目の前に広がったその景色に眼を開いた。見えた蒼に思わず立ち上がって辺りを見渡す間に、周囲に広がっていた鋼色が一斉に溶けて一様に広がる線と同化して行く。足元、陣を描いた鋼は緩やかに蠢いて。
「、え、なに、」
核の模様が全て解けた、そう思ったと同時に姿を現したそれに意識が追いつかない。急に魔力が抜けていく感覚、結界によって疲労は無いまま眼に見えるのは蒼穹、足元にも蒼。ただ鋼だけが止まらずその中に広がって行く。思わず後退りそうになった瞬間に遠くからの声が突き抜けた。
「まだ動くな、お前が軸になってる!」
「え、っ!?」
「想像通りだけどマジで構成魔法かよ半端ねえな竜!! 待ってろ今こっちの魔法解くから!!」
「え、……は!?」
どこか楽しそうとも嬉しそうとも自棄とも聞こえるエーフェの声、だが立て続けのそれにもやはり思考が追いつかない間に周囲に展開していた二百四十が唐突に消え失せる。同時に空気が重さを増したような感覚に陥って、だがその重さすらすぐに地面に落ちて行く。自然と見下ろした自分の足元にはゆったりと回転する鋼の構築陣、だがその周囲には今も広がり続けて書き換え続けられている文字と線。床の感触はあるのにそこにもやはり空が広がって、その空の中にすら縦横無尽に構築が浮かんでいるのが見えて。
見下ろした瞬間にぐらりと揺れるような感覚があった。単にそう見せられているだと、幻術だと理解するよりも先にあるはずのない浮遊感が足元から這い上がる。落ちる、と、思考がそう吐き出すまでに間もないままに重心が傾いて。
仰向けによろめきかけた背に何かがぶつかって、ぶつかったそのまま支えられて眼を見開いた。足には床の感触が残っている、それを頼りに掴んだ袖は白。振り返った先に、青翠。
「っと、……うっわ、なんだこれ」
「、クロ、」
「大丈夫、ゆっくりな」
惑いもしない表情は周囲を眺めながら、しかし背から身体に両腕を回してしっかりと支えてくれている。それに安堵の息を細くゆっくり吐き出して、そうしてからそろそろと重心を足に向けた。抜け落ちるような感覚は無い、幻術は事実を作り出せはしないのだとそれでようやく知識が身体に染み付いて、それでもう一度息を吐き出した。
「……びっくり、した……」
「そりゃまあ、急にこんな……って、なんなんだこれ?」
純粋に疑念の浮かんだ声音に、まだ何となく所在ない感覚にそわそわとして、握った手はそのままでゆっくりと周囲を見渡した。
見えるのは一面の蒼。青空と、足元やその下にも揺蕩う雲が流れていく風景。駆け寄ってくる音にそちらを見れば、エーフェがローブを揺らして此方へと距離を詰めるのが見えた。
「やり直しなしでやるとか正直思ってなかったぞ、良くやったな」
言う彼の手が伸びてきて乱雑に頭を撫でられる。それだけに簡単に嬉しくなってしまうのも、ただすぐに視界に入った青に霞んでしまう。何がとフェルがエーフェを見上げれば、彼は既にクロウィルの方へと眼を向けていた。
「どんなに見える?」
「どんな、って……単に、天井と壁が空だけど」
「え?」
思わず声をこぼしてしまう。フェルが見上げた先でクロウィルは疑問符を浮かべていて、そしてエーフェの声が聞こえた。
「あーそうかお前コウハなら魔法適正低いよな」
「親父はおかしいくらい高いみたいだけど」
「例外はどこにでも。コウハが紫旗の団長って聞いたら普通騎士だって思うけど、まあともかく適正低いと幻術効きにくいんだよ、フェルみたいに高すぎると現実と見分けつかないくらいになるってことなんだけど」
水を向けられた紫が瞬いているうちに、エーフェはそのフェルを手招きながら足元、広がったまままで形を変え続けている陣に眼を落としながらしゃがみ、手招く。白い袖を握っていた手をそこでようやく放してそれに倣えば、彼はそのまま陣の中央、一段目を指差す。それだけでも、両腕を伸ばしても端から端まで届かないくらいの大きさ。
