お、と声を上げたエクサに続くように乾いた鈴の鳴る音。吹き込んできた風を断ち切るように扉を閉めたセオラスが、肩をすくめたままこちらへと歩み寄ってきた。
「外なんか急に寒く……フェルどうだ、大丈夫かー?」
「特に、何事もなく」
 セオラスの声には何の無事を確かめるのかと思わず苦笑しながら返して、見れば長官もカウンターの方に寄ってくる。それにどうしてか不意にフェルはここに来る道すがらの会話を思い出して、そして疑念を浮かべてその彼に問いかけた。
「ヴァルディア様は、十年くらい前に協会に、なんですよね?」
「ああ」
「初めて会ったのって……」
「丁度そのあたりだな。それがどうかしたか?」
 エクサを見る。戸棚と戸棚の間に立っていた彼はすぐにそれに気付いて、そしてそのフェルの視線の意味もすぐに察して苦笑した。
「確かに今のフェルよりも小さく見えたな、あの時は」
 長官が眉根を寄せる。セオラスが天井を仰ぐように視線を遠くした。
「あー……十年前なんてもうそうそう覚えてねーけど、確かに小さかったよな。入ってから暫くしたら急にデカくなったけど」
「……それがどうした、フェル」
 声の温度がほんの少し低くなっている気がする。フェルはそれに尻込みするような心地を覚えながら、それを押さえて更に問いかけた。
「……今幾つです?」
 拳が握られて固い音が響く。両手で頭を抱えて背中を丸めたフェルにセオラスが小さく笑ってその背中を軽く叩いた。
「想像ついただろ?」
「――っ、本気で殴……ッ!!」
「いやだからそれも予測できただろって、ほんと徹底してんだからこいつ」
「殴らないでも無視するとかあるじゃないですか!」
 顔を上げたフェルの眼に涙が浮かんでいるのをヴァルディアは一瞥するだけ。フェルは袖で目元を拭ってからそれを睨みつける。
 フェルがヴァルディアと会ったのは、彼が王宮に来た時が最初だ。初めて顔を見た時は声は交わさなかったが、それから暫くして何故かヴァルディアひとりでフェルが生活していた離宮へ来た。そうして何度か顔を会わせて、ようやく協会の存在を知ったのが六年前。その頃から魔法を習い始めた。同時に剣の訓練も始まったのだが、最終的に残ったのは魔法のみ。だからフェルが協会に入ったのも、ヴァルディアの影響が大きい部分はあるのだが。
「……何か増えてんな。どーも領主様、捕まったのか」
 不意に別の声が割り込んで、フェルがそちらを見れば包みを抱えた店主が後ろ手に扉を閉じた所だった。カウンターに戻ってくる間にヴァルディアの溜め息。
「領主ではないし捕まってもいない」
「同じようなもんだろ、ここいらの政治は協会の仕事だしな」
 茶色い薄い紙で包まれた小さいそれをフェルに手渡しながら店主は言う。フェルは礼を言って受け取って、代金諸々のやり取りを済ませて行くその後ろで会話は続いていた。
「税のいく先は国だからな、私の所にも街の運営にも来ていない。それで領主も何もあるまい」
「おお? 珍しく遠慮か」
「妙な責任を押し付けられるつもりはない」
「左様で。……ああ、そこで良い。ありがとな」
 署名の記された小切手に彼は大様に言って、ペンとそれを拾い上げてさっさと仕舞ってしまう。そうしてからそれでと他の面々に眼を向ければ、エクサが思い出したように声を上げた。
「そうだ、ディシス入ってるか」
「入ってるが、取るぞ」
「……少しくらいは加減してくれれば良いんだが。使う予定があってな」
 椅子の上から退いたフェルと入れ替わりに前に立って、エクサは淀みなく幾つかを挙げる。やり取りをなんとなく眺めているフェルの横で、ヴァルディアが不意に腕に抱えていた紙の袋をがさがさと開いて、そして視線をフェルへと向けた。
「フェル」
「あ、はい?」
「口」
