雪降ってるからな、と、マフラーを首の後ろで結んでやりながらクロウィルは苦笑する。細い毛糸を編んで長く作られた青いそれは、確かずっと前に彼女の母が彼女の為にと自らの手で作ったもののはずだ。褪せる事も無く、随分と長い間使っているように思う。
「物持ち良いよな、フェル」
「使うの勿体なくて仕舞ってたり、出番なかったりで大丈夫だっただけですよ」
 後ろから言えば、フェルは肩を寄せるようにしながら、どこか気恥ずかしげに答える。
 子猫達は三匹揃って木箱の中に転がして、どんな時でも誰かしらがいるだろう談話室に置いて来た。暇そうな白黒がすぐに群がって行ったからきっと大丈夫だろう。
 雪の勢いはさほど強くなくとも、寒さは随分と深く侵蝕している。向かうのが強い風も積雪もない地下だとしても、身体の心から冷えてしまっては台無しだろう。だからと結んだマフラーが解けたり崩れたりしないのを確認して、それでクロウィルはよし、と頷いた。
「できた。大丈夫か?」
「です。厨房のところから、ですよね」
「流石にこの雪じゃな」
 窓から見やれば、感覚を上げて白いものがぼたぼたと落ちて行くのが眼に入った。街中もきっと、一度落ちた雪はもう水溜りのそれと大差なくなり始めているはずだ。そろそろ川の氷も薄くなって割れ、水位も上がって来る頃かもしれない。南西から流れて来る川は、この蒼樹の周囲を大きく蛇行して、街そのものも貫いて東北の方角に抜けて行く大きなものだ。
 行くか、という呼び掛けにはすぐに頷いて返して、フェルはクロウィルが開いて押さえてくれた自室の扉を外へと潜った。鍵をかけてから、廊下をひとまずの目的地まで並んで歩きながら、不意に気になって横を見上げる。蒼樹で見かける普段の彼は、いつも白い制服で、王宮に戻れば紫旗の藍色だ。だが今はそのどちらでもない私服姿だが、砂色と土色の中間くらいの丈の長い外套の前も、下に見えるシャツの首もともきっちりと襟が返してあってピンとボタンで留めてある。
 翠が気付いて見下ろして来て、眼が合った。首が傾げられるのと同時に、左耳から垂れる朱色の紐飾りが揺れる。
「……何かおかしいか?」
「……クロウィル、こういう時でも制服みたい……」
 言えば、彼はあー、と間延びした声を零して視線を泳がせる。何かとフェルが疑問符を浮かべるのを見てか、どこか気まずそうな表情を作った。
「……こう、色々と、制服の時間が長くてな……私服らしい私服が落ち着かなくなってるんだよな」
 自覚はしてる、と、クロウィルはどこか苦そうに言う。確かに学校の時からずっと制服のある生活だっただろうから、そういうものなのかもしれないとぼんやり思う。フィレンスは、私服の時でも男性のような装いを通しているのは、やはりそういう理由なのだろうか。息をつく後に耳から垂れて肩にかかる紐の据わりを直す。制服の時にはないそれは、彼の色の中では浮いて見えた。
「それは、制服の時は付けてませんよね」
「ん? ああ、任務の間は邪魔になるしな……最初の頃は付けてたんだけど、落ちるしで止めた」
「髪伸ばせば良いのに。それ本当は髪飾りでしょう?」
「伸ばすと面倒そうなんだよなぁ……結ぶのとか……」
 がし、と素手の手が青を掻き混ぜる。そんなものなのだろうかと、視線は前へと向け直した。
 コウハの一族の中では、未婚の男女はああやって髪飾りを付ける風習があるらしい。色が朱色なのは、彼の命色である『青翠』に一番遠い色だからだそうだ。足りない色をそうやって未婚の人が身に着けるのは、この国の多くの女性がそうするのにも良く似ている。言っても、街で見られる女性達が身に着けるのは帽子だが。
 こういうところは律儀だなあと何となく思う間に階段を下りて、厨房の方向へと向かう。扉を開けば丁度空白の時間なのだろう、灯りの消えた広い空間には誰の姿もなかった。
