がつ、と、音がしたのが解った。
「ば、ッか野郎!!」
 声には刹那に顔を上げた。見開いた目に蒼、蒼穹、仰け反った喉に空気が通って笛のように音を立てる。
「何かあったらすぐ上がって来いって言っただろうが!! おい!!」
 声がする。肩を揺すられる前に力が抜けて、加えられた力に抵抗できるはずも無くそのまま硬い床の上に身体が転がった。
 喉の奥で入り込んだ空気が凝る。身体を丸めて左の脇腹を押さえ込んだ。左手が喉を掴む。――息が。
「っ、ああもう! 息止めて押さえろ、ゆっくりで良いから」
 口に何か当てられる。布地とわかる前に見上げた眼が紅を見て、それにどうしてか喉が引きつるより早く両眼の上に何かが覆い被さって光が遮られた。
「フェル、ゆっくり息吐いて。喉も大丈夫だから、手放して平気だよ」
 慣れた声。それでも言葉の意味が分からなかった。身体が冷たい。寒い。身体が動かなくなっていく。
「、は、っ」
 急に音が聞こえた。自分の呼吸だと解るまでに暫く掛かって、解った途端に身体の重さが増した。痺れた左手が喉から引きはがされて口元を押さえるように動かされる。何の抑えも無くなった首からは溢れるような感覚が走る、だがそれを封じ込めるようにすぐに別の手が当てられた。
「押さえててあげるから。ゆっくり息吐いて、少しずつ吸って、落ち着いて繰り返して。過呼吸だよ、落ち着けばすぐ収まるやつ」
 意識は変わらずぼんやりした中に意味だけが落ちて来る。身体は勝手に言われた通りに動いていた。息を吐き出して、吐けなくなるまでそうしてから、細く小さくゆっくり吸い込む。何度かそれを繰り返してようやく、何が起こっているのかが理解できて、それでまだ痺れている手を持ち上げて目元のそれを掴んだ。力が上手く入らない、それでも意図は察してくれたのか、視界を覆っていたそれは外されてくれた。
 いつの間にか身体を抱えられていたらしいと、景色が見えて思った。呼吸は呼気を深く、追い出していく。その合間に何度か咳を吐き出した。背中が暖かいのは、フィレンスに抱えられているからだ。背中が暖かいのは、安心する。
「……大丈夫そう、フェル?」
 後ろからの問いかけには、ぎこちなくとしか動かない身体でなんとか頷き返した。対処さえ知っていれば、言われた通りにすぐに落ち着く。大丈夫だと言い聞かせて、そうして大きく息を吐き出して、口にあてがわれたハンカチを握るようにしながら外してしまう。肺の中身を全て入れ替える心地でゆっくりと吸い込んで。
 そうしてから顔を上げる。見えた紅桃が静かな様子なのを見て、瞬間の安堵には肩からも力が抜けた。だがただ静かなだけではない、どこか訝しむような色も見えたが、それに声を向ける余裕は無かった、それよりも先に言わなくてはならない事がある。
「……す、みま、せん……」
「なんですぐ出てこなかった」
 工学師は、最初からそう言っていた。何があるからわからないのだから異変があればすぐに中断しろと。記憶と判っても動かなかったのは確かに自分だと、そうは思いながらも、でも、とフェルは息を漏らした。
「出れ、なくて、……死ぬ、かと……」
「……なにあったよ……?」
 エーフェは言葉と共に全身で脱力を示していた。フェルは一度背後を振り返って、ずっと首元を押さえてくれていたフィレンスもそれで手を離す。後ろから抱えるように腕を回すのは止めないのにはやっと苦笑が浮かぶような心地がしたが、それでも払拭には程遠かった。自分の襟を掴む、身体が内側から砕けて真っ直ぐに切り落とされた身体と離れていく感触。だが、それよりも、もっと。
「……名前……」
「あん?」
「……構築じゃない、名前が無い」
「……話したか? いや、会えたのか、ってのが先か」
