「無い!?」
 駆け寄り聞いたエーフェの声は驚愕そのものだった。首の後ろで一つに纏めた髪が背から流れ落ちて床に垂れ広がるのも構わずに床に座り込み床を覗き込むように背を傾げたフェルは、ただ伸ばした手を握る。拳の下には鋼色の曲線に文字が浮かんでいた。円の端、左右の視線の端にまで広がる構築陣を見渡そうとしても難しい場所。
「核は暗号化されてました、でも違うんです、魔法じゃない。間違えも不整合も、魔法の中には無いんです」
「そんな筈は、……構成独自の構築は。全部見たか」
「見ました、でも、書いてあるものは全部整ってて」
 付け焼き刃の知識だ、不足しかない。だがそれでも何一つとして見つからない。構築から式と定理を導き文字を見て一つひとつを確認しても。
 鋼はゆったりと巨大な円を描く姿のまま、音も無静かに、ゆっくりと回転を続けている。それだけだった。焦燥にも似た感覚を抑えながら、それでも確認の眼は動いたままにフェルは言葉を続ける。
「試験動作もやったんです、でも魔力もちゃんと通るし、支えるとか止まるとかそういうのも無くて……」
「でも何も無いなんて事は……」
 言いかけてエーフェが顔を上げて振り返る。巨大な構築陣よりも広い調練場の端に寄せられた魔術機構の中から、察したように幾つかの『妖精』が顔を覗かせた。脇の椅子に腰掛けたままのフィレンスが眼を向ける間に、先程までフィレンスの近くに居た幾つかもそのまま、新たに現れたものも含めれば十数で顔を見合わせていた。こそこそとした話し声。
『テティ、お前行けよ。最初にあいつと話したのお前だろ』
『えー!? 嫌よあれ言わなきゃじゃない! イーライこそフェルの相手したんだから』
『二人で行けよ二人で』
『トーリャこそ』
『ずーっとこっちの事してる間も様子見してたくせにもう部外者の顔するし! 裏切り者!』
『言ってろ』
『ああもうお前ら二人揃って行けよエーフェの顔怖くなってるから!!』
 言い合う幾つかの声の最後に紅黒と黄色の二つがまるで吐き出されるかのように機構の中から飛び出してくる。床に落ちる事も無く空中に留まった姿には僅かに可笑しいと言わんばかりの表情を漏らしたフィレンスに、それに気付いたのかテティが気まずそうにそちらを見やる。叩き付けられなければ自然と宙に浮かぶ事も出来るらしいというのは見ていれば分かる事だがと思いながら、フィレンスはそのテティとイーライに向かっては部屋の向こうを指し示してみせた。
「行ってあげて。きっと助けになるから」
『うっ……魔導師のっていわれると弱い……』
『お前は構築の根が深すぎんだよ』
『あんたに言われたかないわよ"変わり者"』
 仲が良いのか悪いのかも混ざり合った様子で言い合って、紅黒と黄の二つはそのまま翼も無いのに宙を滑って調練場の中央、フィレンスが指し示してエーフェが紅い瞳を眇めている場所へと急ぐ。距離をつめれば紅は更に細められた。
「何か隠す事あったか」
『そ、じゃ、ないけどさ……あたし達も口が重いっていうか……』
 声を向けられたそこに留まり、テティは言葉の通りにもごもごと曖昧に声を落とす。それを聞いてはエーフェも疑念を浮かべて紫と紅とが見合わされた。すぐに向き直った彼を見て、『妖精』は胸の前で両手の指を絡めるような仕草を挟み込んだ。
『えーと、その。あたしは、あたし達の構築とかはよく分かんないんだけどさ』
「まあ知識としてはグレイ以外には教えてないし、それは期待する所じゃないしな」
『ん、だ、けど……その、たぶん、あいつ、構成は問題とか全然無いと思う……』
「……それは、そうみたい、ですけど」
 口ごもるようなテティの口振りにはフェルもつられて口ごもる。エーフェが桃色の髪をかき混ぜるようにしながら大きく行きを吐き出すのを見てイーライが慌てて声を上げた。
『あーと! だからその、構築に出ない部分なんだよ変なのは!』
『変っていうか変じゃないんだけど魔法使いに取っては変かもなんだけどそうじゃなくてこう!』
「あーもう何言いたいのか分かんないんだよお前ら!!」
『とにかく早く話聞きに行ってあげて欲しいの!!』
 紅の怒鳴り声にテティが怒鳴り返して、その言葉に意味には真横からの声に思わず肩を竦めたフェルが眼を瞬かせた。『妖精』がいうのであれば、それはあの竜の、この構成魔法との対面を指すとは嫌でも解る、だが。
「……なんで、テティとイーライが……?」
『え、う……』
 二つの『妖精』は揃って言葉を詰めて沈黙した。どういう事かも解らないとフェルがエーフェを見上げれば、彼はそれに一度眼を向けてから一度大きく息を吐き出した。紅は紫を見やる。
