夜になっているのだと、それに気付くのにも時間が掛かるくらいだった。
 没頭、とも、少し違うのだとは自覚していた。何故か、手順を追って進むたび、急かすような心地が抑えようも無く膨れていく。
 展開状態で安定した構築を見る事は、出来なかった。その前に意識していなかった疲労が身体に出てしまって、とにかく一段落がついたのだから一度しっかり寝めと言われて、部屋に戻って、そのまま着替えもせずに寝台に横になって、ただしばらくぼうっとしていた。ぼんやりと横向きに身体を寝台に沈めて、明かりをつけ忘れた暗い部屋が横倒しに倒れた風景を眺め続ける。
 瞬きが何度か。何度目かに、自分の瞬きで一瞬視界が途切れることに、まるで他人事のように気付いて、それで肩から胸の奥から空気を追い出して、眼をつむった。
 どう言われても、何を理解しても、焦りは消えないどころか、助長されていく。
 その理由も、何となくでも解っていても、解るからといって消えるわけでもないのは解りきった事で、どうしようもなく溜息を吐き出して、そのままゆっくりと力を抜いていく。
 随分と長い事のように思える間、ただそうしていて、いつの間にか眠っていたようだった。
 足音が聴こえて目が覚めて、それでも眼を開けるのは億劫だった。気が立っているのか、些細な音で眼が覚めるのは珍しいなと自分で思う。ノックの音はしなかったと思うから、その音を立てる人が誰かも大体の予想がついた。足音が迷い無く階段を上がって、本棚の間を抜けてこの寝台のすぐ傍まで近付いて来た。
 寝台の端が沈み込む感覚。手が額から頭に触れて、そして軽く息をつく音が聞こえた。上向いている左の側、耳の上からいつものように編んで結んだ三つ編みに触れられる感触。両手で持って、結んだ紐を引く動作が伝わってくる。不快の欠片も無い。慣れた相手だから良かった。
 解かれた紐はそのまま、寝台の端、枕元に置かれたようだった。髪の編んだそれも引っかかりの無いように丁寧に解いて、癖のついているだろうそれを指で梳いてくれる。そのまま頭をゆっくり撫でられる感触が続いていくのは眼を開かないままその感覚だけを追いかける。そのうちに、不意にその手が止まった。
 どうしたのだろうと疑問に思う。思っても眼を開ける気にはならなかった。身体を動かすにも指先すら重い。首の辺りが寒くなる。寒くても寒過ぎる事もなかったから、そのまま身動ぎもしないで眠ってしまおうかと思っている間に、触れたまま止まっていた手がまた動き出して安堵した。撫でる手は顔に掛かった前髪を払って、額と眦をさするように暖かい布の感触が通り過ぎていく。
 暫くそのままだった。暫くして手が浮いて離れていって、それで急に、騒がしいような心地が生まれて。
「――レナに、」
 立ち上がりかけたのだろうそれが止まる。声が勝手に漏れていた。
「会いたい、……すこしだけ」
 閉じていた眼を更に伏せる。身体を丸くする。着替えていないから上着もそのままで、だから寒くはなかった。
 離れかけたそれが戻ってくる。手がもう一度伸びて来て覆うように耳元に触れた。僅かな間の沈黙。
「連れてくるか?」
 問いかける声音は、だが僅かに不自然だった。分かりきっている声、そんな事は出来ないのだとあからさまには言わない声。きっと言った本人も、分かってそうしているのだろう。だから返答を口にしなくても良かった。手が髪を梳いてくれる。この感触は好きだった、彼は変に力を込めたり、腫れ物に触るようにしないから。
「……構成魔法の話は聞いた。蒼樹にもいるとか、稀少な魔法だとか、一つで色んな事に影響できるとか。都市の運営には欠かせないけど普通の魔法じゃ考えられないくらい危険な魔法だとか、色々」
 手は動き続けている。言葉を探しているのだろうとは簡単に想像がついて、どうしてか詰まってしまっていた息を意識して吐き出さなくては動かなくなってしまって、静かに呼吸を取り戻している間に続く声が聴こえた。
「似てるな」
 たったそれだけで、喉が開いて楽になった。そのまま暫くの無音、そして声が降って来た。
