朝に眼を離したら、その間にあの子はどこかに出掛けてしまったようだった。
 起きた時は、変に眠そうにしていたから、大丈夫だと思ったのだけれど。最近はずっとあの大きな部屋にいたから今日もそこにいくのかと思ったら違ったらしい。思いながら建物の中をほとほとと歩く。歩く合間に見慣れた扉の前を通りかかって、その前に腰を下ろした。尾を振る。左右に二巡。軽い音がして扉が向こう側に開く。
「あら、コウ。こんにちは、長官探し?」
 クラリス、と呼ばれているこの人は、察するのが上手いから好きだ。尾で床を叩けば、扉を開いたままその場で膝を折って手を伸ばしてくる。撫でられるのは嫌いではない。眼を閉じて撫でられる感触を楽しんでいると、すぐ上から困ったような声。
「ごめんなさいね、長官は今出掛けていて居ないのよ」
 手が離れていって、眼を瞬く。少し首を伸ばして部屋を覗き込めば、言う通り部屋の中に彼女以外の人はいない。いつもは机の前に座って紙を睨んでいる彼がいない。小さく鳴いて彼女を見上げれば、眦にも申し訳無さそうな色。
 腰を上げて床についた彼女の膝に前肢を乗せ、その頬に顔を擦り付ける。苦笑と首元を撫でられる感触。
「日が暮れる頃には、流石に戻ってくると思うわ。良かったらまたその頃においでなさいな」
 もう一度尾で床を叩く。クラリス、が立ち上がって扉を閉める所までを見届けて、くるりと身を翻した。
 明るいうちは人が少ないから良くない。あの子がいないとなると部屋に戻って寝ている気分にもならないし、テティがいる所はいろんなものが沢山広がっているから少し苦手だ。なんとなく、肩身が狭い、のような感じがする。テティもグレイもイーライもあの部屋から離れられないと言うから、べつな居心地の良い所を探さないといけない。
 廊下をほとほとと進む。途中に何人かとすれ違って各々に撫でてもらう。建物の中を歩く時は、いつもより少し大きめの格好だ。あまり小さいと踏まれてしまいそうで少し怖い。きっとこれから外に出るのだろう白や黒を見送って、そうしてからまたほとほとと歩き進める。今日は晴れていて光や火の精霊達が元気だから、屋根に登れば一緒に遊べるかもしれない。最近はあの子の氣で全て足りているから、精霊を追い掛けなくても良いし、そうすれば精霊達も逃げずに遊んでくれる。小さな精霊は怖がるかもしれないけれど、最近は雪のとよく会うようになったから。
 なら一度外に出るかと、階段がある方向に廊下の分岐を折れる。長官、に、一番門に近い建物の二階から下は入ってはいけないと言われている。外の人間が入ってくる場所だから、らしい。特に不便もないから言われた通りにしている。多分あの子や長官に迷惑がかかるからだろう。フィレンス、や、クロウィル、は、どうかはわからないけれど。思いながら隣の建物に繋がる渡り廊下をほとほとと進んでいる間に、聞き慣れた音。足音。脚を止めて真反対を向いて、それでその場に腰を下ろした。尾をゆったりと振るう。左右に五巡。廊下を折れて渡り廊下に現れた青と翠が、お、と声を上げたのには鳴き声で答えた。彼はすぐに距離を詰めて、そしてすぐ目の前で片膝をついて顎の下と頬を大きく撫でてくれる。
「どうした、一人で歩いてるの珍しいな」
 だって気付いたらあの子がいなかったのだから仕方が無い。眼を細めると苦笑が返ってくる。頭を軽く撫でられた。クロウィル、は、手が大きいのと触り方ががさつでないから好きだ。離れていった手が肩を示して、来るか、と聞かれてすぐに一度目を閉じる。
 体から力を抜けばすぐに炎が巻き上る。形が小さく歪むのをいつもの所で止めて床を蹴って彼の肩に跳び上がる。青い火はすぐ消える。ひと、人間に何か害のあるものではないから別に気にしなくても良いのだけれど、翼の先の方に小さな火がついたままなのを何回か羽搏いて振り払っていると、青い頭が少しだけ傾いた。
「大丈夫か?」
 すぐにその頬に頭を擦り付けた。首元を撫でられて、それで彼は歩き始める。どこに行くのかは知らないが、誰かがいれば建物の囲いの外に出ても平気だと言われているから、きっと平気なはずだ。