「フェル、本当に何も無かったんだな?」
「はい、でも……?」
「……こいつら嘘吐かないから」
 言いながら工学師の手が動いて紅黒と黄の二つを指差す。それでも『妖精』達の表情は晴れないままで俯けられていた。フェルの視線に気付いたイーライがそれを見返して、そしてまるで人間がするようにテティと眼を見交わして何かを囁きながら腕を突く。険しい表情のそれにとうとうエーフェが膝の上に頬杖を突いた。
「……あんな、いい加減にしねえと怒るぞお前ら」
『うぇ、だ、だって……』
『と、とにかく、本当に嘘じゃない、それは本当にだ。でも、……理由は出来れば本人から聞いた方が良いと思う』
 イーライが言ったそれには思わずえ、と声を漏らしてフェルは瞬く。『妖精』は渋面を作っていた。言葉にしたくない、という風に、だがその小さな姿でもはっきりと耳に届く声はそのまま言葉の続きを向ける。
『俺らは、もう理由とか知ってるけど……でも俺らエーフェの『妖精』だし、あいつを『異種』から『妖精』にするのは、エーフェじゃなくてフェルだろ。だから、理由は教えたくない』
 住み分け。その言葉が一番近いように思えた。使役者が違うのだから当然と言えば当然の事、そう言いたいのだろう。
『知るの、たぶんフェルだけで十分だろ』
「……一応、研究目的なんだけど」
『でも最初は使役者、だろ』
 言い合っていた黄と紅のうち、『妖精』のそれが紫へと動いたのを見て工学師は再び自身の頭をかき混ぜた。見やった先、紫銀は鋼色に触れていた。視線は環を描いて回転し続けるそれを見下ろしているのを見て、そちらへと身体を向けた。
「危険があるのは事実だから、最終的なところの判断は本人に任せる」
 言えば魔導師の眼が上向いた。間を置かずに端的な返答。
「やります」
 即座のそれには苦笑を零した。ここまで来て止めるなどという事はしないだろうとは思っても、多少は躊躇っても良いものを。
「ほんっと根っから魔法使いってか」
「……なんです、それ」
「いーや、英才教育が羨ましいってだけだよ。……解った、外から様子見しとく。異変があればすぐ出て来い、何かあれば俺が引き上げる」
「有り難うございます」
 通常であれば、構築に不備が無い事を確認してから初めて、魔法の自我との対面が出来るようになる。でなければ魔法の中に文字通り入らなければならない魔法使いの危険が大きすぎる。ただでさえ自分で構築し不備の無い魔法のそれであっても死の可能性が無い訳ではない。
 魔法の自我が在るのは構築の中。構築の中は人間にとっての異界となる。
 そして唯一、魔法そのものが魔法使いよりも優位に立つ場でもある。
「すぐ始めるか?」
「はい。構成の構築に触れる気がしないので、命綱も無しになりますけど……」
 本来魔法に完全な優位を与える事はない。自我との対面に備えて、行使者の為の安全な区域を先に定めて、行使者はそこから動かないのが基本になる。それも崩して、しかも相手は竜になるほど大きな魔法ともなれば、恐れる気持ちが無いとは嘘になるけれど。
 竜の、『コウ』の姿と気性を知っているからという慢心がある訳ではない。そんなものは構成魔法だと知った瞬間に消えている。だが自分の言葉を翻すには、それだけでは足りない。何よりもまだ、焦燥が消えた訳でも、拭えた訳でもなかった。小さく息をついて、鋼から眼を上げて紅を見上げた。
「すみません、色々頼り切りで」
「いーや、俺から言い出した事だしな。こっちとしてはやってくれてるのが有り難いくらいだ、気にすんな」
 伸びて来た手が頭をぐしゃりと撫でる。やはりこの人の癖だ、事ある毎にこうして視線を遮ろうとする。だがすぐに離れていくのも、そう悟られない為のものかもしれない。再び見えた紅は既に立ち上がろうとしている所で、視線はもう重ならなかった。
「さて。じゃあ、任せる。気をつけろよ、何があるか分からないからな」
「はい」
 答えて、背を向けて鋼の円の範囲から出る彼を見送る。イーライもすぐにそれを追って、テティだけがフェルの二の腕に一度強く抱きついて、それに小さく笑う間にその紅黒も紅桃を追って離れていく。
 始まってしまえば、その瞬間に陣に触れていた人間は全て引きずり込まれてしまう。だからと彼らが十分に円から距離を空けるのを見届けて、そうしてから再び鋼を見下ろした。立ち上がり、その円の中心部、門が描かれた場所へ歩を進めてそこへと膝を突き腰を下ろす。両手を伸ばして、重ねた掌を広がる構築の中心へと押し当てた。軽く体重をかけるようにしてゆっくりと呼吸を整える。身体を巡る魔力の基盤は、淀みなく続く呼気吸気の連続だ。揺れれば乱れ、乱れれば揺らぐ。揺らぐのは何も呼吸のそれだけではない、その上に成り立つ魔力魔法までもが乱れる。それをしてしまわないようにと。
