「そういえばあと六日か」
フォークを手にしたそのクロウィルの声に、同じように青菜をつついていたフェルは手を止めて顔を上げた。蒸してほぐした鶏のささみと米粉から作った細い麺を簡単に味をつけて一緒に炒めただけの、簡単な昼食が盛られた大皿の横には、サラダがボウルに盛られている。
ついさっきまでは、料理の音が響いていた。朝や夜に比べれば動いている人数は格段に少なくとも、何人かが竃のすぐ近くで動いているとそれだけで賑やかになる。長官まで作業に参加していたのがなんとなく意外だと思いながら、料理の場には全く適応出来ない事が既に知られているフェルはずっと灰色の子猫を抱えて俯いていた。燃料切れ、と、自分で言ってしまったのが間違いだったらしい。自覚してしまったら動く気力も失せてしまった。
準備が始まってから終わってしまうまでそう時間はかからず、ディナに声をかけられるまでずっとそうしていたのだが。
小皿に取り分けたしゃくしゃくとした野菜を口の中に放り込んでしまう間に横から声。
「今日を入れて一週間だ。協会にしては珍しく、騎士が騎士をする事になったな」
クロウィルの声に向かって言う長官だけは目の前には何もなく、ただ膝の上で白と茶色が寄り添って眠っているのを抱えながら白湯を口に運んでいる。重湯は彼が器用に与えて、子猫達は今は静かに眠っていた。クロウィルの呆れたような笑う声。
「本ッ当にな……軍に比べて馬の出番無いったらないよな協会……」
「そうみたいね。私は、今回は留守番だけれど」
クロウィルのどこか呆れたような声にはディナが声を上げる。どこか苦笑したようなそれはフェルとヴァルディアとを交互に見やった。
「黒服は? 騎獣が居る場合もあるかとは思いますが」
「早くから魔導師をそのままで連れて行けば道中の『異種』達も刺激する事になるからな、現地近くに拠点を作ってから繋げてしまう事にした。学院生も同じようになる。起点を別に作り直すから出発は別だが」
「向こうには、先に何人か行くんです?」
フェルが眼を向ければ、それにはすぐに頷きが返って来る。金は猫を見下ろしたままだった。
「拠点を作るまでは学院が持ってくれる。結界を作って維持する以上は黒服の仕事になるな」
教員には荷が重い、と彼は言葉を続ける。既に予定地域に『異種』を追い込む為の作戦は始まっているらしいとは聞いている。拠点も戦闘域に入る場合は普通に考えられる、結界は必須だろう。
この場合の拠点も結界もその理由は、白黒の為ではないのだが。こんなに手を掛けて面倒な事をするのは、学院生を全員生きて帰らせる為だ。死者は出せない。少なくとも学院生には一人として。今更言っても意味の無い事でも、それでも人員不足も『異種』の増大も無ければこうはならなかっただろうにと、フェルはフォークを無意味に揺らす。その間にも声。
「詳しい話は全て纏めてエクサに渡してある。……お前はもう見たか」
金が向いたのは翠の方向。口の中のものを嚥下してからクロウィルは短く答えた。
「セオラスが把握してる」
「……お前達もお前達で良い組だな」
「…………」
無言で返したクロウィルはそのまま食事に戻っていく。流石に長官相手では何も言えないのか、それは不思議でもないと思いながらフェルも皿に向き直った。食事班にはもう食べる量の事は知られているから、三人分として作ってくれたそれもやはり大皿には似合わないちょっとした山になっている。
右手と口は動かしながら、左手は膝の上、重湯を与えられ猫も人間も落ち着いたあとに、流れるような手でそのまま元のように戻されてしまった灰色を支えたまま。行儀は悪いが、離すと膝から転がり落ちそうで怖かった。しかもこの灰色、満腹だろうに他の二匹のように寝ないで、ずっともぞもぞと動いている。余計に落ちそうで怖い。あるいは他の二匹が近くに居ないから寝ないのかとも思ったが、二匹が居る長官の方に戻そうとすると悉く阻止された。
六日か、と、ディナが呟く。あの任務に関わらない白黒にも、やはり通達からの時期が長いからだろう、大方に知られていた。
