三匹の子猫が洗われざっくりと拭われ膝の上に積み重ねられてフェルは遠い目に諦観を浮かべて呟いた。
「膝の上が猫屋敷……」
「あんかだと思え」
 左隣の長官は使い終えた使い古しの布巾をひとまとめにしながら言い放った。幾つか乾いた別の布巾を差し出されて渋々受け取る。それを確認してから彼は白い一匹を指でつついた。
「これが一番気性が洗いから手は出さなくていい。こっちの、灰が大人しいから慣れろ」
「うぇええ」
「境界にいる時間が長い輩が世話をする暗黙の了解だ、今のところお前が一番長い」
「エクサさんとかぁ……」
「道連れにするんだな」
 冷たく言い放って使い終えた布巾と金盥を器用に抱えて調理台の方へと行ってしまう。フェルは手渡された水気の欠片も無い布巾を見下ろし、今は三匹揃って小さくうごめきながら団子になっている膝の上のそれを見やった。三色の下に敷かれた布巾は見るからにしんなりとしている。要はびしょぬれではないにしても濡れていた。
 意図は解る。水気を拭ったところで乾いているわけではないのだ。室内とはいえ空気そのものは冷たい方だし外では雪が舞っている。寒いだろう。寒いだろうとは思う。だが今こうして寒くて辛かったとしてもその原因は猫が駄目だと解り切っている自分にそれを任せた長官にあるのではなかろうか。
 一度眼を瞑った。手の布巾を握る。良い機会だと思えと思考が言った。確かにと返せない事実に項垂れそうになるのは抑えて、改めて膝の上のそれを見下ろした。
 白は、やめておこう。手は出さなくていいと言われているし言葉の通りなのか三匹の中で一番体力を消耗していそうな動きをしている。灰色は対岸で変わらずくてんとしていて、茶色はその間に挟まれて片一方から蹴られたり殴られたりに控えめに応戦しているように見えた。三匹共に眼は開いていないようだから、恐らく感触を頼りにしているだけなのだろうが、何となくほのぼのしいようなはらはらするような。
 手を伸ばす。灰色の首元をつつくと小さな鳴き声。どうやって持ち上げれば良いのかと何度か手が彷徨って、結局一旦布巾をテーブルに置いて手の指を揃えて左右から掬い上げるようにしようとして、固まる。
 本当にやるのか。確かに眼も開いていない子猫だが。本当に大丈夫なのか。後ろを通り過ぎる人の声。
「面白いな」
「だって!!」
 思わず振り仰いだ。膝の上の巣が落ちないようにとはとっさに押さえていた。長官は我関せずでそのまま、何をしているのかまた何かを持って調理台の方へと行ってしまう。助け舟すら皆無と思えば、解っていた事だとしてもじわじわと何かが蓄積していく気がする。きっと毒とはいかないまでも悪いものだ。確実に良いものではない。良いものだとしたらこんなに息が苦しくなったりなんてしないはずだ。
 深呼吸する。意を決して一息に灰色を持ち上げた。抗議するようなにゃーが聞こえて来るが構っていられない。ぬるい。ぬるい上にぐにゃぐにゃする。こんなに薄い毛皮で内蔵を守れるのか。骨に触れてしまいそうで怖い。両手に持ち上げてそのままだと布巾が取れない事に気付いて慌ててどうすると思考だけが空回る間に身体の前に腕に抱える形になった。袖の上でにぃと鳴くのが耳に入って思わず脇が背中かが強ばるような感覚が走る。抜けて消えずに残るのを無視して、テーブルの上に手を伸ばした。布巾を一つ持ち上げて広げる。右手のそれを灰色の上に重ね合わせて、うごうごと動くのを誤摩化すようにごしごしとしけった短い毛から細かな水分を拭い取る。あまり力を入れ過ぎないように気をつけながら、深く考えないようにと手を動かしていく。あらかた拭った後でもまだ残っているのはそうらしく、指先に当てて拭う布巾は濡れるとはいかないまでも湿っていく。髪が乾くまで暇がかかるように、毛皮のその一つ一つがすっかり乾いてしまうまでも時間がかかるのだろう。後ろを何度目か通ったヴァルディアが、今度は左隣に互い違いになるように腰を下ろして、それで布巾と白い一匹とを攫っていって、抵抗するような高いみゃーが聞こえた。
「腹の方も忘れるなよ」
「……布って偉大ですよね、下にあるもの見えないですもんね」
「なら眼を瞑ってやってみろ」