「預かっておくから、寝んでろ。少ししたら起こしてやるから」
「……時間」
「今更だろ? 少し寝たら、お湯使ってそのまま寝直せ。少しで良いから」
 頷く。彼はそのまま立ち上がって、そして布の音とともに大きな重さのある布が身体に被せかけられた。クロークだろう。毛布は今下敷きにしてしまっているから。動かない間に足音が遠ざかっていく。音を立てているのはわざとだ、いつもはそんな事はしない。
 ほんの僅かに音を立てて息を吐き出す。やはり見ているだけでも、分かるのだろうか。思いながらクロークの下で身体を丸めた。膝を折り畳む。両腕は胸の前に詰め込んだ。
 ――東はどうなったろうか。フィレンスはあれから一度も厨房に立っていない。街が被害を受けたのなら、きっとそれを覆っていた東のそれも、傷付いただろう。
 ――それを思えば重い。何故重いのかも、もう判然としなかった。ただ自然と眠ろうと思考が吐き出して、身体に力を込めたまま力を抜いた。



「どうだったかしら?」
 時間をかけて寝かしつけて、離れても大丈夫だと判断出来るようになって、そうしてから静かに扉を閉じ廊下へと足を踏み出したクロウィルは、掛けられたその声に眼を向けて、そうして大きく息をついた。
「……どういう状況だよ」
「ちょっとね。引っかかるというか……辛いところがあるだろうから」
 腕に編み物の道具一式が揃った籠を抱えたクウェリスは、少し首を傾けるような仕草と共に言う。クロウィルは乱雑に髪をかき混ぜた。
「……何?」
「色々、よ。……色々、重なってしまうと、どうにもならないままになってしまうでしょうから。……そんなあからさまに不満そうな顔しないのよ」
 見えていない眼のはずなのに、笑いながら嗜めるようなそれにクロウィルは言われたままの表情に言い当てられた気まずさを混ぜ込んで顔を背ける。小さい舌打ち、口元を抑えて笑うクウェリスが廊下の先へと身体を向ければ、その後を追った。
「『異種』の事になるとね、どうしても魔導師は苦しい想いをする事が多いから」
「……批難するつもりじゃないけど、協会だぞ、ここ」
「討伐するのと関わるのとじゃ全然別の話だわ」
 クウェリスの先導に素直に従うクロウィルは、北側を向いた窓の外が真っ暗に染まっているのを眺めながら眉根を寄せる。協会に来てそれなりの時間が経ったからもう歩き回るのにも不便は無いだろうというクロウィルの判断も正しく、クウェリスは迷い無く、何かに足を取られるという事も無く、眼が見えていないとは思えない滑らかさで歩を進めていく。手にした杖が床を軽く叩く音だけが、他とは違った。
「単純な事なのよ。『異種』は魔法から生まれるでしょう」
「……それが?」
「魔法には自我があるわ。その自我は魔法が魔法から『異種』になる時に、『異種』の方にも転写されてしまうの」
 翠は灰色へ眼を向けた。背で括られた長い髪がゆらゆらと揺れて、目線よりも低い位置の頭には帽子が乗っている。刺繍の控えめな色合いは、この暗い廊下の中では模様など無く平面に見える。
「魔法のほう……この場合は原本と呼ぶけれど、原本の自我は、構築の修復をするまで凍結してしまう。その間その魔法は使えなくなってしまうの、原本が自分で自分を見失ってしまって、魔導師の呼び掛けに応えられないから」
 続いていく声には、騎士は嫌な予感がすると言わんばかりに暗い廊下の中で再び眼を外す。夜も越えた夜更けの間は、個人の部屋と談話室以外の灯りは全て落とされる。灯りの大概は油や魔法輝石を使ったカンテラを吊るしたものや、壁にそのまま金具を掛けて設置するものもある。蝋燭はあちこちで頻繁に取り替えられていた。だから煤や空気の問題もある、夜半のそれが全て消されているのは。屋内でも出歩くのには、灯りを持つのが良い。今はそれも無いから、窓からの月の灯りだけだった。
 その中に、エルシャリスの声。