 言われて反射的に開いたそこにヴァルディアが楕円をした何かを突っ込む。半分も入りきらない大きさのそれに眼を瞬いたフェルは、そのまま大人しく一口噛み付いて、咀嚼して飲み込んでからもう一度眼を瞬いた。
「……美味しい、です」
「行きずりに押し付けられた」
 示されてもう一口噛み付いて、包みを抱え直してから手に受け取る。黄金色に焼き上げられた生地に柔らかな甘い香り。林檎のパイ包みだろうかと首を傾けると、気付いたらしいセオラスがああ、とその背に声を掛けた。
「カーシュのらしいな。パイとか好きか?」
「大体、なんでも好きです」
 洋梨に似た、桃のような梨のような甘さを持つ果汁の多い事で知られている果実の名を口にしながらの問いには、口の中のそれを嚥下して口元を押さえながら答える。甘い。そういえば昼を食べてなかったと思いながらそれを見やれば、黄色味がかった白い果肉が生地に挟まれていた。さくさくと音を立てるそれを落とさないように注意しながら片付けてしまってから、ちらとヴァルディアを見やれば、彼も何か摘んだのが口を動かしている所だった。時計を取り出したセオラスが、もうそろそろ昼時も越えるかと呟く。
「……あ、ちゃっかり」
「手持ち無沙汰でな」
 一通りのやり取りを終えて気付いたエクサには長官がすぐに返して、それにフェルは申し訳無さげに小さく笑う。遅れて気付いたらしい店主は肩をすくめるだけで何も言わずに、その彼が立ち上がりかけた所で扉が開く音。
「師せ、いっ!?」
 間髪入れずに聞こえてきた声は一瞬で翻って、それで店主が煙管を手に移してそれを見る。扉から顔を驚愕の表情を覗かせていた女性に向かって、彼はああ、と声を零した。
「帰ってきたか」
「え、あ、帰ってきて、た、けど」
 紺色の視線が店主とこちらとをせわしなく往復する。きっちりと被った帽子から垂れる珠飾りと布地を揺らしながら、こちらを覗くようにしたその体勢から動かないのを見て店主はにやりと笑った。
「んだよ、客いるのなんて珍しい事じゃねえだろ」
「いやあの……客の内容がね?」
「全員魔法使いだろ、珍しくもない」
「何で堂々と黒服の一番上」
「……素直に長官って言ったらどうだよ」
「えええええだって……」
 張本人が息をついて、それでようやく小さく声を上げたその人がいそいそと扉を越えてこちらへと姿を現す。一般に街に暮らす女性達に比べればすっきりとした出で立ちの、左腕に青い布飾りをつけた彼女は、少し申し訳無さげに笑みながら背を正し右腕を伸ばしてその手を反対の肩へと真っ直ぐ当てる。敬礼の立ち姿、そのまま彼女は言った。
「失礼しました。警備第一大隊三班、シュネリア=カテイアルです」
「気にするな、公務で来たわけでもない」
「一応、礼儀というか」
 あとで知れたら怒られるので、と彼女はやはり小さく笑う。ヴァルディアが軽く手を上げればそれで敬礼を解いて、そうしてシュネリアが何かを言う前に立ち上がった店主が口を開いた。
「弟子でな、練金術師だ」
「工学師みたいな事は出来ないから、警備隊じゃ中方配備ですけど」
 奥へと向かう彼を見送りながらシュネリアが言う。首を傾けたフェルには横のセオラスがほんの少し背を屈めた。
「前方、中方、後方配備の三つがあって、中方は前線支援と伝達だな」
 前方が戦闘要員、と付け加えられて眼を瞬く。役割が明確に分けられているのか。見れば分厚い上着の下には剣帯が見えた。剣自体は隠れてしまっているが、練金術師でありながら剣も扱う人なのだろう。
「少し前に警備隊の方にも行ったのだがな」
「今日は大隊長たちも総出で色々見回りに行ってます。『異種』の方は、協会の方でやって頂いてるおかげで最近は平気なんですけど、代わりに色んなのが出てきてて」
「色んなの?」
「物取りとかひったくりとか。余裕出てきてるのかな」