 どことなく寒いような気がして、落ち着いた色合いをした彼の外套の袖を握る。そのフェルの様子にはクロウィルもすぐに気付いて、振り払う事も無くそのままにさせておく。元より一人歩きは慣れていない上に人が居ない場所は好きではないのは知れた事だから、何かしらの支えがあった方が良いだろうと思いながら、彼は壁際の棚に足を向けた。フェルはそれにくっついてガラス戸を見上げて、留め金を左手だけで外すクロウィルを見上げる。
「これ、どこのを使うとか、決まってます?」
「いや、端の方から、ってだけしか聞いてないな。使い終わったら元あった場所に戻す事になってるみたいだから、覚えておかないとだけど」
 言いながら、数段に渡って同じ鍵が並べられている中、下から二段目の右から三つ目を取り外す。その右側の下の段は鍵を吊り下げる為の鈎のような突起が並んでいた。
「結構、みんな出てるんですね」
「だな。大体いつもこんなだけど……でも今は少ないな」
 任務を終えるにも少し時間が早いからかもしれない。言う彼が元のように戸を閉じて留め金を掛けてから、それとなく先導するようにして扉を廊下へと抜け、すぐの場所にある分かれ道を右に折れる。
 すぐの場所に見えたのはしっかりとした扉だ。堅く道を鎖しているその顔には、華美ではないが彫刻が施されている。横手に鈎を渡されたフェルが縦長の把手のすぐ下に見える鍵穴にそれを差し込み、回す間に浮かんだ疑念を言葉に変えた。
「蒼樹って、元は城、だったんですよね?」
「らしいな。城壁とか残ってるの見ると、だろうと思うけど」
 この協会は完全な円形をしているわけではない。楕円に、西側が他と比べれば真っ直ぐな城壁の並びになっているのは、一度周囲を歩いてみればすぐに分かる事だろう。協会の中からでは、今は西側は背の高い樹の林になっている所為で眼には見えないから、判り難い。
 それを取り囲むようにして広がった街が円状なのは、歪に広がる事への恐れからそうなったのだろうとは想像に難くないが。多少立て付けが悪くなってしまっているところを苦心して鍵を開けて、そして引き開ける。途端に風が渦巻いて、青銀に変えて軽く結った髪が舞い上がろうとするのを片手で押さえて足を踏み入れた。
 下る階段は螺旋を描いている。天井から垂れた灯りは、様々に気が組み合わされ、そこから鎖と掛け金が下に向かって伸びたそこにランタンが吊るされて、それが何段も続いて下まで延びている。全く明るい訳ではないが、階段の行程を見失う事はないだろう程度の光源は保たれていた。
 フェルはクロウィルが扉を潜ったのを見て、締められたそこをもう一度施錠する。そうしてからもう一度その扉を見やった。
「……所々古めかしいのって、その所為ですかね……?」
「あー……」
 鍵穴から抜いたのは銅の平鍵。無理に何をしても扉自体を破壊しない限り突破出来ないようになっているらしいのは、微弱に流れる魔力を見れば明白なのだが、恐らくそれが見えない人にはこの扉の有無で何かが変わるのだろうかと疑念を持たせてしまうだろう。古い鍵と鍵穴、扉そのものも年季が暮れているのは一目で分かる。
「協会に作り替えるのに、一から全部造ったりした訳じゃないだろうしな……棟幾つか潰して、残したのの中身変えて、扉とかはそのままで手入れして使って、だろうな」
「です、かね……談話室とかそのまま小広間ですもんね……」
 改築とはそういうものだ。建物そのものに手を加える事は然程無い。壁や床に手を入れる事も稀だから、形が変わる事もほとんど無いと言って等しい。だから、表から見れば、主棟はそれこそ城の一部分にしか見えないし、中に足を踏み入れた最初のエントランスも大きく広く造られている。
 気を付けろよ、と向けられた声にはフェルはすぐに頷いて、平鍵は外套の内ポケットに潜り込ませる。ちゃんと仕舞ったのを押さえた感触で確かめながら、ぎりぎり二人並ぶ幅は無いそこを、朱色が揺れる青の後ろについて降り始めた。
「前上った時も思いましたけど、」