「とりあえずこれからにちょっと支障出るから、お前を軸から外す」
「軸、って……?」
「普通の魔法なら行使者の事だな。ただこいつの場合行使者が必要ないから、そのかわり魔導師を軸にして、そこを中央として効果範囲を決める」
普通の魔法なら、と、その言葉に眼を落とす。鋼の色だけは変わらない陣、まだ形を変え続けている。展開が終わっていない。こんなに長い間展開し続ける魔法は、攻撃魔法ではあり得ない。
「今はお前が鍵になったからお前になってるはずで、最初にそれを消してやんないとなんだけど……お前の名前、コウに文字で教えた事あるか?」
「え、と……教えた事は、たぶん無いんですけど……見たことはあると思います」
「ならそれを探そう。こんだけ多いと骨だけどな、門の周りにある筈だから」
魔導師が魔法の構築陣を前に門と言えば『門の定理』を指す。その門は構築の開始を意味するもので、必ず陣の中央に配置され形として描き出される事になっているのだが。
「……攻撃魔法じゃ、ない、ですよね」
「違う。ただその前に先にこっちな、今はクウェリスが展開の速度抑えてる、軸は普通は三十人くらいが一緒じゃないとできないんだ。一人で全部被るのは不可能だし、いくらここの結界があるからって結界の供給の許容越えれば結界の方が壊れる。こいつがその結界の中に収まるとも思えない」
言われたそれに僅かに瞠目した。その言葉に言い表すことは流石に分かる、この魔法を一人で展開すれば全ての魔力が吸い取られて死に至るのだろうとは、言われなくとも想像はついた。既に、疲労には繋がってはいないものの身体の中から魔力が抜けていく感覚がある。
すぐに陣へと眼を動かす。門は見慣れているからすぐに見つかっても、その周囲の記述が入り組んでいてすぐに理解出来そうなものとは思えない。時間を掛ければとは思うがその余裕も無いだろうと、とにかく自分の名がある筈ならそれをとあちこちを探し回って、曲線と直線との合間に文字を探していく。幾つかは無意味に見える文字の羅列、だがその合間に見覚えのある形を見つけてすぐに手を伸ばした。触れたそこは固い床の感触、ただ鋼が指先に従って歪んで、ならとそのまま掌で自分の名を擦るようにすれば、『Fr』とただ二文字だけだったそれはインクが滲んだような染みになって、再び線を描いて曲線の一部となるにつれて周囲の景色が変わっていく。広がり続けていた構築が止まりゆっくりと大きさを縮めていく。周囲の蒼が僅かに大きさを縮めたような感覚があって、そして巨大な円形を描いた陣が動きを止めた。
足元にまで広がっていた蒼が退いていく。頭上だけを覆うようになったそれは、だが変わらず透き通るように蒼さを保っている。床には元通りの、石が突き合わされて敷き詰められた幾何学模様が戻っていた。
「……大丈夫そうか?」
「……た、たぶん……」
魔力が抜けていくような感覚は無くなって来ている。恐らくこの構築が完全に安定してしまえばこの感覚も失せるのだろう。確信は無いが恐らくそうだと返せば、よし、と声を上げたエーフェが立ち上がる。目線は再び騎士の方を向いていた。
「悪い、咄嗟にって動けなくてな」
「慣れてるし、別に構わない。……これ、なんなんだ?」
「説明する。つっても、俺もそんなに詳しいわけじゃないんだけどな」
ちょっと待ってろ、と、言ってそのままエーフェは踵を返してまた調練場の端の方へと行ってしまう。そのまま見送って、フェルは床に座って指先を鋼に触れたままクロウィルを見上げた。気付いた彼が首を傾げて、そうしてすぐ傍にしゃがんでくれる。
「どうした?」
「いえ……」
「……大丈夫だったか、来ちゃって。さっき、立ちくらみみたいに見えたから反射で手出しちゃったんだけど」
「あ、いえ、大丈夫です。一面空に見えちゃって、びっくりして」
