眼を開けて、そうしてからフェルはすぐに床に右手をついて起き上がった。左手の中に変わらず硬質な感触がある事を確認して、そうしてから空いた片手で目元を擦る。ぐるりと周囲に視線を巡らせれば変わらず鋼色は床に突き立って、布のようなものも変わらず一様に揺れていた。
 朝から真夜中までやっても、核を解き切る事は出来なかった。層の数がイーライとは段違いに多いのだ。今のところ失敗はしていないが、途中で数えるのを諦める寸前では、たしか二十三を越えていたように思う。雷のそれは十すら越えなかった。
「おはよう、眼は覚めたかしら」
「……クウェリスさん」
 すぐ傍まで歩み寄って来た彼女は、そのまま隣に膝をつく。眼が見えていないのにそうと分かるのは不思議でも、やはり距離感は掴み難いのか、あるいはクウェリスにとってはそれが常なのか、ほんの少し距離は近い。
「ええ。丁度朝頃よ、エーフェは部屋で寝んでいるけれど、さっきクロウィルが食事を運んで来てくれたの。まだ温かいうちに食べてしまいましょう、それからでも、まだ時間は十分あるから」
 言われて一度、フェルは眼を落とした。変わらず、硝子のようなその上には鋼色の模様が浮いている。
「焦らないのよ」
 その声には眼を上げる。眼の開かないうっすらと刻印の浮いた顔は、笑みを浮かべていた。
「ね?」
「……はい」
 時間はあるのだと言われている。焦れば焦るだけ見落としの可能性も高くなる、失敗して振り出しに戻るよりは良い。だからゆっくりでも着実にと、クウェリスは言いたいのだろう。それに首を振る意味も無かったから頷いて、それにクウェリスは笑みを深くした。
「こっちにおいでなさい、ずっとこの調練場にいて寒いだろうって、皆して色々持ってきてくれてるの。食事はちゃんと取らないとね。……その子は、今は置いておきなさい」
 手に持ったままの核を見下ろす。手を離せば、この球体は棒の突き立つこの風景の中をゆったりと浮かぶ事も分かっているが、だが途中で離れるのは気が重い。察しているのか、クウェリスは苦笑しながら手を伸ばした。頬に触れる。
「大丈夫よ。待たせてしまうのはそうだけれど、急いで貴女が無理をして、それで身体を崩してしまったら、コウはその方が嫌だと思うのだけれど」
「……そう、でしょうか……」
「魔法にだって自我があって意識があって感情があるわ。それは貴女もようく知っているでしょう? 食事も待ってくれるわ、きっと」
 ――焦って無理をして、それで何か間違いを犯さないとは限らないのはそうだ、それはフェルも理解している。それでも気が急く。期限が決まっているのもあるだろうが、それだけではないはずだ。
 足音が聞こえて眼を上げれば紅桃の彼が鷹揚に片手を上げる。クウェリスも振り返って彼を見上げるように顔を上げた。
「おはようエーフェ。貴方も、大丈夫かしら、寝ていないようだけれど」
「あーまあ、色々な。ディアと話したりしてたら時間無くなった。お湯使ったから眠くはないけどな。フェルも寝起きか、ここで寝たのか?」
「え、と、はい、部屋に戻るのも、なんかちょっと……」
「あー。気持ちは分かるけど、ちゃんと寝れる間は部屋戻っとけよ、まだ修羅場ってほど修羅場でもないんだし」
「あと三日もしたら悠長な事は言っていられないけれど、ね。エーフェも食事はまだでしょう、食べてしまいなさいな」
「お、俺の分あんの、なら貰う。フェルもこっち来い」
 さっさと踵を返してしまった彼が背を向けたまま言うのにはほんの少し逡巡して、しかし結局ゆっくりと完全な球体をしたそれを注意深く、宙に差し出すように手放した。上向けられた掌で僅かに転がるようにしたそれはそのままふわりと浮かび上がって、そして周囲を取り囲む棒のひとつひとつに触れるように、緩やかに上下に振れながらゆらゆらと辺りを漂い始める。ふらふらとしているようにも見えるそれに不安を拭えないままフェルは立ち上がって、同じように立ち上がったクウェリスがその手を取って歩き始める。鋼色の棒は触れても何の感触も無く、歩く支障にもならない。黒い服に触れても突き抜けるだけだった。
「蒼樹に立ち入り許可出て一番嬉しいのはこの調練場使えるって事だけど、望外に嬉しいのが飯が美味いってところだよなあ。一昨日は変に豪華だったけど」
「随分と沢山だったものね。でも皆毎日任務で駆け回っているから、食事が美味しいのは当然かしら。これで美味しくなかったらやる気も削がれてしまうかもしれないものね」
