さてと、と、彼が声を上げるのに、黒い服を少しだけ握る。すぐに気付いたのか、エーフェはからりと笑って見せた。
「んな緊張すんなよ」
「う……で、でも」
「お前がそんなだとあいつの方が不安だろ?」
 あいつ、と指し示された方にフェルが目を向ければ、浮かび上がった球状の構築陣を眺めているらしい背中が見える。ぱたりと、尾が揺れた。屋内調練場、広い空間に大きく展開されたその球体は、数を数えれば丁度二四〇あるらしい。十二の倍の、さらに十倍。
 調整も、何日もかかるほどは弄らないとは言っていた。日が変わればそうだろうと、何となく予想もしていた。任務まではあと十日、さほど時間も残されていないとは、理解している。だから朝にここを覗き込んで、いけるかという問いにはすぐに頷いた。
「おさらいな。俺のこっちの魔法で、まずコウの核を守ってる外殻を緩くして開く。その中で核を探すんだけど、そこまでは簡単に終わるはずだ、外殻はあの構築陣の中に保存されるから、お前は核が陣に吸い込まれる前に確保するだけで良い。吸い込まれちゃったらまずい事になるけど、核は目に見えてそうだとわかるから、楽だな」
「はい」
 周囲の魔法は静かに揺蕩うだけで、音は何一つとして零さない。緊張しているのはそうだ、工学師にしか前例のない『異種』の『妖精』化、それを自分で行う事になる。止める気は無いが、可能か不可能かも不透明な中で自信も何も無い。
「核が取り出せたら、お前が齟齬を解いて構築陣を開く。この部分は、俺達は手を出せない。他人がやればその他人の『妖精』になっちゃうからな、コウもそれは望んでいない。良いな?」
「……はい」
「うん。で、構築陣が開いたら、普段の魔法構築と同じだな。ちゃんと直してやって、コウ自身の意思と話して折り合いつけて、名前を聞いてくる。魔法名を教えてもらえたら、あとは呼んでやれば良い。簡単だろ? だから、気負うなよ」
 言う彼の手が頭に置かれる。思わずフェルが視線を落とした先、床にはもう絨毯も無く、白と灰色の艶やかな石材が組み合わさって模様を描いているのがよく見える。
「ま、心配すんな。危ない事になったら手伝いはするし、駄目なら駄目で別のやり方も考えてる。ただ、これが最善だ。『異種』じゃなくなるのが、たぶん魔法にとっても一番良い。魔法そのものに戻れなくてもな」
「……そう、です?」
「『妖精』になった事で文句言われたことないから、俺。もう百以上をやって来て、一度も。……俺自身に文句言われるのはしょっちゅうだけどな」
 最後の笑いかける調子のそれには、フェルもつられて小さく声を上げて笑う。手が退いて行くのを見上げて、そうしてからゆっくりと頷いた。
「大丈夫です。やってみます」
「良し。クーウェ、準備頼む!」
「ええ、任せて頂戴」
 エーフェの紅の眼が向いた先、構築陣が立ち並んだそのただ中に据えられた椅子に腰掛けたクウェリスが呼びかけに応える。魔法の発動はどうしても早い、どれだけゆっくり作業を進めようと思っても、本来であれば一瞬で始まり終えてしまう効果とその作用を送らせるには、魔法そのものの時間経過を緩やかにするしか無い。時の扱いに長けたエルシャリスなら、この数の構築陣でも一手に引き受けられるだろう。瞳を閉じたままの微かに刻印が浮いた顔がこちらを向いて、そして笑みの中で次いでフェルに声が向けられる。
「頑張るのよ、フェル」
「はい!」
 両手を握り合わせて応える。今朝からももう一度、イーライ、あの雷の『妖精』の核を解いて、『妖精』本人からもなんとか及第点を貰った。イーライとコウの核が同じであるはずも無いだろうが、一度掴んだ感覚は頼りになるはずだ。フェルがそう思って軽く息をつく、その足元にすり寄る感触がして眼をやれば、鋼色。
「コウも、少しの間我慢してくれな」
 エーフェのその声には、くおん、と折り重なった声で応える。肩にいる時よりも大きな姿、中型犬のような大きさのそのすぐ傍に片膝をついて、フェルはその首元に手を伸ばした。
「よろしくお願いしますね、コウ。私も頑張ります」