 それには首を振った。頭を動かすのに首の筋が動いているのが不思議でたまらない。『そう』だと認識して『そう』なる寸前に、エーフェが引き上げてくれたのだろう。だから死なずに済んだ、今のところは。思って押さえつけながら、呼吸は意識しないうちに整って次第に楽になってくる。首と脇腹の違和感は意識がそう思い込んでいるだけだと、言い聞かせる。傷を負ったのは、殺されたのは、自分ではない。
「……何があったよ」
 工学師の声はすっかり静かになっていた。今は自分自身に余裕があるかどうかも分からなかったから、素直に有り難いと思う。激しい声には、応えられなかっただろうから。
 言葉の意味はきちんと受け取れたから、それにはゆっくりと言葉を探して口を開く。
「記憶、だと、思います。技師と……犬が、見えて、でもコウの記憶じゃありませんでした」
 技師の声がどうしてかぼんやり霞んで聴こえてしまっていた。それでもあのくすんだ紫色の瞳が構築を手がけたのだとは解っていた。そうなのだという理解だけがただ浮遊していて、その根拠が何一つとして解らないでも。
「地下の町で、構成魔法が無いのを作って守りにしようとして。完成前に技師が殺されて未完のままで……構築だけ完全な状態で、技師の血の魔力が流れ込んで発動してしまって……」
「……名前だけが無いのか」
 確認の意味なのだろうそれには、フェルは素直に頷いた。そうしながらも違和感は強い。名の無い魔法はあり得ない、名を呼ばなければ名付けられる自我が姿を顕す事が無い。ただの数列と文字数に魔力が宿っただけのものにしかなり得ない。それが、『魔法』の通例だ。
 だが多くの攻撃魔法や汎用魔法に共通するそれは、構成魔法には当てはまらないのだろう。全くの別なのだと、理論がどうなのかは措いてもこれでわかってしまった。事実としてそうなってしまっている実例が今目の前にあるのだから。
 見下ろした鋼色の構築陣は、変わらない様子で変わらず在った。重さに負けて垂れた手の指先で触れる。
「……もう一度入って、」
「今日は駄目だ」
 言い終える間に遮ったそれに思わず彼を見上げた。エーフェは床に胡座の格好でも、背を丸めるという事はほとんどしない。それでもいつもは威圧など欠片も無いのに今度ばかりは違った。工学師の空気とも違う、言うなら教師のそれに近くもあるような、自然身体が萎縮するような重い視線。
「どうするのかも分からないで何度入ってもその内疲弊して死ぬだけだ」
「……でも……」
 圧されて自然眼が落ちる。何をすれば良いのかも分からないのは言葉の通りだ、名の無い構成魔法が魔法として発動し、魔法になれずに『異種』になり、今こうして魔導師を前にして何を望むのか。それすらも分からない。自我に会わなければ何も分からないのにどうすれば会えるのかも分からない。
 溜め息の音。俯けた紫の視線が彷徨う間に、エーフェは漸く胡座の上に頬杖を突いた。
「……お前どれだけこいつの中入ってたと思う」
「え……?」
「外から見てるだけじゃ三分も無かった」
 言われたそれにフェルは眼を見開いた。そんなに短い間の事ではなかったはずだ、一時間か二時間かは分からないでも、長かったのだという事は感覚として残っている。暖炉のすぐ近くで、身体を丸めて眠るようにしてずっと音を聴いていた。それが。
「様子見てるだけでも相当量視たのは分かる、何度も連続してやるにも、どこまで耐えられる。視る度に殺されるんだぞお前、首斬られたんだろ」
 襟を握ったままの左手に力が籠った。他者の記憶を追いかける事は、そういう事だ。五感も感情も理解できないものも全てをそのまま受け取らなくては成り立たない。意識は一人称の他人の死と、自分自身の死の別を、判断する事は出来ないだろう。
 沈黙する。無音が落ちた中で、背の彼女が動くのが伝わって来た。
「……ってか」
 声音は呆れを含んで、溜め息やらと一緒にすぐ後ろから耳に入る。眉根を寄せた表情まで分かりそうな色すら浮かべたフィレンスの声。