 ――それにしても本当に、あの子はどこに行ったのだろう。この囲いの中には、その欠片も、あの子の匂いがしない。



 笛の音に振り返り、背後を見やる。数人の男性が手摺に駆け寄っていく、その間にも笛の音は続いていた。長く響いた音は尾を引いて、そして溶けるように消えていく。音はどうやら穴の下から聞こえたらしいと見ていると、先程の男性が大きく声を上げた。
「準備は?」
「出来てます!」
 誰かの返答、すぐさま彼が笛を取り出して暗い穴の底に向かってそれを吹き鳴らす。少し長めに三度、立て続けに。間を置いて下から同じ音が同じ調子で返ってきて、そこでハシェラエットがは、と顔を上げた。上向いた顔は塔の上部を見上げている。
「う、わ、折角間に合ったのにっ」
 そしてすぐに塔の壁の方へと走っていき、そこからまた上へと伸びる階段を素晴らしい勢いで駆け上がっていく。残ったクライアとサシェルは仄かな笑みでそれを見送り、フェルはエクサを見上げた。
「上って、何かあるんです?」
「昇降機を動かす仕組み、だな。動力は魔法だが、仕組み自体は歯車だ。そういうものは全部上にある」
「シェラエがそういうの好きなので、それで無理して走ってたわけです」
「お、お疲れさまです……」
「自分達は全然疲れてないんですけど。体力はそこそこある方だし」
 言ったクライアが眼をやった先でサシェルが頷く。フェルはその様子に眼を瞬いた。
 なにとはなしの親近感。ちら、とこちらを見た茶色の瞳と眼が合う。その瞬間に互いにそこはかとなくまごついて、それを互いに見て肩の力が抜けた。
 通じた気がする。何がというわけではないが。茶色の瞳が先程よりは落ち着いて二人を見やった。
「あ、と……お二人は、地下街に?」
「ああ」
「そうしたら……えっと。寮長とか、塔の下の人達にも言われたんですけど、最近下だと特に物騒なのが増えてるらしいので気を付けて下さい」
「上だとそうでもないんですけど、向こうは少し外れの方に行くだけでも殺人が起こったりしてるみたいで、人気の無い所に行くのは男女関わらず危険だそうで」
「……みたいだな。そんなにか」
 色んな人間から聞くが、とエクサが言った二人を見やれば、二人とも首肯で答える。クライアが自分のコートの襟元を摘んだ。
「だから制服で、って事だと思います。学院の制服知らない人はそうそういないだろうから」
「成程。それなら三人とも早めに戻った方が良いな、学院の外に来るなら武装してないだろ」
 エクサが言った瞬間に二人とも眼を逸らす。剣士二人の姿の中に剣帯が見えないのはそのせいかと思っていると、急に辺りが明るくなった。何だろうと広い空間を見渡せば、手摺に丸く囲まれた深く大きなそこに巨大な構築陣が浮かんでいた。思わず眼を見開く。幾つも浮かんだそれらは穴の下の方まで何重にも重なっているようで、見上げれば塔の上部にも同じ陣の光が灯っていた。巨大な鎖が四本伸びた先に、複雑に絡み合った鉄の歯車。その表面には直接何かの陣が彫り込まれているように見えた。
「わあ……」
「おおー。久々に見るなぁ、これ」
 フェルの感嘆にクライアの声が被さる。何度目か笛の音が響き渡って、それを合図にゆっくりと滑らかに歯車が回り出す。重い摩擦音と擦れる音を立てながら鎖が巻き上げられるのを見つめているフェルに気付いてか、サシェルがその肩を軽くつついた。振り返った赤い瞳に、茶は手摺の方を指差してみせる。
「……近くで見てみます?」
「……ます」
 こくりと頷いたフェルと誘いかけたサシェルは、それで並んで構築陣の方へと歩いていく。気が合ったらしいとそれを見送ったエクサは、同じく動かず留まったクライアに向けて口を開いた。
「……起こってる事件って」
「強姦とかですね」
「だよなぁ……」
 今までとは違う、僅かに抑えられた声の端的な即答に鳶色の髪を掻く。見るからに未成年がいるから皆言葉を濁していたのだろう。気を遣われている本人にはその内容を気にしているような様子は無いが、そうでなくとも大人は子供には甘い。十八の成年も迎えていないとなれば、二十やそこらの若い人間ですら気を回すものだ。