「その原本の修正をする時にはね、原本は術者の事を信用なんてしてくれないのよ。既に一度自分が『異種』になった事を憶えているから。だから魔法に残り続ける自我、原本は、事あるごとに術者に記憶を消されていく。それに対する抵抗を許さない定理は、必ず組み込む事になっている」
「……なら良いだろ? 詰られるわけじゃないんだろ」
「原本、……魔法には、ね」
 杖が床を叩く音が止む。廊下を曲がって階段へと向かって、上の階へ。
「『異種』は、自分が元々魔法だったって、必ず憶えているらしいわ。これはエーフェから聞いた話なのだけれど」
「……?」
「『異種』に転写された自我は、魔法の自我と変わらずに、ちゃんと自我として活動しているの」
 かつかつと、段を杖先で確認しながら進む音。それでもやはり暗い中では足元の感覚も難しいのか、随分とゆっくりと、クウェリスは段を少しずつ上がって行く。
「しかも常時展開されている、常に魔法としての効果が発動しているのと同じ事。外界と触れ合う時間が自然、多くなるから……色々、学習していくのよ。自我は幼くて、好奇心に溢れているから。それは『異種』になっても変わらない。『異種』として学習していくうちに、『異種』を作るのは魔導師だって、知ってしまう。魔法は魔法だけで『異種』になる事は無い、必ず魔法使いが介在する」
 踊り場には月光が注いでいた。身体の向きを数歩のうちに真逆へと。階段はまだ続いている。
「……まだ仮説だけれどね。ただの人間よりも魔法使いを狙う『異種』が多いのって、その所為じゃ無いかって、エーフェはそれも調べているの」
「……そういうの言って良いのか?」
「ふふ、秘密よ? 貴方しか居ないし、貴方が騎士だから口が緩んでいるだけだから」
 それにはまったく、と呆れの声が落ちた。そのまま、クウェリスは常の笑んだような表情のままで、ほう、と息を吐いた。
「……だからね。『異種』と会話しなきゃいけないのは、怖いのよ」
 ――足音が二つ。八段分のその後に、段を登りきったクウェリスは垂直にぶつかる廊下を左に折れた。
「やり方は、説明したわよね。自我との対面が必要、って」
「……聞いたけど、相手、コウだろ」
「コウは、良い子よ、とても。……良い子だから、フェルにはもっと辛い」
「何であんたが、」
「記憶を見たわ」
 言葉を遮ってのそれには、クロウィルはただ沈黙した。言い放った女の顔は、変わらない。
「構成魔法は、人の為、都市の為。……紫銀は、人の為、国の為。為せなかった魔法、為す方法の分からない紫銀、……だから、似てるって認めてあげなきゃ」
「何で」
「ねえ、クロウィル、私ね、フェルの事は好きにはなれないわ」
 歩く足は止まらないまま。急なそれに答えがないままに、クウェリスは僅かに首を傾けるように振り返る。閉じられた視線は肩越しに、青翠を見やる。
「理由は分かる?」
「……知るかよ」
「理解出来てしまうからよ。好き嫌いの前に、遠ざけてしまいたくなるの。あまり近くにずっと居たら、越えたはずのものを全部掘り返されそうで、嫌なのよ」
「だから、何が」
「……貴方は恵まれているわ、クロウィル。フィレンスも、……紫旗達は皆、羨ましいくらいに恵まれてる」
「クウェリス」
「貴方達は自分自身の存在を否定された事が無いのよ」
 言う声は、それでも常と寸分の違わない声音だった。あるいはそれは意地なのかもしれないとも、だがそれを判断する術も無く、口を噤むしか無かった。過去何があったのかは聞いている、だから、その意味も分かってしまって、それでクロウィルは溜息すら表には出せないままに沈黙した。声と足音だけが変わらないまま続いていく。
「自分が絶対の無力だって思い知らなくて済んで、ここまで来てる。……理解は出来る、同調も出来る、けど、それで慰めたって何の役にも立たないのよ。認めてあげる事しか出来ないの。そう感じてる事を否定したら、今度こそ全部が無くなって、動けなくなってしまうから」
「……そんなの、知らないで言ったところで」
「それでも、よ。……私が言ったところで、信じられないだろうから」