「準備期間があるから、まだ良いけれど……学院の方もってなると、ちょっと以上に不安ね。私も学院卒だけれど、学生の間に『異種』と戦ったのなんて三回しかなかったから」
「あれ、学院だったのか」
「士官学校の卒業生に言われると小恥ずかしいけれどね。白樹のよ、もう随分前だから、後輩達も残っていないけれど」
「……いや、士官学校だからって言われてもな……別に特別な事はしなかったし……」
「そう? 実戦は学校の方が手厚いって聞いたけれど?」
「まあそれは否定はしないけど……その分座学は投げっぱなしだしな……死ぬかと……」
「ああ、そう」
クロウィルが呟いたところにヴァルディアが眼を上げた。白湯の入ったカップをテーブルに置いた手は、今は膝の上の猫を抱えるようにしながら撫でている。
「四協会総出で軍部に嫌がらせをしてな」
「何してんだ長官」
「面白かった。士官学校の学生も周辺の『異種』討伐に駆り出される事になっている」
ば、と顔を上げたのはフェルで、眼を見開いたのはディナで、瞬かせたのはクロウィルだった。長官は肩をすくめて視線を猫に戻す。
「学校の方は元より早期から『異種』戦闘はさせているから、事実そうなったとしても学院とはまた具合も違うだろうが」
「っ、の、あの、私それ聞いてないような気が」
「言ってないな。少なくとも協会からは」
横からの焦ったような声にも彼はあっさりと返す。教育機関の総括は神殿ではという絶句も予想していたのかそのまま言葉は続けられた。
「神殿への通達義務は軍の教練上層部が一任してくれと言って来たからその通りにした。あそこが神殿直下で士官学校の管理をしているから妥当だ、という判断だ、こちらはな。だから今度侍従からでも報せが来るだろう、国王軍の話になるから国王にも報告は行くだろうが、神殿からの罷免要請が無くてはな」
士官学校は国王軍が管理する教育機関だ。紅軍は軍としては一つひとつの貴族の家が作った組織だが、全体として管理や配置がされていないわけではない。特に様々な軍から有識者と教師を集めて編成された混交組織である教練部は、その一人の指揮官に依拠しない職務であるために、四大公爵家の当主達にその任免が任される。命令を下すには国王の命令が必要だが、国王が動くには、教育機関の全てを任された神殿からの上訴が必要だ。
神殿に一言も無く学生を危険に晒せばどうなるかは、教練部の人間達も重々承知の上だろう。それでも神殿に何一つも断りも入れない理由は、先に協会に対して自分達軍部が魔法院と手を組み、協会学院の動員を要請した手前自らに向けられたそれを退ける事も出来なくなり、だからといって素直に従うつもりも無いからなのか。
だから実際には、現状のままであれば士官学校の学生が動く事は無いはずだ。無いのだろうが、しかし、もし神殿に、軍が通達義務を怠った事が伝われば、今度こそ正式な命令が下る事になる。下すのは、神殿の頂点にある『大公』だ。
フェルは紫をあからさまに眇めてみせた。
「……前から思ってましたけど、ほんっとに協会と軍って仲悪いですよね、学生出させられたからって同じ事やり返しますか、被害被るの学生ですよ」
「関係を悪化させてるのは向こうだな、今回も協会は軍を信用し、軍が信用を裏切っただけだ。紫旗程の理解の姿勢があれば協力もやぶさかではない。学生を使えとも言わなかった」
手がカップを持ち上げる。特に何の変化もなく、白湯を口に運んで一口飲み込んで、そうしてから微かに口の端を釣る。
「……これであの円卓の席の半分が掃除できると思えば気分は良いが」
円卓が指し示しているのは会議の時のあの席の並びの事だろう。東西南北の協会と魔法院の高官で半分は埋まる。あとの半分は、魔法院の中でも上を目指したい野心の残っている者と、国王軍。
フェルはゆったりと息を吸った。
「……わかりました、色々好き勝手やられて気分悪いので今度席は用意しますからちょっとちゃんと話しましょう『長官様』」
「リアの欠席は許してやれ、あいつは計画に賛同はしたが参与する余裕が無かった」
「ああでも他の三人は関係してるんですね……フィエル様どうして止めてくれなかったんですか……!!」