 緩やかに掌に力を込める。そのまま、魔力を構築陣へと流し込む前に、ゆっくりと眼を閉じた。意識を、溶かし込むように。
「――行きます」



 良し、と彼は呟いた。皺だらけの手で古い羽ペンを立てて、椅子の上で背を伸ばす。のどを開いて呼びかければ、くすんだ色の紫がこちらを向いて、そうしてインクが擦れて黒くなってしまった右手が伸びて来た。上から彼の声が降る。
 ――待たせたなあ、今何か出してやろう。カイルは、どこに行ったか。向こうの部屋か?
 頭を撫でる感触には眼を細める。喉を鳴らせば深く空気の混じった笑い声。頭の上から退いた手が身体の下に滑り込んで、あっという間に腕に抱えられた。
 ――暖炉の方のが暖かいだろうに、物好きだなあお前は。
 かたかたと軽い音を立てて彼は腕にこちらを抱えたまま言う。彼はよく喋る。意味も分からない、変に沢山ある音で呼びかけて来る。そのまま幾つか扉を押して開いて閉じてを繰り返して、さっきの机の部屋に比べればばかり少し広い、テーブルも椅子も沢山あって絨毯が敷かれた向こう側に暖炉のある部屋に辿り着いた。机の部屋も大きいけれど、床には大きな何かが書いてあって、それを邪魔すると怒られるから、あまり好きではなかった。やれやれと思いながら彼の腕を蹴って床に降り立ち、そのまま火が当たる場所に向かう。
 絨毯の上には先客が居た。暗い灰色をした大きな丸い毛玉。前肢を持ち上げて上に乗る。いつもの事だから抵抗もなく、丸まった毛玉の前肢後肢の隙間、一番暖かな所に踞る。横から空気の固まったような形の鳴き声。
 ――全く、犬と猫とでというのに、まるで兄妹だなぁ、お前達は。
 少し遠い位置から彼の声。すぐ近くではばふ、と変な鳴き声、同時に寄りかかった暖かい毛玉が揺れる。揺れても離れたりはしない。寒い訳でもないが、暖かい場所を逃すわけにもいかない。そのまま暫くの間は何かをがたがたと準備する音と火の音だけが響いて、時折寄り添った暗い灰色の毛がふわりと揺れるのが背に感触として伝わってくるだけ。眼はとっくに閉じていた。
 ゆらゆらとそのまま暖かな心地を堪能している間に、背中の方向から嗅ぎ慣れた匂いが漂って来る。ここからまた時間がかかるのはいつもの事だから分かっていた。だからまだ起きるには早い。彼の準備はいつもゆっくりだから、早いうちから催促に向かったとしても、出来上がってからそうしても、ありつけるまでの待ち時間が変わるような事は無い。今日は一日中彼の机の上でねていたから、疲れては居ないが、何もない時に何かをするのも、そんな気にはならないから、この居心地の良い場所から動くつもりもない。
 そうやってうとうととした夢心地を楽しんでいると、不意に全身を抱えてくれていたそれが動いた。理由は遠くからの足音だろう。思っているうちに思った通りにだんだんと叩く音。
 ――ああ、なんだろうな。
 あからさまにのんびりと何かをいった彼が軽い音で歩いていく音が背中の方から聞こえて来た。灰色の毛皮が立ち上がってそちらへ行ってしまう。途端に寒い。身体を丸めておく間に扉と扉の向こう側から冷たい空気が流れて来る。人間の声も聞こえた。
 ――ああ、野菜を持って来てくれたのか。一昨日も肉を貰ったのに、悪いなあ、いつもいつも。
 ――家の方で余ったから持ってけって家内がせっつくんですよ、先生のところは食べる口も多いからってうるさいもんで。どんなですか、調子の方は。
 ――上々だよ。こいつらもなあ、そろそろ寒くなるからって、もうすっかり暖炉の前が寝床だ。
 ――いくら地下でも雪が降ると冷えますしね、気をつけてくださいよ。先生に何かあったら町全部が大変なんだから。
 ――その先生の弟子が何を言っているのやら。
 彼と、良くこの家に来る誰かの声だ。思いながら身体を丸める。風が吹くたびに寒い。寒いのは嫌いだ、肢の先までが冷たくなって身体を丸めるのも嫌になってしまう。そうなるともう冷える一方だ。外に居れば凍えて死んでしまう。
 ――それじゃあ、今日は遅いですし、明日また来ます。少しは手伝わせてください、俺だってちゃんと技師なんですから。
 ――分かってる、よおく分かってるよ、トレヴィス、丁度試験段階まで終わっているからな。
 ――ああ、ならあとは名前を付けて?
