何度か目を開けたような気がする。思いながら、ぼやけた視界をいつの間にか眺めていた。
 ゆっくりと瞬きをする。背と、目の前と。両方に暖かいものがある。目の前のそれを抱き寄せようとすると、顔や首元に柔らかいものが触れた。その感触が心地良くて、それで身体を丸めようとすれば、背中の方からのものが引き寄せるようにしてくる。小さく声を上げれば、くすりと笑う声。
「フェル。起きたか?」
 耳元、すぐ後ろから聞こえてくるそれに身じろぎする。上半身だけを反対に向けて、それで見上げれば青が揺れるのが見えて、ぼんやりと一度瞬きをする。
「……くろ……?」
「おはよう」
 苦笑混じりの短いその言葉に瞼が落ちる。頬を軽く優しく叩かれるのには眉根を寄せて、そして目の前のそれに縋るようにして軽く握って額を擦り付けた。緩やかに停滞して、浮かび上がりも沈み込みもしない間に頭を撫でる感覚があって、それで尚の事暖かさも柔らかさも増していく。
 吐息だけで笑う声、音だけはちゃんと聞こえる。肩を揺すられるゆるりとした刺激と声。
「フェル、起きないと」
 目を開ける。今度はいくらか、目に映るものもしっかりとした輪郭を得ていた。目の前には白、淡い青の線が幾つか見えて、ぼんやりとそれを見つめる。
「フェル」
 何度目か促される。それでようやく名前を呼ばれているのだとはっきりと認識できて、それでも感覚は戻らない。視界が陰って頬に軽い感触と音、小さく身じろぎする。被さって来ていたものが、それが最後だと言わんばかりに離れていってしまって、それで目元を歪めて掛布を握った。身体を縮こまらせる。
「……さむい……」
「今日は暖かい方だぞ。……起きろってば。コウが待ちかねてるぞ」
 苦笑めいた声を見上げる。白い背が見えて、大きく息を吐き出した。視線を遮るように顔を覗き込んできた鋼には手を伸ばしてその頭をゆっくりと撫で、そうしてから寝台に手をついて上体を起こした。髪が跳ねているのが視界の端に入り込んで、それで手を伸ばして頭を撫で付ける。手袋に包まれた手が櫛を持って目の前に現れて、それを受け取った。それでゆっくりと髪を梳かしている間に、横から彼の声が聞こえた。
「俺はもう行くけど、大丈夫か?」
 それには頷く。そうしてから顔を上げて、彼を見上げた。
「……またきてた」
「……遅いだろ、それ言うの」
「ねむい……」
「何日寝てなかったんだよ」
 ねてた、とは呟いたが、自分でもはっきりと覚えているわけではない。覚えているのは紋章の暗号を解くのに苦心していた事と、その最後には解除が終わった事で。
「……クロウィル、聞いてましたか?」
「訓練で籠ってるって、フィレンスがな。何してるとは聞いてないけど、魔法使いが閉め出し喰らってるからまた面倒な事してるんだろうなと思ってる」
「面倒……でした、けど」
 櫛を通す手をとめて眼を擦る。肩に上着がかけられて、軽く頭を撫でられる。
「だった、って事は終わったのか?」
「ん、でも、まだこれから、ですから」
「まあ、あんまり根詰めすぎないようにな」
 こく、と小さく頷く。顔を上げて手を伸ばして、窓を隠しているカーテンを少しめくると外は白く眩しく、陽は低い位置にある。まだ朝の色が濃い、鐘が鳴ってからしばらくも経っていないだろう。灯りをつけてもいないのに部屋の中が明るいのはそのせいだろうかと欠伸をしながら思う。薄く浮かんだものを袖で拭っている間に膝の上に鋼が乗ってくる。その頭を撫でて、そうしてから不意に自分が着替えないままである事にようやく気付いた。
 たしかエーフェに眠らされて、それは覚えている。そのあとずっとそのままだったのか。思っている間に、頭に手が当てられて軽く引き寄せられる。ほんの少しの別な感触、青がすぐ近くから離れて行く。
「じゃあ、な」
「……いってらっしゃい」