「ああ……幻術って言ってたけど……あいつ幻術魔法だったのか?」
言う彼ですら言葉を選んでいるのが分かる。フェルは何故か苦笑が浮かぶのを感じながら、だがそれには首を振った。
幻術魔法は攻撃魔法よりも容易で、小さな魔法だ。こんなに大きな陣は描かない。単なる幻術それだけであれば、たとえ失敗するような事があっても、『竜』程の大きな『異種』にはなり得ない。攻撃魔法ですら、どれほど最上位の構築から『異種』を作ろうとしたところで、『竜』を作れた試しは無かったのだと、多様な書物にも一貫してそう残されている。
「もっと大きい……たぶん、キレナシシャス中を探しても、これ以上大きな魔法は、四つか五つか、それくらいです」
「そんなに?」
「たぶんお前も見たことはあると思うぞ、この街の地下だってそうだろ?」
エーフェの声にそちらを向けば、彼は何か大きな本を抱えて小走りに戻ってくる。フェルの手が離れていないのを見てか彼も苦笑を浮かべて、それでも何も言わないまますぐ近くに座り直して、そしてその本を床に置いた。
「俺がとある知人から聞き出しまくった諸々の纏め。だから色々面倒っていうか、資料としては使い勝手すこぶる悪いんだけど」
「……何の資料です?」
「構成魔法」
半ば返答を予測していた問いの答えは、やはり思っていた通りだった。フェルは鋼を見やる。ゆったりと、自分の足元を中心点に回転し続けるそれは、もう今は文字や線の書き換えも止んでいる。ただ流れ込んだ魔力はそのまま陣の中に蓄積しているのだろう、幻術は範囲を狭めても消える事は無いし、陣も緩やかに『次』を待っているように見えた。だから引かれるような思いがするのは一旦措いて、エーフェの開いた本へと眼を移す。示された見開きには手書きの癖の強い文字が細かく詰め込まれていて、彼はその一部を示してこちらに向けてくれる。癖が強くとも、読みやすい字だった。
「構成魔法、……って言ってもそっちは分からないか。蒼樹の地下、擬似的な空があったりするだろ」
「それは、知ってるけど。でも俺こういう、協会の街とかで暮らした事あんまりないし、王宮に居た時はずっと本部だったから、どういう原理かは全然」
「まあそんなもんだよな。構成魔法っていうのは、街の構造そのものを構築陣に見立てて発動する巨大な魔法だ」
言いながらエーフェは何枚かページをめくっていく。示した見開きには片手を挟み込んだまま、新しく見つけたページの、そこに貼付けられた大きな紙を開いて見せてくれる。描かれていたのは街の地図だった。
「少し古いんだけどな、五年前の紫樹の街の地図だ。で、こっちの、この構築陣が、紫樹の構成魔法のものになる」
彼の指先は開かれた地図とは反対側のページを指し示す。綺麗に描かれた図形、歪んだ円形のそれは、並べられた地図と見比べれば殆ど何の相違もなかった。地図に引かれた道の線、城壁の線、砦の外周のそれらにそって象られたその中に、家々の並びに沿って文字や図形が詰め込まれている。細かな部分が完全に潰れて黒くなってしまっているのは、わざとだろうか。
「街全部を魔法の構築で覆って、その隅々まで自分の効果で覆ってくれる。効果は色々ある、『異種』の忌避する氣を街の周囲に張り巡らせて遠ざけたりだとか、水道とかの流れを作ってくれてるのも構成魔法だ。井戸の場所に精霊が集まりやすいようにとか、家屋に夜、他人が入り込まないように警告してくれたりだとか」
「本当に、色々あるんですね……?」
「かなり、だな。街に必要な機能の何割かは、構成魔法が無きゃ成立しない。魔導師なんかには知らされない魔法の一つでもある、構成魔法は、技師にしか伝えられないんだ」
「構成魔法技師」
「正しくは、構成魔法敷設技師、だな。構成魔法の構築方法や運用方法を知るのは技師の一族だけ。一子相伝、あるいは技師の一家に細々伝えられて、守られてる。その外には、存在は知られても実際のところは伝わらない、隠されてるからな」