「いくら慣れてて対処出来てても過呼吸なった輩を連続で働かせるのは反対、っていうのは言って良い流れだよね?」
 流石に何も言えなかった。紫の眼が泳ぐ間に紅桃の胡乱な声がそれに返す。
「逆にお前が今ここでそれ言わなかったら存在意義疑うところだぞ紫旗」
「今は白。だから友人としてだけど」
 フィレンスの両腕は後ろから身体を抱えて、抱き締め支えてくれている。顔が見えるよりも背を覆われている方が落ち着いて安心するというのも、彼女はもうずっと昔から知っているだろう。
「……ていうか慣れてんの?」
「この歳で公人してるからねこの子。政治関与だよ?」
「あー……まあ分からんでも無いけど」
 何とも言えない間に頭上で会話が始まってしまう。内容が内容過ぎて思い出すと胃が痛かった。身体の中から破裂する感触と較べればまだましでも、良いとは言い切れない。
「でもそれって割と政治体制の問題じゃねえの、俺大公に権力持たすの反対派なんだけど」
「持たせたのは政治の上の方でしょ? 反対ならそれ図書館から言ってよ」
「俺図書館のそんな上の方食い込めてないんだよ、発言力ねえの平工学師なの」
「平工学師って、工学師でしょ?」
「お前図書館の工学師率舐めんなよ、右も左も工学師だかんなあそこ。石投げりゃ工学師に当たるくらい工学師しか居ないくせに魔導師のが立場上だかんな」
「頑張れ下剋上」
「お前俺に何を期待してんだよ?」
「体の良い、…………上層部に対して強力な提言が可能な人材になる事を?」
「……最初の部分訂正すらしねえのなお前。今ちょっと期待しただろうが」
「嘘嫌いでしょ?」
 肺の奥底から吐き出す溜め息の音。フィレンスがこうなると妙に強いというか理不尽だ、特別に言葉が強い訳でもないのに全く悪びれもせず言い切るから反応に困る。そのまま自然と会話が終わっていく中でフェルがそろそろと様子を窺うように眼を上げれば、先程までの圧も既に消えた工学師はまったく、とどこかへと向かって小さく零していた。気付いて向いた紅と眼が合って、それにはもう一度、紫は鋼を見下ろす。
 言葉は見つかっていた。声にする事に少し迷って、結局眼を伏せて口を開いた。
「……考えてきます、……ふたつ、両方とも」
「……おう。わかった」
 言えばやはり、彼はそれだけで分かったらしい。あるいは両方が必要だと最初から分かっていたのかもしれない。既に言われていたそれでも、必要な時に即座にとは行かないだろうから、整理する時間が欲しかった。或いはそうだとも、彼はわかっていたのだろうか。
 後ろからの腕に引き寄せられるようにして、少し覆い被さるようにして来た金の髪がほんの少し視界に映り込んだ。
「行く? 待ってる?」
 短い二つの問いかけに少し迷った。それでも自然に首を振っていた。
「……行ってきます」
「ん。行ってらっしゃい」
 後ろからの腕が離れていって、立ち上がる。問いに対する答えの形は似ていても意味は真反対だ、彼女が居てはきっと甘えてしまうからと一人を選んで、すぐに二人に向かって背を向けて扉へと向かう。コートを拾い上げる途中で髪を結んでいた髪紐を解き、そのまま後ろ姿が閉じられたその向こう側に消えるのを紅と緑との視線が見送る。
 扉が閉まる音から数拍。紅桃はそのまま緑紅を見た。
「で?」
「察しが良すぎるのどうかと思うよエーフェ」
「自虐かよ。……まあいい、それよかあっちだけど」
 消えていったその方向を顎で示す。フィレンスは床の上に座り直して鋼を掌で撫でていた。
「なんなの?」
「慣れてるからね」
 端的なやり取りだ。エーフェは不審がるだろうとは思っていたと、フィレンスがそちらを見れば、案の定眉根をきつく寄せて頬杖を突いていた。苦笑する。
「さっきの。大公から権力奪ってくれるんなら私は大歓迎なんだけど」