 クロークを羽織ったそれを呆れの溜息と共に言って送り出す。途中でその姿が掻き消えたのを見送ってから、コウを抱き上げて掛布を剥いだ。
 立ち上がった時に不意に、見慣れない色が視界の端に引っかかって、それでそこに目を向けた。首を傾ける。コウを抱え直して立ち上がり、作業机へと裸足のままで近付けば、どうやら造花の花束のようだった。
 片手を伸ばして持ち上げる。造花故なのか花弁がひしゃげてしまっている部分があるのを惜しく思うほど、細かな彩色が施された花束だ。広がった先は紫で、中心に向かうほどに赤、そして黄へと遷移している色の移り変わりに、ふとフェルは眉根を寄せた。
「……知らない花……?」
 今まで見てきた中で、こんなに多くの色を持つものは無かった。草花には興味があって、それで色々に調べていた時期もあったのだが。
 疑念が持ち上がりながらもそれを机の上に戻そうとして、そうしてもう一つ見慣れないものに気付く。一文字一文字がはっきりと、大文字で連ねられた短文が、白紙の一枚の真ん中にあった。
『早くしないと壊れるよ』
 置いた花束を見やる。思考に沈みそうになって頭を振った。二つはそのままに、身支度をと、視線を外す。



「ん、……触媒足りない」
 魔法薬の調合の為に必要な材料を机の上に並べて、その数を数えている最中に、それに気付いて声を上げる。自室の一階、ソファに腰掛けたまま膝の上に頬杖をついた。目を覚まして食事を済ませてから調練場に顔を出したら、調整をするからと言って入れさせてもらえなかった。朝の準備をしているうちにコウはどこかへと消えてしまったし、する事もないから休憩しようとなっても特に疲れを感じているわけでもないから、どうせなら任務の準備をと思ったのだが。
 任務の事は、朝食の席に居合わせたエレッセアとゼルフィアの二人が伝えてくれた。任務はあるにはあるが、それでも多めに余裕が取れるからと各々その間に準備を進めているらしい。合同任務の場には学生がいて、場合によってはその補助も行わなければならないとは言われているが、こちらの方向性としては完全に戦闘特化、高位を引き付けるように派手に、という事に固まったようだ。だからその為の準備を進めなければならない。宝珠の調整は必要ない、必要なのは魔法補助の調合品。
 それを作るのに足りないのは触媒だけで、他は全て揃っている。触媒だけなら魔石でも代用できない事もないのだが、その生成のために魔力を使ってしまうのは躊躇いが先に出る。今は後に重要な任務を控えているのもあるから、疲弊してしまっては元も子もない。調練場の永続結界は、その結界の中で消費した魔力を充填するだけで、欠けた分を全て回復してくれるわけではない。
 どうしたものかと、テーブルを一度ぐるりと見渡す。別のものも少しずつではあるが心許なくなってきているから、これを口実に買い揃えてしまいたい所なのだが。
「費用……は、気にしなくても良いとして。協会入ってほんとに収入上がりましたしね……」
 一人呟く。協会に所属する騎士の財力が凄まじいという事は、噂や、実際にそこに所属している二人を見ていて知っていた事ではあるのだが、まさか黒服がこれほどまでとは知らなかった。騎士団や魔導師団に所属する場合には定められた俸給が所得に直結するが、協会の給与は歩合制だ。しかも任務毎に細かく決定された額が、任務を言い渡されるその時に明示される。難度が高い任務であればある程報酬は上がり、ほぼ跳ね上がると言っても良い程だ。自分のような新人ですらそれを痛感するくらいなのだから、高難易度ばかりを任されるような人はどれほどなのだろうと、少しばかり脱線した方向に思考を巡らせる。
「……でも、出て行く額も大きいんですけどね」