 エクサが問いかければシュネリアは眉根を寄せながら答える。ヴァルディアが息をついて外を見やった。
「……場所は、どうだ?」
「どちらかというと南と北の方でぽつぽつって感じで、主に商業区と学区、あとは地下街が酷いですね。強盗……えっと、二種、が多いんですけど四種も増えてて」
 言いかけて言い直す時に、ちらとその紺色の眼がこちらを見た気がしてフェルは疑問符を浮かべる。エクサが眉根を寄せてセオラスが腕を組んでふむと息を零す。長官は溜め息を吐き出した。
「全く……」
「……すいません……」
「いや、警備の責任ではない、が……面倒ばかり重なるな。『異種』騒ぎの方は?」
「街の方は、あんまり。東が大変だって噂は聞いてますけど、この街はいつも通りです。村の方も警戒してますけど、人口が少ない所は目立って多くって程ではないみたいです」
「地下は」
「支路が少し不穏ですけど、抑えられてます。外街路は崩落したままでもう『異種』も通れませんし」
「……行くか?」
「その方が良いだろうな……」
 エクサの問いにはヴァルディアは吐息混じりに答える。フェルは首を傾けた。地下、と小さく口の中で繰り返す。
 街の下に地下街が広がっているというのは、ヴァルディアにも聞いた話だ。何も蒼樹の街だけではない、王都にも地下街と呼ばれる物はあるし、それは名の通り都市の真下に広がる街だ。
 竜、『異種』であるコウを拾ったのも地下街だったが、あれは地上に居住場所を持たない、事実地下だけで生活が成り立つようにと設計された蒼樹の街の外部居住区だったもの。地上と通じる出入り口があるとはいえ、そういった街は寿命が早い。人が移り住んだとしてもすぐにその場所の土が死んでしまう。使い切ってしまうのだ。だから一時期は国中に建設された地下街も、もう現存するものは少ない。協会や王都の街に残っている地下街は、厳しい規制の下で運営されている、珍しい例だ。
 だが、と、フェルはヴァルディアを見上げる。気付いた彼がそれを横目で見返して、そして深く溜息を吐き出した。
「シュネリア、だな」
「はい」
「地下隊に聞きたい、話を通しておいてくれ」
「了解しました!」
 再びの敬礼と共に応え、彼女は戻って来ていた店主に一言断ってからすぐに扉の向こうへと消えてしまう。こちらで話している間に取引を終えていたエクサが包みを受け取って椅子から立ち上がった。
「どこから?」
「塔から入る、一番わかりやすい」
 言いながらヴァルディアの手の甲がフェルの側頭部にぶつけられる。フェルが眼を細めて叩かれたそこをさすりながら、しかしその仕草だけで他に何も言わないのを見てセオラスが成程と小さく零した。フェルが極力反応しないようにとしているのに苦笑を浮かべて、ではとエクサが店主を見れば、彼は不意ににやりと笑う。
「嬢ちゃん」
「え、はい?」
 急に呼びかけられて振り返った拍子に何かを投げ渡されて、空中に弧を描いたそれを慌てて手を伸ばして掴み取る。片腕に荷物を抱えながらで捕えられた事に安堵しつつそれを見やれば、水滴のような形を模したペンダント。
「……アミュレット?」
「外もそろそろ雪降りそうだからな、地下行くにも行き帰りで濡れたらマズいだろうよ」
 眼を上げればにやりと笑う表情。まさかと表情が強張るのを見てか彼は煙管の煙を吐きながらまたにやりと笑った。その表情の向かった先にはヴァルディア。
「よく隠してたもんだな、こんなんで」
 金の眼がそれでようやく動く。微かに眇めるように動いたのを見て、フェルは受け取ったそれを持つ手が強張るのを感じた。変わらない声音で彼が口を開く。
「街の内部にさほど深く関わらないのが黒服の利点でな、『異種』との接点の方が人よりも余程多い」
「良く言う、所属を信用してるわけでもねぇのに」
「信用と手の内を明かすことは別物だろう」
