『異種』が、紫銀とはいえ人間にこうも好意を寄せている理由は気になると、エーフェはその鈍い色をした一つを見やる。察したのか竜はそのまま立ち上がって、フェルの傍らへと戻って行った。
「……『異種』の段階で、攻撃性の左右ができれば、もっと楽だよな……」
『……魔法をわざと失敗させて故意に『異種』作るのって、違法でしょ』
「やんない。流石に法で縛り付けられて免許剥奪はきついからな」
『ってことはキレナシシャスじゃなかったらやるのね……』
「この国の唯一魔法使いに優しくない所って、魔法院の認めてない手法の確立がくっそめんどくさいってところなんだよな。おちおち実験もしてらんない」
「……流石に目の前でやられたら更迭するよ?」
 唐突に声が聞こえて振り返れば、手に何かを提げたフィレンスがその布包みを示す。浮かび上がった構築陣に触れないようにしながら、絨毯の敷いてある所まで来て腰を下ろした。
「しないと私が捕まるしね」
「まぁな。道連れが欲しいわけでもないし、やるとしたらどっか他の国に出て行ってやるよ」
 からりと笑うエーフェに、ならいいけどとフィレンスは包みを差し出した。受け取って開くと、中に入っていたのは軽食。礼を言って半分を取り、残りは包み直して横に置いておく。
「任務終わったのか、早いな」
「予定より早く終わったから、そのまま来ただけ。……進捗どう?」
「中々。思ったよりも順調だよ」
 フェルの方へ眼を向けるのには答えて、エーフェはパンにかぶりつく。眺める先では次々に模様を式に開いて行く。既に八割は越えただろうか、勘を掴んだのならもうすぐだと思って時計に眼を向けた。中々外に出ないから、時間感覚が曖昧だ。二十四までの数字が十二刻みで表された文字盤の内、短針が指し示しているのは二十一。長針は二十四を超えて一に迫っている。長針の半周で一時間を数えるこれは、こまめに調整をしないとすぐに狂ってしまう。動力に己の魔力を使っているせいで、魔力の密度の濃淡が直接狂いに出てしまうからだ。調練場には常に巡らされた永続結界のおかげで魔力は常に供給され続けているが、それも連続では五日までが限界だろう。それ以上は魔力経路の摩耗が始まってしまう。
 だからこの解除が早く終われば、余裕ができる。恐らく本人はそこまで意識失念しているだろうから、あえて口にして急かすような事はしないが。焦りで失敗するよりは、終わったあとに思い出してくれた方が良い。
「……合同任務の方はどうよ」
「学院の方は急いで準備してるみたい。該当の学生は訓練中。……エーフェも参加するんだっけ」
「する、正規の黒服じゃないから後方支援だけだけどな。これも法規制がなければ前線戦力として参加できたんだけど」
「工学師って戦闘向きなんだっけ」
 あんまり詳しくないんだけどと、膝の上に登って来たコウの頭を撫でながら問いかける。エーフェは食んでいたパンを飲み込んでから頷いた。
「んでも、正確に言えば戦闘にも向いてる、って感じだな。魔法ってのは、通常構築陣を展開、同時に詠唱を行って、陣が完成したあとに名を呼ぶ事で発動するんだけど、俺みたいな工学師っていうのはまず構築陣を必要としない」
 言いながら彼はパンを包みの軽い皿の上に戻して手についた粉を払い、立ち上がる。機構の後ろに詰んでいた荷物の中から小さな鞄を取り上げて、元のように腰を下ろしてその中から円柱の形をした何かを取り出す。首を傾げるフィレンスに、彼は留め金を外してその中に入っているものを見せた。糸巻きのような、しかし巻き付けてあるのは金糸だ。
「裁縫とかで使う奴じゃなくて、魔法の触媒用に調整された奴だな。工学師はこういう、金糸とか銀糸とかを使って魔法をその場で作るんだ」
「……一回だけちらっとみたんだけど、魔法作ってるの?」
「作ってる。その場でな。構築の知識は必要だけど、普通の魔法みたいに構築陣って形で作る必要はない。工学師は魔法具を作るのが専門だから、攻撃魔法を有した魔法具を作ってるって考えてくれれば良い。必要なのは知識と多少の器用さと、あとはほんとちょっとだけの魔力だな。例えば普通の魔法使い……蒼樹の黒服が、自分の魔力全部つぎ込んで発動するような魔法も、俺は多分、低位の魔法一つ分くらいで発動できるはずだな」
「でも作るって、簡単なのならともかく、時間掛かるんじゃない?」
「作るのが面倒な奴は、普通に発動すりゃいいからな」
 そういうときはそれなりに魔力使うけどと肩をすくめてみせる。簡単と表現する範囲は人それぞれと、後は訓練や修練による。それよりもとエーフェが視線を向けるのに、フィレンスはまた首を傾げた。
「俺は、『禁忌破り』の魔力の方が気になるんだけどな」
「……私自身あんまり理解してないけど」
 言いながら、フィレンスは左手を見やる。袖に右手をかけて手袋を外した瞬間に、それを見やったエーフェは眼を細めた。袖口から覗いた黒い紋章、白い袖をたくし上げればそれは腕全体に及んでいる。
「……なんだそれ、刺青……ではないな、何だ?」
 直線の上に何か、蔦のような意匠が走っている。文字や明確な形を成した絵図は見えないが、それを見やりながら、少し考えてから口を開いた。
「団長、護衛師団のね。団長が言うにはこれが魔力経路の代わりしてるみたい。騎士の経路は称号で封印されるけどこれはその範囲に入らないみたいで、それで使えてる」
「それだけじゃないだろそれ、だったら眼に見える形にする必要ない」
「時間制限付きだからだと思う。少しずつだけど広がってるから」
「……禁忌ってそんなに必要なのか、代償。時間制限って寿命だろ」
 肩をすくめる。その一言だけで分かるのだから魔法使いの思考は分からない。腕に走るそれは、刺青にしてははっきりと黒も鮮やかで見るからに異様な空気を漂わせていたが、袖を戻して手袋をしてしまえば外からは見えなくなる。エーフェは膝の上に頬杖をついた。
「……どんくらい広がってんの、それ」
「背中は完全に、かな。左はもうあと少しで指先までいくかもしれないけど、右は肘もいってない。先に脚にいってるんだと思うけど」
 あんまりまじまじ見た事ないからと、何でもない事のような顔をして言うその様子に苦い顔をしたのはエーフェの方で、そのまま食事に戻って行く。フィレンスは一度ちらとフェルの方を見やって、まだ手元のそれに集中している様子を見て小さく息を零した。膝の上のコウが袖を軽く引っ張るのには苦笑して、その頭を軽く撫でる。それに蒼い眼を眇めた竜は、そのままほとほととフェルの方へと歩いて行く。
 その向かう先の銀が揺れる。上向いた顔の先、硝子の球を手にしたその手の周囲には真っ白な術式が幾重にも重なっていた。
「――できた!」




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