 手摺はしっかりしている。鉄だろうに、錆は浮いていない。寒風に冷えきっていて指先には辛いくらいだが、だがきつい傾斜には有り難い以外の何も無い。中央の吹き抜けを軽く覗き込むようにすれば、ランタンを吊るす為に下へ下へと延びるそれの所為か下までは見通せなかった。
「……かなり高いですよね」
「そりゃな。丘の上だしなぁ」
「建物自体が、高いところにあるんですよね、確か」
「かなり高いところだな。たぶん、端の方の家の屋根よりもここの地面の方が位置としては高いはず」
 詳しくは知らないけどな、と、クロウィルは段を居りながら続けて、フェルはそんなにかと手摺に手を掛けたままそれに続く。彼の背との間に開けた二段の隙間は念の為だ、踏み外して巻き込みたくはなかった。階段は何故か苦手が消えないのだ、上りも下りも。怖い訳でもないのに気を抜くとすぐに踏み外す。手摺があるから、大変な事にはならないだろうが。
「蒼樹は地下は特に深いらしいな」
「そうなんです?」
「川があるから、それの関係で。川底は今は舗装されてるけど、昔はそのままだったみたいだし……でも、フェルは見た事無いか、今まだ凍ってるしな」
「夏水祭で投げ入れられるって話は、アートゥスさんに聞きましたけど」
 クロウィルの足が一瞬止まって、そして次の段を踏みながら背後の紅を振り返る。二段も空けての距離なら、今は目線の高さもさして変わらない。見やった翠が驚いているのを見て紅が瞬いた。
「……違い、ます?」
「……いや、本当だけど……アートゥスが?」
「変です?」
「あいつと話してる奴も、あいつが話してるところもあんまり見た事ないぞ、俺。ロードと話してるところは、相方だからだろうし何度か見てるけど……」
「話した事無いです? アートゥスさん、博識ですし、話してると楽しいですよ」
「……おう……そうか……」
 寡黙で通っているあの黒服ともいつの間にか交流を得ていたらしいと知ってクロウィルは曖昧に返す。黒服同士だからだろうか、思いながらぐるぐると円を描き続ける段を下りて行く。
「投げ込まれるのは本当なんだけど……ああ、季節の奴だけな。時々巻き込まれて一緒に落とされてるのもいるけど」
「大丈夫なんです? 溺れたりとか……」
「そこそこ深いから泳げない人は大変そうだけど、誰かしら助けてくれるしな。居住区の方は普通に川に降りられるようになってるし、長く住んでる人の中じゃ泳げる人はそこそこ居る」
 夏にしか出来ない祭りだ。夏の盛りのそれに限らず、季節祭ではその季節に生まれた全ての人の誕生祭でもある。春の春華祭では花を浴びせかけ、夏の夏水祭では水を被せ、秋の秋耕祭では麦穂稲穂を撒き、冬の冬雪祭では雪玉を投げる。いずれも対象はその祭りで自分の季節を迎える人々であり、よって夏生まれは川に投げ込まれる。
「蒼樹はな、夏が一番良いんだよな」
「へぇ……雪しか見れてないですから、あんまり想像出来ませんけど……」
「放牧が盛んだからな。盛りになると、腫れてる日なんかは地平線の方まで羊やらで埋まってるのかよく見える」
「うわぁ……」
 凄そうだ、というのが一番だった。王都にいた間はずっと、あの大きな都市が丸ごと商業都市だった事もあって、畑仕事や家畜の放牧といった風景は中々見かけなかった。こちらに来たのは秋の終わりも終わって冬の始まりの頃で、季節が季節では見ようと思ってみれるものでもない。今のところ一番身に近いような気がしないでもないのは馬だけだ。しかも軍用場。それも、自分の馬というのがある事は知っていても触れる事は皆無に等しいから、紫旗達のそれなのだが。
 思って、そういえば、と眼を上げる。いつもより低い位置にある背に違和感は抑えきれないまま、だがそれは措いて口を開いた。
「お昼の時、馬って言ってましたけど」
 一度言葉が切れる。段を下りながらだと喋り難い。自然歩調は緩んだ。
「クロウィル達の馬も、こっちに居るんです?」
「来てるぞ。移動陣使うまでもないって場所の任務とか、逆に陣使っても遠いところとかの場合は使うしな」