「口封じの為なのか、そのまま殺害される事が多いみたいで。被害者と犠牲者が丁度成年の前後に固まってます。口封じに殺してるのなら街の人間だろうって目星はついてるみたいなんですけど、それでも中々捕まらないらしいですね。単独犯ではないだろう、だそうです」
「……」
「……ほんとに気を付けて下さいね。魔導師がそう簡単にどうこうされるとは思いませんけど……」
 塔の真下へと折り重なった構築陣が緩やかに揺れ動いているのを眺めながら眉根を寄せたエクサに、クライアもそちらに眼を向けたまま言う。エクサは深く息を吐き出した。
「……一瞥して魔導師と分かれば良いんだが」
「……ですよねー……」
 見えない、とは言外に零される。衣服が整っている分良い所の子供にしか見えない。この街に慣れている様子も無いから、傍目に受ける印象には最近来た移住者か、あるいは親の仕事かなにかについてきた子供、といったところか。標的にも選ばれやすいはずだとクライアは言いたいのだろう。その懸念の通りだ、だから敢えて既に、とは、口にしなかった。
「……ていうか本人が全然警戒してなさそうなんですが、それは」
「……多分想像がついてない」
「……わあ。どこの方ですか?」
「ちょっと箱入りが行き過ぎててな。大事にされすぎていたらしい」
 生まれはそうではないらしいが、とは付け加えておく。恐らくだが嘘は言っていない。王宮で見かけたあの様子では、きっとその外に出ると言った事も無かったのだろうし、ずっとあの中でと言うには自由すぎる。視線の先の構築陣が白から赤に色を変えて歯車の動きが次第に緩やかになる。そろそろかと思うと同時に、穴を覗き込んでいた二人の片方が声を上げたらしかった。迫り上ってきたそれは、太い縄で厳重に台の上に固定された馬車が、二台。
「……まるごと……!?」
「あ、でも馬は別の道通って来るんですよ」
 眼を丸くしたフェルにサシェルが言う。落ちたら大変だからとサシェルが言うのには、フェルはゆっくりと上ってくるそれと彼女とを交互に見て、そして何故か無意味に荷物を抱えない手を上下に泳がせた。
「……荷物って言うから荷物だと思ってた……」
 どうしてか愕然とした様子のそれにサシェルは一度目を瞬かせて、そうしてから控えめに小さく笑う。代わるように眼を瞬かせたフェルが助けを求めてエクサの方に顔を向けるのを見てか彼女は小さく手を左右に振った。
「あ、違うの、えっと。下に降りてみるとわかると思う、行商人の人が集まる市場があって、いつもすごい活気だし……いちいち馬車からここで荷物降ろして、市場まで運んで、それを戻してってするの、時間も人手もいるしで大変だから」
「……そ、っか……そですよねたしかに……」
 泳いでいた手が手摺に戻って落ち着く。もうすっかり姿を現した馬車の回りでは台を木の床と連結させる為に何人もの男性達がせわしなく動いていた。少しもしないうちに手摺の一部から留め金が外され扉のように開かれて、馬車の縄を解く為にか何人かがそこに向かって行く。後ろの方で鎖の音、ついですぐに呼びかけられた。
「フェル」
「あ、はい」
「サシェル、そろそろシェラエ捕まえて戻らないと」
「あ、そっか、時間経っちゃってるよね」
 エクサとクライアのそれぞれにそれぞれが応える。じゃあ、とクライアが言うのを合図に会釈だけ交わして、それで二人は塔の扉の方へと向かっていく。途中に階段から降りてきた一人と合流してその姿が見えなくなったのを見送って、そうしてから不意にフェルはあれ、と声を上げた。周囲を見渡す。
「……どうした?」
 それを不思議に思ったのかエクサが軽く顔を覗き込んでくる。その彼を見上げて、フェルは首を傾げた。
「セオラスさん、は……?」
 言えば彼も眼を瞬く。そうして周囲に眼を向けて、鳶色の髪を掻き混ぜた。困ったなと言わんばかりに溜息を吐き出して、低く声を零す。
「……何をやっているんだ、あいつも……」
「え、と、どうしましょう……?」
「……先に行くか。ヴァルディアも、もう先に下にいるだろうし」
 目を瞬かせる様子には何故かと首を傾けて、そうしながら彼は彼女の背を階段の方へと押してやる。素直に歩き出したのをそのまま階段へと向かいながら口を開いた。