 理由は知らないでも良いから、とにかく言ってあげて欲しいと言われたのは、似ている、というその一言だけで。それで本当に、あの小さい紫銀は安堵を見せて。
 それが不可解だったのにと、クロウィルはただ何も言えなくなって額を押さえた。さするような仕草、脳に錆が浮いたかと思うほどに重く、鈍い。暫く廊下をゆっくりと進む靴の音だけ、その合間に小さい笑い声。
「……貴方は優しいから。ごめんなさい、大人げなかったわ」
「……別に」
「今のも、内緒よ」
「分かってるよ。……誰に言うんだよこんなの」
「ふふ、それもそうね。……でもね、私とあの子じゃ、違うから」
 灰色が揺れる。帽子が動いて、上向くようにしたのが背からでも分かった。 「私は、自分が驕った結果だから、良いのよ。全ての力を剥奪されて、眼も見えなくなって、辛いと思ったのは事実だけれど。でも当然の罰だったとも思うのよ。でも、あの子は、私ではないから、……すぐ近くで、見ていてくれる人が居て、良かったと思うわ、私は」
「嫌味かよ」
「期待、と受け取って頂戴? 私も自分の二の舞を作りたくはないの、あの子……フェルは、王女で、大公だわ。たとえ仮の冠でも、権力に溺れないとも言い切れないから」
「……過保護」
「紫旗に言われたくはないわね」
「俺は」
「分かってるわよ。……ありがとう、クロウィル。もう大丈夫よ」
 言ったクウェリスが足を止めて、そして振り返る。いつの間にか目的の扉の前に着いていたのかとクロウィルが軽く息を吐き出して、そしてそのまま何も言わずに背を向けて来た道を逆に辿って行く。見送りながらクウェリスは小さく笑う。もう場所にも慣れたから大丈夫だと言っても、あの騎士は律儀に部屋まで送ってくれる。恐らく誰に対してでもそうなのだろう、態度はきっとそれぞれで別だとしても。
 思いながら手を伸ばす。手探りで扉の把手を探り当てて、押し開く。灯りを付けても付けなくても何も見えないまま見えるのは変わらないから、そのまま杖を頼りにしながら、使い魔達の声を聴きながらソファを見つけて腰を下ろす。
 柔らかいそこに沈み込むようにして、そして周囲に人知れず舞っていた使い魔達を呼び寄せて腕輪の中へと招いて寝ませる。同時に彼らが見せてくれていた視界も滑らかに黒く塗りつぶされていって、閉じたままの瞳を更に閉じた。背凭れに体重を預ける。大きく、息を吐き出した。
「……慣れない事は、するものじゃ、ないわねえ……」
 自嘲が漏れる。こうやって誰かの感情に深入りして、誰かに働きかけるのは、もう随分とやっていなかった事なのに。随分と長い間触れないままで、もうそのやり方も忘れたと思っていたのに、どうしてかそうと思えば簡単に動けてしまった。
 だが疲労は較べるべくも無い。こうやって疲労を覚える事も、予測はしていた。疲れる事は好きではないのに、どうしてそれをやる気になったのかも、自分自身に疑念を向ける理由の一つではあるが。
「……本当に……」
 声は勝手に漏れる。凭れ掛かったそのままに、上向いて溜息を吐き出した。
「たかだか二十年も生きていない子供達に、みっともないこと……」
 嫉妬も羨望も、全てを棄てる事が出来ればと思って、自分自身の結界の中に閉じ篭っていたのにと嘆息する。
 吐き出す吐息と呼応するように、暗闇の中で開いた瞳。何も写さずただ無意味に虚空を見上げる瞳は、暗い中でもそうと分かる緑をしていた。
「……嘘に、なったかもしれないわね、あれじゃ」
 記憶から得られたのは記憶だけだった。それは事実だが。
 だがそれでも手に入ったは入ったのだ。意図しない形で。全てを剥奪されたその瞬間に、『絶望』を。
「……ティト?」
『何だ?』
「続きをやるわ。本を持って来てくれる?」
『寝んだ方が良い。寝ていないじゃないか、ずっと』
「大丈夫よ。……早く渡してあげないと」
 きっと待っているから。意味を求めて――その期待に応える事は、きっと、出来ないのだろうけれど。




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