「じゃあ、これは?」
「ちょっとこう、色々ずるい事して、な?」
クロウィルの問いかけには工学師はにっこり笑って返す。こういう時に笑顔を使うのはどの魔法使いにも共通なのかと騎士が眼を逸らしている間に、当のエーフェはその表情を苦笑に変えていた。
「ほら、学院。紫樹って言ったろ、学長が長官だし、色々融通してもらったんだよ。俺の研究の範囲が範囲だしな」
「あの魔法とか、ですか?」
「んにゃ。俺の専門は『異種』だよ、対『異種』戦闘に役立つだろうあれこれを色々調べたり実証したり。あの、『異種』の外殻を開いて固定する魔法ってのは、まあ言っちゃえば趣味だよな。国立図書館の研究の一環としてなら研究費も下りるんだけど、それが無いからヴァルディアとかリアファイドとかを強請ってるわけで」
「……強請ってる?」
「研究費の融資な。金かかるんだよ、魔法の開発って。材料費やら何やら……ってのは、まあ今は措いとくとして。構成魔法の話な、こいつの一番の特徴は、構築展開の終了が無い事だ」
指先が鋼の陣を軽く叩く。顔を向けた先、大きな円形はゆったりと動き続けている。今はその形は、円のままそれ以上広がろうとしてはいないように見えるが。
「門から始まって、名を呼ぶ事で魔法は終わる。終わると同時に効果が発動して、自我が動いて効果が生まれる。大体の場合の魔法はそういうのだけど、構成魔法は、その発動の順序の中では、門と名を呼ぶのとは同じだ。だから構築の一番最初に名前と門とが並列されて、構築の最後に名を呼んで終えるって過程がない。無いから最後には最初に続くって定理を入れて、あとは延々展開し続ける」
「ずっと、ですか」
「ずっとだな。もう一度正式な名を呼んで、お前の役目は終わった、此処までで良い、って言ってやって、構成魔法の自我がそれに納得して自分から効果を全て断絶させるまで、ずっと展開し続ける」
ではそうなりかけていたのだろうかと、鋼に向けた眼はそのままに思う。展開し続ける、大きくなり続けるというそれは、それが達すれば、この構築が描く筈だった街並が見えるのだろうか。
「ここからは仮説だ」
言うそれに、眼を戻した。工学師の眼にはもう既に、少しも茶化すような色は見られない。ふざけた様子の欠片も残さず、纏う空気は『魔法工学師』のそれだった。
「『竜』ほど大きな、強大な『異種』を作れる魔法は構成魔法くらいだ、とは、図書館では既に通説だ。でもそれを流布すればこの国の主要都市のそれを狙って破壊して、『竜』を発生させて、って輩が居ないとも限らないから、一般には知らされてない。知らされる予定もない」
「……はい」
「万が一もないだろうけど、もしお前が……そっちの騎士も含めて、これを口外すれば、かなり大きな問題になる。ただでさえ構成魔法を都市にっていうのは、危険性を加味しての賛否両論が起こってたのが、一気に否定側が優勢になる。もし廃止の方向に固まればこの国の主要首都の機能は八割以上の制限が生まれる。ほとんど守秘義務を課せられるのと同等だ、分かってくれ」
「はい、……大丈夫です、進んで街を壊したいほどじゃありませんから」
なら良かった、と、エーフェの声は言う通りの安堵の色を浮かべていた。その紅が向いた先ではやはり、事後に知らされた事に対するものなのだろう溜め息、そして明確な首肯が返されて、そして彼は再びフェルに向き直った。
「今ある問題として、俺らは魔導師だ、技師じゃない。だから、今こうして構築陣に開いたこいつの構築を、正しく元に戻してやれるかは分からない」
「待った、それをって話じゃ、」
遮るように声を上げた騎士の袖にフェルの片手が触れて、それで彼は息を吐き出す以外には何もしないで口を噤んだ。エーフェはただそこに悪い、とだけ向けて、そして紅を紫に向け直す。