 使い道は少ないのだが、単価がどうにもおかしな桁に迫る。魔導師は裕福だと世間一般には思われているらしいが、そんなのは偏見だと言わざるを得ない。魔法に関わる品々に触れる機会がないからそういった風に見えるんだろうなと思いながら、背を正した。暇になるとつい関係ない所にまで行ってしまう思考を、意識して本題へと引き戻す。
 足りないのであれば買いに行けば良い話なのだが、フェルは蒼樹の街を良く知らない。何度か散歩に出かけた程度で、それもそれほど広い範囲を歩いたわけでもなく、その数度も文字通り『行って帰ってくる』程度だった。居住区に脚を踏み入れたのはヴァルディアに連れられた時だけだったし、いつも人で溢れている市場にはまだ近づけもしない。
 そろそろそんな事も言っていられないから、今のこれを口実に使ってしまいたい所ではあるが。流石に、逡巡もある。街というものに歩き慣れていないのもあるから、前の散歩ですら迷いかけたのに、目的もなく歩く以上の事をいきなり出来る自信は無い。何となく情けないような気持ちからは眼を逸らしておいて、そしてフェルは虚空を見上げた。
「……どうしましょう。スフェ、行っても良いです?」
《えー、あー。あー……俺は別に良いんだけど、外出れないしなぁ。俺も蒼樹は詳しくないし》
 見上げた先からは僅かにくぐもったような声が返ってくる。外に出れないとは隠形を解く事が出来ないという意味だろう。万が一の場合の護衛とはいえ、あからさまに護衛が付いていると解ればその事でまた新たに狙いをつけられる可能性もある。よって第二部隊は常に隠形での同行、護衛が主で、フィレンスやクロウィルなら私服でなんとかなるだろうが、といった所だろうか。フェルは少しの間、小さく唸るような声を上げて、そうして天井を見上げるように背凭れに寄り掛かった。
 騎士の二人には、流石に魔導師の案内はさせられない。フィレンスは昨夜から出ているというからそろそろ帰ってくるだろうが、クロウィルは朝からどこかへ出かけたようだった。魔法具の調達の出来る場所は限られているだろうから、そこに詳しそうな人、そして蒼樹の街自体に慣れた人。その二つの条件で知り合いの名前を順繰りに挙げていく、その途中で、あ、と声を上げた。
 うん、と一人頷いて、そして立ち上がる。
「談話室行きます」
《はいな》



 談話室の扉を開けると案の定十人程度の白黒がいて、その中にはいつものようにセオラスもいた。
「おう、何かあったか?」
「……セオラスさん、なんだかいつもここにいますね?」
「一人って嫌いなんだよ俺、基本賑やかしだしな」
 声を掛けて来た彼に、扉を開けたその格好のままのフェルが言えば、に、と笑っての返答。こっちに来いと言わんばかりの手招きには素直に応じて、促されるまま空いた席に納まった。紅茶のカップを降ろしたエクサがそのフェルを見て、そして軽く疑念を浮かべる。
「訓練の具合はどうだ」
「ちゃんと……かどうかは、ちょっとわからないですけど、進んでます。すみません、任務の方、遅れてて」
 エクサの問いに被さるように横合いから差し出された紅茶を受け取って、短く礼を言ってから答える。彼はそうか、とそれに頷いて返した。
「準備さえしっかりしてれば平気だろうし、それは気にしなくていい。任務の事は聞いたか?」
「ゼルフィアさんとエレッセアさんから、朝に。……あ、で、ちょっと、聞きたい事が、あるんですけど」
 任務とは別に、と付け足したフェルに、セオラスとエクサの二人が不思議そうな顔をする。それに首を傾げてみせれば、セオラスが膝の上に頬杖をついた。
「フェルが質問って珍しいな」
「……珍しいってなんですか……如何ともし難い問題なのです。えっと、色々買い足しにいきたいなって思って、でもこの街よく知らなくて」
 言うと、聞いていたのだろう周囲の数人がああ、と声を漏らす。白服の一人がふむと口元に手を当てた。
「まだ街には行ってないのか?」
「何回か、ほんの少ししか。市場の方は何となく近寄り難い感じがしましたし……」