「発案はあの人だぞ」
手にフォークを握ったままテーブルに顔を伏せて呻いたフェルに、ヴァルディアは何でもない事のように言い放つ。伏せられたその下からあああああと更に暗い悲鳴が聞こえるのも無視して、彼はおもむろに膝の上から白と茶を持ち上げて、横に置いていた箱にその二匹を転がした。あの人が一番常識人だと思っていたのにという暗い声も黙殺した。あの紫樹を纏め上げて魔法院や国王軍と対等以上に渡り合い時には国王にまで言葉を向ける事を厭わずの姿勢を貫き通して数十年経った今でさえ暢気に笑えているような人物が常識の範疇に留まっているとでも思っていたのか、とは、言わない。恐らく、かなり深くまで関わらない限りは、あの人は単に好々爺としか見えなくてもおかしくはないだろうから。
そのまま立ち上がった彼を見上げてディナが首を傾げる。
「戻られますか?」
「いや、クラリスには断ってあるから暫く逃げる。クロウィル、これを」
呼びかけると同時に示されたのは椅子の上に置かれた箱。クロウィルが頷いて返したのを見てから、顔を伏せたまま今は言葉も失っている様子の銀色を手の甲で軽く叩いた。
「抱え込むつもりならちゃんと世話はしろ」
「無理です……」
灰色を指して言っているのだろうそれにはフェルはか細く声を押し出して返して、ヴァルディアは構わず厨房からどこかへと向かって扉を潜ってしまう。それを睨め付けるでもなく項垂れたままのフェルの様子にはディナが小さく笑った。
「でも、小さい頃から面倒を見てあげると、愛着も湧くし、そのうち大丈夫になるかもしれないわよ?」
「……それはちょっと嬉しいかもですけど……」
「猫の方も、元々がわがままな性格の動物だけど、ちゃんと世話をすれば馴れてくれるから」
「それはなんとなく……そうだろうなとは……」
「克服するには好機だよな、猫嫌い」
「うううぅぅ……」
「飯冷めるぞ」
言われた瞬間ふらりと揺れながら身体を起こした。ディナが小さく笑う声が聞こえるのには何も言えないまま、大きく深く暗く溜息を吐き出して、フェルはフォークを握り直して食事を再開する。冷たくなってしまっては申し訳ない。既に冷め始めてしまった取り皿のそれをすぐに片付けてしまって、最初に比べれば随分と背丈の減ってきた大皿からまた取り分ける。既に紅茶の方に移っていたディナはその光景にまたくすりと笑った。
「いつもより食べているんじゃない、フェル?」
「朝食べてなくて。作業もちょっと大変だったので、今美味しいの食べれて有難いです」
力が抜けたように笑って返した。自分でもいつもより多くなりそうなとは思っている。テーブルの対岸の黒服は変わらない笑みの中でほんの少しからかう色を浮かべた。
「今そんなに食べて、夜は大丈夫? 今夜は肉料理よ」
瞬間二人分の眼の色が変わったのを見て彼女は面白そうに眼を細めて口元を上品に押さえる。
肉料理は中々無い。干し肉や漬け干し、蒸されたり茹でられたりと火を通されたもの、燻製や加工肉は常に市場にも多くとも、それらの料理を肉料理とは称さないのがこの蒼樹の厨房における暗黙の了解だった。それを良く知る食事班の、それも主として日々の食事の内容を考え、班全体に伝達する事を進んで引き受けている彼女が言うのであれば。
「……戦争になるな」
クロウィルが呟く。きっと争奪戦になるだろう。容易に想像のつくその光景に、しかしディナは柔らかい表情のまま。
「なるかもしれないけれど、大丈夫よ、皆に十分な量は確保できているから。冬終わりの肉だけど、この街のだから、きっと美味しいわ。それに捌いてそのまま熟成庫に入れて、そこから出てきたばかりのだから一度も凍らせていないんですって」
「わあ……!!」
「ふふ。だからしっかりお腹空かせておくのよ、フェルも、クロウィルも」
「楽しみですっ」
ならば尚更気持ち良く食べられるようにしなければと、目の前のそれに向き直る。もぞもぞ動く灰色を片手で支えながらそうしているうちに、ディナは自分の分の皿を手に持ち、後をと言い残して片付けに向かう。昼食の礼を言って、それから二人で残りを収めてしまうのに集中する。途中にクロウィルがぽつりと声を漏らした。
