できた、と手首を軽く叩かれて、それでたくし上げていた袖を下ろした。手袋も元通りにして、それで息をつく。
「悪い、助かった」
「良いのよ。最近使ったの?」
 灰色の髪がゆらりと揺れるのには、少し、とだけ苦笑して答える。立ち上がって、その隣から向かいへと移動した。
「……でも、来ると思わなかった。団の要請には音沙汰もなかったのに」
「ヴァルディアには借りがあるから。蒼樹の居住区で静かに暮らせているのも、彼が庇ってくれているからだから」
「長官がそこまで顔が広いと思ってなかったんだよ、クウェリスだってもう昔に行方不明扱いだし」
「かれこれ三十年前かしら。だって国の追及が面倒だったんだもの」
 言いながらふふと上品に笑ってみせる。帽子から垂れる風の紋飾りがゆらゆらと揺れた。
「ユゼに見つかったときは、びっくりしたのよ。もう探されていないと思っていたし……貴方の事もね」
「俺はそれより後の事だろ?」
「そうだけれど。でも、それでもびっくりしたのは本当よ、クロウィル」
 眼を伏せたままの笑みのそれに、クロウィルは肩をすくめるだけで何も言わない。微かな布の音を聞いてかクウェリスも小さく笑う。そうしてから、緩く息をついた。
「……そうね、暫くは使わない方が良いわ。崩れていた所は直しておいたけれど、それでもまだ完全ではないから」
「分かった」
「食事はしてる? 分けてもらえる相手はいるって、ユゼから聞いてはいたけれど」
「まあ、一応。切らしてはないから落ち着いてるとは思うんだけど……父さんそんな事言ってたか」
「言ってたわ。……相方? 大丈夫?」
「相方。一応説明はしてるけど、まあ、あいつ面白がってるんじゃねーかな……」
「あら。ちょっと会ってみたいわね」
「やめてくれ」
 面倒が増える、とは声にせず、クロウィルはテーブルの上に乱雑に積まれた書類に手を伸ばす。作業の途中だったそれを持ち上げて整理する合間に、あかがねの表紙が見えて手が止まる。クウェリスの手が傍らの杖を探すようにソファの近くを彷徨うのが視界の端に映って、それで顔を上げた。
「戻るか?」
「ええ。やらなきゃいけないのが幾つかあるからね」
「送る。上だろ、階段多いし」
「あら、大丈夫よ? 使い魔もいるし」
 構わず、纏めた書類を一度テーブルの上に戻して立ち上がる。肩に黒いクロークをかけたその側に立って、手を伸ばして杖を持ち上げる。伸ばして来た手にそれを渡して、そして腕に触れれば苦笑が返ってくる。
「親に似ずに紳士」
「茶化すなよ……」
「だってユゼは、こっちは眼も見えていないのに、案内なんて一度もしてくれた事ないわ」
 言いながら立ち上がる。白い腕を軽く握るのを見てからゆっくりと歩き出す。扉を開いて、一時的だが与えられたのだという部屋に向かって廊を進み始める。暗い窓の外に視線をやっているうちに、眼を伏せたままの顔が僅かに上向いてこちらを見るのが分かった。
「クロウィルは、協会に入って何年だったかしら」
「……どれくらいだったかな。三年くらい、だったと思うけど」
「あら、じゃあもう結構経っているのね」
「それなりだな。……どうしたよ急に」
「ちょっと気になっただけよ。あとは、貴方の同期に対する興味、かしら」
 クロウィルはそれには疑念を浮かべる。灰色のその姿を一瞥するだけで視線を前へと戻し、少しの間。そうしてから、思い至ったそれに僅かに眉根を寄せた。
「……フィレンスに会ったのか?」
「人に少し話を聞いただけ。ちゃんと会って話さなきゃいけないんだけれど、中々時間が合わないみたいなの」
 それには更に疑問が浮かび上がる。理由を問いかけるより早く、脚を向けた階段の踊り場に登ってくる人影を見咎めて脚を止めた。色違いが、ぱちりと瞬く。