「多分に所属者が作ってるからってのも理由だろうけどな。北とか南じゃこうは行かないだろうなあ、東は俺は分かんないけど、リアならなんかやってそうだよな」
「かもしれないわね」
 言い合う二人のそれにフェルが首を傾げる。振り返った先、突き立った鋼の風景からは随分と離れた壁にも近い場所には絨毯が敷かれてあって、そこには幾つかの覆いが被せられた皿が並んでいた。一足先に絨毯の上に腰を下ろしたエーフェが手招くのには素直に従って膝を折りながら、フェルは同じように皿を囲んで腰を下ろしたクウェリスを見やった。
「クウェリスさんもエーフェさんも、リアファイド様と知り合い、なんです?」
「だな、俺もクウェリスもヴァルディアもリアファイドも、同じ紫樹学院の同じ学年で入って、仲良く飛び級して仲良く同じ年に卒業した同じ班員」
 眼を瞬いた。長官が学院に通っていたとは、前にクウェリスから聞いてはいたのだが。
「紫樹、だったんです?」
「そ。当時は士官学校と並んで最難関って言われてたところだな。今は蒼樹だけど。確か最初、一年の時は別々だったんだけど、その後色々あって二年に上がるって時にそのまんま直接四年に振り分けられてな、学院だと後半三年間は魔導師と騎士とで四人ないし五人の班作って、その班ごとで点数とか付けられるんだけど、俺らは全員半端者」
「何故か士官学校に行かずに協会学院に来た公爵家の長男、工学師の才能はあるのに宝珠を作るのにも魔法具を作るのにも興味が無い工学師見習い、三〇〇も歳を数えてから面白そうだからって学院に入った魔導師、その魔導師と結託してあちこちに火種を撒いて遊ぶ事を目的としているような魔法使い、明らかに学院には不釣り合いな小さい子供。その五人でね」
 再び、フェルは眼を瞬いた。
「……リアファイド先生と、エーフェさんと」
「おう。……ああ、そうか、リアお前の先生なのか」
「あ、はい、剣を教えてもらってました。ちょっとだけ、なんですけど」
「成程な。じゃあ剣もある程度は使えるのか」
「ちょっとだけですけど、護身程度は。……で、えっと、リア先生とエーフェさんと、……クウェリスさんと……?」
 眼を向ければ、灰色の女性は上品に口元を隠してふふ、と笑う。長命種族であるとは知っているが、三〇〇を越えてと、言っていなかったか。皿から覆いを外して、その中に据えられていた大皿から別の三つの白皿にそれぞれの分を取り分けながらの紅がその灰色を見やった。
「何、言ってないのお前」
「だって訊かれていないから」
 言葉と共に差し出された取り皿を礼を言って受け取り、クウェリスはそうしてから眼を瞬いたその表情のままのフェルを見やった。
「エルシャリスは長命種族の中でも特に寿命が長い種族なの。平均寿命は一二〇〇程度と言われているわ」
「……一二〇〇、って」
「ええ、相当長いのよ。だから皆のんびりで、だいたい五〇〇歳くらいになってからやおら勉強とか、そういうのを始めるの。不老の種族ではないから、見かけも歳と一緒にどんどん変わっていくけれど。そんなだから、エルシャリスで三〇〇で学校を出てるって、結構早い方なのよ?」
「……えっ……」
「こいつの場合は三百になる前に相当色々やらかしてたらしいけどな」
 言葉と共に白い取り皿が差し出される。多めに取り分けられていたのはまだ熱く湯気を立てるドリアだ。渡されたスプーンを手に持ちながらクウェリスの方を見やればにっこりと微笑まれて、なら教えてはくれなさそうだと一度目を落とす。あと二人。
「……結託してた、っていうのが、……ヴァルディア様……?」
「……心外だな」
 心臓が跳ねた。肩も跳ね上がったそのまま振り返れば金色が立っていて、そしてフェルは冷や汗が流れるのを感じながらもゆっくりと視線を外してそのまま口を噤んだ。ヴァルディアは面白そうな表情を浮かべている、何か口走れば絶対に言いくるめられて終わる。誤摩化すようにドリアを一口、口に入れる。熱いソースと融けたチーズがしっかりと味のついた中に濃く絡んで美味しいと、思考を逸らせて咀嚼した。エーフェの笑う声。
「で、どうしたよ長官様」
「呼び出しだ。クウェリス、訓練の順が回って来た、屋外だ。疑似戦闘で最終的な練度を判断する、準備して向かうように」
「了解したわ、長官。これを片付けてしまったら、すぐに行くわね」