「ここの他にも地下と通じている場所は幾つもあるからな。ここで足止めされた分、迂回路を使っていたのならあちらの方が早い」
「あ、と、そうじゃ無くて……」
 今度はエクサが疑念を浮かべる。鎖で閉鎖されていたそこから下へと一段踏み出し、最初の大きな十数段を降り切ってから、小さな踊り場でフェルはエクサをもう一度見上げた。
「呼び捨て、なんですね」
「……ああ、……そうだな、俺は、呼び捨てだな」
 階段には低い手摺が付いている。幅は広く、塔の真下に伸びる穴の外周に沿って螺旋を描く、その四半分ごとに踊り場が設置されているようだった。段自体は大きくなく、塔に入った時には無かった灯りが今は全体をぼんやりと照らしている。
「気をつけろ、踏み外すと一気にいくから」
「大丈夫です、……たぶん」
「ゆっくりな」
 足元が全て明るいわけではないが、暗すぎてというわけでもないから平気だろうとは思うのだが、確証はない。やはりここに来るまでと同じように袖を握る手があるのを感じながらエクサは階段を下へ下へと向かう、その合間に、ふむと息をひとつ。
「……気になるのか?」
「えっ?」
「ヴァルディアの事が」
「……気にならない人の方が少ないと思いますけど」
「そうだな」
 思わず苦笑する。そうしてから、そうだな、と、視線は段の先に向けたまま、少しの間考える。
「……あいつは堅苦しいのが嫌いだそうだからな。俺が呼び捨てにするのも、あいつが長官になってすぐの時に、試しに一度『様』を付けてみたら無視されたからだ」
「……なん、か、」
「子供っぽいだろ。尊称やら敬称を付けられるのは、どうも苦手らしい。相手が相手なら聞かなかった事にもしているし……俺の場合は唯一の同期だからというのもあるだろうが」
「……唯一?」
「ああ」
 最初の踊り場に辿り着いて、次の段へ。壁は煉瓦とタイルで綺麗に整えられていた。
「俺達が入った時は、試験は今と違って春と秋にやっててな。それで春の試験を受けたんだが、その試験で入れたのは俺とヴァルディアだけだったんだ。俺はもう成年してたが、あいつが見るからに小さくてな。その時から齢も本名も明かしてないんだが、それこそ最初は小さすぎるから隠してたんじゃないかとも言われてたな。その後は想像通り、だが」
「白と黒合わせて、二人だけ、だったんです?」
「だったんだな。試験を受けた人数はもっと……それこそ何百人かいたはずなんだが。筆記で落ち課題で落ち、残った殆どが実戦試験で落ちた。その時の試験監督だったのが、あの店の店主だな」
「……それって……」
「鬼教官だったぞ、あいつは。あの時は、新人には教官がついて、それで訓練を行ってから任務に、という形だったんだが。お蔭でかなり鍛えられた」
 螺旋を何巡も降りていく。その終点へと近付いていく毎に周囲が明るくなっていく。
「……あの人は、どうして」
「脚をやられたんだ。任務中にな。治癒が遅れて障害が残った、普通に生活する分はさほどではないが、前線には立てない」
 言う彼のそれに、眼を落とす。段を下りながら思い起こす。そんな素振りは、少しも見せなかったのに。
「……誰の所為でもなく、な。それでヴァルディアが長官を継いだのと同時に、それまで黒服に教えていたのを辞めて街に降りた。理由はいくら訊いても教えてくれなかったが」
 工学師をやっている方が実入りが良い。そう冗談めかして言うだけだった。そのまま口を噤んだエクサの袖が、僅かに引かれる。眼をやれば、今は紅に変じた紫は、下を向いたまま。
「……どうした」
「……エクサさんは、協会から出ようって、思った事、ありますか?」
 蒼い瞳を瞠る。間を置いて、そうしてから階段の先に視線を戻した。
「……そうだな……」
 階段の終わりが見えてくる。地下とは思えないほど明るい空間が見えて、螺旋を下る間に垣間見えた扉の足元に、見慣れた色が小さなものに囲まれているのが見えた。




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