 確かに一理あると思いかけた脳内を押し止める。駄目だ。脳内まで侵蝕されている。振り切れている。だがこの振り切れた針を押し戻そうとすれば途端に即座に逃げる確信があった。それは避けた方が良い気がする。何の為という事も無く自分の為に。
 調理台の方からディナの声。仕入れが来たから少し外す旨のそれにヴァルディアは手元から眼も離さずに分かったと返して、火を見ていた彼女は外へと直接出る扉を潜ってどこかに消えてしまう。膝の上に取り残された茶が小さく鳴きながら何かを探すように身体を折り曲げて鼻をタオルに押し付けているのが手を動かす合間に見えて、何となく不憫に思えた。少し迷って、膝の上に広げていた布巾を少しだけ除けて空いた場所に灰色を下し、茶を一度持ち上げて乾いたタオルを敷き直してからその上に茶を据え直す。横に灰色を転がすところまでを無心でやり遂げて、そこで一度大きく息を吐き出した。
 何故だろう、胸が痛い。
 幸い猫が近くに居るだけで鼻がおかしくなったり咳が止まらなくなったりという体質ではなかったはずなのに。何となく大丈夫な気がして来ているのは好機と思いながら、背中の方はあらかた終わってしまった灰色の前肢、その片方の、爪のないだろう部分を摘むようにして、横向きに転がっているところから仰向きになるように軽く引っ張る。ころん、と抵抗無く腹を見せたそれには思い切り顔が見えてしまった事としっかりと見てしまった事の両方に眼を逸らしてしまいたくなるのをこらえて、背の側とは違って白い首から腹の毛をさするように拭う。
 そうしながら、小さく、震える吐息で言葉を作った。
「相手は無力……相手は無力……」
 呟く声が聞こえたヴァルディアは黄金の瞳をちらと横に向けた。
 手元で白の小さい前肢が懸命にこちらの手を叩き爪を立てようとするのを難なく押さえながらそうした先では、垂れた銀から垣間見える紫はどこか暗く眼に映った。こちらの視線に気付いた風も無いのを見て、少し考えるように眼を戻した彼は、結局何も言わず何もしないまま手元のそれの白い毛皮に残った水気をしっかりと乾かしてしまおうと布巾を動かす手に集中する。抵抗はそれなりに激しかったが、合間に喉の当たりや耳の間の頭を適当に撫でているうちに収まっていく。魔法を使わないのはこの小ささの生き物には影響が強すぎるからだ、それは横の振り切れた一人もわかっているらしい。
 白の身体の裏側まで終えた頃には、すっかり膝の暖を得て伸びているのに息を吐き、横を再び見てみれば紫銀は既に二匹目に取りかかっていた。顔から表情が抜け落ちているのを見て、白を手に抱えたまま何も言わずに立ち上がる。
 通りがかりに丁度良いからと呼び止めたのは確かに自分なのだが、こうも奇麗に反応が消えると後に尾を引きそうでそれは考えものだ、と、あからさまにわざとらしく一線引いて思考に吐き出す。調理台の上に置き去りにされていた、これも使い古しらしいタオルと幅の広い台布巾が乾いているのを見つけて、それで手の中の白猫を見た。片手からでは飛び出てしまうがその程度しか無い四肢。身体そのものは更に小さい。大丈夫だろうと見て、タオルを広げて手早くそれで白猫をやんわりと巻き、更に布巾でそれらを巾着のようにして端を縛る。首元はきつくないように外に出してやって、その額の辺りに手を当てて暗くしてやれば、小さくにぃと鳴いたあとは静かになった。
 雌雄を見るのを忘れていた、と、そう思いながら、手は離さないままで火の様子を見る。量は少なくと言っていた、米を炊くのも早く済むだろうから、火勢は見ておかなければ難しい。竃の戸の中を覗けば幾つかの火の精霊が団欒しているのが見えた。なら暫くは、精霊達の気が済むまでか、火のあるうちはある程度は大丈夫だろう。
「……餌をどうするかだな……」
 成猫であれば人の食べる物の中から、害にならないものを選んで与えれば良いが、こうも小さいと難しい。急ぎだから重湯で一旦は誤摩化すが、誤摩化し続きでは持たないだろう。孤児院か養護院にとしても、この小ささで渡したところで仕事を極端に増やすだけになるだろうから気が引ける。協会の中は何かと昼夜の逆転も激しく、どんな時間でも誰かしらが起きているから、こういう手のかかる生き物も多少は楽な方だが。