「蒸し返すな。……それどっちの立場で?」
「私人の方で。紫旗としては、大公は大公で居てくれた方が都合は良いけど、都合で動かしたくないのが個人的なところだし」
「だからって……あーもう、なんなんだよ……協会が死ぬとこだとは俺だってわかってっけどさ、白黒だって自分が死ぬって錯覚でもしようもんなら錯乱くらいするだろ普通、なんで平然としてられんだよ、狂ってんのか」
「それも慣れてるからねえ」
 泣きもしない、恐いとすらも言わなかった。死の追体験の直後だというのにもう一度と言う事を躊躇いもしなかった。ただ短時間のうちに他のものの感覚を過多に受け取りすぎた過負荷がああした形に出ただけで。
 応える『紫旗』の声も、軽くなる。言葉の軽さとその瞳の表情の落差も気付いてしまえば重いとエーフェが深く嘆息する間に、緑紅は僅かに眼を伏せるように眉尻を落とした。
「……まあ、正直、色々教える順番間違えたとは思うんだけどね……」
「んあ?」
「色々ね。エーフェがどこまで知らされてるのか知らないから、言わないけど」
「何を」
 フィレンスが手をひらと翻せば、エーフェも何度目かまったくと呟きながらも穿鑿はしない。代わりに溜め息の後に呟いた。
「過保護……」
「姉役だから」
「それはどっちで?」
「両方。紫旗の方では勉強教えたりしてたし、個人なら、アイラーンは色んなところと仲良いしね。神殿は特に」
「ああそりゃそうなるか……前々から思ってたけどアイラーンって色々と手広くやっ」
 不自然に声が途切れた。色違いが向いた先でエーフェは言いかけたその格好のまま固まっていて、何かあったのかと思っている間にその紅の眼が緑紅を捉える。思いっきり眉根を寄せた顔。よく見る表情だ。
「……お前今何歳」
「十九だけど」
 唐突の問いにはとりあえず正しい情報を返しておく。年齢を伏せたところで何かしら面白い事が起こせそうな気もしなかったのが本当のところだが、そんな事を知りもしないエーフェはその返答にまるで凍らせられたかのように硬直した。
 眼を瞬く。首を傾げた。
「それがどうかした?」
「……お前アイラーンの三番目?」
「だけど。私がアイラーンだって事はエーフェ最初から知ってたでしょ?」
「いやそこはそうなんだけど違くてだな、別な、ええと」
 更にフィレンスは疑問符を浮かべた。思いっきり混乱しているようなこの様子は初めて見る。変に声をかけても更に混乱させるだけだろうと思ってそのまま彼から何かを向けてくるのを待っていると、今度は工学師の表情には愕然としたような色が浮かび上がっていた。
「……リアが『エナ』って呼んでる曰く天使みたいな妹ってお前の事?」
 ――条件反射で剣を抜きそうになったのが一つ。信じられないという表情に反射で抜いたのがもう一つ。首は飛ばしていないから長官には怒られないはずだと割り切った。



 調練場から外、廊下へと出る。屋内の調練場の、使っているそこは三階の端だ。主棟から北棟に足を踏み入れてすぐに見える扉。まっすぐな廊下の片側に、同じ作りの扉はまるで密集しているように並んでいるが、その一つ一つの内部は魔法によって広い空間として保たれている。あるいはそうやって作った別の空間に、扉と扉とで繋げているのかもしれなかった。魔法によって物理法則を無視するにも、無理がある場合が多いから。
 それでも、通常では考えられないほどに肥大した空間を擁する北棟は、今のところ二つある。片方は他の棟からも離れた場所の旧棟、オーレンが使っている旧調練場があるのは向こうで、こちらは新しい方の棟だ。廊下に出てそのままどこに行くかを迷って、何となくでフェルは古いそちらに足が向いて歩き始めた。