 これ、と言いながら彼女は手に持った皿を示してみせる。ヴァルディアはそれに頷き返して、次いでもう一人に眼を向けた。
「ついでに、エーフェ、お前の訓練は免除になった」
「りょーかい。まあそんな気はしてた」
「工学師だものね、それだけで何の支障もないのは分かるのだけれど」
 スプーンを咥えたまま応えたエーフェには片手を伸ばしてそれを奪い、手に渡しながらクウェリスが言う。無言で口を動かしていたフェルが既に皿の半分程度を収めてしまいながら眼をやれば、エーフェは特にそれに抗議するでも無く、そのまま食事を再開する。
「少し羨ましいわ」
「言われてもなあ」
 言い合うのを聞くうちに、フェルは後ろに立ったままのヴァルディアを見上げた。眼が合って一拍、黄金は不意にああ、と声を零した。
「いや、違う」
「あ、そうなんです?」
「そう見えるというのは同意するが」
 そうなのか、とフェルはそのまま納得して皿に眼を戻した。手と口を動かしてドリアを口に運んでいくそれを見やったエーフェがすぐにヴァルディアを見上げて、それに長官は疑問符を浮かべてみせた。
「何だ」
「……今の何?」
「……ああ。仲が良いように見える、という話だな」
「あら」
 クウェリスが顔を向けた先、フェルは既に一度空になった取り皿に新しく取り分けた一山に手をつけている。小さく笑うクウェリスに、その横のエーフェは呆れたような表情を見せて胡座の上に頬杖をついた。
「……ほんと良く食うねお前」
 手を止めたフェルがそこでようやく顔を上げる。口の中のものを咀嚼して飲み込んでから、首を傾げた。
「……そう、です?」
「男の一人分よりも食ってるんじゃないかって……フィレンスとかクロウィルが多めに持ってくる理由が分かったってか」
 ここでの練習が始まってからこのかた、食事はここでする事の方が多い。実際には食堂に行って食べたところでさほど時間が変わらないのだが、時間のかかるかからない以前に籠り切りでいる所為で時間経過も失念して食事も忘れかけているから、それを見越した周囲が持って来てくれるのをここで食べている、という方が正しい。そしてここに常に居るのはフェルとエーフェの二人だけで、自然食事もその二人でか、運んで来たフィレンスかクロウィルが同席するかといったところだ。
 そして運ばれてくるその食事の量は、明らかにその人数分を越えているのだが、余ったためしは一度として無い。より正確に言えば、フェルが目を覚ましてその食事をきちんと口にしている場では、皿の上に何かが残っているという事は無かった。
「……たくさん食べるとは、良く言われるんですけど」
「どこに消えてんのその質量」
「……胃……?」
「内蔵の順を訊いてるわけじゃないし食べたものの行く先の最初が胃じゃなかったら俺はお前が人間に分類されてるその前提自体を疑うぞ」
 眉尻を下げたフェルが再びヴァルディアを見上げる。ヴァルディアは溜め息をついた。
「そこでどうして私に振る」
「だって」
「……普通それくらい食べているのなら縦か横に伸びるだろうとは思うが?」
「……縦に伸びて欲しいのは山々ですけど、意識してどうにかなるものじゃないじゃないですか、それ」
「フェル、背もまだ小さいものね」
「いいんです、まだ伸びる可能性ありますし」
 ふい、と拗ねたようにどこかへと目線をやったフェルはそのまま目の前の山を崩していく。頬張っているでも立て続けに口の中に詰め込んでいるでもないのに見る間に二つ目の山が崩れて小さくなっていくのを見ながら、だがそれには何も言わずにヴァルディアは軽く息を吐いた。
「それで、誰が何と結託していると?」
「学院の時の話をしていたのよ。そうそう、私と結託して色々なところに嵐を巻き起こしては楽しげに笑っていたのはヴァルディアではないのよ、もっと別の人」
「別な人」
 そんな迷惑な人がいたのか。何となく感心している間に上からヴァルディアの呆れたような声が降ってくる。
「どういう説明をしてるんだお前は……」
「間違ってはいないでしょう? 私と結託してあちこちに火種を撒いていたのはスィナルで間違いないのだし、学院に不釣り合いな程小さかった子供も貴方で間違いないはずだわ?」
 フェルの手が止まった。一拍遅れて口元を押さえて飲み込んだ後に盛大に咳き込み、咳き込みながらも見開かれた眼はクウェリスを見て、気付いたらしい彼女はにっこりと笑みで応えた。
「王族って自由人ばかりだわ、貴女もスィナルも」