 考えながら、だが手は一度白猫の頭を撫でてから一旦離す。もぞもぞと動いて呼びかけるように小さく何度も鳴くのを聞きながら、竃の戸のすぐ横に吊るしてあった火掻き棒を拾い上げた。先程覗いたばかりの戸を開けば熱気が顔面に吹き付けて、だが慣れたそれにも僅かに眉根を寄せるだけで火掻き棒を中へと入れる。精霊が何かと眼を向ける中で灰の中に埋もれていた石を手前の方へと引き寄せた。
 台の上にあった革の分厚い袋を広げて、その中に焼けたその石を三つ程度拾い入れる。竃の中の精霊には新しい薪を二つ程渡しておけば見るからに舞い上がった様子で受け取った。彼らは燃えるものがあればそれだけで舞い上がるから扱いは楽で良い。それで戸を閉め火掻き棒を元の場所に戻してから、小さく纏まった猫を拾い上げてテーブルへと足を向けた。
「……ヴァルディア様」
「何だ」
「……これすごい勢いで頭突きして来るんですけど私何かしましたか……?」
 ベンチのそこには座らずにその膝の上を見れば、タオルの寄せられた見るからに柔らかそうなその中で、茶と灰は眼も見えていないのに揃って頭を魔導師の身体の方へと向けて、最後の壁と言わんばかりに分厚く立てられた布巾に頭を擦り付けていた。ああ、と声を零す。
「そういうものだ。眼が見えていないから、親猫の居場所を熱で探って、そちらに行こうとするんだろう」
「私猫じゃない……!!」
 変なところで反応した。溜め息で返しておく。良い具合に面白くなってきたからそろそろ解放しても良いだろうと、そうは思いながらも白猫のそれを膝の上に加えておく。フェルの、え、という声は無視した。木箱を引き寄せる。
「……えっ?」
 視線が浮いてこちらを向くのが分かったがそれも黙殺した。包まれている当の本人から抵抗も何も無かったのだから良いと思いながら、木箱の中に敷いたタオルの一番上の一枚、土の付いてしまっているそれは剥がして別に丸めておく。脇に積んであった布巾を何枚も広げて、温石の入った革袋を平らに広げて布巾で何重にかに包む。
「……ね、猫巾着……」
「楽で良いぞ」
 言っておいて、温石のその包みが熱すぎないかどうかを掌で確かめてから、平らなまま木箱の端に入れる。一角をそうして暖かい場所にしておいて、他と段差が無いように別の布巾を敷き詰めてから最後に奇麗なタオルで覆う。上から押さえて具合を確かめてから、白い猫巾着を拾い上げる。短い鳴き声は威嚇するでも悲鳴のようでもない。
 縛ったそれを解いて中身を箱の中に転がせば、今度は何度も鳴き声を立てながら温石が埋まった方へと這いずっていく。よし、とは内心に思うだけにとどめて、それでフェルを見れば眼が合った。数秒の間。
「何だ」
「……いつも猫とか拾ってるんです……?」
「いつもではない、私はな。所属者が代わる代わるにという意味なら、三ヶ月に一度はある」
「わ、割と頻繁……」
「大方は街の方に飼い手を見つけて出してしまうがな。……少しは慣れたか」
 訊けば、フェルは自信の膝の上を見下ろした。くっついて団子になった二匹を見、そしてもう一度金色を見上げる。
「何かすごい笑いそうなのさっきから抑えてるんですけど」
 ヴァルディアはすぐに手を伸ばして茶色を拾い上げ木箱の中へと転がした。白がそうしたように温石がある方へ寄って行くのを見てやはり良しと思い、残った一匹を見れば、別の手が灰色のそのすぐ傍までタオルを寄せているのが見えた。
 息を吐いて、そのまま椅子に腰掛ける。テーブルには背を向ける方向、先程と同じ互い違い。
「進捗は?」
 問いにはまた空白が生まれた。フェルは指先で灰色をつつく。少し慣れてきた。
「……あんまり、良くないです」
「展開を終えたとは聞いたが」
「その後に一回会いに行きました、……でも駄目で」
 間延びしているとも、控えめともとれる調子で灰色が鳴く。タオルの余った布地を引っ張り上げてその背を隠すように覆ってやりながら、フェルは軽く息を吐いて見せる。
「……ちょっと現実逃避できました」
「……そうか」
「逃避というか集中ですけど」