 三歩ほど進んでから、不意に大きく溜め息を吐き出す。何故か勝手に息を止めてしまっているのを、どこか苦いような心地で身体の中の空気を入れ替える。意識してゆっくり、急ぎ足にならないように気をつけながら人の少ない方へと歩いていく。階段を見つけてその下へと伸びる段に足を掛けようとして、不意に下に見える踊り場に見慣れた色が見えて眼を瞬いた。
「ヴァルディア様」
「ああ、……終わったのか?」
 当然の問いには、自然と首を振っていた。そうかとだけ応えた彼はそのまま段を上がって、すれ違い際に軽く手招く。肩掛けの布の鞄を押さえながらのそれに首を傾げながら、その背を追いかける。彼はそのまま階段の上へと向かって段を昇り始める。
「エーフェはまだ残ってるのか」
「です、ずっと見ていてくれてて……なんか、申し訳ないんです、けど……」
「元から律儀な質だが、やるのは自分がそうしたいからだそうだ。あまり気にしなくていい」
 言いながら四階に向かう。そういえばこの北棟の最上階がどうなっているのかは知らないままだと思っていると、不意に前を行く彼の抱えた鞄が不自然に動いたように見えた。気のせいかもしれないがと、だが抑えてしまう気にもなれずに疑念として言葉にしてしまった。
「……ヴァルディア様、それ、何です?」
「お前は知らない方が良い」
「え」
 聞き返したそれには答えは無く、彼は四階の廊下に並んだ扉の横を進んでいき途中の一つを開く。半身で中を覗き込んで明かりが付いているらしいそこに声をかける。
「箱か何か無いか」
「どのくらいの大きさかにもよりますが」
「抱えられるくらいで良い。軽木が良いが」
「軽木……ああ、丁度な具合のものが。少しお待ちください、釘が出てるのを叩いてしまいますから」
 中から聴こえる答える声にはどこかで聴いたようなと思って、隙間から覗き込む。気付いたヴァルディアが押さえていた扉を大きく開いて、見せてくれた中には作業台が幾つか並んでいる風景が広がっていて、その中で木箱を持ち上げたフィオナが金槌を持ち上げているところだった。首を傾げる。
「フィオナさん?」
「おや。こんにちはフェルさん。なんだかお久しぶりです」
「あ、はい。お久しぶりです」
「ちょっとうるさくなりますけど、ごめんなさい、すぐ終わらせてしまいますから」
 言った彼女は作業台の上に四角い木箱を横向きに置いて、その端を金槌で叩き始める。釘がと言っていたその処理だろうと見て、硬い音を聴きながらフェルは横のヴァルディアを見上げて、ついで鞄を見やる。左の肩にかけただけでそのまま下へと垂らされたそれは、やはり何故か不自然にゆらゆらと揺れていた。知らない方がと言われると余計に気になると思っていると音が止んで、道具を置いたフィオナが箱を持ち上げて持って来てくれる。彼女はそれを長官へと差し出しながら軽く首を傾げた。
「他に必要なものがありましたら、ある限り探してまいりますよ」
「暫くは大丈夫だ、助かる」
「今度は何を入れるんです?」
「小動物」
 端的に言った彼は箱を受け取ってそのまま主棟へと足を向ける。フェルはフィオナには軽く黙礼を残してからそれを追いかけた。横に並んで金を見上げる。
「小動物?」
「ああ」
 もう一度鞄を見下ろした。もしやこの中身だろうか。思っている間に棟と棟を繋ぐ空中廊下の曲がり角を越えて主棟に足を踏み入れる。
 不意に金色が僅かにこちらを向いたのが視界に入った。
「食事は?」
「……あ、食べてない、です、そういえば」
「朝からか」
 頷く。軽食だけは挟んだが、何となく食べる気にもなれずに水分補給に気を使う程度で終わらせていた。それを思い返せば空腹なような気もする。思っている間に、ヴァルディアは執務室の扉の前で一度立ち止まって、先程と同じようにその中を覗き込むように半身だけ踏み入れた。
「クラリス、あと少し空ける」
「……了解致しました。珍しいですね」
「……どちらがだ?」