「っ、え、ちょっ、と、へい、えっ、え!?」
「ええ、貴女の母親、今の国王、女王陛下。彼女は紫樹学院に居たし、身分を隠して学生をしながらあちこちを混沌に陥れて遊んでいたし、ヴァルディアなんてまだ髪も長くて無口で口下手で可愛くて」
「、え、」
「クウェリス」
「何か間違っているかしら?」
「要らない事まで言うな」
「どこが要らない事かしら。端的になる部分を選んだはずなのだけれど、足りなかったかしら、あとは……」
「それ以上は不要だ、言うな」
「あらそう? 残念だわ」
「えっ、あっ、待、気に」
 なる、と言いかけた瞬間に頭を掴む感触があって言葉は自然と喉の奥へ消えた。ぎり、と、軋むような音。
「――お前も、何も、訊くな」
 背後のその人に握られている、押し付けられるように。だがそれだけではない、声がほんの僅か笑っているように聞こえるのは、気のせいなのか、あるいは。
 返答も出来ないままで数秒、そして唐突にそれらが一気に失せて、フェルはそのまま一言も漏らさずに手を動かして口にドリアを運んだ。少し冷めてしまっている。握られた頭がじんわりと痛い。意外そうな顔をしたエーフェを無視して、ヴァルディアはクウェリスに眼を向けた。
「……お前を放置しておくと良い事が無い」
「あら。だって楽しいんだもの、貴方で遊ぶの」
「……もう良い。来い」
「あらあら、仕方ないわね」
 言いながらも眼を閉じたままの彼女は素直に立ち上がる。過保護とは思いながらも何も言わず、ドリアを口に運んだスプーンを口にくわえたそのままでエーフェはひらひらと手を振ってそれを送り出して、フェルは振り返りもしないで黙々と口を動かしていた。
 広い空間の遠くで扉が開いて閉じる音がして、それを聞いてからようやく、手を止めたフェルが深く息を吐き出した。眼を向けた先で紫がどんどん横へと流れていくのを見つけて、エーフェは面白そうに笑う。
「負けてんなあ魔導師」
「あの人が強すぎるだけです……」
 負けている事は否定しないらしい。持ち直したのか食事を進める手は淀みない。そうだと思い出して別の覆いを外して、その中から大きめのポットを見つけて、その脇のカップを取り出して二つに注ぐ。片方を差し出せば、丁度皿の上を綺麗に何もなくしたところらしい紫銀は素直に礼を言ってそれを受け取った。食べる量も多いが、速度すら早い。噛まずに飲んでいるわけでもないだろうが。
「……聞かないんだな?」
「……ヴァルディア様のですか?」
「そ。気になるんだろ?」
「気にはなりますけど……」
 紅茶からは湯気が絶え間なく立ち上っている。綿の詰まった覆いがしっかりと被せられていたから、まだ熱いままだろう。返答を待つ間に互いに一口それを飲む。フェルはカップを膝の上に降ろしてからも少しの間考えていた。
「……でも、訊くなって言われましたし」
「……おう。……お、え、良いのそれで」
「穿鑿するなって言われてるのに、するのって、後ろ暗くないです?」
 エーフェは何度か眼を瞬かせたあと、がしがしと自分の頭を掻いた。そのまま眼を逸らせてどこか苦い様子で紅茶を口に運ぶ。今度はその様子にフェルが眼を瞬かせる。
「……なにか、変、です……?」
「んー、……いや、変ではないな。ちょっとこう、俺がアレだなあと思っただけ」
「あれ?」
「何でもないから気にすんな。……で、だ。気分転換は大丈夫そうかね」
 言われて、その瞬間にフェルは眼を見開いて背後を振り返った。広がった鋼の気配。エーフェは軽く声を上げて笑う。
「その調子なら、大丈夫そうだなぁ」
「あ、の、えっと」
「慌てんなっての。お前一度に二つの事考えられないやつだろ、それ。すぐ目先の事に眼が向いて後の事忘れる」
 小さく呻いた紫はそのまま静かに俯かされて、垂れた髪とカップの間に隠される。若干赤くなっているのは、自分でもそうだという自覚が多少なりともあったからだろう。ゆっくりと紅茶を一杯分飲み終えたのを見て、エーフェはさて、と膝に手を当てた。そのまま立ち上がる。
「そんじゃ、続きやるか。見といてやるから」
「え、と、その……」
「どしたよ?」
「その……す、すみません……」
 紅が瞬く。笑ったそのまま手を伸ばして、気まずそうに俯いたままの頭を軽く叩いた。




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