 目の前に猫が居たらそちらに気を向けないでどうすれば良いのか。タオルに上下を挟まれた灰色は、どうやらそれがいいらしい。頭と背を抱えたその人の身体の方へと、全身を押し付けるようにして、そのまま静かになった。
「偶然だがな」
「狙ってたわけじゃないです?」
「いつあの部屋から出て来るのかも判らないのにどうやって狙うんだ」
「ああ……」
 それもそうか。規則正しいとも整ったとも言い難い生活に変わってしまっているし、あの調練場から出る事も必要最低限の機会だけになっているから、他の白黒とも中々会わなくなってしまっている。少し、淋しいかもしれない。
「……大丈夫です?」
「何が」
「……色々と」
「一人抜けて問題になる程度の運用はしていない」
 判っていた事だと言い切り、彼は後ろ手にテーブルの上から鞄を持ち上げる。その中を漁り始めるのにはちらと眼を向けただけで、フェルはすぐに灰色へと向き直った。小さな薄い耳が細かく動いている。いつの間にかすっかり水気も無くなって、ふわふわになった灰色の毛が柔らかそうだった。長毛種、なのだろう。この国の風土ではその方が生き易い。
「……会えなかったというのは、」
 静かな中で聞こえたそれには顔を上げる。見れば、彼は鞄の中から取り出したのだろう本を、組んだ脚の上で広げていた。大型の叢書や学術書ではない、自分の本棚の中には見かけない、表紙も柔らかいままの文庫本だ。
「弾かれたか」
「……昔の、技師を見ました。記憶だと思います」
 息をつく。猫も、動かなければそんなに恐ろしくもない。つつけば時々鳴くくらいのこの灰色くらいなら何とかなりそうだと、その耳を摘んでみれば、指の上に前肢が伸びて来た。爪が触れたが、傷にはならないのは判ったから大丈夫だった。
「色々一気に見ちゃって、まだ整理付いてないんですけど、魔法の、……コウの、記憶なのか、わからなくて」
 紙をめくる音。聞き流しているわけでもないとは分かっているから、そのまま続けた。
「技師の人、猫と犬とを飼ってたみたいで、そこから見てたんです。でも構築が見えたわけでも自我と会えたわけでもなくて」
「技師の名前は?」
 首を振る。構成魔法を自らで手がける事が出来るような人は、技師の中でも限られるだろう。名さえ分かれば何かの調べは付くかもしれない。だが何かが分かったところで、何が必要なのかも見通しの立たないままでは意味も無いに等しい。
「……魔法が、意味の無い事をするとは思えないんです、けど、どうすれば良いのかが……」
「入ったのは一度だけか?」
 頷けば、それでおおよそは想像がついたらしい。調整の為に何度も出入りを繰り返す事が常だと知っていれば、あるいは一回だけというそれに不審を覚えるのは自然かもしれないが。
 暫く無音があった。紙を捲る音、息の音。
「この街の構成には何度か会った事もあるが」
「蒼樹の?」
「ああ」
 眼を上げたフェルは軽い驚きに眼を瞬いた。現実に街を覆い、常に効力を発しているその魔法の自我に、長官とはいえ技師でもない魔導師が会えるものなのか。疑問として浮かんだそれは、だが続く言葉を待つ為に押さえ込む。ヴァルディアは文庫の文字からは眼を離さないままで言う。
「あれはほとんど人と変わらない。少なくともそう見える。考えも、やる事も人に近い。攻撃魔法の自我との付き合い方のようにはいかないだろうな」
「……そう、なんです?」
「黒服だからと会えるものでもないから、確かめるのも無謀だが。あれはそうと知っていなければ人だと思い込んでも仕方ない、多少は違和感もあるが、それほどのものだ。単純ではない、恐らくはな」
 言われるそれには、そうなのかと眼を落とす。
 知らない事はどうにもならないとは、分かっている。この無知の根は、魔法のままの構成魔法に会った事が無いからなのか、あるいは単に見通しが甘すぎて考えが浅かっただけなのか。だがどちらにしても、魔法が示したそれに目前にして、何も出来なかった事は事実に他ならない。思ううちに自然と俯くように背が丸まって、それに気付いたそのまま、フェルはテーブルの端に額を当てた。
「……嫌じゃないんですよ」
 呟く。灰色が動く。暗くなったからだろうか。髪は結んでいないから、左右に長く垂れ下がって幕のように灯りを遮っていた。切りたいな、と、脈絡も無く思う。任務の間に『異種』にやられれば、事故で済むだろうか。侍従達は、嫌がるだろう、短い銀の髪は。