 ――そうだ、それで完成だ。明日から、中に潜っての調整になるから、お前も一度話してみると良い。気性の真っ直ぐな善い子だからな、名前も皆で決めた方が喜ぶだろう。
 ――なら尚更、明日ですね、来ますからね。兄さんも姉さんも呼びますよ、色んなところに散ってますから完成には間に合わないかもしれませんけど、構成がこの町に来るんなら、技師も沢山必要でしょうし、軸の魔法使いも探さないと、魔導師が良いですかね。
 ――お前達は仲が良いなあ、本当に。兄弟子姉弟子にもそう懐いて。
 ――茶化さないでくださいよ、兄さん姉さんが優しかっただけですからそれ。で、どうします、軸の。
 ――ああ、それなら。こっちの古い伝手でな、何人かが引き受けてくれてるよ。有り難いもんだ。お前は、今日はさっさと帰って、はしゃぎ疲れる前に寝るんだぞ。
 ――だから、もう子供じゃないですってば。
 ――老けてから言うんだな、トレヴィス、まだまだだろう、子供も居ないくせに。
 ――先生よりマシですよ先生は色々口出して来るくせに結局最期まで独り身じゃないですか!
 ――決めつけるな、まだ暫くはしぶとく生き残ってる予定だからな。さあ、帰った帰った。フェーナが待ってるんだろう、じじいに構ってる暇があるのか、ほらほら。
 ――まったく、明日来ますからね! 朝に!
 ――寝坊するなよな?
 ――しませんから!!
 ばたばたと足音が遠くなって、扉が閉じる音と彼の軽い足音が戻ってくる音。それとなくなんとなく向けていた耳から力を抜いた。早く戻ってこい灰色毛玉。寒い。思っているうちに四本足の足音が聞こえて、途端に触れた冷たい毛に全身の毛が逆立った。外と同じくらい寒い、外に一番近い部屋でしっかり冷えて来たそれに硬直している間にもとのように全身を抱えられてしまった。
 ちくしょうなんてことだこちらがあんかにされるなんて。愕然とする。
 他のぬくい生き物の毛皮を占有するのは自分の特権だ。彼しかり毛玉しかり。ぬくくない生き物に毛布にされるための毛皮ではないのだぞ自分のこの縦縞は。思っている間に冷たかったそれがぬくくなって来たのでそのまままあ良いかと思い直して硬直して逆立ってしまった毛並みを舐めて整える。途中で灰色も手伝ってくれて良い案配だ。背中の方から彼の声。
 ――珍しい、魚があるなあ。川まで行ったのか、それとも行商でも通りかかったか。
 嗅ぎ慣れない匂いが漂って来て思わず顔を上げた。灰色の顔も上がってそちらを見ていた。考えることは同じだ、言葉は通じなくてもよく分かる。振り返った彼のくすんだ紫色とほんの少し視線が重なって、すぐに外れてしまう。何だ何だと思っているうちに、上ると怒られる台の上で何かをしていたそれを持ち上げた彼が、かたかたとこちらに近付いて来た。
 ――食べてみるか。お前達は初めてだろう。
 掌に乗った何かを差し出される。皺だらけの手の上に茶色っぽい固まり。嗅ぎ慣れない匂いの原因はこいつらしい。鼻を近づけてふんふんと匂いを検分して、どうやら食べられないものではないらしいと分かってそのまま一口に食んだ。
 噛んだ瞬間は思ったよりも硬かった。噛めない訳ではない、時々貰う干し肉のような感触。歯で砕くうちにぼろぼろと細かく勝手に崩れていく。ほぐれると柔らかい。
 ――川魚の干物だなあ。こっちじゃあ、川も遠いしで、中々手には入らないが。うまいか。
 また何かを言う彼は灰色にも同じように差し出す。灰色は長い顔で器用に茶色だけを攫ってはぐはぐとしている。自分はもう口元を舐めていた。
 美味い。よいものだ。食事にも二回くらいなら連続しても良いぞ。灰色も食べ終わってかわふ、と鳴く。機嫌が良いのでそれに合わせて一声鳴いておいた。彼は両手で一気に自分と灰色との頭を撫でて台の方に戻っていく。