「どこに居るんです? 協会の中、じゃ、ないですよね」
 この敷地で生活し始めてそろそろ一ヶ月も近いが、馬の嘶きなど一度として聞こえた事は無い。どこか別の所に厩舎があるのかと思っても、あまり協会から離した所には置かないだろうというのも思えば、見当もつかないのだがと背にそう向ければ、ああと一頃置いて肩越しに振り返るように青が動いた。
「地下だな。蒼樹の樹のすぐ近くの、北側に大きく場所取ってあってな。行商とかの馬の入れるように作ってあるし、時間あれば見に行ったりもしてるな、皆」
「……気付かなかった……」
「前は近く通らないで帰ったからなあ」
 地下の方がこの季節は楽なんだとクロウィルは続ける。そうなのかと、その理由までをそれだけから察するのも難しいフェルは僅かに首を傾げたが、だがそれを口にする前に段に気を取られてしまう。一段の一つひとつが高いから、塔から降りる時よりもはらはらする。下まで見通せないから、自分達がどこまで下りたのかも解らないのも理由の一つかもしれないが。
「やっぱ一回、時間掛けてあちこち歩いてみるか?」
「え?」
「地下も上も。あんまり外出てないだろ? 西の最大都市だから色々あるし、知っておいた方が便利だろ?」
「それは、はい」
「魔法関連は、……まあセオラスとかを脅すとして」
 足元へと向けていた眼を背に向けた。地味に、気になっていたのだが。
「……クロウィルって」
「うん?」
「何でセオラスさんに対してそんなに……?
 靴の音だけが響く。二人分のそれが三段分、そして溜め息。
「……嫌いではないな、うん」
「え、あ、はい……?」
 声が死んでいるような気がする上に答えが若干ずれている気がした。フェルは何とも言えないで、ただ疑念を強めるだけになる。更にクロウィルは溜め息を吐き出した。
「……まあ殺したくはあるかな……」
「……えっ?」
「能動的に黒服殺したら罪に問われるから極力偶然を装って事故に見せかけて殺したい程度には……」
「え、ちょ、何あったんです……!?」
 言葉を遮るように思わず言って外套の背を引っ張る。振り返りもしないで彼が軽い乾いた笑い声を上げるのが耳に入ってとっさにまずいと浮かんだ。訊いたらだめなやつだった。手を振り払いはせずにクロウィルはあからさまに視線を遠くに放り投げる。
 理由は、ある。あるのだが。
「……あいつ容赦ねぇんだよ色々……」
「え?」
「踏み込み方に遠慮が無いってか……悪意あんのかどうかもわからねぇのが尚更腹立つってか……」
「く、クロウィル……?」
「魔導師って冬の川に突き落としたら死ぬと思うか?」
「まずどんな人でも氷に頭打ったら重傷ですし氷突き抜けて沈んだら死にますよ!?」
 魔導師だからといって全ての自称に対応出来る訳でもないしそれよりも。
「ほんと何あったんですかセオラスさんと」
「……いや、嫌いではないんだ」
「それって純粋な殺意ですよね?」
 答えず、深い溜め息を吐き出した。クロウィルはそのまま段を追いながら、何ともいえないままのフェルが手を離すのにはちらと振り返って、すぐに吹き抜けの下を覗き込むようにした。
「実力は信用してるんだけどなあ……」
「相方ですよね……?」
「奇縁を燃やして無に還す方法を絶賛募集する」
「わかりましたから落ち着いてください……」
 訊いてしまったのは自分だがと肩を落としながらも苦笑が浮かぶのは何故だろうか。これ以上は本当に訊いたらいけないやつだろう。思って、疑念は仕舞い込む。そうする相手がクロウィルであるという事も、かなり珍しい気もするのだが。
 フェルがそうして目新しいと思考を僅かに沈ませる間に、不意に何かに気付いたらしいクロウィルが再び螺旋の中央の吹き抜けを見下ろして、あ、と声を零した。顔を上げたフェルはそれに首を傾げて、同じように手摺から下を覗けば、靴音とは違う規則的な音。カンテラに照らされて、赤い毛並みが一瞬見えたような気がした。