 くる、と小さく鳴いた竜はそのまま眼を閉じて、そうして黒い首元に顔を擦り付ける。フェルがその柔らかな羽毛に抱き付くように抱き締めれば膝の上に前肢が乗って、そして肩を翼で覆われて小さく苦笑した。眼を閉じる。
「……頑張りますね。コウと、沢山話したいです」
 耳元で柔らかな聲。それを合図に手を離して、ほぼ同時に鋼の前肢も降ろされる。身体を振るって軽く羽撃くような仕草、尾がぱたりと大きく振られる。翻った体躯は迷い無く部屋、この巨大な調練場の中央、陣に周囲を取り囲まれ円形に残された空間の中心へ向かう。丁度石材の突き合わせの部分、星を象るように白と灰色が配置されたそこで、鋼色は何の前触れも無く青い炎に包まれた。
 熱を持たない炎はそのまま大きく膨れ上がり、その最中に炎の合間に深い色が炎の幕を突き破るようにして姿を現す。広げられた長大な翼は二対のそれが重なったような形をして、そしてもたげられた太い首の先には鋭い牙を備えた顎、見慣れた蒼の瞳。石材の上に腰掛けたそれが尾を緩やかに足元に巻き付けるその動きだけで窓も無い空間に風が流れる。人の背丈など軽く越える、この調練場の天井までも、恐らく上向けば触れてしまうのではないか。そう思うほどの、見上げる巨体。
 形だけを見れば、この竜は犬か狼かに似ている。ただ実在するそれに比べれば首元はすんなりとしていて長く、四肢も力強い。蒼は足元に立つフェルを見下ろして、そしてその鋼色の体躯をゆっくりと伏せる。それでも広く設けられているはずのこの中央の円も竜の体躯で埋め尽くされそうで、フェルは頭上に降りて来た鋼色の翼を見上げて、そして首と太い前肢の間に誘い込む仕草に思わず踏みつぶされないよう、その羽毛を踏んでしまわないように、抱き込まれて行くその奥へと入り込む。明るいはずの室内の光が竜の体躯と被せられた翼に遮られて、途端に暗くなった。
 コウ、と、小さく呼びかける。押し潰してしまわないようにだろうか、僅かに隙間の設けられたそこに立って、そしてその首に手を当てる。暖かな、柔らかい羽毛。撫でようと思えば、手首まで沈み込んでしまいそうな。声は、この柔らかい羽毛に吸われてしまうのだろうか、口に出した途端に消えてしまう。
 頬を当てる。まるで解したばかりの綿に抱き付いたかのような、まるで冷たいところも無い場所。眼を伏せる。
「……ちゃんと、訊きに行きますから」
 聞こえたのか、低く喉を震わせる音。離れた場所からエーフェの声、そして急激に魔力が渦巻く感覚が襲い掛かって、唐突に手に触れていたその感触が薄れて、フェルは眼を開けた。頭上の翼が崩れる。手に触れた鋼が黒い煤のように空気に解かれて、四方の球体の中へと吸い込まれて行くのを視界一杯に収めながら、ゆっくりと視線を巡らせる。鋼の色をした空気が流れて行く速度は、ひどくゆっくりだった。恐らくはクウェリスの魔法だろうと思っている間に視界の端に何かが入り込んで、それで弾かれるように眼をそちらに向ける。
 身体を翻す。急く気持ちを押さえつけながら空気に蟠る色の付いた風を掌で掻き分ける。澱んだ泥が水で流されて行くように竜の色が流れて行く。触れる事の出来る色、質量のある空気のその塊に、フェルは躊躇う事もせずに手を伸ばした。
 指先で触れるだけで、凝ったそれは愚鈍なほどにゆったりと流れる風に流されていく。掌で押し出すようにすれば山に積み上げた砂を崩すかのように崩れ去っていって、その合間に輝くようなものが垣間見えた。塊も端から色が流れ出して少しずつ小さくなっていくのを待てずにその周囲を掻き分けて、その中に埋まったそれを丁寧に両手に掬い上げた。粘土のように核にまとわりつく色を丁寧に掌で拭う間に、声が一つ。
「大丈夫かしら?」
「大丈夫です」
 背後からのそれに、フェルは両手に核を包んでクウェリスを振り向いて声を上げる。途端に周囲の色の付いた風が一気に周囲の構築陣に吸い込まれていって、引かれるような重さを増した手の中のそれを胸元に抱き込む。円形の陣へと吸い込まれて行った鋼色は揺蕩ったまま消えるような事もなく、フェルはそれに安堵して小さく息を吐き出した。『異種』の身体は全てが氣と魔力、それが消えれば存在を保てなくなるのは、普段自分がそれを狙っていることを思えば容易に想像が付く。『異種』が消える事に恐れを覚えるのは、初めてだけれど、既にコウは。