 できたという声と共に浮かび上がった術式が急激に膨れ上がる。風を巻き起こしたそれは瞬く間にその足元に円陣を描き出し、そしてエーフェがおお、と声を上げた。どこか期待するように向けられた紫には、即座ににっ、と笑ってやる。
「上出来」
 途端、フェルはくしゃりと相好を崩す。光を保ったまま陣を描いたそれを見やったその表情が一瞬翳りと共に笑んだような気がしたのには何も言わないまま、エーフェは自分の座ったそこにも描き出されたその円陣に手を伸ばす。触れて、そして口を開いた。
「『戻れ、"クトヴァス・イライツェ"』」
 呼ばわる、それに応えて構築陣が燐光へと変じてそのエーフェの手元へと集まって行く。持ち上げるようにした掌で集まったそれが弾けて、そして現れたのは黄の『妖精』だった。俯いたその小さい顔がちらりと向く瞬間、フェルはゆったりと眼を細めた。
「……は」
 吐息だけで笑う。『妖精』はそれを見てか両手で顔を覆ってその場に踞った。
『……もうやだ……』
「……どうしたの?」
「いやー魔法使いって時々魔法使いにも想像つかない事するよなってはなし。お疲れイーライ、中戻って休め、疲れたろ」
『向こう一ヶ月エーフェの言う事聞かないかんな俺』
「お前が魔導師に対して挑発なんてするからだろ」
 買う魔導師も魔導師だがとは、流石に言わない。ふらふらと機構の中へと入って行くその様子で察したらしい騎士が苦笑しながら黒服の肩を叩いているのを見やって、そしてエーフェは食べかけのパンやらを脇にのけてからそのフェルを手招いた。気付いて首を傾げるのには良いからと更にこちらに来るようにと言って、そして間を詰めたその銀の頭に手を乗せる。軽く、叩くようにして撫でた。
「はい、お疲れさん」
「ありがとうございます、……すみません、時間、かかって」
「いや、俺が思ってたよりも二日早い。丸三日ってとこか、まあそれは良いとしてだ、フェル」
 撫でる手が止まってもそこから動かず、改めての呼びかけにフェルは眼を瞬く。軽く首を傾げてエーフェを見上げれば、彼はにっこりと笑った。
「おやすみ」
 同時に頭に載せられた手が光を帯びる。何かを言いかけた口が声を発するより早く紫が焦点を失って、そしてそのまま力無く崩れ落ちたのを見てフィレンスはとっさに身を乗り出して手を伸ばした。
「っ、なに、」
「眠らせただけだよ、自然に目が覚めるまで寝かしといてくれ」
 抱き留めた白服が向けて来た眼が浮かべた色に、すぐにそう声を向ける。魔法で無理矢理眠らせた場合は数時間もしないで起きてしまう事が殆どだが、今回ばかりはそうはいかないだろう。
「なんせこの娘っ子、これやってる間、二時間くらいの仮眠何回か挟むだけで無理矢理起きて続けてたからな」
「……あとで言っとく」
「おう、任した」
 緩く細く息を吐き出した彼女が、やけに生真面目な顔で言うのには笑って返す。力無く眼を瞑っているフェルをひとまず絨毯の上に横にならせてから、それで、と彼はコウを見やった。
「お前はちょっと俺と来い。色々先に説明しとくから」
 鐘を打つような折り重なった鳴き声が返されて、鋼色の長い尾がぱしんと絨毯を叩く。良しと頷いて、そうしてからフィレンスに眼を向けた。
「部屋連れてってやろう。ここ結界があるおかげで、長時間隠りっきりはまずい」
「もう長時間な気もするけど……」
「まあな。影響が出る前に、の意味。俺もちょっと休憩したいし、部屋あるらしいからそっちで寝る」