 ――こいつも入れてやるか。もうちょっと待ってろな、もうすぐだからな。ああ、皿はどこに置いたか……。
 長話のうちに外の空気が吹き込んで冷たくなってしまった部屋が暖かくなっていくのが分かる。いつも通りの静かな中に彼の足音と声だけの、いつも通りの空気に戻っていくのが分かる。あまりこの静けさを乱されたくはないのだ。彼以外の人間が我がもの顔をしてこの家の中を歩いているのは気に喰わない。いつもいつもこの暖炉の前のこの絨毯の周りがうるさくなるのだ。尾を掴まれた時なんてもう。子供は苦手だ。彼も客を拒まないから事あるごとに賑やかで。
 不意にまた足音が聴こえた。今度は人間にしては脚の数が多かった。灰色が素早く立ち上がる。
 ――……? トレヴィスが何か忘れたかね。
 気付いたらしい彼が何かを言う時には自分も立ち上がっていた。これは違う。
 ――あいつも、成年してからもう随分だってのに。
 彼が扉へと向かっていく。灰色の吠える声に紫が一度こちらを向く。かたかたと鳴る足音は止まらない。
 ――静かにな、カイル、もう夜も遅いから、
 木が軋んで壊れる音がする。彼の声も半ばで消える。木を叩き付けるように飛び込んで来たのは人間が幾つかで、手には見るからに硬い銀色を持っていて。
 灰色が弾かれるように戦闘の男に向かって飛びかかっていった。その間にほとんどそうとも考えないうちに彼の元に走って真反対の扉を潜って大きく鳴き声を上げた。見開いた紫が慌てて追いかけて来る。外に出る廊下ではなくて少し前まで居た机のある部屋へとがたがたと駆け込んでいく。
 違う、そっちじゃないのに。追いかけて思う間に後ろから知らない人間の耳をつんざく声と灰色の悲鳴。振り返った彼は手に金色の糸の巻かれた小さなものを持っていた。扉が壊れる音、全身が逆立つ。
 灰色の声が聞こえない。嗅ぎ慣れない知ったにおいがする。脂でねばって濃い、痛いにおい。さっきまで銀色だった長い固まりは赤くなっていた。灰色の走る音もしない。
 ――こんな町の家に押し入ってどうする。
 彼の声がした。そんな事してる場合じゃない。逃げないとと身体は言っているのに彼は「駄目だ」置いていけない。弱って、走れもしないのに。
 ――もうこんなじじいの家に、お前達が欲しがるものなんて残っては。
 強く床の木を蹴る音がして、暗い中で金色が動いたのが見えた。持ち上げられていた耳の痛い甲高い音がして赤い固まりが人間の手から跳ね上がって別な見当違いな方向に飛んでいく。がたがたと彼は人間達の方を見たまま下がって来て「駄目だ」ほとんど一緒に扉の近くに居た人間が他の人間を押しのけて来る。思わず牙を剥いて鋭く「駄目だ」声を上げる。
 彼の低い声が聞こえた。ぶつかった「駄目だ」人間が彼を突き飛ばす。似合わない大きな音を立てて彼が真横「駄目だ」に倒れて来る。丸まった身体の下から赤「駄目だ」いどろどろしたものが流れて広がってい「駄目だ」く。白い粉で書かれた、彼がずっと睨み続けていた「駄目だ」丸い「出ないと」模様に流れていく。
 ――  、
 彼が何「出ないと」かを言う。手が伸びる。人間がまた近付いて来「駄目だ」る。短い硬い細「早く」い赤くなった固まりが暗い中で見「早く外に」える。思「駄目だ早く」わず彼の身体の上に乗り出して歯を剥い「外に」て、
 飛びかかった頭を知らない手に掴まれた、牙を立てて噛み付いて爪を立てる間に身体の中でぐちゃりと歪んで壊れる音がした、思いっきり力を込めたはずの顎からふつりと力が抜けて身体が軽くなっていくのが解って、
「――フェル!!」




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