 抱き込んだ核が引き寄せられるような、だが抑えていれば押さえ切れてしまうその引力が消え去ってから両掌にその珠を転がした。やはり硝子のような透明な膜が継ぎ目もなく球を描いて、その上には変わらない深い鋼色の模様が刻みつけられている。
 だがその浮いた線を見やって、フェルが眼を見開く。落とさないように注意しながら、爪が当たってしまわないように気を付けながらその模様を眼で追いかける。すぐそばに近付いてくる足音。
「……どうした?」
 エーフェのその問いにフェルは顔を上げて、そうして手に持った核を示しながら、困惑したように口を開いた。
「これ、コウの……紋章、というか……」
 口籠るようなそれを不審に思ってか眉根を寄せたエーフェがフェルの手の中を覗き込む。一言断ってから、核を包むようにしたフェルの両手を下から支えるように手を伸ばして、そして軽く引き寄せるようにした彼の紅の瞳も僅かに細められる。
 イーライの紋章は、雷の魔法だからだったのだろう、棘のある文字のような、それでも明確な意味を持たない線の集合だった。だが、この、コウの核は違う。
 一本の線で描かれた、ぶれも迷いもない、どう見ても絵の形をした暗い鋼色のそれは、樹や家や、人を模しているように見えた。小さな子供が描くような、だが定規で測ったような直線で連なって。
「……この紋章は、その魔法の性格と性質の両方が表れるもんだ。攻撃魔法なら荒々しく、それ以外であれば、それぞれに。良く見てやれ、……できそうか?」
「……やります」
「良し。核の保定は出来たから、あとは時間掛けても良い。ただ、効果を現した後四日以上はこの魔法は保たない」
 言われたそれに眼を上げる。フェルが見上げた先で、エーフェは周囲の球の構築陣を見やった。涼しい顔をしている、と、脈絡もなく胸中に落ちる。これだけの数の魔法を発動するだけでなく、連結までさせて使役するのは相当に気力も使うだろうに。思う間に声。
「『異種』の構築を無視して無効化して、元に戻せるように分解して外側に留めて、それを続けるのは四日が限度だ。魔法の強度の問題もある。コウが大きすぎる魔法で、大きすぎる『異種』だってのもそうだけど。それ以上に、こっちの魔法が壊れればそれがまた『異種』になりかねない」
「……はい」
「頼んだな。任務まであと十日ある、二回は出来る。焦らなくていい、ただ失敗だけはするな。何か起こるか、こればっかりは保証しかねる」
 頷き返す。魔法は失敗すればどうなるか分からない、それは誰であろうと知っている事だ。『異種』にならなくとも、暴走してしまえばこの場に居る全員が巻き込まれる。巻き込まれれば死ぬか、良くて四肢の幾つかを失う程度だろう。暴走が向かう先は術者だが、彼を殺すわけにはいかない。この魔法は、必ず『異種』に対抗する手段となる。完成さえ、すれば。
 その為の今回でもあるはずだ。試行する回数と人数、対象の種類を増やしていく。そうして完成度を高めていく。不具合があれば何度でも修正して、万人が使える魔法に、が、この魔法の目的だ。実験台として使われる事に対する不快感も、今回ばかりは言っていられない。
 時間的な猶予はあと十日。実際にはそこまでも使えないだろう、だから二回これを試みる事が出来るのかどうかも、正直なところで言えば怪しいはずだ。だから尚更、失敗は出来ない。この空間に広がった二百四十のどれ一つとして、壊してはならない。
「言って、こっちの魔法が崩れるくらいの失敗なんてそうそう起こらないとは思うけどな。かなりの強度はある、相互で支え合ってもくれる。だから力抜いとけ、良いな?」
「はい。大丈夫です」
 やはり、核に触れないようにだろう、フェルの手を支えるように添えていた右手で軽くフェルの肩を叩き、エーフェはそのまま背を向けて遠ざかっていく。フェルはそれを見送るよりも早く視線を巡らせて、少しの間だけ迷い、そのまま冷たい床の上に腰を下ろした。