 魔法の維持は『妖精』たちでなんとかしてくれる。暫くなら大丈夫だろうと、食べかけのパンの残りを手早く片付けてしまう。そうしてからその布の包みをフィレンスに持たせて、エーフェは軽い所作でフェルを毛布でくるみ、抱え上げて立ち上がった。
「……意外と」
「力はある方。こういうのの運搬とか一人でやってるしな」
 遅れて立ち上がる彼女の声には、魔術機構の鉄で出来た筺、見るからに重いそれを示して彼は言う。確かにとフィレンスが先に扉へと脚を向けて、それに続いて彼も歩き出した。
 所属者たちが居住として使っている場所から調練場がある場所までは、棟を一つ経由するか、屋外の調練場を突っ切らなくてはならないのだが、窓から見えた風景に白いものがちらちらと舞っているのを見て、二人は素直に階段の方に脚を向けた。フィレンスが大丈夫かと眼を向ければ、察したのだろう彼は平気、と返してくる。
「そういえば、なんだけども」
「何?」
「この娘っ子、協会いつ入ったんだ? 俺普段国立図書館の当たりにいるから中央にも地方にも敏感な方なんだけど」
 全然気付かなかったのが不思議なんだ、と、全く支障なく段を登りながらエーフェは言う。フィレンスがその彼を踊り場でちらと見やれば、心外だと言わんばかりに眉根を寄せた。
「情報と自分の命天秤に掛けるくらいできるっつの」
「掛けたとしてもちゃんと判断できる輩少ないからさー。最近だよ、中央の方は完全に根回し終わってるし、こっちも紫旗の団員がいるって公になってたから、誰もその事外で言わなかったんだよね」
「誰一人として? 無理じゃね?」
「生真面目多いんだよね蒼樹。白も黒も。あとはまあ……試験の前あたりから長官があからさまにぴりぴりしてたし団員と話してる事多かったから。危なそうなのは監視してたし、確かに未遂もあったけどね」
 地上階から二階へと上がる。更にもう一階分の階段へと脚を掛けたところで、後ろからしみじみとした声が聞こえた。
「……紫旗って怖い」
「駄目な事しようとするから怖い顔しなきゃいけなくなるんだよ。それに怖いのは長官の方、自分の立場も掛かってるし」
 確かに一時期蒼樹のある特定の場所が賑やかだった事はあるが、大概が悪意の無い、うっかりに近いものだった為に大事にもならず、ほとんどが誰にも知られない間に終えていた。物事の張本人ですら気付いていないようだから周囲にも知られてはいないだろう。思いながら踊り場で折り返して上へと向かう合間に、不意に耳慣れた声。すぐ近くから聞こえてくるそれとすぐに目に入った青に、眼を瞬いた。
「……今私の事話してた?」
「……噂をすればなんとやら」
「噂って」
 クロウィルの何故かしみじみとした声に、階段を上ってそちらへと距離を詰める。それにはどこか意外なものを覚えながら、クロウィルは不意にその白の後ろのもう一人に眼を取られる。桃色の髪に紅の瞳の彼は、クロウィルの片腕を軽く握ったもう一人の方を見て声を上げた。
「クウェリス、やっと会えた」
「あら、エーフェ?」
 薄く刻印の走る顔が上向く。クロウィルの腕を放して手を伸ばしたそれに、彼は両腕に抱えているそれを見下ろして、あ、と声を上げる。
「悪い今手空いてない」
「あら。……フェル?」
 途端にクロウィルが眉根を寄せた。フィレンスがその肩を落ち着け、と言わんばかりに叩く。それで確信して更に眼を細める所に、クウェリスが毛布にくるまれたその中から器用に銀の頭を探し出し、頬に軽く触れた。
「……眠っているのね。じゃあ、練習はもう終わったのかしら」
「そ、だから休憩な。俺も。クーウェが良けりゃちょっと時間欲しいけど」
「構わないわ。クロウィル、フェルを運んであげてくれる?」
「……いつの間に知り合い?」
「フェルとなら、前に話したのよ」