 あれ、とフェルが呟く間に、クロウィルがそれに向かってか声を上げる。
「ディエリス、帰って来たのか?」
 ほんの少し張った声、すぐに下から、おお、と男性の声が返って来る。だがそれに合わせるように獣のようなうなり声が被さって響くのが聞こえた。すぐに重さのある連続した音が上って来る。足を止めたクロウィルが手招くのには素直に距離を詰めてその外套の背を軽く握って、少しもしないうちに階段を上がって来るそれが見えて、フェルは思わず眼を見張って肩を跳ね上げた。
 真っ赤な毛並みの巨大な獣。四肢で器用に、目を見張る早さで駆け上がって来た赤狼は二人を見つけて足並みを緩めて、そしてクロウィルの後ろに隠れたようなもう一人の様子に気付いておおと声を漏らしたようだった。
「何だ、とうとう誰かしらに手付けたのかお前」
「蹴り落とすぞ犬」
「犬じゃねえよ」
 聞いた事の無い男の声と獣のうなり声、それに返したクロウィルの声は冷め切っていた。赤狼は、ぴんと立った耳に被せるような装飾が掛けられていて、首には銀の環に羽の形をしたものが幾つも揺れている。すぐ近くまで近付いて来た巨狼は、一段の間を開けてその場に立ち止まった。
「新人か? そういや何人入ったとか聞いてないな」
「新年の結果で八人。で、その一人の黒服」
 驚愕のそのままクロウィルの背にすがるようにしていたフェルをクロウィルが後ろ手に指差して、差された方は何も言えないままで口籠る。その間に赤狼は段の一つに座っていた。視線は少し、紅の瞳の方が高い。対する狼の視線は緑。
「そんな驚かなくて良いだろ、噛み付いたり喰ったりなんざしねえよ。諸々の話はエクサから聞いてる、そういう事で良いんだよな?」
 前半は騎士の背から離れないフェルに、後半はそのままにさせているクロウィルに向けられて、青が朱色を揺らしながら肩をすくめて見せれば赤狼の緑はすぐに青銀へと向け直された。
「ディエリス・トルカスィル=ヒュネーレイ=ヴァレンだ、十二階梯の白服。ヒュネーレイは知ってるか、兎とか犬のが有名だが」
「え、あ、はい、えっと……獣の姿を持つ、って……」
「んで人の姿のときも耳と尾は残る、ってやつだな。半人半獣と思ってくれりゃ良い、適当によろしくな」
「え、と、はい、宜しくお願いします、……フェルリナード=アイクス、です」
「おう。……あー、まあ、あれだ。インギンってのは肌に合わねえから省略すっけども」
 ようやく外套から手を離して腰を折ったフェルに、答えながら狼の前肢が持ち上げられてゆらゆらと左右に揺れる。人らしい仕草が見えて何となく安心が浮かんで、それでフェルははにかみながら肩を寄せた。
「気にしないでください、こっちではただの黒服で新人ですから」
「おう。……ああ、そうだ、長官今居るか? 報告にってんで連中置いて先に帰って来たんだよ」
「ああ、丁度今逃げてる」
 途端に赤い体躯が跳ね飛ぶようにして段を駆け上がる。風すら起こして疾駆しながら途中であのクソ野郎と大きな悪口が聞こえたのには何も言わずに、すぐに見えなくなってしまったその方向にクロウィルが声を張った。
「鍵大丈夫かー?」
「なんとかする!!」
 怒号のような声には方向が重なって響いた。四足の音も遠ざかって行って、それでフェルがクロウィルを見上げれば苦笑。
「エクサの相方だよ、長期やっと終わったんだな」
「……びっくりした……」
「最初は、まあ驚くよなあ。ああ、でも、任務の時は人の姿してるから、その辺りは、な」
 そうなのか、と浮かんだ後に、そうだよな、と訂正の思考が浮かぶ。『騎士』なのだから当たり前だ。
 そのまま、行くか、と言って彼が足を踏み出して、頷いてそれに続いた。もう随分と下りていたのか、見下ろせばカンテラに照らされた丸い床と、そこから外へと通じる扉が見える。




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