 両手に持ったその珠を見やる。綺麗な、継ぎ目も無い完全な球体。何層にも重なった硝子のようなその一番上には、家屋や人を幾つも象った一筆の絵が浮かんでいる。その上下にも一つずつの細い線。先に見たイーライの核とは明確に形が違い過ぎる紋章だ。魔法として大き過ぎるからなのか、『異種』として大き過ぎるからなのか。エーフェはこの核の文様にも意味があると言っていた。イーライの核、その紋章が文字や絵でなかった事にも、コウの紋章が、こうして意味ある図形である事にも、同じように意味はあるはずで。
 見てやれと、その言葉の通りに、ゆっくりとその絵を追いかける。小さな家、そのすぐ傍には人が二人立っている。親子なのだろうか、片方は小さく、そしてその二人は手をつないでいるのだろうか、腕の先は丸く絡んでいた。
 ――フェルはただ何もせずに、その文様を解く為にでも無く、指先をその濃い鋼色へと滑らせる。



 大丈夫かしらというクウェリスの問いかけには、エーフェは肩をすくめて見せた。彼女の両目が見えていない事は知っているが、それでもこちらの仕草までをどうやってか見ている事も知っている。振り返った先に、魔法に取り囲まれたまま床に座った黒の姿。
「駄目なら俺がやる。コウには恨まれるかもしれないけど、仕方ないしな」
「そんなに急ぐ事なのかしら。どうしても、私には性急なように見えてしまうわ、エーフェ」
「急いでるんだよ。この期間のがしたら、俺は蒼樹にはいれなくなるし、あいつは出れなくなる」
 椅子に腰掛けたクウェリスの顔がそちらを向くのが分かる。距離がある、その上もう目の前のそれに集中しているだろうから、こちらの声などとっくに聞こえなくなっているだろう。
「……お前なら、この魔法も使えるかもしれないけど、やる気無いんだろ?」
「ええ。私はもう自分から魔法に関わるのは止めたから。頼まれれば、頼んで来た人によっては引き受けるけれど、貴方も私に頼むつもりは無いでしょう?」
 クウェリスのそれに、エーフェはただ無言で頭を掻いて、彼女の腰掛けた椅子の足元にどかりと座り込んだ。胡座の上に頬杖を吐いて、そして溜め息を吐き出す。
「……引退するんなら、する前にお前の知識全部寄越せって言ってんだろ」
「嫌よ、と、何度も言っている事だわ。それに、私なんかよりは、貴方にこの魔法の手掛かりをを教えてくれた『例の人』の方が良いのではないかしら?」
 エーフェは、浮かぶ構築陣の合間に黒と銀を見たまま、何も言わない。クウェリスはその沈黙に苦笑を浮かべながら、笑んだ口元を軽く指先だけで押さえやる。
「『彼女』、だったかしら? 銀の髪の。意外だわ、貴方がそういう個人の事で他人に肩入れするなんて、思ってもみなかったのだけれど」
「……うっせ。完成させたいだけだっつの」
「そうすれば『彼女』が気付いて見つけてくれるだろうから」
 付け加えられたそれには今度こそ彼は大きく息を吐き出した。クウェリスはやはり小さく笑う。
「『アルシェ』、だったかしら、『彼女』の名前は。私も、そんな名前の魔導師が居るなんて、聞いた事も無いのだけれどね。随分と世捨て人なのか、それとも敢えて隠れているのかしら」
「俺にとってもレティエル並みの信じられなさだよ、白昼夢か」
「かもしれないわねえ。本当に単なる夢かもしれないわ。こんな魔法の手掛かりを見つけるなら、相当な実力者でしょうに」
 急に現れて未完の魔法を預けて消えるなんて、と、そう続ける声にはそれ以上の応えはない。そのまま会話の途切れるままに沈黙が続いて、そうして新しい燐光が見えてようやく、エーフェは吐息まじりの声を漏らした。
「ああ……始まったな……」
 手を動かしているのだろう、銀が揺れる。その手元に燐光が灯るのが、ここからでも見えた。
 ――だからここから先は、一対一だ。




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