 言い合いながら、彼の腕の中からその身体を抱き上げる。滑り落ちたりしないようにとしてから、フィレンスが不思議そうな顔をして二人を見ているのに気付いて、それでクロウィルがああと口を開いた。
「フィレンスは初対面か」
「かな、忘れたりしてなければ」
「……あら。あなたがフィレンス?」
 声が聞こえたのか、エーフェの手を握っていたクウェリスが振り返る。片手を伸ばして、そうしながらクウェリスは申し訳無さそうに笑んだ。
「ごめんなさい、眼が見えないの。初めまして、で良いのかしら」
 それでフィレンスも納得したように声を零して、進み出てその手を取る。軽く握り返しながら伏せられたままの眼に視線を向けた。
「フィレンス・シュオリナ、と」
「クウェリス=カルツ・エルシャリスよ。会ってみたいと思っていたの、長官と、彼からよく話を聞いていたから」
 彼、と言いながら閉じられたはずの眼がクロウィルを示す。振り返った先でフェルを抱えた彼が肩をすくめるのにはどことなく不思議な心地がして、それが解決しない間に穏やかな声が続いた。
「フィレンスは、時間はあるかしら。少し付き合ってくれると嬉しいのだけれど」
「私は問題ない、けど」
 話があるのではとフィレンスがエーフェを見やれば、彼は構わないと返す。ならとクウェリスはフィレンスの手を引いた。
「部屋で、ね。クロウィル、ここまでありがとう」
 話は纏まったらしいと、クロウィルはそれには気にするなと言っておく。踵を返す前に少し考えて、それで一言付け加えた。
「転ぶなよ」
「……気をつけるわ」
 それだけで通じたらしいと分かって僅かに安堵する。じゃあとフィレンスが軽く手を閃かせるのには頷き返してから三人が階段を上へ登って行くのを見送らないまま、そこを素通りしてそのまま進んだ。
 所属者達の居住となっている南棟はどの時間も静まり返っている。陽のあるうちは殆どが任務に出ているだろうし、陽が落ちれば寝静まる。眠っている間も気を張り続ける事もあるが、それでも音は少ないものだ。
 静かだなと思いながら、廊を足早に進んで行く。今は護衛達も出払っているから囃す声すらない。あまり性には合わないと、目的の扉を見つけてすぐにその中に入った。
 入って後ろ手に扉を閉めてから、眼を細めた。施錠くらいは徹底させようと思いながら、本が至る所に積み上げられている合間をすり抜けて中二階へと短い階段を登る。本棚の奥にある寝台に慎重にその細い身体を降ろして、上半身を締め付けているベストの留め金を外してから掛布を被せておく。その寝台の端に腰掛けて、顔に掛かった銀を払った。
 顔色が少しだけだが優れない。悪いとまではいかないが決して良いとは言えないそれに僅かに眉根を寄せる。何かの訓練をしているらしいとは聞いていたから、恐らくその影響なのだろうがと、うっすらと隈の浮いた目元を拭うように撫ぜた。
 時間が合わなければ、協会の中でも会う事が難しい事は分かっている。だが数日完全に姿も見なかったあとにあれを見せられて、それで全く思う所がないというのは流石に嘘だ。我ながらに狭量だとは思いながらも、ゆっくり、何度もその銀を撫でる。
「……多分、何もなかったんだろうけど」
 フィレンスの様子からしてそれは明白だ、わかりきっている事をわざと声に出す。自分自身に言い聞かせるようにしてから深く大きく息をついた。変わらず眠り続けているフェルの様子に眼を戻して、止まっていた手をまた動かす。そのせいかほんの少し身じろいだのを見て、クロウィルは緩く頭を振った




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