「でも、……嫌だなあ、って」
「お前は技師ではないからな」
 言いたい事が通じるのは、負担が無くて良い。思いながら頭を傾けて長官の方を向いた。銀の幕に遮られて途切れ途切れの横顔は、やはり本からは外れない。何を読んでいるのだろうか。
「それも踏まえてだろう、コウがお前に技師役を求めるのも理解は出来るが、技師と同じ事が出来ると思っているのであれば向こうが悪い」
「……それって、なんか」
「それくらいは解っているだろう、構成ならな。元々の構築段階で与えられる知識が他の魔法とも桁違いに多い、魔導師と技師の違いくらいは理解しているはずだ」
「でもなんか、すごい、人の都合、っていうか」
「お前は魔法に対して何を遠慮して『異種』に対して何を被るつもりで居るんだ?」
 元の通りに、顔を俯けた。そのまま眼を閉じる。灰色を抱き寄せる、そういえばこの灰色も同じ色だ。時の色、コウの鋼も時の色に近いもの。犬か猫かに近い姿をしているのは、技師が飼っていたそれらを真似たからなのか。
「構成魔法も攻撃魔法も種類の違うだけの同じ魔法だ。構成にそれをするのであれば、お前が使う魔法にもそうすべきではないのか」
「……それは……」
「構成を相手にするのであればやり方を考えろと言った。構成を特別扱いするなとは言わない、事実しなければ何ともならないからな。だが本分を忘れるなとも言っておく。抱え込む気なら相応に覚悟しろ、お前は魔導師だ。お前の魔法に知られればどうなるかくらいは分かるだろう」
 言葉が出ない。何も言わないでいる間にページを捲る音だけが聞こえる。扉の音がして、離れた場所からディナの声が聞こえた。
「すみません、長くなってしまって」
「どうだった」
「炭やら油やらがまた少し高くなっていましたけれど、砂糖は値が天井に達してしまった所為で、逆に安く手に入りました。どちらも冬も終わり頃ですから、これから値段も落ちるとは思いますが……フェル、大丈夫?」
「疲れたんだろう」
 距離のある向こうから問い掛けるそれには本を閉じる音、次いで頭に手が載せられる感触が続く。重さを掛けるようなそれではなく、彼は立ち上がったそのまま調理台の方へと行ってしまったようだった。そういえば重湯を作ると言っていたが、大丈夫だろうか。時間はそれなりに経っているような気がする、時計が無いから詳しくは判らないが昼は越えてしまっているだろう。二人が会話する声は何となく遠く、遮られて聞こえる。代わりとばかりに灰色がうごめいて、小さく鳴く声は明瞭に聞こえた。
「……お腹空いたね」
 小さい頭を指先で撫でる。そうしながら言った自分の言葉に、確かにそうだと思う。いつの間にか空腹は明確な形を得ていた。夜まで待つか、ひとまずパンか何かを貰ってしまおうか、あるいは街に出て何かしらを買って食べるか。なんとなくぼんやりと三択を並べているうちに後ろの方で扉が開く音がして、静かな足音が近付いて来る。
「……フェル? どうした?」
 真後ろからの声には顔を上げた。振り返るというよりも仰け反って仰ぎ見るようにすれば、ひっくり返った翠の眼。
「……燃料切れ……」
「ああ、……跡付いてるぞ?」
 手が伸びて来て額を両手で押さえられる。真後ろの彼に寄りかかるようにして眉根を寄せて目を瞑っている間に掌でまるでこねるようにされて、同時に軽く笑う声も降って来る。それが途切れた後に、あれ、と疑念が向けられる。
「……猫大丈夫になったのか?」
「全く大丈夫じゃないんですけど押し付けられました……」
「成程。小さいうちはまだそんな凶悪じゃないから、慣れとくには良いかもな。……何か作るか」
「うー」
「分かってるって」
 ぺち、と額を叩かれる。そのままクロウィルは調理台の方へと行ってしまった。少しの間眼をやっていたが膝の上のそれが動くのが分かって見下ろす。周りのタオルを寄せ直して、眼が閉じられたままの顔、額の辺りを軽くつついた。




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