 今までは持っていたもので何とかなってたんですけど、とフェルは小さく付け足す。どうしてか気まずそうなそれを囲んだ面々は互いに眼を見交わした後、一様にセオラスを見た。視線の先で彼はしみじみと口を開く。
「こういう時最終的に俺に回すよなぁ、お前ら……」
「いや、だってなあ。案内できる程じゃないし」
「……ま、俺に不都合もないけど。じゃあそうだな、エクサも付き合え」
「了解、ついでだし俺も仕入れるか……」
「やっとけやっとけ。フェルは、今日は暇なんだよな」
 その問いには頷き返す。エーフェに休めと言われた後に長官とも会ったが、特に任務を言い渡されていたわけでもない。それを見やったセオラスは、じゃあ、と立ち上がる。
 ぐるりと首を回して、とある方向へと視線を向けた。
「もう一人、連行するか」



「……それで何故私なんだ?」
 ヴァルディアは言いながら眉根を寄せる。セオラスはひるみもせずに肩をすくめた。
「毎日多忙な長官様が執務室から逃げられる口実作ってほんのちょっと恩売っておこうという企み。発案はフェルな」
「ええ!?」
 ごく自然に罪を擦り付けられそうになってフェルは思わず声を上げる。ヴァルディアは盛大な溜め息をついた。
「フェル、そいつとまともに会話すると疲れるだけだからやめておけ」
「え、ええ……?」
「ひっどいなー長官様。俺可愛い冗談しか言ってないだろ、いつも?」
「お前が、……まあ良い、これ以上疲弊したくない」
 フェルはそれを聞いて眼を瞬いた。珍しい、長官が折れた。思っているとヴァルディアはもう一度溜め息をついて、そして秘書に視線を向けた。
「クラリス、そういう事だ。後は任せた」
「……この場合、私は後でこの拳をどちらに向ければよろしいのでしょうか」
 丁寧に言いながらクラリスは握り拳を作ってみせる。ヴァルディアは立ち上がりながらごく自然に眼を外した。
「だそうだ、セオラス」
「うわあ……白服と手合わせはちょっと本気で洒落にならんぞ」
 答えたセオラスも視線を泳がせて、しかし声音も表情も飄々としたまま、本音は見えない。フェルはそれらを見やって、そして不意にあれ、と声を上げた。クラリスを見る。
「? どうかした、フェル?」
「……クラリスさんて白服、なんです?」
「あら、言ってなかったかしら。ええ、白服よ。元、だけれど」
 てっきり魔法使いだと思っていたフェルのそれに、彼女はさらりと答える。ヴァルディアも、言い忘れていたと言わんばかりに口を開いた。
「元々騎士だったのを、やたらに要領が良い上に戦うのに飽きたと言うから書記官として登用し直した。元は十四階梯、蒼樹でもかなりの上位だったのだが」
「十四……て、フィレンスよりも上」
「ふふ、そういう意味じゃ先輩かしら?」
 騎士の階梯は一から十五、フィレンスはその十三に位置し、嘯いてみせたこの女性はその一つ上。最上位に継ぐ位置にあったということだ。女性では、中々ある事ではない。その彼女はすぐに視線を二人へと向け直した。
「じゃあ、セオラスは夜にでも。長官も、お戻りになった後は続きをお願い致します」
「りょーかい、っと」
「何もやらんとは言っていないだろう……」
「きちんとこなしてから仰ってください。フェル、気をつけてね」
「あ、はい」
 反対するかと思ったらすんなり許可が下りていたらしく、面食らっていたフェルはクラリスのそれにほぼ反射的に頷く。その様子に息をついたヴァルディアが、では、とそのフェルに眼を向けた。
「先に門の外に出ているから着替えて来い。市場の方に行くとなると、あからさまに黒服と宣伝するものでもないからな」




__________



back   main   next


Copyright (C) 雪見奏 All Rights Reserved.