「この時期なら牛だな……」
「ですね」
飼い葉や、サイロに溜めておいた飼料が少なくなってくる時期だ。牛は一頭あたりに必要な飼料も多い、春が近くなってくるに従って餌の残りが少なくなり、そうすれば牛や豚から市場に並ぶことになる。思いながら昼食のそれをすっかり片付けてしまって、それでフェルは大きく息をついた。
「おいしかった……」
「な。本当に飯美味いよなぁ蒼樹。紫旗のも美味しいけど俺こっちのが好き」
「そうです?」
「こっち来て色々びっくりしたんだよ、まさか所属者が所属者の食事作ってるとか思わないだろ?」
「ですね……協会の中で生活できるっていうのも、結構びっくりでしたけど」
蒼樹の話は何かと聞いて居たはいたのだが、来るまでは所属者達の生活の実際がどうなのかは分からないままだったのだ。希望すれば部屋が用意されるというのも拝樹試験の結果が知らされた後に知って驚いた。その部屋も想像していた宿舎のようなそれとは全くの別物で、むしろ下手な下宿よりもずっと良いのではないかとも思う。
それに協会の中の事であっても、今でさえ分からない事の方が多いように思えて仕方が無かった。書庫塔の地下へと伸びる階段の先は、まだ確かめられる勇気が湧かない。思いながら膝の上の灰色を撫で、クロウィルがテーブルの向こう側から差し出してくれた紅茶のカップを受け取った。すぐに声。
「フィレンスに伝えてある」
口元に持っていきながら、眼を上げる。彼は自分のカップの中に角砂糖をひとつ沈めているところだった。
「落ち着いたら聞いといてくれ。準備はできてるんだろ?」
「……ん。調合するだけでしたから」
常に魔導師として活動しているのだから、いつも以上に何かをと考えた時には、持久戦が可能なようにする以外には浮かばない。触媒ありきで魔法行使を支える種類の魔導師であればその触媒を揃えるのに時間もかかるだろうし、宝珠を多数使う場合にも調整が必要だろうが、フェルはそのどちらでもなかった。純然たる魔力で全てを成す魔導師。触媒や多数の宝珠による負荷軽減は、魔力に関わる問題を軽減させる事が主眼だ。それ以外には必要ない。
息をついた。クロウィルの淹れる紅茶は少し濃い。フィレンスの紅茶は、しばらく見ていない。
「……明日か明後日」
「うん?」
「それくらいに、終わります」
「分かった」
作業がどこまで進んでいるのか訊かない彼は、代わりに言ったそれにもそれ以上は何も言わない。伝え聞いているからなのかもしれないが、重圧にならずに良かったとも思う。ポットの中で熱いまま保たれていたのだろう、カップから昇る湯気を見て、そうしてからもう一度顔を上げた。
「クロウィルは、今日はもう何も無いんです?」
「任務行って帰って来たらクラリスしか居なかったから、次の言われてないんだよな。さっきも何も無かったから、セオラスが捕まってなかったらたぶん何も無い」
「……ヴァルディア様どこ行ったんですかね?」
「分かんないけど、逃げるって言ってたから逃げてるんじゃないか?」
フェルは紫を瞬かせた。次いで視線を細く遠くする。逃げるって本当に逃げる方だったのか長官。思った事が分かったのか、クロウィルは嘘言わないからなぁあの人などと平和にカップを傾けていた。一息、そして翠が向く。
「出掛けるか?」
「……良いです?」
「気晴らしにも良いしな。一旦談話室行って猫置いて、着替えないとだけど。……そっちのどうする?」
指を向けられて、それで灰色を見下ろした。眠ってしまったのか、動かない。少し悩む気持ちも浮かんだが、しかしフェルはすぐに首を振った。
「冷やしちゃったら怖いですし」
「じゃあ、早めに暖かい所連れてってやるか」
空になった皿を持って言ったクロウィルが立ち上がる。慌ててカップを持ち上げるのが見えてかゆっくりで良いと苦笑と同時に言われたが、それでもと思って大きく一口喉に滑らせた。
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