 ヴァルディアは顔色一つ変えずに返し、応えるように煙が吐き出される。店主の笑みは変わらず、蜘蛛の形を描いた紫煙はくゆりと溶けて消え、完全に見えなくなってしまう前に煙管を手に持ち替えた彼が椅子に戻って頬杖をついた。
「優待でもしてくれんなら手貸すぜ?」
「腕が鈍っていなければな。セオラス、先に」
 簡潔な呼びかけに、二人の会話を黙って聞いていたセオラスが肩をすくめて踵を返し、それに続いたエクサが苦笑しながらフェルの背を軽く押す。眼を白黒させていたフェルは慌てて店主に一度頭を下げてから二人の後を追って、開いた瞬間に冷風の吹き込んできた扉を潜って大通りへと出た。冷たい空気に首をすくませながら渡されたアミュレットを首に掛けて上着の中に仕舞う、一瞬光ったそれは、染め粉が落ちないようにする為のものだ。魔法使いには分かってしまうのかと振り返れば、硝子の向こうでヴァルディアと店主が何かを言い交わしているのが眼に入る。エクサが息を吐き出した。
「相変わらずだな」
「だなぁ。頑固者同士気は合うのに仲が悪いったら」
「……えっ、と」
 小さく声を漏らす。二人は眼を見交わして、セオラスが軽くそのフェルの肩を叩いた。
「元黒服、だな。行こうぜ」
「え、あ、はい」
 促されて声と共に頷き返す。先導するエクサの後について歩きながらフェルは横のセオラスの袖を軽く引いた。軽く振り返るような仕草を見せた彼に、小さく問いかける。
「さっきの人……」
「ん? まあ、色々あったんだよなぁ。あいつも黒服の中じゃ結構古株だったんだけどな、四年前に辞めたんだ」
 四年前、とは声に出さずに反芻する。定かではないが引っかかる。確かヴァルディアが長官の位を前任者から任されたのが、その頃ではなかったか。
 ――なんとなく落ち着かないような心地がする。ほんの僅かでも剣呑な空気があった。自然視線が落ちて袖を握る手に力が籠る。そのまま黙り込んでしまったフェルをちらと見やって、エクサはセオラスを見やり、その視線に彼はがしがしと頭を掻いた。あー、と、無意味な音を漏らすが反応はない。少し考えて、それで掴まれている袖を少し揺らせば紫が上向いた。すかさず問いかける。
「地下の入り口の場所知ってるか、フェル」
「えっ、あ、たぶん、知らないです。地下って、入るの初めてで……」
「一つも知らないか、入口?」
「……いくつかあるんですか?」
 前に立つエクサが小さく笑うのが聞こえてフェルはその背を見上げる。急な問いに何だろうかと首を傾けた拍子に、その彼の向こう側に白い建物が見えて眼を瞬いた。いつの間にか大通りの人の波は落ち着き始めていて、運が良ければ道の先までよく見える。右手で掴んでいた袖を離して二人の間の隙間を覗き込むようにすれば、真っ白な石で組み上げられた背の高い何かが建物の上に顔を出していた。
「……塔?」
「と、この街では呼んでいるな」
 フェルの呟きにはエクサが応える。高さで言えば左右に並ぶ家々の二倍程度だろうか、時刻を告げる鐘楼よりは低いが、青い瓦の中で頭の先まで真っ白なそれは目立つ。協会の部屋からでは気付かなかったのか。大通りを中程まで登り終えて、真右に折れる。路地裏よりは広い道に入る、協会から見れば東の方向。
「古い物見櫓を改築……改造、かね、この場合は。色々に手を加えて地下との道にしたやつだ。正式な名前がないから塔やら入り口やら言われてる」
「入り口……地下のです?」
「だな。運が良ければ面白い物も見れる」
「面白いもの?」
 入り口に面白いもの、と言われても想像がつかない。何だろうかと疑念を抱えているうちに、道の先に東に伸びる大通りが垣間見えた。




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