「お前がこれを始める前に、俺とクウェリスとで、コウには先に全部伝えてある。コウが『妖精』になれないかもしれない事も、俺たちが構成魔法には疎すぎる事も。それでも、コウは良いって答えた。だからそれは先に伝えておく」
眼を外すことはないまま、頷いた。続く言葉は、予想がついた。だが逃げるのかと思われるすら怖くて、視線はそのまま、動かすこともできないまま。
「もしお前がコウを『妖精』にしてやれない場合、図書館所属の魔導師として、俺は、人間の益になると断言出来ない魔法生物の存続を許すことはできない。お前も今は黒服だ、絶対の討伐対象と指定されていなくとも、その理由は戦えば勝ち目がないからであって、その特例を楯に『異種』の存在を許す事は出来ない。理由にならない、今はこの『竜』に戦闘能力は残されていないからな」
「はい」
「だから」
言葉が途切れる。表情は変わらない、それでも、彼も魔導師だからだろう。何も思わずに、それを言うのはきっと難しい。彼だけではない、どんな魔導師でもそうだ。数ある魔法使いの種別の中で、とりわけ魔法と近しい関係を結ぶ魔導師だからこそ、彼も、――自分も。
『異種』を創り出すのは人間なのに、その破壊を美徳と謳うのすら人間で、その人間の取り決めた約束事には、個人でしかない人間は逆らえもしないのだ。
「だから、もし、お前が、この構成魔法が手に負えない、『妖精』に変じさせる事が出来ないと判断するのなら、即座にお前がこの魔法の門を壊せ」
「……はい」
答えた自分の声は、思ったよりもはっきりしていた。手に力が籠る。構築の門は要だ、要を破壊すれば、魔法は無に還る。言わずとも知れた事。
「迷わなくて良い、長引かせるよりもずっと良い。……俺は、クウェリスも、手は出したくない。保身でもなんでもない、お前に対する遠慮でもない。コウが望んだ事だからだ。俺はそれを裏切りたくはない、……良いな」
「はい。……大丈夫です」
「頼んだな」
手が伸びてくる。頭を乱雑に撫でられる。彼の癖なのだろうかと唐突に思う。思う間に、離れていった。
「基本は魔法の構築だ、そこは変わらない。まずはおかしな事になっている部分を修正する。……流石にでかいからな、時間はかかるだろうけど、手伝いは?」
「大丈夫です、……一人で、やってみて良いでしょうか」
「ん、わかった。構築はもうこの形で安定してるから、離れても大丈夫だからな。必要なものがあれば取ってくるなり用意するなり、あとちゃんと寝むなりしろよ。空けてる間は見といてやるから」
「ありがとうございます」
エーフェは頷いて、そうしてすぐに立ち上がって背を向ける。見送るよりも先に、自分の座った石の床に広がる鋼は、やはり淀みなく一定の速度で動いている。眼を落としたまま緩く息をつく、その間に片手、左手に何かが触れて眼をやれば、袖を握った自分の片手に白い手袋が重なっていた。
反射的に握りしめていたままの指を解く。固まってしまっているのを誤魔化すように拳を握る、それすらやんわりと手の中に覆われた。
「……大丈夫か?」
顔を覗き込むように彼が動いた気がして、慌てて首を振った。心配ない、と、仕草で返せば、頭に手が乗る感触。そのままゆっくり撫でられて、それでほんの少しだけ力が抜けた。
「無理するなよ。あと八日あるし、今日はもう日暮れだしな」
「はい、……もうそんな、ですか、時間」
「だよ、夕食どうするかって聞きに来たんだよ最初は。運んで来てやるから、食べたらちゃんと部屋戻って寝ろよ」
「わかりました」
フェルのその答えにもう一度頭を撫でて、それでようやくクロウィルは立ち上がって踵を返す。フェルは少しの間それを見送って、そうしてすぐに鋼色ヘと目を向け直した。
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