「そうやってお知らせくださる事が珍しいと申し上げました。既に帰還報告が幾つか揃っています、お早めに」
「ああ」
 短いやり取りのあとにはすぐに扉を閉めて、そのまま南棟の方向に向かう。フェルは何度目か首を傾げた。
「……どこに行くんです?」
「厨房。手伝いがあれば楽なんだが、どうだ」
「それは、はい」
 時間が無尽蔵に残っている訳ではないが、少し間を空けたいのはそうだったから都合は良いのかもしれない。思いながらも断る事はせずに言って、もう一度鞄を見やった。歩きながらでもあまり揺れないように押さえているのは明白で、そうとなれば先程彼が言っていたもののそれだとは想像はつく。
 ほんの少し迷う。迷った結果ヴァルディアを見上げた。
「拾ったんですか?」
「碑に棲み付いていたのを回収した。あそこに居られては困る」
「……碑?」
「西側の林の中にある」
 似合わない婉曲な返答だと思う。あまりこういった言い方をしない人なのにと思っているうちに階段に辿り着いて、背を追うまま一階まで降りきってしまった。南棟に渡って更にその端を目指して変わらない調子で足を動かしていく。外を突っ切れば早かった場所ではあるが、窓の外を見れば白いものがちらついていたから、仕方の無い事だろう。そろそろ雪も重さを増して水気が多くなっている、次第に雪の季節から雨の季節になる。そんな中を外套も無しに歩くのは流石に遠慮したかった。
 無言のままで歩いているうちに目当ての部屋の扉が見えた。引き開けたそこには、昼を越えてもう暫く経った時間帯の所為かほとんど人気もなく、だが無人という訳でもなかった。眼が合ったのは黒服、テーブルで何かを書いていたらしいディナは、不思議そうな表情を浮かべてみせた。
「あら。長官がここに来るなんて珍しいですね。フェルも、この時間は珍しいわね」
「今日は妙に珍しがられるな。用があって来た、使えるか」
「問題無く。フェルは?」
「私はヴァルディア様の手伝いです、……何するのかは知りませんけど」
 言いながら、いつものように肩に掛けたコートの端を意味も無く手でいじる。知らされてない上に、恐らくは曰く「小動物」なのだろう鞄の中身は知らない方が良いと言われ、それで何を手伝えば良いのかも分からないのが本当のところだ。ヴァルディアは紙を広げているディナの近くに片手に下げていた箱を置き、持ち上げた布の鞄を丁寧にその横に置く。フェルは少し迷ってその向かい、テーブルを挟んだ反対側へと移動して、それに首を傾げたディナが万年筆に蓋をしながら立ち上がった。
「何か手伝いましょうか?」
「有り難いが、……今は何を?」
「献立を考えてたんですが、在庫との兼ね合わせがそろそろ面倒で。息抜きをと思っていましたから、丁度」
「火を熾しておいてくれるか、温石も用意してくれ」
「分かりました」
 答えて彼女は調理台へと向かう。作る場は、広いこの空間に立ち並ぶテーブルいっぱいまで覆えるようにだろう、それ自体が広く、台も竃も多く備えられている。区切る壁まで無いのは何故なのだろうかとも思うが。思いながらフェルがヴァルディアの方を見れば、彼はテーブルの上で丸い筒のようになった鞄の中を覗き込んでいるようだった。何が入っているのかようやく分かると覗き込む前に、その金色が紫を見る。
「……一応言っておく」
「はい」
「床に落としたりはするな」
 そんな風に思われているのかと思わず眉根を寄せかけたところで彼が鞄の中に手を入れる。無造作に拾い上げるように鞄の中から持ち上げる、それに眼を向けて。
 白いふわふわとした毛に覆われた耳と尾を持つそれが見えた瞬間、フェルは急激に血の気の引いた顔で背後のテーブルにぶつかるまで思いっきり後退った。




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